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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

恐れからの解放

 退屈になると、バイクを飛ばして道を走る。
 川べりの土手を走ると、山からの冷たい空気が降りて来て、心地よい。
 冬は恐ろしく寒いが、今の季節は快い。
 飛ぶように、滑るように走るバイクが、私はとても好きだ。

 今日は、走りながら、ヘルメットの中で叫んだ。
「主イエス・キリストの御名によって、私を束縛する全ての枷を打ち砕きます! 
 私を閉じ込める『水槽』からの完全な解放を宣言します! 私は完全にあがなわれ、健やかさの中に入れられたことを信じます!」と。

 さて、「水槽」とは何なのか。
 少し前まで、我が家では魚を飼っていた。小さな水槽に、初めは5匹の稚魚がいたのだが、日が経つにつれて、一匹減り、二匹減り、ついに最後の一匹だけ残った。
 だが、最後の一匹もついにある日、死んでしまった。(餌はちゃんとやっていた。)

「孤独死したんでしょう」、と母が言った。それを聞いて、私はぎょっとした。
 魚が、孤独死することなんてあるのか!?と思ったからだ。

 私は今でも、読むとどうしても笑わずにいられない聖書の箇所がある。
 ホセア書第4章の冒頭だ。

「イスラエルの人々よ、
 主の言葉を聞け。
 主はこの地に住む者と争われる。
 この地には真実がなく、愛情がなく、
 また神を知ることもないからである。
 ただのろいと、偽りと、人殺しと、
 盗みと、姦淫することのみで、
 人々は皆荒れ狂い、
 殺害に殺害が続いている。
 それゆえ、この地は嘆き、これに住む者はみな、
 野の獣も空の鳥も共に衰え、
 海の魚さえも絶え果てる
。」

 これは少しも笑い事ではない、実に深刻な聖句なのだが、私にとっては可笑しく思われる。人類の罪のために、空を飛ぶ鳥さえもやせ衰え、海の魚さえ死に絶えるというこの聖句は、比喩なのだろうか、それとも、事実なのだろうか?

 人類の身勝手で放埓な生活ゆえに生じた環境汚染の挙句、鳥や魚が死ぬというのなら、まだ話は分かる。だが、ホセア書の書かれた時代に、そのような問題はなかったのではないだろうか。

 すると、どういう因果関係があって、獣と鳥と魚が人類の罪の被害をこうむって弱り果てねばならないのか、考えると不明なのだ。

 きっと、鳥も魚も、言葉を使わず、人間のような知性を持たないが、どこかでちゃんと、この世の中がどうなっているか理解しているのだろう。そして、あまりにも人々が乱れきったひどい生活をするようになると、とても見るに忍びず、愛想を尽かし、嘆き、苦悶し、絶望して、自ら世を去っていくのではあるまいか…。

 年間の自殺者約三万人、という今の日本。国民さえも愛想を尽かして世を去って行くこの国に、果たして、魚と鳥が住みたいと願うだろうか。
 
   刺激のない小さな水槽に閉じ込められた魚が長生きしないように、人が健全に生きるためには、それなりの環境が必要となる。

 だが、私にとって、物心ついた時から、周りに広がっている環境は、あまりにも生きづらいものであった。 
 そのほとんどの責任は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にある。
 私は当時、この教団と教会で教えられている内容を偽りだと知らず、その中で希望のない信仰生活を送らされていたのである。

 さらに、世の情勢の悪化がそれに追い打ちをかけた。

 かつてこの国には、一生懸命、勉強し、働けば、人並みの人生をきっと生きられるというビジョンがあった。だが、私が社会に出る頃には、そのビジョンは崩れており、今現在は、もうこの国ではかつてのような生活は成り立たず、どれだけ多くの人々が追い詰められ、夢を奪われているであろうか?

