忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去ります。

面白い記事があったのでちょっと引用しておきたい。

日本が機能不全を起こしている原因は何か?

この記事でもかなり鋭くツッコミが入っているが、私の考えでも、日本が機能不全を起こしている原因は、とどのつまり、「人々が自分の頭で物事を考えず、批判されたり、村八分にされたくないばかりに、権威者や、声の大きい人たちの言うことを鵜呑みにして従うようになった」ことにある。つまり、人々が自主的に奴隷になってしまい、独自の発想を捨てたことによる。

これは信仰者の世界も同じである。有名で立派な組織に所属し、偉い先生方の言うことを従順な弟子のように聞いて実行し、世間に波風立てず、皆にいい顔をし、優れて社会的な活動をし、弱者を助け、己を常に向上させるべく自己修練をし…、そんな生活を、立派な信仰生活だと、あまりにも多くの人たちが取り違えているのである。

そこでは、見てくれは良いかも知れないが、常に人の目に自分がどう映るかばかりを気にして、外面を整えることにばかり精を出し、狭い世間で、他者がどれほどバッシングされようとも、自分だけは問題児扱いされないで、「良い子」というお墨付きを得られるように、自分の心の本当の願望を押し殺し、自分の意志を捨て、真実を捨て、自分という個性を自分で滅却して生きる人々が、「優秀」な信徒だと評価されているらしい。

だが、それは本来、信仰とは何の関係もなく、信仰と呼ばれるべき生き様でもなく、信仰に偽装しただけの「この世」のものさしに従った生き方である。もっと言えば、そこにある隠されたものさしは、いかにキリスト教を装っていても、実際には、この世と同じ、見栄と弱肉強食の競争であり、いかにして他人を出し抜いて、自分が勝者としての栄誉を勝ち得るかだけを目的とする終わりなき競争である。

その競争は、本当は、この世(地上の組織としてのキリスト教界も含む)権威者が信者の思考を眠らせて、彼らを献金と奉仕を収奪する道具として、あるいは権威者や組織の栄光を立て上げるための道具として、気づかれないように徹底的に搾取するために作られたマインドコントロールの仕組みに過ぎない。このマインドコントロールに最も良くひっかかった信者が「優秀」だと評価されるのである。そんなにも馬鹿らしいシステムはないと思うのだが、組織に属すると、どんな信者もほぼ例外なく、ロボットのような思考停止状態に陥って、このシステムを永らえさせるための駒となってしまう。

そういう人々を観察していると、独特の不自然な「操られ感」が見られるのである。私は「悪霊の言葉」というものがあると考えているが、ネット上の議論を見ても、工作員信者の言葉は、呪文のようで、筋が通らない支離滅裂で切れ切れの文章が極めて多い。

彼らは自分自身の意志で生きていないので、自然な自分の言葉で語ることができない。ほんの見せかけだけの綺麗事で主張を固めることはできても、内実がないので、細かい議論になると、もう支離滅裂な返答になる。この「操られ病」が進行すればするほど、認知にも障害が出て来る。自分にとって都合の悪い事実は見ても見ないふりをする、聞いても決して理解しない。何もかも自分に都合の良いように話を曲げて行くので、だんだん思考能力も異常になって行くのである。

思い出されるのは次の御言葉である。

「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。

 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に成就したのです。

あなたがたは確かに聞きはするが、
 決して悟らない。
 確かに見てはいるが、決してわからない。
 この民の心は鈍くなり、
 その耳は遠く、
 目はつぶっているからである。
 それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、
 その心で悟って立ち返り、
 わたしにいやされることのないためである。」(マタイ13:13-15)
 
かくて、を畏れることは知識の初めである。」(箴言1:7)ならば、この世を愛し、世の名誉を追い求めることは、神を否むことであり、精神崩壊の始まりである。このことは当ブログでずっと主張しているが、御言葉を曲げる異端思想を信じて、正常な思考を保ちえた人はいない。

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(Ⅰヨハネ2:15-17)


この世を愛することは、神を愛する生き方とは正反対の、神に敵対する道である。だが、多くの人が誤解しているように、この世を愛するとは、宗教を離れた世界で富や権力や快楽を追い求めることばかりを意味しない。もしこの世がキリスト教界とは無関係だと考えている人がいるならば、それも間違いである。宗教界において自己の栄誉を追い求め、人の歓心を買おうとすることも、当然ながら、この世を愛することに含まれる。キリスト教界において信者らの評判を失うことを恐れ、信者らに良く見られたいばかりに、自分の外面を磨き、いかにも道徳的で立派な人のように振る舞い、己の栄誉を追い求めることも、この世との妥協であり、宗教界で得られる栄誉も、極めて大きな世の誘惑なのである。

