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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

外側からの変革か、それとも内側からの変革か

私はキリスト者であるが、どの教会組織にも所属しておらず、日曜礼拝にも出てはいない。そのことでいかなる不足もなく、ただ聖書に立った信仰だけを維持し、それで十分であると感じている。私が知りたいのは、人間が自分の欲のために築き上げた偽の信仰ではなく、まことの神への真実な信仰によって生きることである。

私がこのように完全に組織を離れた経緯は、もとのブログに詳しい。だが、そこに記していない多くの顛末もあるので、改めて少しずつ説明したい。


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私はプロテスタントの教団で子供の頃に洗礼を受け信仰を持ったが、今から振り返っても、教会では正常な信仰が見受けられなかった。私は神を信じているし、そのことを少しも後悔していないが、教会に所属していたために、とにかく異常な出来事に遭遇し、傷ついて教会をを去る多くのクリスチャンに出会った。

だが、そのように教会の腐敗によって心傷ついた「被害者」の信徒らに優しく手を差し伸べ、腐敗した教会に裁判をしかけて制裁を加え、腐敗を正すべく、「カルト被害者救済活動」を繰り広げている牧師や活動家たちにも、私は共感を持てなかった。それは、こうした「救済活動」が、裁判によって戦うという外側からの強制力にはなり得ても、聖書の言うように、人を内側から作り変える真の救いとしての信仰とは、全くかけ離れた活動であることを思わずにいられなかったからだ

カルト被害者救済活動を率いるプロテスタントの代表的な牧師、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏は、当時、自身のブログにおいて、「カルト監視機構」の設立の必要性を訴えていた。同氏は自身でも公言しているように、元統一教会員の脱会者である。統一協会が信者に徹底したマインドコントロールを行うことは知られている。同協会の脱会者だという人々に複数、私は接したが、誰もが一様に口にするのは、脱会後もずっと深く心に残るマインドコントロールの悪影響であった。脱会後、本人は抜けたつもりであっても、植えつけられた思考パターンの構造を打破することは、並大抵の努力ではできないようである。

そういうこともあって、私は後になって、「統一教会流の思考」というものが確かに存在しているのではないかと考えるようになった。全く奇妙なことだが、それは安倍首相の論法と、村上密氏の論法に、実によく似た共通点があることからも感じられるのだ。

むろん、現在進行中で統一教会と深い関わりのある安倍首相と異なり、村上氏は自身のブログにおいて統一教会の危険性を訴えて安倍氏を批判しており、表向き、村上氏は統一教会とはすでに縁が切れている。だが、不思議なのは、統一教会流の信仰からはとうに離れたはずの村上牧師が、なぜ安倍氏の発想と構造的に酷似する主張をしているのかということだ。


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かつて私は「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事を書き、そこで村上密牧師の「カルト監視機構」というアイディアがどんなに危険なものであるかを公に示して批判した。それは、村上牧師がプロテスタント教界への異端の流入の結果としての「カルト化」に警鐘を鳴らし、カルト化の悪影響が進行するのを防ぐ名目で、日本の全プロテスタント教会を取り締まることのできる権限を持った「カルト監視機構」の設立を提唱していたことが、非聖書的であり、教会を危険にさらす大変恐ろしい発想であると考えたためである。
 
このような機構の設立は、日本の諸教会に君臨し、教会を取り締まることのできる絶大な権限を持った秘密警察のような組織を作ることにつながり、独裁を招くだけでなく、教会の自治を破壊するものであり、信徒の密告や、教会同士や信徒同士の争いを助長し、取り締まりや罰則や裁判等の行使により、信徒の信仰生活という内面の自由に強制介入してこれを破壊し、教会に恐怖政治をもたらすだけの恐ろしい発想であると警告した。
 
私がその頃、何より主張したのは、カルトの取り締まりという名目で、人の内心を外側から強制力によって変えようとする試みに着手することの危険性であった。聖書の基本理念は、人はキリストを主として自主的に心に信じて受け入れることによってのみ、救いを得られるということにある。罰則や外からの様々な圧力によって人の心の悪を「矯正」し、人を救いや正しい考えに導こうとすることは、聖書の基本理念に逆らうものである。

聖書はそもそも神によらない救済を認めず、外側からの圧力によって人が人を変えたり、救ったりするという発想を認めない。仮に百歩譲って、もし人が人を力によって変えうるとしても、私たち間違いやすい人間のうち一体、誰が、強制力を持って他人の内面に干渉し、正しく取り締まるにふさわしいというのか。そのようなことを可能だと思い込むのは、自分だけは決して間違わず、他人を指導する資格があると妄信している恐ろしい宗教指導者だけであろう。そして、自分は正しく決して間違わないという盲信こそ、他のどんな悪よりも恐ろしいものではないだろうか。

