忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

聖霊の第三の波とは何か(2)

 初めに前回の話をもう一度、かいつまんで振り返りたい。

 ピーター・ワグナーが『聖霊の第三の波』において使っている、「第三の波」という用語の意味に注目することは、私たちがこの運動の真に野心的なプロジェクトを理解する助けとなるのではないだろうか。
 ワグナーの著書の内容は、直接的には、トフラーの『第三の波』と何らかの関連を持っているわけではないが、しかし、前述したように、「第三の波」という二つの用語には、言外のつながりがあると考えてよいと思う。なぜなら、ワグナーは、その用語を通して、自らが始めた聖霊運動が、トフラーの言う第三の波と同じように、全世界に伝播し、既存のキリスト教界を塗り替えてしまうほどの革命的な変革をもたらす波であることを告げようとしていると考えられるからである。

 言い換えるなら、ワグナーは自らの始めた運動が、小規模な運動で終わらず、世界征服を目指すものであることをその名前を通じて示しているのだと言えよう。それは聞く耳のある者に分かるメッセージだ。そのように考えることは自然である。なぜなら、聖霊の第三の波は、その世界征服の夢を戦略的に成し遂げる手段として、教会成長論という具体的方法論をも掲げているからである。

 もちろん、この世界征服の野望は、大宣教命令という美名によって覆い隠されている。そのため、それは表向き、キリストの福音を全世界に伝えるための善良な宣教計画であるとされ、特定の組織や、人間的な思惑に基づいた野望なのだと公然と言われることはない。

 しかし、ワグナーがその著作の中ではっきりと述べていなくとも、聖霊の第三の波の隠された目的や特徴を、私たちは文脈から掘り起こさなければならない。聖霊運動の影響を受けた日本の各地の教会で、これほどひどいカルト化現象が起こっているというのに、この著書の内容を文字通り、額面どおりに受け止め、内容を疑わないのは愚かなことである。

 前回提示した一つ目の疑いは、ワグナーは第三の波の運動が、ペンテコステとも、カリスマとも無縁のものであると述べているが、本当にそうなのかどうかというものであった。そのような説明は、ペンテコステ、カリスマ運動のマイナス・イメージから第三の波を切り離すための、表向きの説明に過ぎないのではないか。

 確かに、ペンテコステ、カリスマ運動、そして第三の波には、それぞれ具体的な差異があり、また、教団教派による違いもある。しかしながら、私は、そのような具体的差異を超えて、ペンテコステ、カリスマ運動は本質的に同じものであるとみなしている。そして結果的には、第三の波も、その中に含まれると考える。

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から出ている本ではあるが、『聖霊の神学』((アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー発行、1998年)を参考に、まず、ペンテコステ、カリスマ運動の定義についてざっと振り返ってみよう。

 狭義においては、ペンテコステ、カリスマ運動はそれぞれ別物として区別される。
 まず、ワグナーが示したように、ペンテコステ運動とは、主として20世紀初頭(1901年カンサス州トペカ、1906年アズサ街)で始まったリバイバルに端を発し、後にペンテコステ系の諸教会を形成していった流れであり、一方、カリスマの流れは、1960年代以降に、福音派の教会の中で起こった潮流であるとして、両者は区別される。

 これに加えて、聖霊体験をした信者が、その後、既存の教団や教派から出て、ペンテコステ派に所属するかしないかという点で、ペンテコステ派とカリスマ派を区別する見方がある。この見方は今日、一般に普及しているものである。 「一応大きく見て、いわゆるカリスマ派と言われる人たちは自分たちの教団の中に、教派の中にとどまっていて、その中で聖霊体験を主張し続けている人たちであると言えるのではないかと思います。これがいわゆるカリスマ派の、最大公約数的な定義と言えるでしょう。」(p.21)

 また、ペンテコステ派が異言の伴う聖霊のバプテスマを強調するのに対し、カリスマ派は「異言の伴うしるしという面では、唯一のしるしというよりも多くのしるしのひとつとして、もっと広くとらえ、それよりも聖霊の賜物を強調します。異言の伴う聖霊のバプテスマをあまり強調しないということです。」(p.205)という差異も挙げられる。
 これらの見方は大まかにみるならば、同じ聖霊運動に影響を受けながらも、ペンテコステ系の教団教派に所属するか、それとも、福音派の教会に所属するかという、信者の所属の違いによってペンテコステとカリスマを区別していると見ることもできるだろう。

