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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

少年法改正と憲法改正 〜少年A君のために④〜

太田出版は『絶歌の出版について』とする声明の中で、遺族の反対を押し切ってまで出版を続ける意義について、次のように述べた。


「本書に書かれた事件にいたる彼の記述を読むと、そこには大人の犯罪とは明らかに異なる、少年期特有の、性的衝動、心の揺れなどがあったことがわかりますそしてそれだけの内面的な乱れを抱えながらも、事件が起きるまで彼はどこにでもいる普通の少年でした彼が抱えていた衝動は、彼だけのものではなく、むしろ少年期に普遍的なものだと思います。彼は紙一重の選択をことごとく誤り、前例のない猟奇的殺人者となってしまいました。彼の起こした事件は前例のない残虐な猟奇的事件でしたが、それがいかに突出したものであろうと、その根底には社会が抱える共通する問題点が潜んでいるはずです。社会は、彼のような犯罪を起こさないため、起こさせないため、そこで何があったのか、たとえそれが醜悪なものであったとしても見つめ考える必要があると思います。


 本書の後半は主に、彼の更生、社会復帰にいたる関係者の協力、本人の心境の変化が赤裸々に描かれています。何をもって更生が成ったかを判断するのは難しいことですが、彼は国のシステムの中で更生したとされ社会に復帰しました


 彼が類例のない猟奇的犯罪を犯しながら、比較的早い時期に社会復帰を果たしたのは、少年法が存在したからです。法により生きることになり、社会復帰を果たした彼は、社会が少年犯罪を考えるために自らの体験を社会に提出する義務もあると思います。


 彼の手記には今にいたるも彼自身が抱える幼さや考えの甘さもあります。しかしそれをも含めて、加害者の考えをさらけ出すことには深刻な少年犯罪を考える上で大きな社会的意味があると考え、最終的に出版に踏み切りました。」

 

* * *



この文章をよく読んでみよう。太田出版は、この手記を示すことにより、犯人は「どこにでもいる普通の少年」であり、彼の抱えていた(抑えがたい犯罪的な)衝動は、決して彼だけのものでなく、あらゆる少年にいつ起きてもおかしくないものであるかのように描いている。つまり、思春期特有の心の動きと、犯人の心の犯罪的衝動を直接、結びつけることにより、犯人の犯罪的な欲望までも、「少年期に普遍的なもの」、すなわち、少年にありふれた心の動きであるかのように論理をすりかえているのである。

 

このような視点は、子供や少年全般を無差別に疑いの眼差しで見ることを促す。子供や少年そのものへの適視を煽っていると言っても過言ではない。

なぜなら、このような論理に立つと、「どこにでもいる普通の少年」が、いつでも凶悪な犯罪者「酒鬼薔薇聖斗」に早変わりしてもおかしくない危険性を秘めているということになってしまう。そうなると我々が住んでいる社会はどんなにか恐ろしい場所ということになるだろう。

しかし、どう考えても、そのような論理は極論であり、そのように、あらゆる子供や少年を犯罪を犯す前からすでに犯罪者であるかのような一方的な疑いの眼差しで見るように仕向けるのはどうかと思う。そのような考えは、子供たちに非難の眼差し向けさせ、威圧的に接し、あわよくば罰しようとするような傲慢な態度を生むだろうが、それは根本的に間違っている。むしろ、子供は大人よりもはるかに純粋で、良心的な側面も持っているのである。

太田出版はしかし、あらゆる少年の中には酒鬼薔薇聖斗のような犯罪性があるとしているだけでなく、次のように続ける。この事件の根底には、社会の抱える共通する問題点が潜んでいる」と。つまり、太田出版は言外に、犯人の持っていた犯罪的衝動は、単に「どこにでもいる普通の少年」に共通のものであるばかりか、それを生んだ母体としての「社会」にも共通するものであると示唆しているのである。

このようにこの出版社は、全社会、つまり、私たちに犯罪者の母体としての疑いの眼差しを向けている。

太田出版は、犯人の中に「社会の抱える共通する問題点が潜んでいる」と述べることにより、「社会」はこのような犯罪少年(魔物)を生んだ責任を自覚して、「社会は、(二度と)彼のような犯罪を起こさないため、…たとえそれが醜悪なものであったとしても、見つめ考える必要がある(責任がある)」と主張する。

結局、太田出版は、こう言っているのだ、この魔物を生む根本原因を作ったのは社会(我々読者?国民?)なのだから、あなた方一般国民はその責任を取って、この醜悪な事件を見つめ、考える責任があると。要するに、歪んだ社会によって歪んだ心の少年を造り出したことの責任を取って、一般国民はもっと少年犯罪について勉強し直すために、この本を買って読みなさいと言っているのである。

