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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれてい たのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。

昨日は気持ちの良い快晴であったが、一昨日は雨。雨が降ると、いつも主との秘密の語らいが始まる。「主よ、本当に共にいて下さいますか?」
 
不思議なことに、これまで何度も何度も、私は主に雨を止めていただいたことがある。別に雨そのものが嫌いなわけではないが、通勤時には、バイクで走行するには雨は危険だった。

「神様、あと15分で家を出ます。」出発の時間が近づくに連れて、時計に目をやりながら、ちらりと外を見る。まだ随分、降っている。当分、止みそうにもない。 ところが、出発時刻になると、あれほど激しかった雨音がピタリと止んでいる。私は傘もささずに外にでる。そんなことが幾度もあった。

昨日もそうだった。明け方から激しかった雨が、車まで歩く頃にはもうほとんど止んでいる。傘なしで外へ出ても問題ない。しかし、走行中にまた降り出す。だが、帰り道には止んでいる。予報では午後の降水確率が低かったから不思議ではないと思うが、停車して食事休憩すると、ガラス窓越しに外ではまた激しく降り出している。ああ、あの降り方だと、当分、やみそうにもないなとがっかりする。やれやれ、傘を置いて来た。油断しすぎたかな。主よ、これ以上は、ダメでしょうか…? だが、コーヒーを飲みほして、外に出るとまた不思議にピタリと止んでいる。 やはり傘なしで帰宅する。

こんな事柄を通してもいつも思うのだ、主よ、あなたはやはり生きておられますね。あなたは確かに生きておられ、信じる者と共におられ、いつも守って下さるんですね。あなたは天を支えておられ、洪水のように雨を降らせることも、止めて下さることもできる。御名によって名付けられる民のために、あなたは日々、特別なはからいを示して下さるんですね。

しかし、これは天にも地にも主と私以外には誰も知らない秘密で、あまりにもありふれた日常生活のワンシーン。語ってみたところで、興味を持つ人もなく、感動する人も特にいまい。

だが、こんな風に、日常生活の些細な事柄に至るまで、すべてが主の御手にあることを常に感じるのだ。自然現象だけでない。物流や、人々の行動や、たとえば、ものの配達時間、電話のかかるタイミング、あるいはお金の管理なども、何もかも、すべて御手の中に不思議な形で預けられている。人の思いの至らないところ、コントロールできないところまで、主の統治が見事に及んでいることに実に小さな様々な出来事を通して気づかされるのだ。

だから、少し思いを馳せれば、信仰者のための主の優しい計らいを、いつでもどこにでも感じることができる。朝から晩まで懸命に働き、あるいは、人の思惑を気にして、常にスケジュールが満載で自由時間の取れないような時には、主の御業を見ることもなく、仮に何かが起きたとしても、気づくことさえできない。だが、神に心の照準を合わせ、主と共に人知れず信仰の歩みを進めて行くときには、何から何に至るまで、すべて主が共におられることを不思議な形で実感するのだ。

それは神の臨在を見たとか、幻を見たとか、そういう非凡でダイナミックな現象ではなく、日常生活の全く取るに足らないごくごく小さなことに至るまで、すべてにおいて御手の采配を見るのだ。そして、その小さな優しさがたとえようもなく嬉しいのである。

ところで、植草一秀氏のブログに次の言葉があった、「2009年に開かれた光り輝く展望を粉々に打ち砕いたのは…

今は政治情勢の分析は脇に置き、氏の優れた文脈からも離れ、ただ「2009年に開かれた光り輝く展望」という言葉だけにこだわりたい。これは信仰者にとっても、胸にグサリと突き刺さる言葉だからだ。

2009年、我々キリスト者には、未だかつてない光輝く展望が見えていた。誰もまだ見たことのない、達したことのない新しい境地である。組織の不正と腐敗と、人間の指導者による搾取と偽りと、汚れた数々の行ない、人による支配や虐げに疲れ果て、これらの悪に背を向けて、もはや人間の栄光を打ち立てるためでなく、ただ神だけに忠実であり、真理に生き、神に栄光を帰するために、真の自立と豊かさとを目指して、歩き始めた一群がいた。

あの時、我々の目の前にまさに開かれんとしていた光景、あたかもすぐ目の前に手の先にあるように思われ、多くの人々が心の底から求めていた自由なエクレシア、組織にとらわれず、人間の指導者によらず、神によって直接養われ、神によってすべての必要を満たしていただき、神の御心を満足させるエクレシアの展望は、どこへ行ったのであろうか。なぜ我々はその光輝く展望へまっすぐ一直線に進めなかったのか。

あの人、この人に原因を見いだそうとすることはもうやめよう。振り返る価値もないような、嘘と裏切りと密告その他その他の人間の腐敗堕落した行いのせいで起きた惨事はどうでもいい。そんなことには言及の価値もなく、どんなに「戦犯」を探し出し、その人間を処罰してみたところで、それで目的が達成されるわけでもない。

それらの想像を乞えるほどの狡猾な悪事に対して免疫がなかった信者の側の無防備さはまだ無罪放免されるとして、その経験不足を除いても、いずれにせよ、我々には何かが足りなかったのである。神に対する純粋さ、貞潔さ、何があってもすべての試練を潜り抜けて目的に達するまでは絶対にあきらめないという揺るぎない覚悟、神への確固たる信頼、そして用心が足りなかったのであろうか?