 だが、広義においては、個々の具体的な差異を超えて、ペンテコステ、カリスマ運動は本質的に同じ運動であるとみなして良いと私は考えている。そのため、次の見解に賛成である。「広い意味では具体的な聖霊の今日的な働きを信じる人たちは、全部カリスマだと言うことができます」(p.20)。
 この広義のカリスマの中には、当然、第三の波も含まれると見てよい。「ピーター・ワグナー自身も言っていますが、第三の波に属する人たちは自分たちのことをペンテコステ派とかカリスマ派だと言われることを好みません。しかし、実際には、神癒、悪霊追放、預言、超自然的な働きなどの聖霊のカリスマティックな現われに心を開く福音派の諸教会が、第三の波に属しています。彼らは自分の教会にとどまって、その教会の神学と伝統に従いながら、聖霊の賜物を広い観点で見て、カリスマを実践していこうとしています。」(p.206)

 さらに、このことは、ワグナーの教説が、ペンテコステ・カリスマ運動に属する教会における教会成長に関するフィールド・ワークから生まれてきたことを見ても分かる事実である。ワグナー自身が第三の波をペンテコステ・カリスマ運動といかに切り離そうとしてみたところで、彼の方法論がペンテコステ・カリスマ運動から取られている以上、第三の波はやはり、ペンテコステ・カリスマ運動の直系の子孫なのだと言えよう。

 さて、では、ペンテコステ、カリスマ、第三の波(とりあえず「聖霊運動」としよう)が、本質的に同一の運動であるならば、それらに共通する特徴は何か、という疑問が生じるだろう。そのことについても述べておきたい。結論から言えば、それはこの運動が「キリスト者の段階的な祝福の体験」特に、「セカンド・ブレッシングとしての聖霊の満たしの体験」を主張していることである。

 まず、正統なクリスチャンであれば誰しも、キリストの十字架を信じて回心したと同時に、キリスト者のうちに聖霊が住まわれることを否定しないだろう。しかし、問題となるのは、その後、聖霊のバプテスマ、聖霊の満たし、聖霊の油塗り、など様々な用語で呼ばれている現象が、回心とは別個に、もしくは段階的に、いわゆる「セカンド・ブレッシング」として存在するのかどうか、という点である。

 この問題は、ウェスレー・ホーリネス系の教会などが主張している聖化という体験が、回心とは別個に起こるものであるのかどうかという議論にもつながるところであるが、大別すれば、これについての教説は、キリスト者体験の統一型(セカンド・ブレッシングなどというものはないとする説)と、段階型(段階的な祝福の体験を主張する説)の二つに分かれる。

 まず、キリスト者体験の統一型を主張する教説は、次のようなものであり、従来の福音派に最も多く見られるものである。「クリスチャン体験は全体として一つである。言い換えてみるならば、それは新生ということ、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる信仰によって新しく生まれ変わる回心の体験、新生の体験というものが基本であって、あとのものはこれに含まれるという考え方です。従いまして、聖霊のバプテスマなどという第二の体験はない、もしそれがあるとしたならば、キリストを信じたそのとき、新生の時にあずかっているのであり、新生がイコール聖霊に満たされる、聖霊のバプテスマであるという考え方です。従って聖めという体験も、新生の後に特別にあるものではない。新生の時に罪が赦され、そして聖められているのであり、キリストの救いは十全である、それ自体において完全である、その後何かつけ加えていくものではないという考え方です。これは主として伝統的な教会やまた福音派の中で、ペンテコステ運動に理解をもたない多くの人たちが持っている考え方なのです。」(p.9-10)

 このキリスト者体験の統一型の中には、そもそもキリスト者の回心や新生などを「体験的なもの」としてとらえること自体を拒否し、それらは個人が主体的に自覚するかどうかに関わらず、御言葉に立って行われるものだという考えが含まれている。

 これに対して、回心とは別に、セカンド・ブレッシングの存在を主張する、キリスト者体験の二段階型という教説がある。そこには、従来、「聖め」を主張するウェスレー・ホーリネス系、そしてケズィックの潮流が含まれると言えよう。なぜなら、それらは、キリスト者には回心の後で、聖化の体験が(完全にあるいは漸次的に)起こるとしているからである。

