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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

Quo vadis, Domine?

昨日から今日にかけて、ウクライナで買った『クオ ヴァディス』のDVDを観た。ポーランドで製作されたこの映画(監督E.カヴァレローヴィチ)は、最初に観た当初は、あまり印象が残らなかったが、改めて、観ると、静かな感動に満たされる。

 今まで、皇帝ネロの時代に生まれ合わせたキリスト教徒はきっと不運だったに違いないと考えてきたが、もはやそれを他人事のように考えることは、私にはできなくなりつつある。
 なぜならば、はっきりした根拠はないものの、これからの私たちの時代こそが、新しいネロの時代となるような予感がしてならないからである。

 私が初めに『クオ・ヴァディス』の物語の存在を知ったのは、とあるホーリネスの教会で、女子パウロ会から出版された漫画を目にした時のことだった。それは子供向けのような漫画であったが、そこには、マルクス・ウィニキウスのリギアへの恋、彼の内面の変化が見事に描かれていた。

 ローマの神々を信じる当時の貴族の誰もがしていたように、数多くの奴隷たちにかしずかれ、何不自由ない暮しの中で、奔放で罪なる生活を送っていたウィニキウス。だが、彼の内面は、リギアとの出会いと、様々な紆余曲折と、使徒たちを含めたキリスト者たちとの出会いを通して、全く新しいものへと変わって行く。

 繁栄と飽食を極め、世界に比類ない大帝国として栄えたローマが没落と退廃に転じた時代だった。その時代の象徴として君臨するのは、皇帝ネロ。並み居る臣下におだてあげられて、分を見失ったネロは、元来は小心者であるにも関わらず、自分の愚にもつかない詩作のために、ローマの街へ放火する。
 さらには、ペトロニウスの忠告をも振り切って、その大火の罪を無実のキリスト教徒に着せるべく、キリスト教徒に対する大規模な迫害に乗り出した。それはネロの悪魔的魂が成したことであったが、同時に、帝国の中で職にあぶれ、火事で家を焼け出され、貧しさの中で行き場を失った民衆のフラストレーションを、パンと見せ物でなだめようとする策でもあった。

 観ているうちに、ローマの凋落に我が国の歴史が重なって見えてくる気がしてならない。(私にはネロとポッパエアの姿が、今日、政界に進出しつつある何某教祖夫妻を思い起こさせてならなかった。)

 特権的な生活にあぐらをかいた貴族たちは、もはや現実感覚を失い、合理的な知性に基づいて政治を動かすことができなくなっていた。愚かしい政治の中で引き回され、行き場を失って、怨念渦巻く民衆。異なる階級同士が衝突し、大衆の巨大な波と化した怨念の矛先を何とか逸らそうと、打ち出される政策は、その場しのぎにばらまかれる金と、見せ物としての裁判と処刑だけだった…。

 暗い時代にあっても、使徒ペテロやパウロとの出会いを経て、ウィニキウスの信仰は、リギアがクリスチャンとして捕らえられる頃には、確固たるものとなっていた。

 クリスチャンの道はいつも決まっている。キリストのために誤解され、非難され、迫害され、果ては命さえ取られる道である。キリストがそうされたように、自らが徹底的に低められていく道である。愛する者を失うかも知れない恐怖にさらされながら、いつの世も同じであるキリスト者のただ一つの道を、ウィニキウスはいつしか自分も歩く決意を固めていた…。

 ひとりの人間としてのマルクス・ウィニキウスの内面の変化の描写が見事に描かれているこの作品は、数ページを読んだだけでも、真にクリスチャンでなければ書けないものであることが感じられる。私は女子パウロ会の漫画を少し読んだ後で、早速、図書館で小説を借りて目を通した。

 今、この映画を観ると、当初は恋愛物語のように思われたマルクス・ウィニキウスとリギアとの愛が、花婿キリストと花嫁であるエクレシアの愛に重なって見える。暗い退廃の中で滅びゆくローマを背景にして、彼らの間に育まれる清い愛情が、闇を貫く閃光のように輝く。今日のキリストとエクレシアとの愛情も、きっとそのようになっていくのではないかと思う。

 クリスチャンとしての信仰をついに持つことなく、ローマ文化の世界から抜け出られなかったとはいえ、ペトロニウスとエウニケの最期も人間としては見事なものに思われる。地上的生だけに目を向けるならば、それは美の完成であるとさえ言えるだろう。だが、地上のものは全て滅び行く運命にある。ペトロニウスの破滅はローマの破滅を意味していた。そして、私の心は、彼らを離れて、幼いイエスを連れてエジプトに逃げたマリヤとヨセフのように、どこへ行くとも知れない旅路についたウィニキウスとリギアに寄り添う。

 さて、話が急に変わるが、今日、これまでずっと私が懸念してきた事件がついに我が家で起こった。争いがついに流血を伴うものへ発展したのだ。キリストを信じる者に、心底からの憎しみを抱いている人々が、キリスト者をいずれ肉体的に抹殺することを目的としていると、少し前に予感したことは、正しかったと思う。

 皇帝ネロによるキリスト教徒の迫害のシーンと合わせて、サタンに操られている人々の目的が何であるかが、はっきりと私の心に迫って来た。主にあっての兄弟姉妹に祈りを求め、また、相談を乞いつつ、今はやはり、このソドムを脱出すべき時であると感じた。どこへ行って、何をすべきか分からないし、正直に言って、アクションを起こす余裕もあるとは言えないが、主がすべてを導かれるだろう。

 バビロン化したキリスト教界を出ることが必要だったように、ソドムと化した場所からはエクソダスすべきなのだ。彼らと争ってはいけない。

 Quo vadis, Domine? 主が導かれるところに私は着いて行きます。
 脱出先がこの世のどこであろうとも、私の避難所はただキリストの御許だけなのです。
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