忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

神は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られる。

あなたの重荷を主にゆだねよ。
主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

しかし、神よ。あなたは彼らを、
滅びの穴に落とされましょう。
血を流す者と欺く者どもは、
おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
けれども、私は、あなたに拠り頼みます。
(詩編55:22-23)

私たちには強い町がある。
神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、
誠実を守る正しい民をはいらせよ。
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。
ヤハ、主は、とこしえの岩だから。
主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、
これを下して地に倒し、
これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、
これを踏みつける。
(イザヤ26:2-6)

信仰者の毎日は日々が霊的戦いである。日々起きることの中に偶然はなく、私たちは主によって与えられた自分の嗣業を守りぬかねばならない使命を与えられている。それは、キリストにあって真の自由、自立、豊かさに至りつき、神の愛と憐れみの深さを生きてこの世に証明するという使命である。

だが、悪魔と暗闇の軍勢は信者の嗣業を奪い取りにやって来る。模倣、脅し、欺き、あらゆる方法が使われる。非常にしばしば使われる手段は、似て非なるもの(模造品)を提示することである。

たとえば、あなたが何か神にあって自分の仕事を始めようとする。祈りが応えられてようやく与えられた新しい課題である。すると、暗闇の勢力に導かれる誰かがやって来て、あなたの隣で非常によく似たメッセージを叫び始める。ちょうどパウロが占いの霊につかれた女につきまとわれた時のように、その内容は、一見、あなたを応援しているように見えるかも知れないが、その実、あなたの主張の内容を盗んでいるのであり、あなたの真似をしたり、支援しているふりをしたり、同情者を装ったりしながら、彼らは巧みに人々の関心を自分の方へ逸らして行く。

「私たちが祈り場に出て行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。
彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。
幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。
(使徒16:16-18)

暗闇の勢力の目的が神の民の嗣業の略奪にあり、こうした見えない悪意との絶え間ない戦いが日々あって、それに勝利しながらでなければ進んでいけないことを、信仰者が明確に理解するまでには時間がかかる。

当ブログではこれまで、キリストがどれほど信者の願いと共に働いて、信者の信仰を通して、まだ見ぬすべての必要を実際に与えて下さるかについて書いた。どんなに小さなものから、どんなに大きなものまで、主は信者のすべての必要について、信者と同労して願いを実現して下さることができる。それが「主と共に環境を創造する」というテーマで訴えて来たことの意味である。

だが、それと同じほど重要なのは、信仰の試練の中で、主と共に創造し与えられた環境を守り、維持すること、暗闇の勢力によるあらゆる圧迫に立ち向かって、確固として与えられた霊的領地を維持し、なおかつ、さらに豊かにして行くことである。

これまで、主と共に願いよって新たな環境を創り出すということにかなり注意を払って来たが、次に、暗闇の勢力からの全ての圧迫に勇敢に立ち向かって、自分の嗣業を守ることについても、述べて行かねばならない。

このテーマ、すなわち「悪魔の圧迫に立ち向かう」というテーマの重要性をはっきりと自覚し始めたのは、数年前、信者たちとの交わりがきっかけであった。それまでは、「悪魔を糾弾する」などの話は、想像上の産物のように思われていた。

だが、目を覚まして周りを見ると、悪魔の圧迫というものが、実に日々、様々な形で存在することが実際に分かって来るのである。それは人からの嫌がらせのように、あからさまに悪意と分かる形でやって来ることもあれば、あたかも人の常識にかなった、良さそうな助言の形をとることもある。あるいは、全くの偶然にしか思えないような様々な出来事が重なって、一定の結果へ追いやられるということも起きる。

そのようにして、偶然を装った様々な出来事の連鎖を通して、悪魔が信者の嗣業を奪い、キリストが信仰によって与えて下さったものを、不当にかすめ取るということが、日々実際に起きているのだということがよく分かって来たのである。

信者を何としてもキリストの復活の命の豊かさに至らせまいとする、激しい悪意による圧迫が存在していることに、目が開かれるのである。そして、その実に多くの影響力が、「良さそうに見える」世の常識に偽装しているということも分かって来るのである。

キリスト者は、この悪しき力――あからさまな悪も含め、あたかも善のように見えるこの世の良識の全てを動員しては信者を脅し、弱体化させ、キリストの復活の命の豊かさに至らせまいとする力――に全力で立ち向かって、主の愛と憐れみとその解放の大きさを体現する使命を負っている。

悪魔は信者に向かってさも同情しているかのように装ってこう言うだろう、「きみは可哀想だね」と。「きみは可哀想だ、あまりにも多くの重荷を負っている。それは何年来、きみが背負って来たもので、容易には取り除くことができない。きみは随分、不当な立場に置かれている。そして幾多の失敗があった。生きるとは何とつらいことなのだろうね。多分、死ぬまできみはその理不尽な課題を解決できまい。」

