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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。
一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(Ⅱコリント5:14-15)

さて、2009年10月にこちらに来て当時の記事を当ブログにも転載するため、少し読み返している。すると、あの時、何が起きていたのかが明確に分かって来た。

キリストと共なる自己の死から、復活の命、そして昇天へと…。
これは私という一人のキリスト者の中で当時、まざまざとしたリアリティとして進行していた過程である。(むろん、今もやんだわけではないが、しばらくこのテーマを離れていた。)

これが極めて重要なことなので、当時の記事はこのブログ等にもすべて転載して行く。

さらに、非常に重大な事実として、私を含め、当時の兄弟姉妹の間では、KFCの偽りも、すでに明確に見えていたことが挙げられる。たとえば、「霊の人が直面する危険」などは当時、魂的な体験に欺かれて生きる人々に対する兄弟姉妹の警告を受けて書かれたものである。

御言葉は、他人に向かってどれほど語っても、自分自身に適用されていなければ意味を持たない。たとえば、百万語費やして、キリストの十字架における死と復活について懇切丁寧な解説を述べることはできるかも知れない。だが、その人が内側でそれをリアリティとして持っておらず、その経験を求めてさえもいなければ、書いている人が、誰よりも一層、御言葉の現実から遠く離れて行くこともありうる。
 
暗闇の勢力が事件を起こしたのは、魂的な体験に欺かれている人物の偽りが明るみに出されると困るため、および、一人のキリスト者の内側で十字架の経験がより深くなることを妨げる目的があったものと見られる。幾度も語って来たように、KFCとカルト被害者救済活動は霊的には同じ運動だからである。誤りと分かっているものへ引き戻し、信者を拘束することが、彼らの目的なのである。
 
当時、我々の交わりはKFCの偽りを見抜いた上で拒んでいたため、何が起きようとも、KFCに戻って行ったり、触する必要性はまるでなかった。

だが、我々がまだその重要性を十分に知っていなかった事柄があるとすれば、それは集合体としてのエクレシアの前進に注目するよりも、一人のキリスト者の内側での作り変えの事実の重要性をより重んじるべきだという点である。

つまり、エクレシアの前進はあくまで一人一人の個人がどれほど主の御前で時を過ごし、御言葉の実際を知ったかによるのであって、どれほど信者が頻繁に集まって語らったかにはよらない。一人一人の内側での変革がなければ、エクレシアの前進はない。
 
当時の私は、環境条件が変わって、様々な困難が主の不思議な御業によって取り除かれ、私自身が生き生きして解放されたことを喜んでいたし、当時、私を取り巻く兄弟姉妹も、その解放を、あたかも信仰の前進のごとく評価していた。

だが、事の本質はそれとはもう少し異なるところにあった。むろん、神が信者にもたらされる生き生きとした解放のわざが無益だというのではない。それも神の栄光となる出来事である。だが、あくまで事の本質は現象よりももっと深い所に存在しているのである。

真の信仰の前進としての霊的変化は、主の御前で過ごす個人の内側で、どれほど十字架の働きがリアリティとして深く進行したかによる。世界の片隅で忘れられたような取るに足りないように見える信者であっても、その一人の内側でのキリストに似た者となるための作り変えには、天地を揺るがすほどのはかりしれない重大な意義がある。
 
個人の内側での十字架の働きは、一連の外側の出来事と連動して起こるとはいえ、より内側深くで起きる霊的変化であり、しかも、そうした個人的な霊的造り変えこそ、実は、環境状況にもはかりしれない激変をもたらすのである。

実のところ、環境を変える力は、個人の奮闘によるのでも、努力によるのでもない。すでに幾度も述べた通り、環境を治めることは、キリスト者の使命であり、それはキリストと信者との共同の霊的創造である。

だが、環境を治め、御旨を地に引き下ろす鍵となるのは、キリスト者がいかに御言葉の内にとどまり、御言葉を守り、十字架の死と復活の経験をより深く自分のものとして受け取り、これがその人の内側で確固たる実際となったかによる。

つまり、御言葉と信者との一体化の度合いによるのである。

そして、十字架の死と復活の体験を、主ご自身、つまり、主の人格と切り離して単なる個人体験として受け取ることはできない。それは神ご自身の人格と深く結びついており、いかに信者が、主なる神を神として仰いで生きたかによって、その人の内側の作り変えも進行して行くのである。