カルトを取り締まるということは、カトリックの聖職者のように、告悔を聴くというだけにとどまらず、もっと積極的に人の内心に介入していく行為である。そこで、自分だけは決して間違わないと自負している人間が、カルト監視機構の指導者になり、数え切れない人々の心の問題に介入するようになったら、どうなるのか想像してみれば良い。権力を手にしたが最後、自分は正しいと思い込んでいるだけにそれまで以上に誰の忠告にも耳を貸さなくなり、やりたい放題で、気に入らない人間はみな仮想敵とみなして攻撃・排除するようになり、歯止めが効かなくなるだろう。こうして、たとえカルト監視機構が出来ても、「取り締まり」という名目で、「独裁」と「魔女狩り」が始まること以外には何一つ予想されないのである。
 

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「外来の異端という脅威の侵入」という「外的脅威」を強調することにより、日本全国の教会を取り締まろうという発想は、決して正常な信仰を持つクリスチャンの聖書的な発想ではなかった。聖書に基づかない以上、私は人間が人間の信仰を指導し、取り締まるというその試みが成功に至ことは決してなく、もしこれを阻止しなければ、教会の自治は破壊され、教会は裁判や争いや密告で溢れ、混乱と恐怖政治に落ち込むだけであると、記事で警告したのである。

この私の警告に対し、村上氏は私の主張内容には一切触れることなく、私は世間から隔絶した変わり者であるがゆえに、彼の高邁な思想を理解できないのだと言うような反論を述べていた。それは私へのれっきとした人格攻撃、ネガティブキャンペーンであったが、今はそのことは本題でないのでしばらく脇に置こう。

重要なのは、私が同氏の日付の記されていなかった記事を、比較的最近の記事だと考えて引用したという周辺的な事柄(ミス?)を取り上げて、村上氏が私の記事全体を「誤報」であると非難したことである。「カルト被害者救済活動という名の秘密警察」の誤報」(村上密Blog) 

 

後になって、これと非常によく似た非難の構図が、官邸主導により政府が朝日新聞の従軍慰安婦問題に関して行った「誤報」バッシングの時に見られた。官邸は、朝日新聞の報道のほんの一部の誤りだけを針小棒大に取り上げて、それがさも大変な過失であるかのように責め立てることにより、朝日の報道そのものを「誤報」と決め付け、あたかも慰安婦問題そのものが虚偽の報道であったかのように、この歴史問題の持つインパクトを薄め、できれば慰安婦問題そのものもなかったことしてかき消してしまおうという態度を取ったのである。


(日本政府主導で行われたこの「慰安婦誤報問題」による朝日新聞への大バッシング騒動への海外からの目線は極めて冷ややかだった。海外メディアはこの事件をきっかけに日本政府が慰安婦問題のインパクトを薄め、歴史修正に走ろうとしていることにむしろ警戒感を強めた。
「朝日新聞の誤報謝罪のインインパクト、米ではゼロ」「朝日新聞・慰安婦報道の訂正が韓国にインパクトを与えない理由」「朝日誤報事件、中国の反応は」など。)

 

 この「誤報」騒動は要するに論点のすり替えであり、些細で周辺的な問題を針小棒大に扱って非難することにより、最も肝心な論旨そのものを覆い隠し、否定し去ってしまおうとする詭弁である。しかし、安倍首相によって率先して行われた朝日新聞の「誤報」に関する報道と、村上密氏が私に向けた批判においては、そのような詭弁の論法のみならず、そこで使われた「誤報」という言葉まで、そっくり共通していたことが私を驚かせた。それを機に、これはひょっとして統一教会おなじみのディベート(詭弁)論法なのではないかと気づかされたのだった。
 


また、当時、村上氏が提唱しようとしていた「カルト監視機構」は、現在、安倍政権が推し進めようとしている安保法制にも体系的に非常によく似た構造を持つ。

村上氏は「今のままでは外国から流入した異端の教えがプロテスタント教界に蔓延して教界そのものがカルト化するのは時間の問題で、それにより日本中の教会が危機に晒されるので、日本の教会には今から実効的な取り締りや指導の権限を持つカルト監視機構をぜひとも設立する必要がある」という趣旨のことを提唱していた。