これに対して、信者は答える、「私には重荷はありません。主が負って下さっているからです。あなたの言うような一生かかっても解決できない課題など私にはありません。神には不可能はないのです。主が共におられるのですから、私には理不尽はありません。可哀想なのは、あなたです。私にはすべての解決が与えられていますが、神を拒んでいるあなたには何もない。絶望しているのは私ではなくあなたです。あなたはそうやって敬虔そうな信者に近寄っては、キリストの救いはその人にとって不十分だと嘘を言っては、落胆させ、神の助けを拒ませようと試みることしかできないのです。しかし、あなたの言うことは嘘です。」

最近、筆者は悪魔によってかすめ取られ、奪われた損失を取り返し、補てんさせるということについて考えている。単に悪魔の嘘を見破って拒否するというだけでは物足りない。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るだろう」と聖書に書かれている通り、悪魔に恥をこうむらせ、悪魔が恐怖にかられて大慌てで逃げ去るその背中を見るまでは、十分でない。ダビデが詩編に書いたように、その逃げ去る姿に追いすがって、さらなる打撃を加え、二度と立ち向かって来られないように徹底的に粉砕して追放しなければ、意味がないように思っている。繁栄を極めた大いなる都バビロンが、乳飲み子、嬰児のような者たちの素朴な信仰の証の前に敗北し、音を立てて引き倒され、灰塵と化し、弱い者たちの足がそれを踏みつける。その上、バビロンに巣食っていた悪党どもには単に敗北を味わってもらうだけでなく、これまで信者にもたらしたすべての損害に対する償いをしてもらわなければならない。

本当は、クリスチャンの仕事は、日々、そのような仕事をやり続けることなのである。これが本当の意味での霊的戦いなのである。信仰生活の課題とは、キリストの贖い、その死と復活を生きて証するだけでなく、悪魔が日々兄弟たちを告発している以上の執拗さを持って、キリスト者を不当に圧迫しているサタンの嘘に毅然と立ち向かい、全力で悪魔を糾弾し続けることにある。それこそ、キリスト者の使命の残されたもう半分なのである。なのに、あまりにも多くのクリスチャンが、損失を損失とも思わず、打撃を打撃とも思わず、敵にやられっぱなしで立ち上がれないでいるのは、その打撃がどこから加えられたのか分からず、その背後にある悪意が見えず、これを拒否する必要が分からないためである。あまりにも多くの人々が、自分の失敗ゆえに状況が悪くなったのだと思い込み、その失敗が取り返しのつかないもので、自分の弱さを克服しない限り、解決はないと思い込まされているために、立ち上がる気力を奪われているのである。

そこから立ち上がる秘訣は、キリストの義に徹底的に立ち続けること、悪魔の罪を身代わりに責任転嫁されるのを拒み、小羊の血潮の潔白に立ち続けることである。それは、キリストこそ、信者の人生の最終責任者であることを信じ、たとえ人の目からはどんなに無責任のように見えたとしても、それまでのように、自分に自分で責任を負って、自分で自分を贖おうとしないことである。また、世間に波風立てないことだけを第一として、人の目を恐れながら、あらゆることについて自主規制して外面だけを立派に整えて暮らすという内実のない空虚な生き方と決別することである。

キリストの贖いは、信者が外から見て道徳的に見えるか、立派に見えるか、良識的に見えるかどうか、と言った外面的な基準に照らし合わせて与えられるものではない。それは信仰を通して受けとる小羊の血潮による内側からの義認であり、信じる者に無条件で与えられている。そこで、信者は自分が外から見てどう見えるか、という恐れから解放される必要があり、外面的な評価におびえ、それを失いたくないという恐れにとらわれている限り、真の意味でキリストの贖いの意味が分からないのである。キリストの十字架は、このように、単に暴力や嘘や脅迫といったあからさまな悪だけではなく、常識や、世間体や、道徳と言った、良さそうなものに偽装しているすべての「この世の圧迫や支配」からも、キリスト者を解放したのである。

さらに、キリストの贖いは、信じる者の一生分の罪を覆い、永遠に至るまで信者を義とする。信者は「代価を払って買い取られたのだ」。この意味は非常に大きい。キリストの支払われた代価を帳消しにするような罪は存在しない。

信者に対する神の愛がどんなに強く、誠実で、約束にたがうことのない、永遠のものであるかを知る必要がある。神が信者を選んだのであって、信者が神を選んだのではない。たとえ信者が失敗してどんな深い淵に落ち込み、どんな地の果てに追いやられ、どんなに損なわれていたとしても、神は彼を見つけ出し、取り返して、回復し、安全の中に置いて下さることができる。神はすべての必要な犠牲を払って、信者をすでに取り戻したのである。キリストが全てをすでに解決された――この地点にしっかりと立つならば、信者は過去を何度も振り返って悔やむ必要もなければ、世間の誰彼に絶え間なく懺悔をして回るような必要もない。すでに贖われ、買い取られ、義とされている、その事実に立ち続けるのである。その地点から、悪魔が卑劣にも信者に加えて来たすべての打撃と損失に対する回復を要求し続けるのである。むろん、信者の義は、信者自身だけでなく、家族にも及ぶ。