エジプトで40年間、荒野をさまよって民のことを思う。本当は、そんな年月を費やさずとも、約束の地にたどり着くことは可能だったのだ。信仰さえあれば、無駄に荒地をさまよわず、民は一直線に、乳と蜜の流れる地に入っていたはずなのだ。あのような形で、日々、試される必要もなかった。なぜそんなに時間がかかったのか。その間、罪と背信によってどれだけ多くの民が倒れたか。不品行があった。盗みがあった。敵を見て怖じけづいて逃走した人々がいた。金の子牛によろめいた人々がいた。裏切りもあった。指導者でさえついにはその民を投げ出そうとして、目的地の一歩手前で、そこに達しないまま死んだ。それはすべて民の不従順のゆえであった。人間側に、常に炉を通るようにして火で洗練されねばならない何かがあったのだ。

だが、仮に時間がかかったとしても、一度現れた展望が消えたわけではない。目的地がなくなったわけでもない。主の民が見捨てられたわけでもない。彼らは、実際に地上にいる間にそこに達したか達しなかったかということによらず、確かに目指す都を見ていたのである。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれてい たのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル 11:13-16)

人間の側は命が限られているので、常に性急であるが、神は気長である。そして、神が目的を定められ、その民を選び出された以上、神は勝利されるであろう。

最近も、よく緑のビルのそばを通過する。以前にあった選挙事務所もとうになくなり、クリーニング屋の大きな看板が掲げられ、以前よりも、ますます雑然としているように見受けられる。以前は地理に詳しくなかったので、210円の電車賃を払って到達できるところくらいしか思っていなかったが、今は地上のことがよく把握できる。だが、これほどよく分かるようになった今、すべてはすでに過ぎ去ったのだ。

しかしながら、感傷に浸っているわけでなく、この緑のビルとは、全くもって、最初から最後まですれ違いの連続であった。2009年、主の生き生きした御業を見て、望みがかなえられ、喜びと共にこの地にやって来た時、「神様が私に何をして下さったと思いますか? 私は解放されたんですよ!」と、最も兄弟姉妹に告げたいと思って、何も知らせず礼拝に飛び込んだところ、指導者は遠くの同窓会に出かけて不在で、礼拝は完全に気の抜けたビールのごとく、何の期待感もなく、話を分かち合えそうな人もなかった。耐えられなくなって外に飛び出し、公衆電話に十円をたくさん入れて電話をかけてみたが、つながらなかった。

あまりにもその体験に失望したので、その後、半年間、その場所には寄りつこうとも思わなかった。明らかに、主の御思いからは遠くかけ離れていると感じられたからだ。そして、別の群れに行ってみたが、そうこうしているうちに、事件が起きて、仕方がなく指導者と顔を合わせることになった。が、だからと言って、何かが開けることもなく、最後には、最も望ましくない形で、その場所は悪党どもに占拠されて、出入り禁止とされたのである。

その出入り禁止とされた場所が、見るからに荘厳な、お城のようだったのならばまだ良い。何百億円もかけて建設された礼拝堂で、全国に有名な指導者が率いる何千人もの群れがいて、庶民は入れませんよと言われたならば、まだ理解できよう。だが、そこは最初から最後まで何の変哲もない平凡な緑のビルで、そこに集まっていた人々も、諸教会から見放され、最も光彩に欠ける数えるほどの人々であった。

インターネット上では現実がはるかに見違えて見えるものだ。現実には、それは悪党どもが奪い取るほどの価値すらもあったかどうか疑わしいほどに、細々として、注目もされない、小さな群れでしかなかった。悪党どもは肩をそびやかして指導者を追い出し、この哀れな群れの中から、最もえりすぐりの評判の良くない支持者を引きぬいて連れて行った。こうして私は、遠路はるばるやって来たのに、もともと諸教会から見放され、放逐されていた群れの中から、さらに放逐されたのであった。