 さて、ペンテコステ系、カリスマの流れ、第三の波は、回心、新生、聖めなどの後に、さらに聖霊のバプテスマという体験が伴うと主張している点で、第二(あるいは第三の)段階的な祝福の存在を主張していると言える。
 ロサンゼルスのアズサ街で1906年から三年間起こったリバイバル運動の参加者の多くはホーリネス系の信者であったが、彼らには従来、回心、新生の次に、聖めがあるという教説に立っていたその上に、聖霊体験をしたことになるわけであるから、それは三段階の祝福体験であったとみなすこともできよう。バプテスト系ペンテコステ教会は、回心とは別に、聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし)という体験があると考えており、その点は、カリスマの流れにも共通する。

 すなわち、十字架を信じての回心、新生とは別に、キリスト者には聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし、聖霊の力強い働き)という新たな体験的な恵みが伴い得るとし、キリスト者体験の統一型を退けて、段階的な恵みを主張している点で、ペンテコステ、カリスマ、第三の波は全て同じ系列に属する。

 しかしながら、ここで、私自身の立場を述べるなら、私はこのような段階的な祝福を主張する立場には立たない。キリストの救いはそれだけで十全であり、私たちは十字架が人間の贖いとして完全な効力を持っていることを信じるべきであると考える。だから、救われた後に何らかの体験を付け加えなければならないとか、回心後に聖めが必要であるとか、聖霊のバプテスマが必要であるとか、異言を語ることが必要であるとか、聖霊の賜物の現われがなければならないとか、そのようなことを教説として信じる必要はないと思う。私たちは十字架を信じて新生したその時に、それら全ての恵みをすでに与えられていると考えてよい。
 回心後に別個の体験を主張する教説は、今のところ、どんなにそれらを「祝福」として強調し、「救いの条件ではない」としていたとしても、結果的には、必ず、十字架による救いの完全性を否定する教説を生み出さずにはおかないだろうと私は考えている。

 聖霊の油注ぎや、異言や、各種の聖霊の賜物を私は否定するわけではない。キリスト者として歩んでいるうちに、それらのものを体験することもあるだろうし、さらなる聖めや癒しを体験することもあるだろうと思う。しかし、問題なのは、それらの体験をキリスト者の歩みの中で、回心とは別個に伴うはずの段階的な祝福として教義化し、それを万人に当てはめうるべき公式として行くことなのである。
 聖霊のバプテスマに関しての教説を教義化することは、結局は、誰もがそのような体験をすべきものと主張していることに等しい。神学とは一旦、出来上がった体系を絶対的なものとせずにはおれない種類のものであり、セカンド・ブレッシングとしての聖霊体験の存在を主張する教義は、遠からず、十字架だけでは救われない、聖霊体験がなければ救われないという結論を必ずやもたらすだろうと私は思う。それは回心の体験に何かを付け加えようとしている時点で、すでに、初めからイエスの十字架による救いの完全性を損なっているのである。

 さて、話を戻そう。こうしてみてみると、聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし、聖霊の油注ぎ等)を、回心とは別個の祝福として捉えている点で、ペンテコステ、カリスマ、第三の波は、本質的に同じものだということになる。だが、そのように考えると、これらの「波」には実際には何の差異もなく、同一の波であったという結論になるではないか? それでは第一も、第二も、第三もなくなるではないか? という疑問が起こるだろう。

 ここで、そもそも、ワグナーの説明を額面どおりに受け取って、第一の波、第二の波をペンテコステ、カリスマ運動として捉えること自体に無理があるのではないかと疑ってみたい。もしも、ワグナーの言う「第三の波」をトフラーの「第三の波」と同じ規模のものであると考えるならば、必然的に、私たちはワグナーの言う第一、第二の波の内容をも見直さなければなくなるのではないだろうか。
 もしも第一の波を20世紀初頭のペンテコステ運動、第二の波を1960年代以降に起こったカリスマ運動とみなすならば、それらはたかだか一世紀ちょっとの間に起こった変化にしかならない。しかも、第一、第二の波は世界中のプロテスタントのキリスト教界を抜本的に塗り替えるまでの影響力には至らず、むしろ、プロテスタントの諸教会から排斥され、その波は世界に伝播することなく終わったのである。