キリストによって贖われた者に、取り返しのつかない失敗というものがあるだろうか? 思考の上では、信者は自分が失敗を犯したと感じることは多いだろう。もっとうまくやるべきであったと感じ、手遅れのように思うこともたくさんあるだろう。時計の針を逆戻すことはできない。

だが、キリスト者にあっては、不信者の場合とは異なり、常に不思議な法則が働き、何事についても、手遅れということがないのである。なぜなら、神は時空間を超越しておられるからである。信仰は未来に向かっていくものであると書いたが、信仰の働きは、時空間を超える。また、信者には(意図的に神に反逆を続けない限り)、決して取り返しのつかない失敗というものもない。なぜなら、小羊の血潮によって赦されない罪というものはないからである。

そこで、信者に必要なのは、日々、何が神が喜ばれる道であるのか、それに心を合わせ、できるだけそれに近づいて行こうとする願いであり、努力である。神が喜ばれる道とは何なのか、気づいていない時には、違った方向へ向かっていても、是正は不可能だが、気づいたその瞬間から、新たな創造が始まって行く。

神が喜ばれる道とは、虚偽を退けて真実を愛し、悪を拒否して公正、正義を打ち立て、不義ではなく真理に生き、人の義ではなく神の義により頼み、信者自身が、すべての面においてキリストの命の豊かさにあずかり、キリストの完全性を知り、キリストの身丈まで成長して、彼に似た者とされることである。

キリスト教とはこの世の道徳律ではない。それはこの世を超越した生きた命である。キリスト教は、人の目にかなう立派な行いをし、慈善事業を行なって弱者を助け、多くの人々を幸せにする手伝いをするために自分を犠牲にして骨身を惜しんで働くことではない。そのような行為は、人の目にはまことに良さそうに見え、世の中からは拍手喝采を受けるが、すべてが神の方ではなく人間の方を向いており、「世」の方向を向いているというところに、一つの大きな罠がある。もし人のために善行を行ないたいのであれば、自分の前でラッパを吹き鳴らすのではなく、隠れたところでするのが良策だろう。
 
私は常に思うのだが、信者にとって最も必要なのは、人を助けようと考える以前に、自分自身が神によって満たされる必要を抱えていることを素直に認めることである。人がどんな窮乏を抱えているかという問題を果てしなく論じる前に、自分自身がまず、神の御前にどれほど大きな必要を抱えており、自分自身がどれほど神の愛にあずかり、信仰によって、キリストの命にある無限の富を本当に知って、神が信者のために用意して下さった真に豊かな人生に至りつく必要を抱えているかに気づき、これを真剣に願い、追い求めることではないかと思う。

もし信者が、キリストの命の豊かさに向かう過程で、暗闇の軍勢のささやきに耳を貸して、恐れに駆られ、神の愛を拒否して、自分で自分を義としようと努力したり、世間体を整えるための自主規制の方向へ向かったりして、キリストの用意して下さった無尽蔵の富を拒否して、自分で自分を支える生き方へ逆戻ったとしても、その偽りに気づいたならば、正しい道に立ち戻るだけで良い。それは難しいことではない。

信者の目的は、過去に戻って何かを始めからやり直し、何一つ誤りがなかったかのように外面を正そうとすることにではなく、神が信者に何を願っておられるのか、それに気づいた瞬間から、過去の教訓を生かしつつ、すべての誤りが血潮によってすでに覆われていることを信じつつ、大胆に正しいと思う道へ進んで行くことにある。

その正しい道とは、神が人に願っておられる解放であり、キリストのゆえに信者に与えられているすべての権利を信者が完全に自分のものとして受け取り、行使することである。かつては悪魔の囚われ人であり、死の恐怖に支配されていた人が、キリストにあって贖われ、解放され、真の豊かさに至りつくことである。

信者は、目に見えない天の都を目指しているが、この地上においても、来るべき世の前味として、キリストの救い、その復活の命の意味を真に知って、これを信仰により、地上に引き下ろすことができる。人間を悪魔のあらゆる圧迫から解き放って自由とし、「乳と蜜の流れる地」へ導き、真の豊かさにあずからせようとしておられる神の御思いを生きて体現するために、信者はこの地上においても、真理を毀損しようとする嘘を退け、どんな圧迫があっても、決して屈することも、妥協することもなく、目的地にたどり着くまで何があっても諦めないという決意を徹底的に固め、貫く必要がある。

この世の識者や権威者が何を耳元で囁こうと、それには関係なく、御言葉は、信者にこの世の圧政からの完全な自由と解放を約束してくれている。キリストの十字架の贖いによって、彼の命の豊かさにあずかる権利は信者自身のものである。イエスは羊に命を与えるために、しかも、豊かに与えるために来られた。そこで信者は、神が約束して下さった解放と豊かさを見るまでは、決して後に退かず、暗闇の勢力からどんな圧迫や反対があろうとも、決して屈することなく、徹底的に目的を目指して歩み続ける必要があるのだ。
 
PR