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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

悲しめる者のためのくちびるの実



気絶しそうなほどの猛暑の中、美観地区を散歩して来た。
私は子供時代に、7歳になるまでこの街に住んでいた。
今になっても、記憶のどこかに、街の風景がおさまっている。

街中を歩くと、まるで方位磁石が身体の中に埋め込まれているかのように、遠い記憶が呼び覚まされる。
いつか通ったことのある道。いつか見た風景、いつか見た空き地、なじみ深い山々…。
写真を通じて、猛暑が読者に伝わることはないと思うので、美しい映像を載せておきたい。

昨日、ある方からとても嬉しいお便りをもらった。
「もしもこの先、苦しまねばならないなら、私もあなたと共に苦しみましょう、
けれども、キリストにあっての自由を私はあなたに楽しんでいただきたいのです」、という内容の便りであった。

それを読んだ時、こんな不思議なことがあって良いものだろうか? と思った。

これまで、キリスト教界において、私は泣く者と共に心ゆくまで泣いてくれた人を見たことがなかった。ましてや、苦しむ者のために立ちどまり、共に苦しみを担ってくれる人には出会ったことがなかった。

私の知っているクリスチャンと名乗る人たちのほとんどは、みな、自分が正しくふるまうことで精一杯だった。
何が正しくて、何が間違っているかを論じることで精一杯。
サタンの誤りに陥らないように気をつけることだけで精一杯。

それは、私の目には、幾度、倒されても、立ち上がる不死身の怪物のように見えた。
まるで痛みなどないかのように、弱さなどないかのように、不撓不屈の精神で、自分を鞭打って、わき目もふらず、そばにいる人の気持ちにさえ気づかずに、ただ前に、神の義にだけ向かって、まっすぐ、進んで行こうとする人たち。

何が正しくて、何が間違っているかを論じるために、果てしなく生み出される議論の数々(律法学者たちとまるで同じ)。
もつれた糸にからまるようにして、議論の中で訳が分からなくなり、立ちどまってしまった信徒は、道の途中で、置き去りにされた。
「信仰の勇者」になりたい人たちは、脱落者に構うことなく、信仰の弱い人を助け起こそうともせず、疲れ果てた人を置いて、議論しながら、どんどん先へ進んで行った。
自分達だけが、天国に到達し、神の御前で義人としてふるまうために。

どれだけの人が、気づけば教会に姿を見せなくなっていっただろう。
人の苦しみさえも、どう解決すべきかという議論に変えられてしまった。
主の御前で喜ぶことさえ、義務として教えられた
他人の苦しみに対して、涙一つ流さないまま、聖書を指差しながら、押し付けがましく、もっともらしく、残酷に、誤った考えを捨てるように、繰り返される説教。

まるで人生で一度も挫折したことがないかのように、「主にあっての喜び、平安」だけをひたすら強調し続ける、このお化けのような人たちに、ある日、私はついに、身体がついて行かなくなった。

まるで人生で一度もつまずいたことがなく、自らの失敗のために一夜も泣き明かしたことがないかのように、「何が正しいか」だけをひたすら説き、避けるべき過ちを潔癖症のように列挙する人たちに耳を貸せなくなった。

光は、闇を拒否することによって生まれるだろうか?
喜びは、悲しみを拒否することによって生まれるだろうか?
たとえ全ての誤った感情と行動を拒否したところで、人はそこから、真の自由や解放を得られるだろうか?

それはキリスト不在の福音であったのだが、私はそのことに長い間、気づけなかった。
そこで、私はキリスト教そのものを一旦、捨てなければならなくなってしまった。

身近なクリスチャンの語る不自然な「喜び」や「平安」に、私は辟易してしまった。
異常なほど熱狂的で明るい説教を、心が受け付けなくなった。
異常なほど歓喜に満ちて、軽薄な賛美歌に、心がついて行かなくなった。

ある教会の礼拝で、ゲストとして招かれた講師の説教に我慢しきれなくなった私は、いきなり礼拝堂から外へ向かって駆け出した。
「何してるの、一体、どうしたの…?」
他の信徒が不審そうに後を追って来た。

しかつめらしい服装をした、社会的にもそれなりの肩書きを持つ紳士たちの集う静かな教会だった。
何をしているのか、自分でもよく分からなかった。
どうしようもない拒否反応。どうしてこんなにも大勢の立派な人たちが、こんなくだらない説教に我慢できるのかという嫌悪感。
その時、私はもう生理的に、キリスト不在の礼拝に我慢できなくなっていた。

私はこの「義人お化け」のようなクリスチャンたちのいる教会から、嫌悪感だけを抱いて去った。彼らのうちには、人として何かとても大切なものが、大きく欠けているように思われてならなかった。

私は彼らに聞きたかった、なぜあなたたちは、人の悲しみや涙を受け入れないのか?
絶望的な環境にあって、笑顔も作れなくなった人たちの気持ちに、なぜ寄り添おうとしないのか?
なぜあなたたちは悲しむ者の悲しみを担わず、泣く者と共に泣くために、片時も立ちどまることなく、ただひたすら、自分の義のことだけを唱え、神にあっての喜び、勝利、平安ばかりを一方的に強調し続けるのか?

