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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

乞食から家臣へ

 昨日もいつもと変わりなく日が過ぎた。
 家人と特に話すこともない。今までと何の違いがあるだろうと思うような一日の過ごし方だ。けれども、私の中では、これで大丈夫との確信がある。私がここを出るまで、私は安全である。家人のことはこれ以上、気にかけてはいけない、彼らとの関係について案じてはならない、ただ自分の人生をしっかり歩むことを考えればよい、との安らぎがある。

 主の前で静かに考える時間を持った。そこで得た内容を書き記そう。

「私はこれまで、自分の必要性(欠乏)のためだけに生きて来た。絶え間ない悲しみと痛みが私を苛んでいたので、私にとって、神は不足を訴え、憐れみを乞い、乞食のように必要なものを乞うためだけに存在していた。そこには、神と私との信頼はほとんどなかった。私が一方的に憐れみを乞うだけだったのである。
 だが今後、神と私との関係は、王と乞食のようではなくなり、王と臣下(僕)のようになるだろう。そしてやがてついには、王と王子(王女)のようになるだろう。

 家臣は、王の家来にふさわしく装う。乞食のようにぼろ切れをまとって城門に座っているということはない。家臣には仕事がある、王命を民に伝え、実行に移すという仕事が。乞食のように日がな門に座っていることはない。家臣は毎日、活動する。乞食に活動はない。家臣には威厳がある。乞食に威厳はない。家臣には同僚がいる。乞食に仲間はない。家臣には明日の計画がある。乞食に明日はない。

 私は、右や左の旦那様の気まぐれによって人生を左右される乞食の立場から、王の命令だけによって動かされる家臣へと変わるだろう。どうしてあるキリスト者がこれほど私の注意を引いたのか。それはその人が僕ではなく、息子としての権利を行使して自由に大胆に振舞っていたからではないか。
 私もいずれ、この地上にいながらにして、王の娘として自由に振舞う時がやって来るだろう。たとえキリスト者の使命が、最後には神のために命を捨てるところへと向かっているのだとしても、この世で一度たりとも自由と解放を味わっていない者が、どうして主のために命を捨てることができようか? 奴隷が主君のために命を投げ打つのは当然である。それはただ命令を実行しただけであり、捧げ物にはならない。だが、自由の子が友のために命を捨てるからこそ、それは捧げ物となるのである。

 私は自由の子とされるだろう…。私の態度に、王の威厳が反映され、その日暮らしでない安定感が生まれ、信頼感が生まれる日が来るだろう。世の中がどう悪くなろうと、私は恵みを享受するだろう。それはただ主によってなされるのだ。私の生来の誠実さをたとえありったけかきあつめたとしても、私には到達不可能な場所へ、主が私を連れて行かれるのである。それは神が神ご自身のためになされる回復である。神はご自分の栄光のために花嫁を創られた、だから、神が神のために私を回復されるのだ。私が自分で回復するのではない。

 今回の事件を通して、神はきっと不屈なまでに頑なな私の努力、私の誠実さ、優しさ、人情、そういうものをへし折られたのだろう。何度、努力しても、私の力で家庭の人間関係が少しも回復しなかったのは、そのためなのだ。主の娘として、私が真に回復されるために、何より取り除かれなければならなかったのは、私の人情、優しさ、正義感、善意、義憤、期待だったのだ…。私の『良かれ』と思う気持ち、その『良かれ』を自力で成し遂げようとする気持ちのすべてが、打ち砕かれ、取り除かれなければならなかった。私にとって、それは人としての最高の善意であったが、それは主の御心に反するものであり、私が乞食のぼろ服にしがみつくことを意味していたのである。

 人の善意や情けや正義感のもたらす欺きはまことに深く、それは地獄へと通じている。それは人間による自己栄化、自己救済の道であり、神が死を宣告された旧創造を救おうとする試みだからである。だから、人の目にどんなに麗しく見えても、人の生まれながらの情けや善意、平和を願う気持ちは、すべて堕落しており、紆余曲折を経て、結局、地獄へと通じているのである。

 19世紀のロシアで、60-70年代に、『人民の中へ』運動が盛んになった。教養ある貴族の青年たちが、虐げられている民衆の痛みを放置してはならないと思い、民衆を救い、民衆に負債を返すために、貴い生まれを捨てて、民衆のぼろ服をまとって、民衆の生活に分け入って行った。

 シオンの娘も、『人民の中へ』のスローガンに同調して、全能主の娘という貴い生まれを捨てて、民衆のぼろ服をまとって、民衆と一体となった。弱者へのいたわりと、人としての正義感ゆえに、民衆と苦難を共に忍ぼうとしたのだ。しかし、娘は、自らがあれほど憐れんだ民衆の中に、少しの正義も、善意も見なかった。民衆は彼女を嘲笑い、受け入れず、騙し、遊郭に売った。彼女が助けたいと思った民衆は、救済に値しなかったのだ。虐げられた弱者、美しい民衆とは、虚構の概念であった。そして、彼女は王の娘としての位を永久に失ってしまった。もし王が彼女を助けなければ、彼女は自分の正義感ゆえに永遠に滅んだだろう。

 人としての正義感。いたわり。情愛。それは人の目から見てどんなに貴い、麗しいものであろうと、全て救いようなく堕落しており、希望がない。主の目から見れば、それは陰険で、悪質で、曲がりきっており、ゴミ箱で焼却されるしかない、腐臭漂う乞食のぼろ服なのである。主はこのぼろ服を私から取り上げて、別の服を着せたいと思っておられる。王の娘、息子としてふさわしい衣装を。けれど私たちはぼろ服にしがみついて、それを放そうとしない。それが人間としての最高の善意だと思っているから。
 私のぼろ服は、主によって強制的に取り上げられた。そして気づくと、王の娘としての衣装が着せられていた…。」
 

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