むろん、これは多少、筆が滑りすぎて、皮肉が行き過ぎていると言えるだろう。その後、様々なクリスチャンに出会ったが、別に緑のビルにいたことが「前科」とみなされるようなことも全くなく、そこから「放逐」されたという話も、とりたてて何の問題ともならなかった。悪党どもの占拠についても、人々はずいぶん管理がいい加減だったと肩をすくめるか、あるいはいっぱい食わされたと吹き出した。「諸教会から見放され、放逐された最も光彩に欠ける・・・」云々のくだりも、緑のビルから放逐されて絶望して他宗派に去った信者が私に向かって投げかけた言葉に基づいているので、こうした評価も、この集会に対して敵対的な人の個人感情が反映したものでしかなかった。

実際には、そこで起きている出来事は、世界の誰の関心も引いておらず、かつてはあれほど組織からの脱出を夢見てその交わりに注目していた信徒たちも、いつの間にか、それぞれちゃっかりと元のさやにおさまって、そこが一番だと豪語していたのである。

だが、私はその人たちと一緒に元の故郷へ戻ろうとは思わなった。こうしたことも、悪党どもが場所を奪ったために起きた事件ではなく、初めから、そこが居場所ではなかったことをよく示しているだけなのである。居場所は常に、天にある。だから、飛行機が陸を離れて飛び立つときのように、私は地から目を離し、天へと視線を移す。

古い記事には、何を書いたか自分でも忘れているのだが、「港町の風景」にこんなことを書いていたのを思い出す。「近いうちにもう一度、横浜を訪れることができればと思う。以下は、懐かしい神戸の海。横浜の夜景はまだ一度も見たことがないが、きっとこれに似ているのではないかと思う。」

その時には、これが実現するとは思ってもいなかった。今、神様はおっしゃるだろう、「私はあなたが望んだから、その願いに応えて、あなたをこの地に導いて来たのであって、あの人、この人に帰属させるため、もしくはあの集会、この集会に所属させるために、来させたわけではないんですよ。あなた自身が当時から分かっていた通り、エクレシアは常に、今、目に見えているものの中にはなく、私に忠実な民の心の中にあるんです。エクレシアは、あなたの只中にあるのです。教会は、常に私に忠実な民自身の心の只中にあるのであって、誰か偉そうな他人の心の中にあるのではない。それはあなた自身が私と共に建設して行く見えない統治のことでもあるんですよ。だから、あなたの望みを私に託しなさい」と。

こうしたことからも、主がどれほど注意深く、ご自分の民の願いに耳を傾けておられるかがよく分かる。だが、信仰はどこまでも人間に対する期待ではなく、神への期待である。間違っても、途中から、地上にあるものに目を移して、主からいただいた目に見えるものを後生大事に握りしめるわけにはいかない。信仰は、神に心を向ける人間の願いと、それに応えて下さる神との共同作業で、神の御思いと人の願いが重なり合って地に引き下ろされるコラボレーション。私たちの目は常に地ではなく、天へと、まことの供給者である方へと向かなければならない。

さて、話を戻せば、信仰の展望を他者と分かち合うことは難しいが、それでも、2009年、エクレシアの展望は多くの人たちの心に、切実な願いとなって生まれ、生き生きした新鮮な展望として育まれていた。

今日、そのうちどれだけ大勢の人たちが、何事もなかったかのように元の地上組織に帰って行っただろうか。あるいは御言葉の否定に至って、探求そのものをやめただろうか。それでも、一旦、始まった以上、どれほどの月日がかかったとしても、目的をあきらめない人々もいることだろう。

エクレシアとは、主の御心にかなう統治が実現している場所のことであり、それはこの世の地上の領域のことではなく、目に見える人々の群れを指すのでもない。それはまさに山上の垂訓が実現している神の霊的統治そのもののことなのである。目を上げれば、神の統治は主の民の生活の至る所で常に見いだすことができる。御言葉に忠実な民こそ、見えないキリストと共に、天地をつなぐハシであり、こうした主の民の存在を通して、神の御思いが地上に引き下ろされる。キリスト者一人一人が、可動式の神の幕屋なのであり、地ではヘビを踏みつけ、その頭は天で御座についておられるキリスト、我々の居場所は、天にある。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが言って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。私の行く道はあなたがたも知っています。」(ヨハネ14:1-3)

「私の行く道はあなたがたも知っています。」、主イエスが弟子たちに、天には住まいがたくさんあると言って、その住まいを設けるために、どこへ行くのか示された道が、十字架だったのである。十字架における完全な自己の死だったのである。

我々キリスト者は、天にはたくさん住まいがあって、その住まいの募集がすでに始まっていることを知っており、そこへ入りたいと望んでいるが、そこへ至りつくためには、ただ一つの道である十字架を経由しなくてはならない。

この道を行くとき、いわゆる私たちの個人的もうけなるものはない。これは私たちにとって地上では手柄とも栄光ともならない。もしかしたら、先人たちと同じように、我々も地上で約束のものを手に入れないかも知れないし、それを見ないうちに人生が終わる可能性もないとは言いきれない。