それから、私は長いこと、神なき絶望的な日々を送った。

ある人は、それを自己憐憫だったと言うかも知れない。
人につまずいて教会を離れた私を、浅はかだった、信仰が足りなかったと言うかも知れない。
私はただ自分の感情を優先しただけであって、それは信仰とは関係ない事柄だったと言うかも知れない。
人の憐れみや、助けを期待していた時点で、真に神に頼る信仰心がなかったのだと言うかも知れない。

だが、私は、「キリスト教」を離れて、初めて、人間的な感情を自分に取り戻すことができた。
もうこれ以上、不自然な喜びを自分に強制する必要がない。
無理な努力をして、キリストの枝らしくふるまう必要がない。
あらゆる苦難の中にあって、さも立派な解決を得たかのように、ありもしない勝利について語る必要がない。
私は失格者になったのかも知れないが、それならそれで良いと思った。これがあるがままの現実なのだから…。

そうして教会から遠ざかって、月日が過ぎた。
その間、ただ迷いと挫折だけがあったわけではない。私は確かに、自分の現在地を探し出すことができた。

多くのクリスチャンは自分の現在地を知ろうともせずに、ただ目的地のことばかり議論しているように私には思われてならない。
だが、たとえどんなに遠大かつ崇高な目的地を設定したとしても、自分の立っている現在地が分からないのでは、どうやって目的地にたどりつけるというのだろうか。

失意の日々に、私は地図を広げ、キリストから遠く遠く離れている自分の現在地を発見した。
現在地とは、自分が罪人であり、悔い改めて、神に立ち返らなければならないということであった。
それから、犯した罪を悔い改め、とにかく、どんなに時間がかかっても構わないから、ただ神へ向かって、キリストへ向かって歩こうと決意した。
誰もそばにいなかった。信仰の一人旅が始まった。

ところが、不思議なことに、その後、歩いているうちに、私の現在地と目的地が重なっていることに気づいた。
目的地であられるキリストが、いつの間にか、私と共に歩いて下さっていたからである。
「あなたはもうどこへも行かなくて良いのだ。あなたのうちに私がすでに宿っているのだから」と、神は我がうちに語られた。そして、今、私は自分がどこへ向かっているのか知らない。それを知っているのは、私ではなく、思いのままに吹かれる風――御霊である。



気づけば、他にも道連れが出来ていた。もはや一人旅ではなくなっていたのだ。
そして今、私に向かって、再び、主にあっての喜び、自由、平安を語る人があった。
それを聞いても、以前のような嫌悪感を、私はもう感じない。

それは、今、説かれている喜びが、以前のように、不自然な、上から強制される感情ではないことが分かるからだ。その喜びは、我がうちにおられるキリストからあふれ出てくるものであり、私が自分の感情を懸命に偽って、無いところから無理やりひねり出そうとする、不自然で到達不可能な感情ではないからだ。

イザヤ書の中で最も有名な箇所の一つを挙げよう。

「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
 われわれの慕うべき美しさもない。
 彼は侮られて人に捨てられ、
 悲しみの人で、病を知っていた。
 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
 彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
 まことに彼はわれわれの病を負い、
 われわれの悲しみをになった。<…>

 彼が自分をとがの供え物となすとき、
 その子孫を見ることができ、
 その命をながくすることができる。
 かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。」(イザヤ53:2-4,10-11)

 これは御子イエスのことである。イエス・キリストはご自分の苦しみを通して、苦しむ人々に解放をもたらされた。主は喜びしか知らない人ではなかった。むしろ人の何倍も、悲しみと痛みを味わわれた。イエスの福音は、悩みのない富める者が、貧しく苦しんでいる罪人に、高みから押し付ける福音ではなかった。

 主は、私よりもさらにご自身を低くされ、私よりもさらに惨めな姿になって、無言のうちに、私に十字架の恵みを差し出された。そこには一切の強制がなかった。
 今日、もしも真の牧者と呼ばれるに値する人たちがいるならば、彼らはきっとイエスがされたのと同じように、自らを低くし、自分の打ち傷を通して、悲しむ人、泣く人を慰め、励ますことだろう。

