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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

血肉に対する戦いではなく…

音楽について少し付け足そう。ある時期、音楽は確かに私にとって偶像だった。そして主は驚くべき方法で私の偶像を処分された。
 だから、今、私が持っている音楽は、かつての偶像としての音楽ではない。主によって取り上げられて、そして聖別され、以前とは違う形に変えられて、私の手に返されたものである。

 私の人生でいくつか偶像だったものがある。第一は友人、第二は音楽だ。第一について言うならば、大学時代に出会った友人が、かなり長い間、私の心の偶像となっていた。それは私が家庭内の問題で悩んでいた時期であり、人に頼りたいという甘えが随分、心を支配していた時期だった。その頃、私は孤独と真正面から向き合う術を知らなかったし、そうなることを恐れていた。ちょうど教会に幻滅していた時期であり、苦しみから逃れるために、神ではなく人に頼った。
 だが、その友人はある条件を見れば、主が私に遣わしたのでないことは明らかであった。にも関わらず、この世に対する未練ゆえに、私はその友人を手放さなかった。そして、ついに、友人は劇的な形で私との信頼関係を裏切って去って行った。結果的には、主が彼を私から取り上げられ、私の偶像を打ち砕いて、偶像に信頼していた私に恥をかかせたのである。もし私がもっと早く、御心に従っていれば、すべては違った結果となっていただろう。

 その間にも、第二の偶像として、音楽が私の心を支配していた。私は音楽家ではないが、子供の頃から、音楽に携わり、並大抵でないくらい、音楽に憧れていた。だが、ちょうど第一の偶像が粉砕された直後、第二の偶像も粉砕されることになった。私は教会である音楽家に出会ったが、その出会いは私に何一つ有益なものをもたらさなかった。私が音楽というものに対して持っていた自分勝手な憧れと夢、野望と呼んだ方が良いヴィジョンは、その出来事を通して粉みじんにされた。

 今、私の手に再び戻って来ている音楽は、神によって取り上げられ、聖別されて返されたものである。それは以前と同じように見えるが、もはや以前のものではない。私を喜ばせるためではなく、もっと別のことのために存在している音楽だ。もちろん、私自身もそれによって恵まれているし、大きな喜びを得てはいるのだが、それは以前のような形ではない。以前は自分を感覚的に楽しませてくれる曲だけをひたすら追い求め、自分のために演奏の機会を求めていた。自分を喜ばせるために曲を書き、自分のために音楽が存在しているのだと思っていた。

 しかし、今は、音楽の中にも、主の御心、清さ、そういうものを追い求めるようになった。音楽の中にも、良いものとそうでないものがあり、また演奏の中にも、良いものと、そうでないものがあることが分かる。そして何より、装置としての音楽の危険性を感じるようになった。だから、時々、私の演奏を主に捧げますと、弾く前に祈ることがある。また、私がどれほど練習を積もうと、何を夢見ようと、主が許されない限り、私には今もこれからも、人前で弾くことは絶対にできないということが分かった。

 かつて小さな演奏会程度でよいから、自分の演奏を人前で披露する機会が欲しいと随分、願ったものだった。協奏という形でそれができないかと何度も願った。しかし、明らかに、主は私の野心を押しとどめられた。主は私がそういう場に立つことを一切、お許しにならなかった。これからもお許しにはならないかも知れない。ここには何か隠された意味があるように思う。

 舞台というものは、牧師の講壇もそうだが、そこに立って脚光を浴びる人の心理を狂わせるような魔力を持っている。舞台演奏家や、ショービジネスの世界に生きる人々がどのような私生活を送っているか想像してみればよい。それは舞台人の世界には必ず働く誘惑を示している。ある種の人間は、舞台というものが持つ誘惑に決して打ち勝てないがゆえに、そこには絶対に立つべきではないのかも知れない。

 だから、もし人前で弾かないことが御心ならば、それで良いと思う。私の音楽は、もはや私自身の満足のために存在しているのではないので、脚光を浴びようと浴びなかろうと、評価されようとされなかろうと、評価の水準に達しようと達しまいと、それはもうどうでも良い。何のために弾き続けているのかよく分からないが、日々の練習には平安があるのだから、地道に進んで行けばよいことである。日々の練習の中で出会う様々な楽曲は、私の内面を豊かにしてくれ、私の生活に喜びをもたらしてくれる。ただそれだけである。

 こうして私の生活の中からあらゆる偶像が取り除かれ、粉みじんに粉砕された後、それまでになかった展開が人生に起こるようになった。ああ、明らかに、主は私の音楽を違うものへと変えられようとしているのだな、これはもう私のものではなくなりつつあるのだな、と感じさせられる瞬間があった。

