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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

荒野にあっても…

 解放の神学について調べながら、かつてキリスト教の中に非キリスト教としての解放の神学がどうやって入り込み、どのようにして全体を腐食して行ったのか、その歴史を学んでいる。そこには、ちょうど今、繁栄の神学が、キリスト教の内側に仕掛けられた爆薬として、この宗教を内部崩壊させるような活動をしているのと全く同様の構図が見られる。

 しかし、資料を読めば読むほど、このように既存の宗教の弱点を見事についた、既存の宗教の影の部分を訴えるべく登場してきている擬似宗教が、どれほど人間に強く働きかける力を持っているかを感じるため、慄然とする。

 目の欲、肉の欲、持ち物の誇り、という言葉を聞く時、私たちはそれが何か大それた贅沢を願う、途方もない、現実離れした欲求のように感じがちだが、しかし、実際はそうではない。
 それは、今、まさに、社会的・経済的に疎外された状態に暮らす私が、この疎外の状態を解消したいと願う欲求と一致するのだ。

 飢えた子供が、死にたくないので、せめて一切れのパンが欲しいと願うその欲求を、どうして私たちは罪深い肉の欲として退けたりできるだろうか。それは私たちの目に、まことに善良で、純粋な願いのように映るだろう。同様に、社会から疎外された弱者が、せめて生きていくための手段が欲しいと叫ぶその願いを、誰が却下できるだろうか。誰もが餓死せずに適度な労働をして自立して生きていける社会制度を作ることが、今後のわが国の政治課題であると誰もが言うだろう。人として最低限の生きる権利、私たちはこの言葉を聞きなれ、それを保障してくれる民主主義、ヒューマニズムになじんでいる。それらは、決して、人の肉から出て来る切なる哀れな欲求を退けたりしない。

 だが、人間が人間の生存を保障しようとするそのような考えや制度のまさに延長線上から出て来たのが、解放の神学であり、繁栄の神学なのである。それは私たちの肉から出て来る切なる願いであるがゆえに、私たちを惹きつける。それは全ての肉なる欲求の代弁であり、それを神によらずに保障するための保険のようなものである。(どこかの保険会社のために谷川俊太郎が書いた詩をまさに思い出す、「人間の未来への切ない望みがこめられています…」)

 苦しい状況に立たされた時、人が状況の改善を願うのは当然だろう。そんな時に、苦痛を感じるまいと思っても、無理な相談だ。
 イエスが荒野で断食されていた間、当然のことながら、空腹を覚えられたことだろう。石がパンに見えてくるほど、空腹に苦しんだかも知れない。あるいは、ひと思いに崖から身を投げて死んでしまえば楽になれると思うほどの苦痛があったのかも知れない。現実逃避的な夢が頭の中に押し寄せて来て、それに浸りこんでいれば楽になれる気がしたかも知れない。

 きっと、人としてのイエスは、私たちがもしそのような状況に置かれたならば、感じるであろう苦痛を極みまで覚えられたことだろう。だが、イエスは悪魔からの誘惑を退けることによって、現状への不満に根ざした各種の現状改革案をきっぱり退けられた。自殺願望も、虚無主義も、当然、退けられた。イエスは、惨めな状態で、空腹のまま、一人ぼっちで、人里離れた荒野で断食している自分を少しも否定せず、その状態で生きることに不満を訴えず、神の御心として与えられたの苦境を、定められている時までしっかり受け止め、耐え忍ぶことを選ばれた(その試練の最たるものが十字架であった)。

 私は今、ひょっとすると、荒野に導かれているのかも知れない。その間に、自分の内側に起こる全ての肉的欲求、衝動、願いに死ぬことを学ばされているのかも知れない。だとしたら、それはまだまだ終わらないだろう…。この状況への私の無駄な抵抗がまだ死に切れていないから。誘惑は全て目の前を通り過ぎていくだけで、それをつかむことはできない。人生の貴重な時間が、指の間から滑り落ちるように虚しく浪費されていっても、ただ黙って見ていることしかできない。何かを積み上げようと思っても、それが残らないことを目撃させられる。主の憐れみによって、私のために、毎日、目に見えない烏があまり美味とは言えないパンを運んで来てくれるのだが、ケーキをくれとねだることはできない。今という時から得られる収穫を貪欲に、最大限に追い求めるために、荒野を捨てて、下界に降りて行きたいが、それはできない。そこにはソドムの街しかないことは分かっている。

 退却を許されないところにやって来て、十字架の中に閉じ込められて、せめてこれだけはと思うような小さな欲求であっても、それが肉から出たものであるならば、それに従って行動することが、神に対する反逆にしかならないことを思い知らされ、それにさよならを告げるべきだということを学ばされている。

 それらの欲求は、結局、私にこう告げているからだ、「おまえの今の状態について、神に不服を申し立てよ。こんな扱いは不当だ。おまえは何も悪いことはしていない。なのに、神はなぜおまえを捨てたのか。なぜ神はこの状態を改善して下さらないのか。この追い詰められた状況について、神に不服を申し立てよ。そしてそれでも神が答えを下さらないなら、その時は、自分で決起せよ。私が(神に)虐げられた弱者としてのおまえを救済する運動の方法を教えてやる」と。