イザヤ第61章1~3節。
「主なる神の霊がわたしに臨んだ。
 これは主がわたしに油を注いで、
 貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
 わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
 捕われ人に放免を告げ、
 縛られている者に解放を告げ、
 主の恵みの年と、
 われわれの神の報復の日とを告げさせ、
 また、すべての悲しむ者を慰め、
 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、
 灰にかえて冠を与え、
 悲しみにかえて喜びの油を与え、
 憂いの心にかえて、
 さんびの心を与えさせるためである。
 こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、
 主の栄光をあらわすために
 植えられた者ととなえられる。」

 愛に基づいた深い共感がなければ、人が人の心を開くことは難しい。悲しみを知らない人に、人の悲しみを慰めることはできない。痛みを知らない人に、他人の痛みを理解できない。捕われる苦しみを知らない人に、捕われ人の気持ちが分かるはずがない。
 だが、私たちは人として、実際にあらゆる種類の苦難を自ら体験できるわけではない。努力と経験によって、苦境に立たされている人たちの気持ちを正確に理解できるわけではない。

 どうすれば、私たちは、悲しむ者、憂う者の心を、主を信じる喜びと賛美へと導く「義のかしの木」となれるのだろうか。それは、他者の苦しみに対してとてつもなく深い共感を持っておられたイエスの姿勢にならうことによってである。私たちの拙い言葉と態度は、私たちの努力と経験によらず、イエスと御霊との力を受ける時にこそ、苦しんでいる人、悲しんでいる人たちの心に、届くものとなるだろう。

 私は、被害者や犠牲者と呼ばれる人たちの心の痛みを無視したり、否定するわけではない。だが、その人たちが、これ以上、いたずらに苦しみ続けることには反対である。なぜなら、すでに解放の喜ばしいニュースが届けられており、もう誰も、自分を犠牲者と呼んで、自らを卑しめなくとも良くなったのだ。なのに、どうしてその大きな特権を行使しない理由があるだろう?
 クリスチャン一人ひとりは、主によってすでにあがなわれ、完全に回復されている。私たちはその事実に堅く立って、ただ人の哀れみと同情ばかりを乞いつづける卑しい物乞いになることをきっぱり拒絶しようではないか。

 主イエスは私の苦しみのために、私以上に苦しんで死なれた。だから、私にはもうこれ以上、苦しむ必要がない。
 主イエスは私の悲しみのために、私以上に悲しんで死なれた。だから、私にはもうこれ以上、悲しむ必要がない。
 主イエスは私が見捨てられた以上に、人からも、神からさえも見捨てられて死んだ。だから、私にはもうこれ以上、誰からも見捨てられる苦しみを味わう必要がない!

 神が支払われたはかりしれない犠牲の中に、私の苦難は吸収されて消えて行く。
 主は語られる、「覚えておきなさい、あなたが苦しむ時には、あなたのために、すでに私が苦しんだのだと。私はあなたのために、十字架の上で無限に代価を払った。それはあなたの負債を返すために、私がかかった十字架なのだ。覚えておきなさい、私の十字架の血によって、あなたのために解放の証書が書かれた。これは奪い去られたあなたの権利を補って余りあるものである。あなたが一生、平安に暮らして余りあるものである。
 私があなたの代わりに、全ての痛みを担った。あなたの悲しみと病と涙とは、私がすでに代わりに支払ったのだ。だから、十字架を見上げる時に、思い出しなさい、あなたはもう苦しまなくてよくなったのだと。たとえこの世界にどんなことが起きようとも、あなたは絶望に心痛め、悲しみに暮れる必要はもうなくなったのだと」

 一体、誰がこれまで、私の痛み苦しみのために一瞬でも立ちどまってくれる人があっただろうか?
 そんな人はいなかった。
 誰が私の苦難を共に背負ってくれただろうか?
 そんな人はいなかった。

 いや、いたのだ、それがキリストである。
 手紙はそのことを私に告げていた。神は貴い十字架を通して、私がこれまでに受けた全ての傷から完全な解放を得、主にあって、喜びに満ちた自由な生活へと入ることを望んでおられるのだと…。
 それは捕われた人に解放と平安を告げる声であった。

「『わたしは彼をいやし、
 また彼を導き、慰めをもって彼に報い、
 悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう。
 遠い者にも近い者にも平安あれ、平安あれ、
 わたしは彼をいやそう』と主は言われる。」(イザヤ57:18-19)

 全ての被害者よ、犠牲者よ、喜べ。あなたたちはもはや寝たきりの人のように、座して人の助けを乞わなくてよいのだ。主ご自身があなたを解放され、あなたに健康を取り戻された。主はご自分に従う者たちを悲しみから救い出し、その涙を拭い、苦しみの代わりに、平安と喜びを心に植えられる。だから、今、私たちは信仰によって歩き出そう。心と身体を拘束する被害者という鎖を断ち切り、自立して、大胆に歩き出そう。

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