他方、安倍首相は、「今のままでは日本や日本の同盟国が外国から攻め込まれても防衛できないために日本国民の安全が脅威に晒されかねないから、今のうちにこれに対抗するために安保法制を整備し、諜報機関なども作り、日本も軍隊を持って国内外で戦えるようにせねばならない」言うのである。

両者に共通するのは、「外からの脅威」を強調し、このままでは国内の安全性が脅かされると不安を煽り、そこに救済者然と登場して、解決策として、力による争いを提案し、絶大な権限を持った取り締まり機関を作り、その力を行使する権限を自分一人の手中におさめられるよう話を持って行こうとしている点である。いわば、外圧の脅威を叫ぶことにより、新たな独裁を可能にするための道筋を整えようとしているのである。その論法は、いかに分野は違えど、そっくりである。

(追記:~救済者になりたい人々~ 写真の出典
左:統一教会出身でプロテスタントにおいてカルト撲滅運動に取り組むアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団京都教会牧師 村上密
右:統一教会の国際勝共連合「世界思想2013年9月号」に掲載された「救国政権」率いる安倍首相



*カルトとの闘いにも、勝共連合にも、活動の根本的類似性、思想的類似性が見られることに注意したい。上記の二人が統一教会出身という共通点があるだけでなく、このようにして思想的な「仮想敵」を作り出すことにより、これと闘って国や組織を救うヒーローを装って登場し、政治的権力を握ることを目指すところにも共通した構図がある。


さらに次のような類似点もある。村上密牧師は自らの思想や活動を宣伝するに当たり、杉本徳久氏のような、自分の教団とは本来何の関係もない一般人のブログやコメント者を利用して、自らの反対者に対してインターネットで次々とネガティブ•キャンペーンを張った。

村上氏が杉本氏のような賛同者を利用してネットで繰り広げた主張の中には鳴尾教会に対する誹謗のように事実の裏付けの全く乏しい風評レベルの決めつけや中傷も多く、その結果、裁判で信憑性を問われるとあっけなく敗北に追い込まれた。このような手法は、ネトウヨを駆使して反対者を排除する安倍自民党の手法と極めて酷似しており、まさにネトウヨの精神性そのものと言わざるを得ない。 

このように、「仮想敵」を作り出しては脅威を叫ぶことにより、それに対抗するための強制力の必要性を訴えて自らを救済者のように描き出し、権力を握ろうとする一方で、無実の罪で反対者を糾弾して疲弊させ、恫喝によって言論を弾圧し封殺することにより、卑怯な方法で反対者を追い込み異論を封じ込め、権力をただ自分だけの手中におさめて行こうとする手法は、村上密牧師と安倍氏にそっくり共通しており、これは個人的なアイディアを超えて、統一教会の伝統的な権力奪取の手法そのものではないかと感じられる。)  

 
 
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こんなことが起きるのも、統一教会のみならず、結局のところ、すべての異端は同じ道に通じるからである。それは全ての異端が、キリストの十字架を否定し、信仰による内側からの変化を否定し、外からの圧力による人心支配、人間の浄化作戦を行うことにより、地上天国を作り出そうとするからである。これは神が定められた救済を否定し、それを模倣することによってサタンの作り出した幻想の救いであり、それが実行に移されると、地上天国や救いどころか、未だかつてない地獄のような混乱がもたらされるのである。

繰り返すが、人にはもともとただ二つの自己変革の道しかない。一つは罰則や脅しや人を縛る数々の規定によって、外側から強制力に基づいて、人間を変えようとし、人の悪を「矯正」しようとする道。もう一つは、人が自主性に基づいて内側から悪の克服の努力をし、外からの力によらず、自主性に基づいて内的に刷新される道である。

ちなみに、ここで平等に断っておかねばならないが、当時、私の警告に賛同していたDr.Lukeも、キリスト教界の腐敗を声高に告発していた指導者であったが、結局、村上氏と全く同じ危険性の罠の中に足を踏み入れて行くことになった。安倍氏を非難しながら、安倍氏とそっくり同じ統一協会流の主張を繰り広げる村上氏と同じように、Dr.Lukeもキリスト教界だけを非難しているうちに、自らキリスト教界と同化して行ったのである。そのことは後に詳述するが、そこで当時、Dr.Lukeが私の記事に度々登場しては同調したのは、村上氏が述べたように、私の主張に便乗してセンセーショナルに騒ぐことによって、議論の真面目さを覆い隠し、議論ではなくDr.Lukeに注目を集めるきっかけとすることを隠れた目的にしていたということに加え、あたかも私に同感であるかのように見せかけることによって、彼はいち早く反対者になりそうな人間を味方につけて口封じをはかったと見ることができる。

