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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者は一人だに罪に定められることはない。

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きる者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)

「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」(コロサイ2:14)

 「主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。」(詩篇34:22)

 「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:33-34)
 
「彼を信じる者は、さばかれない。」(ヨハネ3:18) 

「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。」(ローマ6:7)



このところ、十字架で流された子羊の血潮により、キリストの義が永遠に信者を覆っていることの絶大なる意味を思わされている。

この世においては、信者は見かけはありふれた平凡な人間に過ぎず、未熟さもあれば、欠点もあり、どこにでもいる不完全な人間の一人に過ぎない。ところが、信仰を通して、この不完全な人間をキリストの完全さが覆うのである。生まれながらの人間の罪をキリストの義認が覆い、生まれながらの不真実な人間を神の永遠の真実が覆うのである。

そのため、キリストがその命をもって贖われた信者を再び罪に定めることのできる存在はどこにもいないのである。

このことの絶大な、はかりしれない意義。

この世の倫理や道徳律、良識はすべて人間の罪と死に対する恐れから出たものである。この世の法も同じである。この世では、人間が互いを傷つけあい、害し合って無秩序が生まれることのないように、いくつもの掟が定められている。いくつもの法が、人に危害を加える行為に対しては罰が加えられることを告げて、人間が互いに害し合うことを戒めている。

だが、この世の倫理道徳・法体系はみな人の恐れから出たもので――究極的には人間の死への恐れから出たものに過ぎない。それは人間を死未満のところに何とかおしとどめておこうと呼びかけることはできるが、死を超越することができない。

たとえば、日本には死刑制度が残っているが、死刑を容認するかどうかは別として、残酷な方法で人の命が奪われるようなことがあったとしても、この法体系がその罪に対して提示できる解決はせいぜい「目には目を」ということだけであり、すでに犯された罪に対して、厳罰に処することで対応するという方法しか存在しない。しかも、命が奪われたことに対して、命を奪うことをもって報いるというのでは、本当にそれが解決なのかどうかも、疑わしいところである。なぜなら、それは両方ともが人類の損失を意味し、人が人を傷つけることを意味するからである。

つまり、罪に対する報酬である死そのものに対して、この世の法は何ら解決を示すことができないのである。

これに対し、この世を超越するキリストの霊的統治は、死を超えたところにある。それはすべての罪に対する報酬が完済された世界なのであり、キリスト者はこの領域を生きている。正直に言って、この領域のことは、どんな常識をもってしても、解説することができない。

およそ罪ある生まれながらの人間が生きている領域と、このキリストの復活の命の霊的統治が及んでいる領域は、全くかけ離れており、相容れないからである。

さて、「すべての人を偽り者としても神を真実な方とせよ」という御言葉は、このブログでは以前から何度にも渡り、繰り返して来たが、年々、その重要性がますますはっきりと見えて来る。

どういうわけか知らないが、年々、筆者の人生は、それまで生きて来たこの世の常識という岸辺を離れ、新たな領域へ向かって出航している。その過程で、筆者自身も、人としての常識や、この世のものの考え方を改めることを迫られている。

それは、キリストが信者に約束して下さった解放がどれほど大きなものか、まだ筆者自身も知らないことに常に気づかされ、それまでの狭量なものの見方を改めさせられているからである。はっきり言えば、キリストの愛の深さを、生きて十分に思い知ったと言える人間は一人もいない! 生きている限り、私たちは新たに目を開かれては、神の愛の深さに瞠目させられることの連続なのである!

最近もまた壮絶な戦いがあった(さわやか読者のことではない)。その過程で、キリストの義に徹底的に立ち続けることによって、悪魔が卑怯にも筆者から奪おうとした平和を取り返すという出来事があった。識者らはこぞって反対したが、私はその反対を信じなかった。そして、徹底的にキリストの約束に立ってそれを主張し続けると、結果的に、それが事実となり、この世の識者らの忠告はみな虚偽でしかなかったことが判明した。主は私と同労して下さり、平和を確固として守られたのである。

何ということだろうか、キリストが十字架において義として下さった信者を、再び罪に定めることができる存在はどこにもいない。キリストが御言葉により、信者にお与え下さった解放を、信者から奪うことのできる存在は誰もいない。そうした出来事を通して、私は神が人を思うその愛の強さについて考えさせられる。私が神を愛するだけでなく、神が私を愛して下さるその愛の強さを思う。いかに信者が生まれながらの人間としては、頼りなく不完全な存在に見えようとも、人の不完全さよりも、神が信者をつかんでおられる愛の方がはるかに強いのである。絶対に、神が私をあきらめられ、見捨てられることはないという確信が生まれ、神の完全さが私を永遠に至るまでも覆っていることの不思議を思わされる。

以前「環境を創造する―キリストと共に統治する~主を待ち望み、その道を守る者は高くされて地を受け継ぐ~」という記事において、神は信者の生活のすべてを保障して下さるので、信仰があるならば、生活を縮小してはならないということを書いた。そうした一連の記事の中で、ジョージ・ミュラーの信仰などにも触れたものと思う。

