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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

救いはただ神から来る

兄弟たちよ。あなたが召された時のことを考えてみるがよい。
人間的には、知恵のある者が多くはなく、
権力のある者も多くはなく、
身分の高い者も多くはいない。

それだのに神は、知者をはずかしめるために、
この世の愚かな者を選び、
強い者をはずかしめるために、
この世の弱い者を選び、
有力な者を無力な者にするために、
この世で身分の低い者や軽んじられている者、
すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。
キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、
義と聖とあがないとになられたのである。
それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである。(Ⅰコリント1:26-29)
 

* * *

 これは私の好きな聖句の一つだ。
 私は弱い者として生まれた。その立場の弱さゆえに、これまで、様々な苦悩を経験せねばならなかった。人から蔑まれ、惨めな思いをせねばならなかったことも何度もあった。だが、神はあえてそのような弱い者を救いの対象として選ばれたのだとまさに聖書は告げている。それは、その人間が救われたのが、その人の力によらず、ただ神の力によることが証明されるためである。

 ああ、だから、私はこれからも、ずっと弱いままでいよう! そしてその弱さの中に、キリストの力が輝くことを、ただ目撃し、キリストの強さをのみ楽しもう! 
 時折、私は強くなりたいと願うことがある。人々から愛され、誇れるものをより多く身に付けたいと切に願うことがある。確かに、貧しさや苦しさ、孤独は、これまで耐え難いほど私を苛んだ。そこで、二度と、そのような目に遭いたくないと、人の気持ちとしては、強く願わずにいられない。
 だから、時として、聖書の約束に私は身勝手な形ですがりつく。キリスト教が、貧しさを抜け出し、孤独を抜け出し、幸せな生活を手に入れるための手段のようにさえ、映ることがある。

 だが、そのような思いにはさよならを告げて、やはり、私は、これからも弱いままでいようと思う! それは、私が弱いからこそ、そこにキリストの強さを見ることができるからだ。財産が、学歴が、強靭な体力や、健康が、何を私に保証してくれる(た)だろうか。それらが頼れるものであったなら、なぜ今までのような生活が私にあり得ただろうか。仮にこれから先、誰もかなわないほどの力ある、魅力的な友人を持ったところで、その人が私に何を保証してくれるというのだろう。その人が私に永遠の命を保障できるというのだろうか。

「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれた」

 この聖句の中には、どんな革命も及ばないほどの大転換がこめられている。この世で知者だと自惚れている人たち、権勢があると自負している人たち、高貴な生れの人たち、すべての強者に勝って、神はこの世の愚者、貧者、軽蔑されている者、取るに足りない者を、御前に高く掲げられたのである! 神はこの弱い人たちを愛されたのである!

 だから、私は愚者でよかった。
 軽蔑されてよかった。
 取るに足りない者でよかった。

 私の救いは、ただ神だけから来る! そのことが、私を通して今後も証明されますように、と願わずにいられなかった。不思議な静けさが心に戻った朝であった。

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