今、煩わしい便乗者がいなくなったことを理由に、以前の主張を撤回する気は私にはない。いつの時代も、己が正しいと考える人間は、悪を他人の内にのみ見出し、他人を力によって矯正しようとしてきた。悪いのはカルトの親玉牧師や、キリスト教界であり、他方、自分は優れて正しい存在であって他人を指導する権限があり、人に道を教え、人の間違いを正し、人を罰する権限があるとさえ考える人間が、「異端審問官」のような仕事を自ら買って出てきたのだ。

だが、そうした人間による世直しの試みが成功したことは歴史上、一度もなく、聖書はそれとは真逆の方法で救いを提唱している。神は正しい方なのに、決して救済を人に押し付けようとはされなかった。我々が自分で信仰によって神に立ち返る日まで、我々に命ある限り、どれほど罪過ちを犯したとしても、神は強制することなく忍耐強く待っていて下さる。神はどれほど正しいにせよ、人の自主性を脅かす方法により、無理矢理人の悪を矯正して、神の正しさを強制するということがない。確かに、神は全ての人を裁かれる。だが、この世が続いている限り、神は私たち人間の自由意志を尊重して待っておられるのだ。それは私たちが誰から強制されたからでもなく、自ら神を求めるのを待っておられるからである。

私たちクリスチャンは自分が神によって救済されるべき人間であったことを謙虚に認めたはずなので、間違っても、自分が世界を救う側に立つという思い上がりを持たないようにしたい。聖書が言う通り、救済者はただ一人、イエス・キリストしかおらず、この座を奪うことのできる存在は被造物の中に誰もいない。地上のどんな人間も、指導者も、神に代わって人間を救済することはできない。それが聖書の根本原則である。だから、人の内心に関わることは非常に慎重に行わなくてはならず、強制力によって人の内心を、ましてや信仰を取り締まるようなことは、生きた人間には決して着手してはならない試みなのである。

その後も、私は統一教会に深く関わった人たちに出会った。だが、統一協会に限らず、多くのクリスチャンには、どうしても、自分こそが世界を指導し、世界を救済する側に立ちたいという願望があるようであった。むろん、すべての異端の影響は結局そこに行き着くのだが、 クリスチャンであっても、自分が一人の惨めで哀れな罪人であることを忘れ、ともすれば、自分が神のように人の上に立って、他人に向かって指導者然と振る舞い、他人の内心の悪を「指導」し、「罰し」、「矯正」しようとする誘惑は非常に深いものであるらしい。特に宗教指導者にとってその誘惑は思っている以上にはるかに深く、そのようにして人の内心に君臨することは、捨て去れない愉悦なのである。そういうわけで、初めはとても親しみのある謙虚で優しかったクリスチャンの兄弟姉妹たちが、講壇に立ってメッセージを語り始めると、突然、「指導者」に変身し、傲然と上からものを言うようになり、自分よりも弱い、問題を抱える信仰者を見下し、人の罪を赤裸々に暴き、悪魔扱いしたりしながら、自分だけは正しく決して間違わないと自負するようになるのを私は幾度も見てきた。かつては普通だった人々のまるで残酷で傲慢な人間への変わりようは、「指導者になりたい」、壇上に立って人より優位に立ち、正しい道を人に教えたいという誘惑に基づいておら、自分は真理を知っているという思い上がりから来るものであった。

いずれにせよ、人々を救済してやると言って、他の兄弟姉妹の上に立つことは、神の立場を奪い取ることに等しい。自分が世界を正すための資格や権限を持っていると思い込み、他人の人生を指導し、監督し、誤りを罰し、追放する資格さえあると本気で考えるようになると、その思い上がりが高じて、人はいつしか謙虚さや、砕かれた心や、自己反省の能力を失ってしまう。たとえ熱心に人助けをしていたとしても、本当の目的は自己義認と自己顕示へとすり替わり、助けてやった人間と自分との間に圧倒的な格差ができてしまうことに気づかない。救済者然と振る舞って人に感謝され、武勇伝を語って脚光を浴び、自分が助けてやった人間から栄光を奪って独り占めすることにより、ついには真の救済者である神からも栄光を奪うことになる恐ろしさが分からない。

これは神の救いとは真逆の道であり、聖書の真理とは反対である。そうである以上、そのような方法で、人の内心を「指導」、「矯正」しようとする試みは、目的とは逆に非常に恐ろしい結果しか引き起こさないのだ。 

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