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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

行き詰まりの打開は方策でなく、心の改革が根本である

さて、神戸連続児童殺傷事件の話題に戻ると、不思議なことに、犯人が書いたとされる「懲役13年」は、全く逆説的ながらも、外側からの人間の矯正の可能性(規定や罰則の強化による人間の矯正)を否定する内容となっている。そこには著者の深い哲学的な思想が表れているので、あえて解説を試みたい。

 

いつの世も同じことの繰り返しである。止めようのないものは止められぬし、殺せようのないものは殺せない。時にはそれが、自分の中に住んでいることもある。「魔物」である。仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い腐臭漂う心の独房の中… 死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい何が見えているのであろうか。「理解」に苦しまざるを得ないのである。

 

いつの時代も、魔物は人間の心の「外」にいるのではなく、心の「内」に住んでいる。悪はいかにも悪そうなあの人、この人の心の中にだけあるのではなく、他でもない自分自身の心の内にあるのだ。

「義人はいない。一人もいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ3:10—18)

これは何も特別な悪人や犯罪者だけを指して言われた言葉ではない。生まれながらの人間すべてを指しているのだ。だが、人は自分でそのことに気づこうとはしない、なぜなら人は自分を善人であると思っており、罪人であると指摘されることに耐えられないからだ。人は自分が思いやりに溢れた優しい心を持ち、あの人、この人とは違って清く、穢れた心など持っていないと考えている。人は自分の心について理想郷にも似た仮想のユートピアを思い描き、本当の自分がどのような人間であるかを知らないし、知ろうともしない。

その仮想の空間である「清らかな心の理想郷」の片隅に、まるで独房に閉じ込められたように、無視され、気づかれないまま、人知れず壁の向こうを見つめながら、死んだように、だが確かに、魔物は息づいている。人は気づかない、自分だけはそんな魔物を心に飼ってはいないと思っているからだ。そんな魔物は誰かの心にはいたとしても、自分の心にはいないと思っているから、その魔物の心を自分の心として理解することなどできるはずがない…。

 

魔物は、俺の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感をあおり、あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて人間に踊りをさせているかのように俺を操る。それには、自分だったモノの鬼神のごとき「絶対零度の狂気」を感じさせるのである。到底、反論こそすれ抵抗などできようはずもない。こうして俺は追いつめられていく。「自分の中」に…

しかし、敗北するわけではない。行き詰まりの打開は方策でなく、心の改革が根本である。

 

自分の心にはいないと思っていたはずの魔物が、何かの拍子に、突如、暴れ出す。「そら、国際情勢は悪化しているんだ。今や一国だけでは防衛できない。この先、黙っていたら、諸外国が日本に攻め入って来るぞ!やられっぱなしでいいのか、立ち上がれ!武装しろ!公共の秩序を護るため、武器を構えろ、ぐずぐず考えている暇なんかない!」、「そら、教会が異端に侵入されているぞ!このままでは、日本全国の教会がカルト化するだけだ!今、防衛のために立ち上がり、組織的な裁判を起こさないと、我々は自分の信仰を守れない!被害者を集めろ!みんなで結集して異端の異教徒の悪徳牧師は罪に問うて講壇から追放するんだ!」

こして「外圧」の存在を聞かされ、自分への「外からの攻撃のサイン」があったと聞いたとき、先制攻撃が行われたというニュースに、まるで機械仕掛けの人形のように、俺の中の「自分」が本能的に弾かれて飛び上がり、立ち上がる。鼓動は早まり、血が騒ぎたつ。俺は正しい、俺は正義の味方だ、なぜ攻撃などされねばならない、憎き敵を殲滅し、悪代官をやっつけて、俺を脅かす者は一網打尽にしてやると言って、それまでに思いも寄らなかった冷酷無慈悲さで、俺は武器を構え、心の中の魔物の指図する通りに、「敵」に向かって噴射する…。だが、心のどこかで俺は知っているのだ、その「外圧」とやらはまやかしであって本物でなく、「敵」に対する恐ろしいほどまでの憎しみは、本当は正義でもなければ、善でもないこと、その「敵」は自分の心の魔物が作り出した幻想であり、本当はどこにもいはしないのだと。