 宗教の欺瞞。世の欺瞞。
 私は、そうした環境の腐敗のために、自分が弱り果てて行くように感じていた時期があった。
 かろうじて命をつないでいたあの小さな水槽の魚と同じように。
 
 だが、その中で、一体、まことの神はどこにおられ、この現状をどう見ておられるのかと、叫び求めるようにして、神からの応答を待った。

 私たち一家がかつて通っていたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を含めたキリスト教界全体は、世の絶望に向かう環境の中で信者がどう生きるべきか、全く希望を与えなかった。
 それどころか、背教がはびこり、多くの信者が願いを打ち砕かれ、迷いの中に投げ出された。
 牧師に信者を依存させるだけのキリスト教界の中にいては、真理は決して得られないのだと分かったのは、少し後のことである。

 だが、ようやくそれが分かってキリスト教界を出た後でさえ、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師とその支持者たちは、この教団に長きに渡り、少なからぬ奉仕をして貢献してきたはずの私や、私の家族に敵対した。
 彼らは何とかして信者を本物の信仰に至らせまいと、私たちに対しても盛んに妨害工作をしかけ、悪魔に加勢する側に回った。
 
 村上密牧師は、その他にも、多数のキリスト教会に裁判を仕かける側に回り、無実のキリスト教徒に濡れ衣を着せて教団から追放し、ただでさえ背教がはびこり、多くの信者が苦しんでいたキリスト教界に、光を与えるどころか、徹底的な打撃を加えた。
 
 まさに悪魔の所業としか言いようがない、キリストの似姿からはほど遠い、人間の心さえも失った、無慈悲な連中である。長年、教団に奉仕した人間にさえ、礼節を忘れ、容赦なく戦いを挑む、もはや信者と呼ぶに値しない、堕落した生まれながらの獣のような人間の姿そのものである。

 こうした人々に率いられる、世に打ち勝つ力を全く持たない偽りの教会の中にいて、そこで自分を神のように見せかけている指導者たちを本物の信仰者だと思い込み、彼らの身勝手な言い分に従おうと無駄な努力しているうちは、信者はそこに絶望しか見いだすことはできないであろう。

 このような腐敗した「水槽」を早く脱出して、信者はまことの神を探し求めねばならないのである。

 今日、「健やかさの追求」というメッセージを、再生と停止を繰り返しながら聞いているうちに、私はだんだん無性に腹が立ってきた。
 
 こんな「水槽」のために何年間、無駄な我慢を強いられて来たことであろうか。
 こんなもののために弱り果てねばならないと、聖書のどこに書いてあるのか。
 そんなことは聖書のどこにも書いていない!!

 むしろ、聖書はイエスの十字架によって、私が完全に罪と呪いから解放されたことを告げているではないか。

 私はどうしようもない憤りを感じた。
 私を長年に渡って縛り続けて来たこの虚偽に対して。
  
 そこで、イエスの御名によって、水槽に死を宣言することにした。
 私の信仰が本物ならば、いちじくの木が立ち枯れたように、この水槽も粉々に砕け散るだろう。

 水槽が壊れ、水がなくなったら、魚はどうやって生きていくのだろう?
 いや、そんな人工的な装置はもう要らないのだ。
  
 私自身が、いや、私のうちにおられる主こそ、豊かな水の源なのだから。
 バプテスマに浸され、死んだ私は、神の命の中に隠されて生きている。

 体中管だらけにされて、延命治療を受けさせられるかのように、キリストご自身に直結せず、偽物に信者を縛りつけるだけの偽物の生命装置としての水槽には、もう用はない。

 キリスト教界を脱出しなさい!
 牧師やリーダーや教師たちから離れなさい! 
 救済者や、助言者を名乗って、あなたに近づいて来る、優しそうな人々に、
 これ以上騙され、束縛され、栄光を奪われてはいけません。
 
 彼らの正体を見抜き、これを糾弾し、離れなさい。
 神の御言葉を売り物にして商売している人々に決して近づいてはいけません。

 キリストとエクレシアの偽物でしかない人工装置としての「水槽」によって生かされるのをやめて、まことの神ご自身にしっかりとつながって、キリストご自身から命と、栄養をいただいて生かされなさい!