 同様に、このブログもそうだが、今、次第に私の人生が私のものでなくなりつつあるような実感がある。ある人は、私がこのブログを書き続けているのを、実生活を放棄しているがゆえの逃避行動だと嘲笑うかも知れない。ネット上の生活がメインになっており、現実を生きていないのだと。しかし、その非難はあたらないだろう。

 ある時、私がこのブログを信仰告白だと言ったのを読者は覚えておられるだろうか。それ以来、恐ろしいくらいに、私は四方八方から観察されているように感じている。人から、というよりも、主から観察されているのだ。私は本来、創作が大好きで、皮肉や悪ふざけに満ちた文章や、フィクションを書くのが好きなのだが、ここに創作を書いて人の注目を集めることはできない。私はここで真実を語らなければならない。誠実でなければならない。私はここでは創作家になってはならず、どこまでも信徒でなければならない。
 従って、たとえ実生活でどんなに滑稽で惨めな日々を送っていたとしても、見せ物になるのは嫌だと言って、本心を偽ることはできない。どんな時にも、あるがままで主を見上げるようにしなければならない。私はキリストのための愚者とならなければならなかった。

「神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。わたしたちはキリストのゆえに愚かなものとなり<…>わたしたちは卑しめられている。今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。」(Ⅰコリント4:13)

 正直なところ、私も自分を「この世のちり」、「人間のくず」と感じる瞬間が多々あった。そんな時、これ以上、自分を愚者として、見せ物として心傷つけられたくないと心から思った。私は自分の心の痛みをほんの少しだけ打ち明けるといった芸当がもともとできない性質なので、書くときはすべてを書いてしまう。だが、みっともなく、惨めな思いをして、悲しんだり、打ちひしがれているとき、そのことを赤裸々に書くのは嫌なことであった。

 しかし、主は、私が正直に誠実にあるがままのことを書きながら、悩みと苦しみの中にあっても、主を証していくことを選び取る時に、思いもかけない恵みを常に与えて下さった。主は信じる者に惨めな思いをさせて恥をかかせるだけでは絶対に終わらせないということが分かった。そこで、私は自分の心を守ろうとすることよりも、真理を証することの方が大切であることを知った。
「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」(ヨハネ12:25)

 ところで、今、私の最大の懸念事項となっていることが何であるかを、そろそろ書きたいと思う。そのことについて兄弟姉妹たちの祈りが必要だからでもあるし、このことをこれ以上、一般に語らずに、特定の人々だけに助言を求めるのが良くないと感じるからである。どうして私はハンナのような涙に満ちた祈りを捧げねばならないのか。それは、私の信仰が薄いせいだとはどうか思わないで欲しい。私が家人からいわれなく憎まれて、存在の場を奪われているためである。
 家人の名誉のためと思って、このことを告白するのは今まで控えて来た。また、被害者意識から抜け出せないでいるなどと人から責められるのもこりごりだったので、語りたいと思う話題でもなかった。しかし、そろそろ語っても良い時が訪れたように思う。

 キリストがいわれなく憎まれたのと同じく、キリスト者もいわれなく世から憎まれても何の不思議もないことは、聖書に書かれている。我が家で起こったのはまさに聖書が予告している出来事であった。
「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。」(ヨハネ15:18)
「しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。<…>あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。」(ルカ21:16-19)
「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29) 

 私は幼い日にキリストを信じた瞬間に、父母双方からの愛をほぼ完全に失った。以来、彼ら双方から憎まれ、人生のあらゆる成功を妨害され、蔑まれ、嫌われる存在となってしまった。洗礼を受けることを父に告白したその日は、生涯で忘れられない悲惨な一日となったが、それは同時に、キリスト者を名乗っていた母からも見放された日となった。
 こういうことは、カルト的な宗教にのめりこんでいる家庭では決して珍しい現象ではないことを断っておきたい。宗教は我が家の成員をバラバラに引き裂き、さんざん悲劇を生み出す根源となった。我が家では、私が幼い時分から、まことのキリスト者に対する迫害がずっと続いていた。本当のことを言うならば、はっきりとキリストを信じるより以前から、その迫害は始まっていたのだが…。
 同じ信仰を持っているはずなのに、憎み合うことしかできない。信仰を我が家に持ち込んだ者が、まことの信仰者を迫害するのである。この支離滅裂は説明のしようがない。私の年下のきょうだいたちも教会で信仰を持ったが、今はそこから離れている。あまりにも悲しい出来事がありすぎたから、仕方がないとも言える。だが、それこそが迫害の真の目的だったのだ。つまり、私たちをキリストの愛から引き離して、人生をむなしく失わせることが敵の狙いだったのである。