太田出版はこのようにして全ての思春期にある少年だけでなく、魔物を生んだ歪んだ社会も犯罪性を帯びていると案に糾弾する一方、魔物であった犯罪者が、「国のシステムの中で更正され、社会に復帰した」と、「国のシステム」を持ち上げ、賛美する。

ここで言う「国のシステム」とは何か。それは国民の犯罪を取り締まるために政府が作り上げた数々の罰則規定のことである。太田出版は「国のシステム」の一環としての「少年法」を賛美して言う、「彼が類例のない猟奇的犯罪を犯しながら、彼が比較的早期に社会復帰を果たしたのは、少年法が存在したからです。」

つまり、太田出版によると、手に負えない魔物であったこの少年を立ち直らせたのは、国が用意したありがたい少年法なのであり、社会(国民)はこのような国のありがたい更正システムが存在していること、少年法のありがたさをもっと認識して学ぶ必要があるということになる。

こうして少年法によって罰せられ、国によって更正させられたからこそ、魔物は真人間に立ち直ったのであり、あのまま社会にいれば、到底、立ち直り不可能であったろうとほのめかしているのである。

犯罪者の元少年は、社会にいればただ死んでいるだけの有害な存在であったが、「法によって生きる」者となったのであり、このように彼を生き返らせた「国のシステム」たる「少年法」の素晴らしさをこれからもいつまでも誉め称え、ずっと社会に証明し続けるために、元犯罪者の少年は自らの更正体験を社会に提供して社会を啓発する義務があるというのである。

* * *

何と言う上から目線の押し付けがましいお説教だろうか。

それに何と倒錯したものの考え方だろうか。

太田出版の言うように、果たして「社会=悪、犯罪を生み出す母体」、「国のシステム=善、人を犯罪から更正させる正義の力」という極端な二項対立が成り立つものであろうか。

このような主張は、「国(政府)を善」、「国民を悪」とする前提で物事を見させ、あらゆる国民の中には犯罪の芽が潜んでいる(ので犯罪を防止する方法を考える)必要があるとした上で、「法」というものを、「国民が権力者を縛るもの」でなく、「権力者が国民を縛るもの」にすりかえてしまう効果を持っているのである。

このような「法」についての倒錯の理論が、今、安保法制、憲法改正においても全く同じ構図で適用されようとしていることに考えを馳せたい。つまり、法によって制限され、抑圧を受けるべきは、国家ではなく国民だという発想がそこに流れているのである。そしてなぜそうなるかと言えば、国家は正しいが、国民には犯罪性の芽が潜んでいるからだというのである。

***

もう一度、記事で引用した2001年の論考を抜粋したい。 

「少年法「改正」とは何だったのか」 小野田桃子著 (検察官関与に反対し少年法を考える市民の会/シンガーソングライター)、初出「教職課程」2001年2月号

  少年法「改正」の動きについて、あるテレビのニュースキャスターが「子どものことを理解できなくなった大人が、まるでモンスターのような子どもから大人社会を守ろうとしているかのようだ」と言っていた。また、ある作家は「子どもへの怒り、報復の心理さえ働いている」と述べた。

 

  それは子どものせいなのか。

 子どもを悪者にして、子どもをコントロールしようとすれば済む問題なのか。
<…>

 子ども本来の遊びを、子どもが子どもでいられる時間を、子どもの居場所たる安心できる関係を、自然を、労働をはじめとしたさまざまな体験を奪ったのは一体誰なのか。従軍慰安婦も南京大虐殺もなかったなどというでまかせで歴史を奪おうとするのは誰なのか。核廃棄物を積み上げて未来を奪うのは誰なのか。子どもが逃げ込める闇を奪ったのは誰なのか。

教育基本法を「改正」しようと息巻いている人々は言う。子どもを自由にさせすぎた。そのせいでわがまま勝手な子ども若者ばかりになってしまった。子どもに規範意識を持たせ、個人よりも公=国家を重んじるようにさせよう

 少年法と教育基本法の「改正」問題は地続きなのである

 そしてそれは、憲法改正にまで進むことになるだろう戦前回帰かどうかは別として、日本がどんどん危険な方向に動いていることはどうやら疑う余地がなさそうだ。

 子どもたちから奪ったものは、私たち大人も失ったものだ。

  そして、子どもの目の輝きが失われた社会は、本当に未来を失ってしまうだろう。
 子どもはおとなにとって、過去であり、未来である。
 
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