 現状への欲求不満から生じる願いの全ては、たとえどんなに善良そうな見せかけをしていたとしても、あるいは社会正義のような装いをしていたとしても、結局は、御心に対する反逆である。それは自分の今の状態を否定し、現実の中に働いている御旨を見いだすことを拒否し、自分のアイデンティティを卑しめ、神が成して下さっている全ての事柄を不完全なものとみなす考えである。

 アダムとエバに対して蛇が何と言っただろう、「それを食べるとあなたたちの目が開けて善悪を知るようになることを神は知っておられるのです」と言ったのだ。蛇の誘惑はいつもこれである。今、私たちにない何かを目の前にちらつかせる。今とは違うもっと良い現実があるのではないかとそそのかす。神は私の知らない何かを、不当にも、私から取り上げ、私から隠しておられるのではないか。それゆえに、神は私を今のような惨めで卑しい状態にあえてとどめておられるのではないか。神の愛はその程度のものでしかないのではないか…。だから、神のご計画が成就するのをただ待っていてもだめだ、むしろ神の裏をかいてでも、人知をめぐらし、この惨めさから脱出する方法をぜひとも探し出さなければならない…。そんな風にして、神が私を置かれた状況を不当だと感じさせる疑いがやって来る時、それに耳を貸してはいけない。そして神に禁じられた方法で、今、得られないものを早急に手に入れようと考えてはいけない。

 この荒野がどんなに厳しかろうとも、そこを通ることが御心であるなら、私には欠けているものは何一つないと言える。キリストがうちに住んでいてくださっているがゆえに、私は完全なのだ。私は弱くとも、キリストの強さが私を覆っている。だから、私は誰からも救済される必要がないし、同情されるべき立場にさえない。この世界も堕落していて不完全だが、それすらも主のご計画の内にある。今の世界がどう悲惨であろうと、自分を取り巻く状態がどう理想からかけ離れていようと、神のご計画は十字架を通してすでに成就しており、今また現実として成就しつつある。だから、私はすでにキリストの完全な勝利の中に入れられており、疑わないで、それに安んじることが求められているだけなのである。

 肉的な欲求は当然、生きている限り生じるだろう。それが最大限になって極度の苦痛をもたらすこともあるかも知れない。今、求めても得られない何か、をいつも欲しがろうとする死の法則性からは、肉体がなくならない限り、完全には解放されないだろうと思う。しかし、たとえ苦痛が極みまで達したとしても、そこから逃れたいという欲求は、ただ神にお返しすることにしよう。すると、主が各種の欲求をえり分けて、中から、正しいものを恵みとして返して下さる。だから、「われらにパンを与えよ、しかるのちに善行を求めよ」と叫んだりせずに、ただ全ての問題を御心に信頼して任せることにしよう。御言葉なるイエスこそが、私たちを生かして下さる命の根源なのだから。

 ところで、現状への不満から生じる肉的な欲求とは別に、神が与えて下さる願いがある。それは肉の欲とは異なり、決して、現状を不完全だと感じる感覚から生まれてくるものではない。主が与えて下さる願いは、常に現実から出発している+αである。いや、現実のもっと先に見えている、見えないものと見えるものとの再統合である(見えるものは全て一旦消滅しなければならない)。肉の欲が、目の前にある現実の否定、現実の打倒や、現実の破壊、あるいは現状改革を訴え、現実の影の部分に対して反旗を翻すのに対し、神が与えて下さる願いは、言葉では表しにくいが、現実という土台の上に立って、その向こうに何か見えない建物を建て上げるようなもので、しかも、それがすでに完成していることを霊によってあらかじめ感知することができる。

 神はサタンをさえ用いることができる。どんな逆境も全て主の御手の中にある。私を訴える者も全て御手の中で動かされているだけである。だから、神のご計画のうちではすべてが完全なのである。それを信じる時に、不合理な状況から生じる肉体的感覚、苦痛、そんなものがほとんど効力を失っていく。そして汝の敵を愛せよと言われた御言葉の意味が真に浮かび上がってくる。敵はすでにいないも同然だが、抜け殻のようにまだ存在しているその敵を動かしているのは、主の愛に基づいたご計画である。だから、一切の恐れを払拭する神の揺るぎない愛の確信の中に立って、敵に言葉をかけるならば、まるで子供が誕生日ケーキのろうそくを吹き消す時のように、敵の放つ火矢はことごとく吹き消されていくだろう。

 私の存在が不完全であり、私は完全を模索してまだ何事かを自力で成さねばならないという焦り、もしくは恐れは、悪魔のしかける罠である。キリストが共におられるから、何一つ、私には欠けているものはない。従って、現状改革など一切必要ない。繁栄の神学も、解放の神学も無用。そして今後、何が起こるかは、私は知らなくとも、主がちゃんとご存知だ。その計画が完全であることを知らされている。だから、時には、不意に嵐が来て驚くこともあるかも知れないが、できる限り、安心して信仰の船に乗っていよう。心騒がせず、落ち着いているならば、その旅は、きっとかなり楽しいものとなるはずだ…。

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