 これに比べて、トフラーの述べている「波」の規模ははるかに大きい。第一の波(農耕文明)、第二の波(産業文明)は、ただ世界中の人々の生活様式を変化させたのみならず、人類史の長いタイムスパンの間に起こったものである。従って、その歴史的・地理的規模に注目するならば、ワグナーとトフラーの言う「波」はそもそも比較にならないものであることが分かる。両者を並べて論じようとすることが無理に思えてくるほどである。

 だが、もしも私たちが、ペンテコステ、カリスマ、第三の波が、実は、本質的に同じ第三の波に属するものだったのであり、ワグナーの説明は、ただその事実を読者の目から覆い隠す虚偽でしかなかったと理解するならば、そこには違った解釈が生まれるだろう。
 随分前に、私たちは手束正昭氏の『キリスト教の第三の波』という著書について論じた。手束氏はペンテコステ運動に影響を受けてはいるものの、厳密にはカリスマの流れに分類されると言えるだろう。そこで、自らをカリスマとは無縁とみなしているワグナーの説明を額面どおりに受け取るならば、手束氏の言う「第三の波」は、ワグナーの「第三の波」とは全く関係ないという結論に至る。しかし、これも表面的な理解に過ぎず、(教説における様々な差異はあれど)それらが大まかには同じ聖霊運動としての枠組みの中に存在していることは明白である。

 そこで、私たちはワグナー自身の説明を額面どおりに受け取るのをやめて、むしろ、彼の説明に反して、色々なことを疑ってみなければならない。そうするならば、ペンテコステ、カリスマ、第三の波は、広義においては、本質的に同じ聖霊運動に属する、一世紀近くの間に起こった同一の波であることが言えるだろう。だとすれば、第一、第二の波は、ペンテコステ、カリスマ運動ではなかったことになる。とすれば、キリスト教世界を席巻した第一、第二の波とは何だったのか? 農業文明、産業文明の波に匹敵するほどの歴史的な二大変革とは何だったのか?

 答えは一つしかないだろう。
 第一の波はカトリック、第二の波はプロテスタントである。

 これは著者の意向をあまりにも無視した仮説なので、私の創作として一笑に付されるかも知れないし、そうなっても構わない。だが、この見解に立つならば、ワグナーが著書の中で隠そうとしている事実があることを私たちは感じ取ることができるのではないだろうか。つまり、ワグナーが述べている第三の波とは、カトリック、プロテスタントに匹敵するほどに、キリスト教そのものに大変革をもたらす、全く新しい何らかの宗派の将来的な成立を暗示しているのではないか? ただその意図が、決して表立って言われることなく、文脈の中に隠されているだけなのだと考えられないだろうか? 
 第三の波は、ワグナーの考えでは、プロテスタントの福音派の中で醸造されなければならないものであった。そこで、それはどうしてもプロテスタントと同一の信仰を装い、プロテスタントに寄生して成長する必要があったのだ。ペンテコステ、カリスマ運動のように、プロテスタントの中で起こりながら、結果として、プロテスタントから排斥されたり、異端のレッテルを貼られるようではいけなかったのである。

 だが、本質的にはプロテスタントと異なるものであるからこそ、それらの波は排斥されてきたのである。にも関わらず、やがてこの聖霊運動はいつか津波のように巨大化し、第三の波として、必ずや、プロテスタントの既存の枠組みを打ち壊して、聖霊に関する新しい教義を持つ新しいキリスト教として世界を席巻する日が来るだろう、いや、ぜひともそうならなければならないのだ、そのことをワグナーは「第三の波」という言葉によって、暗に示そうとしているのではないだろうか。

 つまり、ペンテコステ・カリスマ運動を含む第三の波は、ともに、プロテスタントに寄生する非キリスト教だったのではないかと私は考えている。それはプロテスタントの既存の教会で、福音派と同一の信仰を装って生まれ、福音派を宿主として活動しながらも、自らこそが「まことのキリスト教」を知っていると考え、「力の伝道」を実践することによって、いずれ宿主を破壊し、既存の福音派を凌駕することを目指している危険な運動なのではないだろうか。
 いつか聖霊運動が、カトリック、プロテスタントに並ぶ、キリスト教の第三の新しいかたちとして、世界に頭角を現すことになるかも知れない、いや、それこそが、大世界命令の美名の下に隠されている聖霊運動推進者たちの見果てぬ夢なのではないだろうかと私は思う。

 次回から、具体的に「聖霊の第三の波」の運動の特徴について考えていきたい。

<つづく>

PR