だから、心の中で、俺は必死に抵抗する、攻撃などどこからも来てはいない、俺は誰にもやられてなんかいない、ただ自分が脅かされているという幻想のせいで恐怖に駆られているだけなんだと。目を覚ませば敵なんかどこにもいやしないことがすぐに分かるはずだと。

魔物は強いが、真実が分かっている以上、警報のように頭の中で鳴り響くまやかしのシグナルに、やすやすと騙されて敗北することはできない。分かっている、外圧によってやられるかも知れないという恐怖は、その恐怖をやっつけるために新たな武器を構えて防衛を強化し、より強い権限を手にして「敵」とみなした奴らを殲滅するという方策では決して対処できない。恐怖を振り払うことは、ただ自分の心の改革によってのみ可能なのだと。

 

大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。通常、現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。彼は徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう… ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみやプラスチックでできた桃の方が、実物が不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないんだと俺たちが思い込んでしまうように。

 

大勢の人たちは、悪とは、無抵抗の人間を恐ろしい方法で殺戮し処刑する残忍な暴徒や、金銭欲に取り付かれた悪徳宗教の教祖であったりと、とにかく自分とははるかにかけ離れた大悪人たちだけの専売特許だと思っている。だが、事実はそうではない。本当の悪とは、毎日テレビのニュースで流される凶悪犯罪に関わった者たちだけに生まれ備わったものなんかじゃなくて、むしろ、人並み以上の徳を持ち、良心的で、弱い人々に同情し、困った人たちを見ると助けずにいられないような、親切心に溢れた善良な「先生方」、いわゆる「救済者」のように見える偉い人たちの中にこそ、隠され、はびこっているものなのだ。しかし、俺たちはその人たちの笑顔が、とても悪人面には見えず、その人たちの言葉も、高邁で思いやりに満ちているように聞こえるので、その内心の悪には全く気づかずに、あっけなく騙されてしまう。巷でプラカードを掲げて、時代遅れなスローガンを叫び、「救済者面した偽善者どもを信じるな」と喚いている無骨で魅力のない人々の言うことなんかよりも、滑らかな舌で親切を語る魅力的な「センセイ方」の方がよっぽど説得力がある、まさか彼らが悪人であるはずがないと…。

 

今まで生きてきた中で、敵とはほぼ当たり前の存在のように思える。良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。しかし、最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた。そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆け巡った。
「人生において、最大の敵とは自分自身なのである」

 

今まで俺は幾度そういう偽善者たちに騙されては、「外圧だ!敵の急襲だ!立ち向かえ!」という「脅威論」にまんまと煽り立てられては立ち上がり、敵と戦ってきたか知れない。中には面白い敵もいたし、手ごわい敵もいた。男も女も老人も子供も…。色んな戦いを経て、それなりに自分が強くなったような気もして、誉めそやされて有頂天になっていたこともあった。

だが、最近になって、ようやく気づいたのだ。その戦いも外圧の脅威も、みんな俺たちの作り出した幻想であり、自分は正しいという思い上がりでしかなかったんだと。そもそも敵なんておらず、戦いもどこにも存在していなかったのに、俺たちが思い込みによって彼らを敵にでっちあげ、争いを起こしたんだと。俺たちが殺した中には、子供もいたし、老人もいたし、女たちもいた。俺たちはそいつらが敵だと思い込んでいたので、容赦なくぶちのめした。だが、本当は、全て自分の心の恐怖が作り出した幻想であり、強くなったと思っていた自分も幻想でしかなく、本当の自分は、自分で考えていたようなヒーローではなく、むしろ、獣だった。本当の俺は惨めで、哀れで、裸で、屈辱と蔑みでいっぱいになって、これ以上馬鹿にされ、脅かされてなるものかと、必死で壁に身を寄せて、ただただ恐怖に打ち震え、助けてくれと叫んでいたのだった。その惨めで哀れな自分を絶対に認められなかったからこそ、俺は自分が強い人間であることを証明しようとして、自分よりも弱そうな、あるいは強そうな「敵」に向かって突進し、奴らをぶちのめすことで自分の弱さをごまかしていたのだ。