それでも、私たちはそろばんをはじいて地上での自分の利益のためにあきらめるのではなく、そのような無価値な地上の宝をすべてかなぐり捨ててでも、信仰によって、今見ているものよりも、「さらにすぐれた天の故郷」があることを確信し、「はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白する」ことを否まないのである。へブル書の言葉は、私にとっては詩のようである。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれてい たのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル 11:13-16)

以下も、幾度も引用して来た信者の言葉であるが、しかしながら、これにも決定的につけ加えなければならない一言がある。

「敢えて時空内に留まり 時空の中で勝ち誇って 
復活の中の永遠のリアリティを「彼」に見せつける、
と言う「宇宙最高の」役割を楽しむ」

ことは逆説的に、十字架の死にとどまることによってのみ可能なのだ。
確かに、キリスト者にはダイナミックな勝利もあり、悪魔に対して決定的に勝ち誇る瞬間がある。要塞をも打ち破って、暗闇の軍勢に勝利しなければならない。

しかしながら、復活を達成するためには、常に十字架にとどまり、己を否んで死を受け入れなければならないのである。私たちが求めているものが、この世の故郷ではないことを、絶えず告白し、証明し続けなければならない。信者は、信仰の戦いに、この世の方法によって勝利するのではなく、人の常識や知恵に頼って勝利するのでもなく、あくまで、ただ御言葉だけによって勝利を得るのである。

そのためにこそ、どういうわけか知らないが、キリスト者は年々より自分の力に死なされて、より小さくなっていくのである。アブラハムとサラはもう限界である。100歳に到達した。展望は遠のき、絶望的になったかに思われる。もはや彼らに何ができようか。彼らが若く美しく力と活気に溢れ大勢の人々に囲まれて注目の的となりまさに幸せを望まれていたその時はとうに去った。彼らはもう期待外れであり、規格外である。後はどのように地上の人生を安らかに終えて静かに人々の目の前から退場して行くかという「終活」以外に、何の期待も寄せられていない。彼ら自身、かつて見えていた展望や、望みについて、何と自分は大それたことを夢見ていたのだろうかと、自嘲せずにいられないまでになった。それはすべて夢だったのではあるまいか? 

そのような地点まで、キリスト者は連れて行かれる。もはや自己の力が尽きて、神でなければなし得ないという地点まで。常にこれが原則である。そして我々にはもう無理だ、できそうにもない、本当にあきらめるしかないのだろうか、初めからすべては大それた夢でしかなかったのだろうか、というところまで来て、主が力強く働かれる。生まれながらの人間にとってはつらいことであるが、しかし、神にはできるのだ。そのことを私は信じている。

だから、我々にとっての自己の終わりが常に主の御業の始まりなのである。

主よ、我が国の有様は、あなたがご覧になっている通りです。
しかし、私たちは、まさかこれがあなたの御心だとは信じていません。
そして、このような有様が現実だとも思っていません。
そろそろ、あなたの出番です。
そろそろあなたの出番です、そうではありませんか、主よ?

雨がやんで、空は晴れ渡り、新しいことが始まりそうな気配が漂う。
我々は神を信じて、心を騒がせず、絶えず十字架の死と復活にとどまり、これをより深く知り、味わいながら、地上で大胆に次の一歩を踏み出していくのみである。



 "エクレシア、コイノニヤの時空における現れは
臨機応変、伸縮自在、そして神出鬼没であるべきです。
何故でしょう、それは復活したキリストが正にそうであるからです。
そのような現在のキリストと聖徒達を、この世の何者も(そして多くの
キリスト者でさえも)捕らえることは出来ません。そしてまた決して
誰も自分のものとして所有することも不可能です。

このような エクレシア、コイノニヤの姿には神の無限の知恵が
隠されています。この最後の時代 神はそのような復活の中の
隠された知恵を隠された方法で行使されるでしょう。
そのような有様のエクレシアのみが 遂には次の時代 
極めて圧倒的かつあからさまな王国の到来を招致出来るのです。

あなたがある固定された箱の中へ、固定された時間に行って見る時、
もしも 決まってある同じ人物が登場し、その人を見るために「お客」が
集まって来ると言う風景に固定的に出会うのであれば、そこには復活、
不死、無限の性質はなく、健康な人間性も見ることは出来ません。

そこで見られるのは
四隅を区切られた時空の中の限りある朽ち行く物質の性質です。
なぜなら その固定、制限、区別と言う箱(時空)によって限定された
ひと時内でのみ活動を許されている王は かつてのルシファー、
永遠の苦悩と恥辱と破滅の運命が既に固定確定されている
今現在のサタンであるからです。

私達は
敢えて時空内に留まり 時空の中で勝ち誇って 
復活の中の永遠のリアリティを「彼」に見せつける、
と言う「宇宙最高の」役割を楽しむためにこそ
今ここで生きているのです。 "


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