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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

少年法改正と憲法改正 〜少年A君のために①〜

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仮に国家権力の中枢にいる誰かが、少年法を改正して厳罰化したいと願っていたとしよう。

それを実現するために、何が必要であろうか。ただ少年犯罪への厳罰化に向けて、その必要を訴えるだけでは、世論は必ず反対するだろう。そこで、既存の少年法ではあまりにも不十分だから、改正して厳罰化を促す必要性がどうしてもあることを社会全体に認めて後押ししてもらえるような、何らかのきっかけがなければならない。つまり、厳罰に相応するような重罪犯罪が先立つ必要がある。しかも、通常の方法では拭い去ることのできない社会の根強い反発を払拭するためには、たった一つの事件で大きく世間を揺るがし、世論を根本から変えてしまうような、極めて重い、衝撃的で例外的な事件が起こるのが望ましい――。

そこである犯罪的な企図がなされ、効果的な方法が編み出される。まず少年による何らかの凶悪犯罪が行われたことにする。しかも、社会を震撼させ、非常に多くの知識人やマスコミ人たちの注目を一瞬で集めるような、ドラマチックで猟奇的な犯罪事件が良い。そのような少年犯罪なら、社会は騒ぎたち、大人たちはショックを受けて憤り、子供にも罰が必要だと考えるようになるだろう。少年法の改正(厳罰化)を是とする方向へ世論を簡単に誘導して行くことができるだろう。(ついでにその際、愚かな世論はやがて自分で自分の首を絞める法を制定する方向へと誘導されていることも分からず、我が子にも等しい少年だけを目の前の「敵」としてやっつけ、非難するだろう――。)

私たちは、もし少年法の厳罰化をどうしても目指したい人々が国家権力の内部に根強く存在したとしたら、その人々が違反行為を捏造してでもその契機を作り出さない、と断言することができるだろうか。

以前に取り上げた論考は、少年法改正の背後に、このような権力による大がかりなでっちあげ犯罪があった可能性までも示唆してはいないものの、少なくとも、この少年法改正の背景に、権力によって作り出されようとするある空気のような流れが、すなわち、「公」の秩序だけを是とし、ここからはみだしたり、それにそぐわない弱い「個人」の意思を違反として厳しく取り締まり、罰することで、個人や個性を悪として描き、それを萎縮させようとする空気を社会の中に巧みに醸造しようとする危険な動きがあることを指摘している。

私も基本的にそれに同感である。従って、この個人の犯罪への厳罰化という流れは、少年法改正にとどまらず、やがてはもっと大がかりな法体系へと発展し、大人も子供も年齢を問わず、「公」の秩序にそぐわないあらゆる「個人」を取締りの対象とし、個人による「公」の秩序への違反を厳しく罰するような、残酷な風潮を社会に作り上げずにはおかないだろうと見ている。少年法改正はこうした流れの中で意図的に踏み出された一歩に過ぎない可能性がある。

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個人よりも、公を重視する風潮。それは長年かけて我が国に醸造されてきた。この社会において、公よりも個人を尊重して生きる人々は、「協調性がない」とか、「わがままだ」とか、「社会規範を知らない」といった数々の非難の言葉の攻撃を受けるのが通常である。やさしく言えば「空気読めない」という言葉になろうし、堅く言えば「公共の秩序を乱す存在」ということになるのであろう。

こうした誰が言い始めたとも知れない個性に対する攻撃の言葉は、今や社会の至るところにヘイトスピーチのごとくはびこっており、これを受けて人々は、自分だけは攻撃されないように、より息を押し殺し、目立たぬようにしながら、浮いた存在と呼ばれず、秩序を乱しているとの非難を受けないように、自己の意思を押し殺すことに慣れている。

周囲の「空気」に迎合しているように見せかけるためには、隣にいる誰かが攻撃されていても、巻き込まれぬように、手を差し伸べることも、同情することもなく、異議を唱えることもやめて、そ知らぬ顔をしているのが一番良い。そうこうしているうちに、この国民にはいつの間にか個性もなくなり、ついには心まで麻痺し、弱い者が傷つけられているのを見ても、同情心がわくことさえ、もはやなくなってしまった。

だが、そのようにして醸造される「空気」が、もしも悪だった場合、それに同調し、反対しなかった者にその先、待っている運命は何だろう? たとえば、社員全員が無賃残業を強いられている会社で、一人だけ残業代を払って下さいと言い出す社員がいたとしよう、彼は早速、みんなから悪者扱いされて袋叩きにならないだろうか。職員全員が規律違反を当然視している団体で、一人だけ規律を守りましょうと言う人があったら、白眼視されないだろうか。