 神はすべての損害から人々を立ち上がらせて下さることができる。
 
 たとえ現在の日本に、野の鳥も衰え、川の魚も死ぬほどに、ひどい環境が広がっているように見えたとしても、たとえキリスト教界がどれほどの暗闇に覆われており、背教が広がり、バクテリアさえ死を願うだろうほどに厭わしい環境がこの国を覆っているのだとしても、キリスト者の望みは尽きることがない。それを変えてくださる力は、主にある。

 人にはできないことでも、神にはできるのだ。
 
「『主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。
 わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。
 これはあなたがたがエジプトから出た時、わたしがあなたがたに約束した言葉である。
 わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。恐れるな。
 万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、
 かわいた地とを震う。
 わたしはまた万国民を震う。
 万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる。
 銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。
 主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。
 わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」(ハガイ2:4-9)

 荒れ果てた主の家を再建した人々に与えられたこの御言葉は、私に与えられたものでもある。たとえキリスト教界を偽りが覆い、多くの信者たちが迷い、疲れ果てているとしても、荒れ果てた神の宮を再興する使命が、私に与えられたのだ。

 私はギデオンのように、最も困難に直面して途方に暮れているかのように思われる瞬間に、「勇者よ」と呼びかけられて、立ち上がったのである。

 「私に従って来なさい」
 主は繰り返される。

 「私に従って来なさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」

 神学校などに行って献身するからではない。
 神ご自身が、御霊によって見えない証印を押して、私の背中を押して、言われるのだ。

 「全世界に出て行って、全ての造られた者に福音を伝えなさい。キリストの勝利と、悪魔の敗北を、神の国の到来を告げ知らせなさい・・・」
 
 もうこれ以上、偽りにごまかされるのはやめよう。
 牧師などというものは要らないのだ。
 どんなに救済者然と登場して来る指導者も要らない。
  
 キリストが私の内に住んで下さり、神が我が味方なのである。我が避けどころであられる主が、私をあがなわれ、祝福しておられ、すべての弱さを強さで覆い、恥を名誉に変え、悲しみを喜びに変えると言われているのだ。

 貧困や、破滅や、死に絶え間なく脅かされ、世の思惑、人間の指導者の思惑に縛られ、脅かされるような人生はもう終わりである。
 乳と蜜の流れる土地、キリストの命溢れるまことのエルサレムに、神の国の秩序の只中に、信者は入れられているのだ。 

 主は言われる、神の国はあなた方の只中に来ている、と。
 だから、全ての恐れと不安に、さよならを宣言し、神が信ずる者のために天に蓄えて下さった豊かな命の中を生きよう。

 弱って衰えたひざをまっすぐにして立ち上がり、喜びと感謝の歌を歌いながら、歩いて行くのである。天の都へ向かって。
 
「シオンの娘よ、喜び歌え。
 イスラエルよ、喜び呼ばわれ、
 エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。
 主はあなたを訴える者を取り去り、
 あなたの敵を追い払われた。
 イスラエルの王なる主はあなたのうちにいます。 
 あなたはもはや災いを恐れることはない。<…>

『シオンよ、恐れるな。
 あなたの手を弱々しくたれるな。
 あなたの神、主はあなたのうちにいまし、
 勇士であって、勝利を与えられる。
 彼はあなたのために喜び楽しみ、
 その愛によってあなたを新にし、
 祭りの日のようにあなたのために喜び呼ばわられる』。

『わたしはあなたから悩みを取り去る。
 あなたは恥を受けることはない。
 見よ、その時あなたをしえたげる者を
 わたしはことごとく処分し、
 足なえを救い、追いやられた者を集め、
 彼らの恥を誉れにかえ、
 全地にほめられるようにする。<…>
 わたしがあなたがたの目の前に、
 あなたがたの幸福を回復するとき、
 地のすべての民の中で、
 あなたがたに名を得させ、誉を得させる』と
 主は言われる。」(ゼパニヤ3:14-20)

 何と素晴らしく勇気づけられる御言葉だろう! 何ととてつもなく大きな勝利だろうか!

 主よ、私はあなたの御約束を信じます。あなたの私へのとこしえに変わらない愛を信じます。私をあがない出して下さり、御国へと導いて下さるあなたが、この世においても、私を良きもので飽き足らせて下さることを信じます。

 私は災いを恐れず、二度と孤独になることもありません。どんな状況にあっても、あなたが共にいて下さり、すべての必要を満たして下さるからです。
 主イエスよ、我が神よ、あなたに感謝を捧げ、あなたの偉大な御名を誉めたたえます。

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