秘訣は、人に頼らないことであろう。何事についても、神ご自身に尋ね、聞くことであろう。人に頼れば頼った分だけ、神の栄光が減って行く。神は御言葉の実際を知りたいと願う人には快く教えて下さる。


追記:
すべての異端の本質的な同一性は、生まれながらの人間に神に至る要素が含まれていると語ることにある。Dr.Lukeの言説の誤りも、同氏が生まれながらの人の体の堕落という問題に向き合わなかった点にある。
同氏によると、体はそのものに決定的な堕落が含まれているのではなく、体は罪の道具として利用することもできるが、神の器として用いることもできるため、「中立」なのだそうである。

しかし、聖書の御言葉を見て行くと、霊・魂・体の中で、魂及び体は人の堕落した「肉」の機能のうちに含まれ、最も甚だしく堕落しているものが体であることが分かる。たとえば、「目の肉・肉の欲・持ち物の誇り」などの感覚的な享楽はすべて主として体に働く欲望である。

そこで、人の体に対しては、「霊によって体の働きを殺す」ことが必要となる。すなわち、アダムに対する十字架の死の一環として、体も魂同様に古き人の機能として十字架において死に渡される必要があり、この御言葉による霊的死を受け入れることなくして、体が中立になることは決してない。

さらに、Dr.Lukeは、アダムの命に属する古き人は「大脳の古い働きによる」ものとして、キリストの御霊によって生きる新しい人の機能も、脳内にその基礎があるとした。古き人が刷新されないのは、御言葉を守らないからではなく、信者が古い脳内の働きに依存して生きているためだそうである。そうなると、結局、神の霊に属する事柄も、すべて堕落した身体の機能の一部であるということになる。

このような説だと、人は神の側からの介入なくして、能の働きを自ら刷新することにより、キリストの御霊の機能を再現し、自らキリストに似た者とされることが可能ということになる。それは神に至る道が本質的に人の生まれながらの体の中に含まれているという結論を生み、結局は進化論的な説へと行き着く。

ちなみに、グノーシス主義においては、霊(本来的に神に至る要素を「欠片」として持っているとされる)を肉体の牢獄から解放することが最終的な自由とみなされるので、最後にはこの教えの信者は自己破壊へ行き着く。

(追記の追記: グノーシス主義においても、一般的に、魂及び肉体は堕落したものとみなされているが、この思想においては、人の「霊」のうちに本来的に神に至る「聖なる要素」が含まれているとされるため、その「霊」を肉体及び魂から解放することが、真の解放であるとみなされる。そのようにして、「霊」を閉じ込めている堕落した肉体を破壊することが、霊が天界へ回帰する道だとされるのである。「体」の堕落そのものを認めない思想とは多少、異なってはいるものの、人の自己の内に本来的に神に回帰する道があると唱える点は同じである。)

こうして、グノーシス主義は最終的には自己破壊へ行き着くのであるが、KFCがやたらイスラエルの受難と自らを重ね合わせていることにも注意が必要である(イスラエルは地上で最もならず者国家として知られている)。三島由紀夫の最期も含め、あたかもキリストにある自由と豊かさを高らかに誇っているようでありながら、彼らが常に悲劇へ共感、傾倒し、そのメッセージ内容に常に悲劇の通奏低音が鳴り響いている点に注意が必要である。

このような傾向から察するに、体を「中立」とみなす全ての思想(体の堕落を認めない思想は、体を「聖」としているのと同じであり、その「聖なる要素」が「霊」にあるとするにせよ、「脳」(体)にあるとするにせよ、人間の古き自己の決定的な堕落を完全に認めず、神に至る自己回復の道が人間の内に含まれているかのようにみなす思想は、すべて同じである)は、最後には、みな自己破壊へ至る。

グノーシス主義思想はすべての点において秩序転倒である。神を信じない者でも、体の欲望が、魂(理性や常識等、人の思考)によって治められなければならないことは否定しないであろう。聖書は、体は魂の下に治められなければならず、魂は霊の配下になければならないことを教える。

ところが、グノーシス主義は人の内側の秩序をすべて逆転し、最も堕落したものを最も崇高なものとして掲げ、体を抑圧しているすべての枷(魂も含む)を打ち砕いて、欲望を解禁することを目指すので、この教えの信奉者は理性を失って欲望に走り、最終的には、自らの体の欲望を解放するために、自分を殺すというところまで行き着くのである。彼らが解放しようとしているのは「霊」ではない。己の欲望なのである。
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