そして俺は気づいた、真に恐ろしい悪とは、悪を自分の外にあるものと思い込み、常に自分以外の誰かの中に見出しては、そいつをやっつけることで、そうやって自分だけは正義の味方で、人々を救ってやっている立派な指導者なんだと自分に言い聞かせながら、自分の周りに次々と巧みに「敵」を作り出して、ひっきりなしに戦いを煽る偽善者の中にこそあったのだと。自分は真の統率者であって決して間違わないので、自分のかけ声次第で、いつでも世直しができると本気で思い込んで招集をかけている愚かな為政者たちの思い上がりこそ、最も警戒すべき悪だったのだと。悪は悪の顔をしてやって来ず、むしろ正義の仮面をつけて来る。自分だけはずっといつまでも正義の味方で、他人を指導し、悪人をやっつける資格があると思い込んでいる指導者たちの思い上がりに、俺は気づかず操られ、奴らの思う通りに利用されていたんだと。

 

魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう気をつけねばならない。深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているものである。
「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」

 

ある時点から、迷宮に迷い込んだように、何かがおかしくなった。それまで俺は自分を正義の味方だと思いながら戦ってきたが、俺はなぜだかヒーローではなくなり、今までのように、戦いに正義も見出せなくなった。いつの頃からか、あんたの残酷な暴力は、あんたが敵とみなしている悪人たちよりも、もっとひどいと言われるようになった。いつの頃からか、あんたはあんたが非難して打ち倒した悪徳宗教詐欺師よりももっと悪く、彼らを非難する資格などないと非難されるようになった。いつの頃からか、外国に攻め込まれる前に軍隊を増強せよと、人々に危険を教えてやっていたはずのこの俺が、どの諸外国の最悪のリーダーと比べても、もっと無責任で自己中心で、この国最大の脅威だと名指しされるようになった。

気をつけよ。カルトとアンチカルトは同一であり、統一教会と反統一教会は同一であり、キリスト教界とアンチキリスト教界は同一なのだ。人は自分が見るものに同化する。敵の悪事ばかりを見つめて奴らを糾弾し、自分を正義のヒーローだと思って彼らと戦っていると、いつの間にか自分も敵と同化し、自ら敵とみなしていた極悪人よりももっとはるかに悪い獣と化していたということにならないように。

ゆめ忘れてはいけない。人間は堕落しており、誰にも正義などないのだ。戦いは人の心を狂わせる。やればやるほど泥沼にはまる迷宮である。魔物は誰の心にも住んでおり、それを抑え、あるいは退治できる方法があるとすれば、それは戦いや規制や罰則や抑圧によって、外側から人の悪を克服しようと人間性を押さえつける方法にはなく、本人の気づきによって、内側から改革するしか道はないのだ。そうなるためには、人は魔物とは他人の心の中だけに住んでいるのでなく、己の心の中にこそ住んでいるものであることをまず認識しなければならない。矯正され、救われなければならない人間とは、自分の身の周りの誰かではなく、まず己自身であることに気づく必要があるのだ。解放は、その気づきの後にやって来る。だが、この気づきを受け入れるには謙虚さが要る…。自分をいつまでも善人だのヒーローだの救済者だのと思い込み、自分の愚かさ惨めさに目を向けることもできない臆病者に、心の魔物を退治する方法など決して分かるはずもないのだ。

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