名誉欲は、人の欲望の中でも相当に根強く取り去りがたいものである。すなわち、人の目を気にし、権威者のご機嫌伺いをし、周囲の人々の評価を失うことを恐れ、自分の評判を保ちたいばかりに、外面を取り繕うこと、これもまた、世を愛する道なのである。

イエスは、この世から拍手喝采を受けることだけを目的として、うわべだけ敬虔そうにふるまい、内実のない生き方を生き方をする偽善者らに向かって言われた。

「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれます。」(ルカ16:15)

別の訳では、「人に尊ばれる者は、神に忌み嫌われる」となっている。
 
この世の賞賛や歓心を得たいと願うことが、神に敵対する欲望であることをはっきり示している。
 
有名になろうと努力したり、偉業を成し遂げて名声を築き上げようと、何か特別なことをしなくても、身近な人々を含め、周りの人々の目を気にし、権威者に媚び、人の歓心を買おうと願い、人の目に自分がよく映り、良い評判を得られるようにという願いから、自分の行動を規制し始めた時点で、すでにその人は、人間にあがめられることを求めているのである。人の批判を恐れて、自分が嘲笑されたり、のけ者にされたりしたくないばかりに、何が正しいか分かっているのに、その事実を曲げた時点で、すでに世のご機嫌取りをしているのである。

聖書は、信者に向かって、再三に渡り、この世と世の人々を恐れてはならないことを告げている。旧約聖書を振り返っても、主の民は、敵に立ち向かうとき、敵軍がどれほど強大に見えようとも、彼らを恐れてはならないと神から警告された。預言者らは堕落した世に遣わされるとき、決して、世の人々の反対を恐れないように厳しく言い渡された。預言者らは世の人々から憎まれ、嘲られ、理解されず、命を狙われ、迫害されたが、それにも関わらず、決して世の歓心を得ようとしたり、彼らの迫害を恐れないように忠告されていた。

「恐れるな、強くあれ、雄々しくあれ」――このメッセージは、聖書において、神が選んで遣わされる者に、繰り返し、繰り返し、語られる言葉である。

「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。
 わたしが選んだヤコブ、
 わたしの友、アブラハムのすえよ。
 わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、
 地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。
 「あなたは、わたしのしもべ。 
 わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」
 
 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
 わたしはあなたを強め、あなたを助け、
 わたしの義の右の手で、あなたを守る。

 見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、
 恥を見、はずかしめを受け、
 あなたと争う者たちは、
 無いもののようになって滅びる。
 
 あなたと言い争いをする者を捜しても、
 あなたは見つけることはできず、
 あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。
 
 あなたの神、であるわたしが、
 あなたの右の手を堅く握り、
 「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」
 と言っているのだから。
 恐れるな。虫けらのヤコブ。
 イスラエルの人々。
 わたしはあなたを助ける。」(イザヤ41:8-14)
 
この原則は今日も同じである。

神を畏れると言いながら、世のご機嫌伺いをし、「この世」と一体化して、世の罪を連帯責任として背負って生きている人々は無数に存在する。このような人々は、たとえ信者を名乗っていても、巧みに、本物の信者たちをも堕落させて、彼らと同じ生き方へ誘い込もうとする。

そのような人々は、謙虚な風を装って、この世に波風立てず、権威者に逆らわず、人を不快にさせるようなことは何も言わず、誰もに良い顔をし、みなに覚えめでたい生き方をすることが、「信仰的」だと考えており、そうでない人々を非難し、攻撃し、排除しようと試みる。

こうして、彼らはこの世に調子を合わせた世論をクリスチャンの間でも作り出そうと、巧みに信者らの関心を「神の評価」から「この世の評価」へ逸らして行く。そして、信者たちに人に嫌われたり、批判されたり、排除されることを恐れさせて、彼らの「世論」に調子を合わせてご機嫌伺いをするように仕向け、結果的に、信者らが自分の主張を曲げて、神への真実な信仰を捨てて、神を畏れるのではなく、世の評価を恐れて、世と妥協するよう促すのである。

カルト被害者救済活動の支持者らが、自分たちの活動を拡大し、反対者を弾圧し、キリスト教界の言論を統制してその覇権を握るために利用したのが、この心理テクニックであった。彼らは巧みに不信者らを利用して、クリスチャンの間に偽りの「世論」を作り出し、そこで批判されることを恐れるがゆえに、信者らが自ら信仰告白を捨てて、自主規制を行ない、彼らに迎合するよう仕向けたのである。

