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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです。

何年か前に他界した信仰の友が、東日本大震災の後で、なぜ神はこのような惨事が起きるのを許されたのか、なぜ多くの人々が犠牲になることを肯定されたのかと、長い間、祈りを通して神に直談判していたと語ってくれたことがあった。

正義感の強い、愛情溢れる心優しい友で、悲しみなど全く知らないかのように快活でエネルギッシュでありながら、心の深くに多くの憂いと葛藤を秘めており、困っている人たちにはいつも喜んで気前よく手を差し伸べる人であった。

以前から知っていたのに、親しく知り合ったのは、その人が他界するほんの少し前。多分、主が特別なひと時を与えて下さったのだと思っているが、他の人と分かち合うことのできない様々な出来事について事細かに語り合うことができた。

さて、どのようにしてその人の震災についての神に対する疑問が決着したのかは、私には聞いてもよく分からなかったが、何でも「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道の書3:11)という御言葉に落ち着いたのだそうだ。これが「3.11」と重なるのだとも言っていた。

以下の写真で、窓際の額にかけてあるのが、その御言葉だ。多くの人が不意の苦難に襲われ、長く続く影響から抜け出せないで苦しんでいる時に、このような御言葉を掲げれば、下手をすれば、人の苦しみを合理化している残酷な台詞だとも受け取られかねない。だが、言葉では説明することができなくとも、心では不思議に納得するものがあるのだ。

それは山上の垂訓で述べられていることとも重なるように思う。つまり、神が私たちに与えて下さる慰めとは、今、すべてがうまく行っており、順調で、何の苦しみもなく、問題もないから、私はハッピーで、十分に慰められています、というような軽薄な慰めでは決してないのだと。もしも、すべてが順調だから私は慰められており、神に感謝しますと言うのでは、そこには信仰など全く働く余地がない。

むしろ、信仰は、今、周りに見える状況が、どんなに慰めからほど遠くとも、確かに神はすべてをご覧になっておられ、信じる者のごく些細な心の動きまで把握しておられ、人の心を重んじて、きめ細やかに同情し、慰めを与えることのできる方だと信じさせてくれる。

だから、神によって慰められる余地があることは、幸いなことであって、不幸なことではないのだと思う。人から見れば、それは「あるまじき痛ましい状態」であり、あるいは「同情され、手を差し伸べられるべき哀れな境遇」に過ぎず、「早急に解決しなければならない問題」のように映るかも知れない、だが、神は決してそのように物事をご覧になることはないのだと私は確信している。

確かに、亡くなってしまった人々、失われた大きな財産については、なぜ、と問うこさえ難しい。だが、神の御前には、神によってしか満たされることなく、また、慰められる余地もないほど、深い深い孤独や、苦しみや、憂いや、渇きがあることは、決して不名誉なことではなく、恥ずべきことでもなく、そこにこそ、その人が信仰によって神に出会い、神が来てその人を慰め、寄り添われ、解決となられる理由が存在するように思われてならない。

人が神に出会うための理由は色々あるが、人間の側に求める心がなければ、神もその人に出会って下さらない。従って、神に叫び求め、神を待ち望み、神によってどうしても満たしていただかねばならないような欠乏が何も存在しないほどすべてに満たされていることほど不幸なことはないのではないだろうか。信者であっても、それは同じであり、神を待ち望み、神に出会う理由がなくなってしまった人には、信仰生活の意味がない。

そこで、不幸なのは、大きな悲しみや苦しみを抱えている人々ではなく、むしろ、自分はすべてにおいて満たされていて完璧なので、現状に非常に満足しており、これ以上、神に対して何も要求することはないと言い張っている人々ではないかと思う。

信者を名乗っている人々にも、そういう人たちは数多く存在しており、自分の満たされた生活状況が、自分の立派な信仰の証であるかのように思い、すべてにおいて満たされている幸せを神に対して勝ち誇るために神を礼拝しているようにしか見えないような節があるが、それにはどうにも首をかしげざるを得ない。信仰とは、「望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるもの」(ヘブル11:1)なのだから、目に見える全てにおいて順調で、この上、望むものもないというのでは、何のために神を必要とするのか、信仰など、そもそも必要ないのではあるまいか。

だからこそ、そこに私は、独りよがりの礼拝のむなしさだけでなく、「可哀想な社会的弱者の救済」を唱える人々の欺瞞をも見ずにいられないのである。こうした人々は、「すべての理不尽が解決されて満たされた状態」だけを良いものとして追い求め、裁判を通してでも、失われたものを原状回復することを願い、困難な状況にある人の状況を改善することだけを解決としており、人が時に説明できない、何のためにあるのかも分からないような苦しみを通されることの意味を深く理解しようとはしない。

全ての物事が順調でうまく行っており、今、願いがかなっていることだけを望ましい状態とみなすそのような考えでは、人のどんな努力によっても解決することのできない苦しみや悲しみというものは、何の意味もないことになってしまうだろう。

だが、人の抱える問題は、すべて神の栄光に通じるものであって、その意味で、信仰さえあるならば、それは「問題」ではない。むしろ、そこには逆説的な大きな可能性が潜んでいるように思う。苦しみは、目に見えるものが真の解決なのではないことを人に教えてくれ、その人が真に永遠のものを求めて、神に出会い、神にそれを満たしていただくためのきっかけとして存在しうるのであって、目に見える解決をすべてとして、それを補い、供給することで、人を「救済できる」かのように思い込んでいる自称救済者たちの手柄のために存在するわけではない。

信仰者にとっては特にそうだが、人の抱えるすべての問題の解決は、あれやこれやの物質が与えられ、環境が整えられることにはなく、キリストご自身にある。私たちの慰め主は人となられたイエスご自身であり、信者が待ち望んでいるのは、ただ自分の必要がかなえられて何らかの具体的問題に終止符が打たれることだけではなく、彼によってすべてが新しくされることである。人が地上で受けるすべての苦しみは、もし信仰さえ働くならば、人の個人的な生活のレベルをはるかに超えて、すべての被造物を贖うことのできる神ご自身を待ち望むという、深く壮大なスケールの心の要求へとつながっていく。神だけがそのような人間の深い心の願いと求めに十分に応じることのできる方なのであり、おそらく神はどんなきっかけを通してでも、ご自分を心から呼び求める人々の出現を待っておられるのではないかと思う。

「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:3-4) 
 
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
 悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです。
 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:3-12)

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