 両親はそれぞれ異なる宗教観を持ち、観念的には対立しているにも関わらず、どういうわけか、霊的には一致してキリスト者となった子供たちを迫害してきた。今、私が両親、特に父から受けている憎しみにはすさまじいものがある。先日、一触即発の危機的な事態が展開されたが、もう2,3回そのようなことが起これば、誰かが大怪我を負わずには済まないだろうと感じた。本当にこれが私の父だろうかと、表情を見て疑う。それほど、彼には情けというものが感じられなくなってきている。年々、それはひどくなっている。彼が我が子をそれほどまでに憎んでいるとは信じがたいが、それは事実である。今はかろうじて、まだ私であることを認識してくれて手加減しているとはいえ、この感情がそのまま進んで行くと、殺人に至る危険さえある(すでに精神的には数え切れない回数、殺されているのだ)。

 父がこれまで私のピアノはおろか、私の手がけた一切の仕事をずっと快く思っていなかったのはよく知っている。だが、これほど憎まれるに至っては、もはや我が家ではピアノどころではない。父のいるところで食事をすることもできない。そこで、彼を避けて、隠れ、存在していないかのようにして生きていくことしかできない。きょうだいもそうして暮らし、ついに耐え難い気持ちのまま家を去って行った。父は私の存在を今からすでに無いものとして扱っており、そもそも私の生存を願う温かい気持ちが一切、彼の中に存在していないことは明白である。

「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。」(ヨハネ8:44)

 こんな御言葉を自分の親に重ねて見なければならないとは、何ともやりきれないことだが、これが偽りのない事実である。人の同情を乞いたいがゆえにこんなことを言っているのではない。両親の罪を告発するためでもない。私の両親はかの者に恐るべき影響を受けて操られているだけである。今まで、理解できない親の仕打ちにどう対処すべきか分からなかったがゆえに、ただ悲しんだり、苦しんだりしながら、抵抗し、愛されなかったことに深く傷つき、自分の落ち度ゆえにそうなったのではないかと恐れ、悩み、関係を修復するためにあらん限りの知恵を振り絞って努力してきた。そして、安心して生きられる場所をどこにも持たないことに苦しんできた。

 だが、今、これは気持ちの問題ではないということを確かに感じる。あらゆる感傷を越えて、敵に対してきっちり向き合う必要があると感じる。敵は個々の誰それではなく、サタンである。退却するとか、逃げるとか、そういう選択肢をいつまでも取るだけで、対決を避け、敵に打ち勝つということをしなければ、その戦いはいつまでも続くのだ。そのことが徐々にはっきりと分かって来た。
 私は両親を憎んではいないし、両親の変容のことでそれほどまでに悲しんでもいない。憎むべきは人ではなく、その背後にいて人を操っているサタンだ。

 恐らく、サタンの玉座のようなものが、我が家の中に気づかない昔からもうけられていたのだろう。だが、悪鬼に対して、毅然と立ち上がるべき時が来た。彼が私についてあることないことさんざん告発して私を苦しめ続け、私をみなし子にまでおとしめてきたように、私も彼の罪とがをあらん限り、主の御前で告発し、早急に彼が成敗され、敗北し、何重にも呪われて、打ち捨てられることを求めよう。もちろん、どんなことがあっても、最後まで耐え忍ぶことは必要であるが。カルトとの戦いよりも、こちらの戦いの方が、本当は、私にとっては最初からより重要かつ深刻であった。

「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 恐らく、戦いはこれから本番を迎えるのだろう。今後、何が起こるのだろうか。
 戦いに臨む上で、次の御言葉も助けになる。主は言われた、「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。」(ヨハネ12:26)
 「わたしのおる所」とはどこか。神がキリストに与えられた絶大な権威を見てみよう。

「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ1:20-23)

 心から主に従って行こうとする者たちの命は、ただ神のうちに隠されているだけではない。キリストのおられる御座の高みに引き上げられ、キリストの権威と共にあるのである。それは万物を足の下に従わせる権威である。生きた人間が、その前で何の力を持つだろうか。

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」(ヨハネ11:25-26)

 悪しき日にあって、これ以上、敗北し続けるわけにはいかない。心を新たにして、御霊によって祈り、二度と敵の策略に陥ることがないように、目を覚まして祈っていよう。もし心ある兄弟姉妹がおられるなら、この問題について、私が二度と敗北せずに済むよう、心を合わせて祈って欲しい。
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