これはある一定の目的を持って人工的に作られた流れであり、そもそも、偽装された世論であり、自然に生まれた世論でなく、ましてそれは不信者らが作り出したのであって、本物の信者たちの自由な議論によって支えられたものではなかったのだが、こうしたものがクリスチャンの「世論」だと考えてそれに飛びついた人々は、そこで自分が批判されないために、外面を整え、彼らに調子を合わせることによって、自分を守ろうとした。あるいは、彼らと交渉できると考えて、不信者らの議論に積極的に関与して行ったがために、結果的にこの世に取り込まれ、帰らぬ人となった。

そのような人々には、自分たちがご機嫌伺いをしている相手が、神ではなく、この世であり、自分たちの目指している生き方が、「神に従順な生き方」ではなく、「悪魔に対して波風立てない生き方」であることが分からなかった。

「この世の流れ」(エペソ2:2)、すなわち、この世の「空気」なるものを支配しているのはもともと「空中の権威を持つ支配者(エペソ2:2)、すなわち、悪魔である。従って、そこで、自然発生的な世論であろうと、人工的に作り上げられた世論であろうと、いずれにしても、人の目を気にし、人に批判されることを恐れ、この世の識者のご機嫌伺いをし、この世と交渉したり、それに調子を合わせることによって自分の身を守ろうとする者は、「この世の君(この世を支配する者)」(ヨハネ14:30)である悪魔に仕えているのである。だが、彼らにはそのことが自分では分からないのである。

彼らは、たとえ何かがおかしいとうすうす気づいていても、親玉を本気で糾弾するとひどい目に遭わされると思い込んでいるため、ストックホルム・シンドロームに陥った囚われ人のように、悪魔の共犯者となってその悪行をかばい、その罪を連帯責任で自ら負おうとすることしかできない。

だから、ひとたび、クリスチャンの誰かが不信者らが作り上げたこの偽りの「空気」を疑い、それがこの世に由来するものであり、御言葉に基づかない、堕落して悪なるものであることを主張し、これを断固、拒否して、御言葉に立ち戻って生きる必要性を訴え始めると、この世と一体化して操られている偽装信者たちが、わっと押し寄せて来て、この世に波風立てるな、おまえはひどい目に遭わされたいのかと、盛んに脅して口を封じようとするのである。そして、そのようなことをする信者は変人で厄介者だという「空気作り」に、より一層、励もうとするのである。

このような人々は、たとえ信者を名乗っていても、実質的には、「この世の君」の奴隷なのであり、もっと言えば、彼らの父は悪魔であるのだとさえ言える。

聖書にはこう書いてある、「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

そこで、はっきり言えるのは、悪魔に断固、立ち向かいさえすれば、彼らの脅しているような結末には決して至らないということである。
 
立ち向かわないから、ひどい目に遭わされるのであって、毅然として立ち向かえば、悪魔は逃げ去るとはっきり聖書に書いてあるのである。

さらに、もしひどい目に遭わされるとすれば、それは悪魔の奴隷とされている人々が、自分の主人に謀反を企てた場合であって、すでに奴隷から解放されて、悪魔を主人としていない者は、そのような罰を受ける筋合いにはない。一事不再理の原則が適用され、キリストが受けて下さった刑罰が、私の受けた刑罰となり、私はすべての罰をすでに受け切って、無罪放免された身なので、負債は残っておらず、罰せられる理由が何も存在しないのである。

私の主はキリストであって、悪魔ではない。従って、悪魔の支配するこの世の法則に従い、そこに住む人々の言い分を恐れ、彼らの思惑を忖度して暮らさねばならない理由が私には存在しないのである。

エクレシアはこの世から召し出された者たちであり、キリストはこの世よりも偉大な方であり、世に勝った方である。彼によって生まれ、彼を信じる者たちもみな彼と同じように、この世よりも強いのである。

そこで、信者が自分で何を信じるかだけが問題となる。信者は一体、誰の評価を得るために生きているのか。人の評価か、それとも、神の評価か。本物のクリスチャンがこの世から歓迎されることなど、あるはずもないことは、聖書が幾度にも渡り警告していることである。なのに、それでも人の評価が恐れるに足るというならば、神の評価は、一体、その何倍、恐れるべきものだろうか。

「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

 ですから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。
 
 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
 
 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:24-28)


だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

 ですから、わたしを人の前で認める者はいな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:32-33)



「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:3-5)

「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(Ⅰヨハネ4:4)

PR