妙なたとえかも知れないが、仮に貧しい農村で、あらゆる厄災に見舞われ、極度の生活苦に脅かされるある一つの家庭があったとして、そこで一組の両親が、明日の心配から、ふと家を訪ねて来た悪徳業者に言葉巧みに丸め込まれ、出来心から、騙されて娘を遊郭に売ったとしよう。だが、娘が業者に連れ去られた直後、その親は我に返り、大変な過ちを犯したことに気づく。悪徳業者の後を追いかけ、金など要らぬから、何としても血のつながった我が娘を取り戻そうと試みる。

むろん、悪徳業者のことだ。生涯、娘を使役することによって懐にできる利益は計算済みだ。どんなに懇願されても、絶対に娘を返すまい。親子の絆よりも、娘を売った証書の方が効力があると言うだろう。その証書ある限り、罪に定められるのは、親の方だと言って彼らを脅しつけ、撃退し、彼らの追手を残酷に振り切って、どんどん遠くへ逃げ去って行くだろう。

それでも、もし親子の絆が本物であれば、親はあきらめないはずである。血のつながった親子としての情愛よりも、悪徳業者が言葉巧みに彼らを騙して作り上げた証書の方が効力を持つなど、到底、納得もできまいし、信じることもできまい。取り返しがつかないとあきらめてしまえば、娘は二度と帰っては来ない。そこで、彼らの激しい闘争が始まる。どんな苦難が待ち受けていたとしても、彼らはあきらめることはない。親子としての絆と平和が元通りに取り戻されるまで、その闘争はずっと続くのである。
 
これは単なるたとえにすぎないが、生まれながらの親子の絆でさえ、生涯に渡って何者によっても否定し得ず、断ち切ることもできないほどの強力な意味を持ちうるならば、まして神が子として下さった信者一人一人に対して持っておられる愛は、もっと信頼できる確固とした強いもののはずである。私たちがよりどころとしているのは、生涯、何が起きようとも、私たちを決してあきらめることのない神の愛なのである。

神は私たちが完全に失われていた時に、すべての必要な代価を払って私たちを買い戻された。私たちが悪魔の奴隷として売られていた時に、神はあらゆる危険を冒して我々のために戦い、十字架においてご自分を徹底的に低くされ、命を捨てて身代わりの刑罰を受けて下さり、なおかつ、死を打ち破って、悪魔の嘘を破り、これを辱めて打ち倒し、悪魔の奴隷として売られていた我々の債務証書を無効とされた。我々を売った人々の約束もみな反故にして、我々を救い出し、買い戻された。我々は安全な場所に移されたのである――神の子供として、天の王侯貴族として。こうして、私たちが、この世の暗闇の圧政から、愛する御子の支配下へと取り戻され、買い戻されたこと、これは永遠に変わらない事実である。

キリスト者は、この事実に立って、そこからすべてを信仰によって要求する。死への恐れからではなく、死を打ち破られたキリストの復活の命が我々の論拠である。もし信仰によって要求したならば、与えられたものを確固として握りしめなさい。二度と恐れに駆られ、奴隷に落ちてはいけない。与えられたものを握りしめるだけでなく、豊かに拡張しなさい。こうして、神が信者を愛しておられる愛のどれほど強いものであるか、御子が十字架で血潮を流されて我々にお与え下さった義がどれほど確かなものであり、カルバリで死を打ち破ったキリストの復活の命がどれほど豊かなものであるかを生きてこの世に証明しなさい。

我々の解放者はまことの神ただお一人である。キリスト者が従うべきは、あれやこれやの人間ではなく、ただお一人の神であり、この神の他に、我々の頼れる岩はない。救い主はただお一人であり、もし目に見えるあの人、この人を頼りにしようとすれば、たちまち、その人間は「偽り者」でしかないことが判明するだろう。

もし誰かが、自分よりも偉い人の気持ちを忖度し、人のご機嫌伺いをして生きることによって安全に身を守れると考えるならば、その人は真っ先に神の御心をこそ忖度し、神のご機嫌伺いをすべきである。キリスト者が第一に気にすべきは人の思惑ではない。もし誰かの思惑を気にするならば、神の御心を損なうことをこそ第一に恐れるべきである。

罪の奴隷状態にあった我々を永遠に買い戻すために、その独り子をさえ惜しみなく与えて下さった方は、天にも地にもただお一人の神だけである。この方こそ我々の救い主であり、解放者であり、他に誰もそのような存在はいない。そして、この方はまことの命であるから、ただ我々を買い戻し、解放されただけに終わらず、キリストの満ち満ちた命の豊かさにまで、我々を導いて下さる。

神は御声に聴き従う羊たちを、安らかな丘へと、憩いの水際まで、導いて下さる。そこに、買い戻された全ての信者が喜びに溢れて集まって来て、我々は共に主の愛と憐れみの深さを思い、神に感謝して喜び歌う。私たちが生きているのは、もはや自分自身のためでなく、私たちのために死んで、命を与えて下さった方への信仰によるのであり、永遠に至るまでこの方と共に生きて、御心を天から地に引き下ろし、神の愛と憐れみとその解放の偉大さと豊かさを生きて世に証明することが、我々信仰者の役目なのである。
 

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