みなが同じ事をしているからと言って、それがいつも正しいとは限らない。むしろ、「赤信号みんなで渡れば」の精神で、みなが足並みそろえて同じ悪事に手を染めていることだってある。そのようなときに、その「公の空気」にたった一人であっても反対することは、果たして罪なのであろうか。それ対して「協調性がない」という非難は当たっているのであろうか。

戦前がそうであったように、「公」の概念などというものは、実に間違いやすく不確かなもので、ともすれば、非常に残酷な集団的盲目性へと人々を誘導して行きかねない恐ろしさを秘めている。自己の意思を放棄して、集団の空気に流され、染まってしまったが最後、いずれ後になって意識を取り戻したときには、とんでもないファシズムに加担した恐るべき共犯者として、重い責任を問われることにもなりかねない。その時に、私は知りませんでした、これはみんながやっていたことです、と、どんなに叫んでも、弁明にはならないし、情状酌量もされないだろう

そのような罠に落ちないためには、いついかなるときにも、人は自分で考え、自分で判断することをやめないでいる他はない。

空気とは大抵、「強い者」たちが何らかの目的を持って意図的に作り出した得体の知れない同調圧力のことで、日本人はあまりにも集団性を重んじ、「公」を尊重することを美徳と思い込まされた結果、たった70年前にあんなにも愚かな失敗をしでかしておきながら、今になっても、「空気」そのものを疑ってみることをしない。自分たちが正しいと考えている集団の「空気」そのものが、自分たちを操り、誰かに都合よく、予定通りの結果を導き出すために、計算づくで作られたものなのかも知れないとは疑ってみない。あまりにも長い間、「空気」に身を委ねることを自己の意思よりも優先して生きてきたため、すでに自分に固有の意思があることすら自覚できない、愚かで盲目な無抵抗の羊になってしまった。

「空中の権を持つ君」(エペソ2:2)とは、誰のことであったか。

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この「空気」を私は「壁」と呼びたい。「壁」とは、この世のならわしや、公の秩序や、制度を指す。思考停止の壁でもある。

自ら考え自ら判断する個人は、この「壁」にぶつかって割れる小さな「卵」だ。

この国では今日も毎日、多くの「卵」たちが「壁」にぶつかっては割れ、死んで行っている

壁は日々、着々と卵に向かって落ちかかり、卵たちを圧殺し、押しつぶしている

だが、よく考えてみよう。確かなものは、どちらなのか。

壁なのか、それとも、卵なのか。

公共の秩序の安寧のため、社会全体のため、という「壁」の前に、それになじまない個人の都合や利益は、わがままや、秩序を乱す悪として、簡単に非難され、切り捨てられていって良いのか。

そもそも卵は壁のために存在しているのであろうか。仮に(あり得ないことだが)一度でも壁が卵の悲鳴をかえりみて、自らを反省することがあったとしても、ただ壁の残酷さを証明するために、壁にぶつかって割れ、はかなく砕け散っていくことが卵の使命なのだろうか。

分厚く高くそびえる壁の前に、卵の存在は弱く、脆い。散って行く桜や、水面に消えていくうたかたと同じように、卵たちははかなく、弱く、脆い。だが、そんな夢のごときはかない存在であり続けること、常に「壁」との関係で打ちのめされることにしか、「卵」の存在意味はないのか

しかも、それだけではない。「壁」は最近こういうことを言い始めた。「壁」の前に「卵」は、はかなく壊れやすい存在であるばかりでなく、卵の使命とは、卵のむなしさと、壁の永遠性を証明するために、「壁」を守る目的で、すなわち、公共の秩序を守るため、国を守るためという名目で、自らの権利を自主的に捨て去り、命までも犠牲にして、壁の存続のために、壁にぶつかって死んでいくことにあるというのだ。

そんな愚かでたわけた思想がどこから出てきたのであろうか。それが卵の使命なのだろうか。

断じて、そんなはずはない。

卵は壁の存続のために存在しているわけではない。卵は、壁にぶつかって割れることを使命としているわけでもないし、まして、壁の永遠性を保証するための道具ではないのだ

本当は壁こそが、卵を守るために卵によって造られたものである。

卵を守る限りにおいて、壁は存在の意味を持っている。

卵を守れなくなった壁など要らない。

ところが、いつからそれが逆転し、壁の卵に対する反乱が始まったのか。
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