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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

神の代理人を詐称する牧師制度と公務員を詐称する官僚制度の闇

長らくブログを書いていませんでしたが、昨今の危機的状況を見ているうちに、どうしてもこれ以上黙っているわけには行かないと決意して、再び書き始めました。私のブログは、聖書に基づき神を信じる一人のクリスチャンとして、なぜ一体、キリスト教界はこんなにまでも堕落したのか、 その背後にどういう誤った思想があるのか、どうすれば本当の信仰に立ち戻れるかという疑問から始まりました。


私は今でも聖書の神を信じるクリスチャンであり、聖書に基づく信仰を否定しません。しかし、キリスト教界はこれとは別物と考えており、従って、無所属であり、教団教派に所属するつもりはありません。キリスト教界はすでに多くのクリスチャンが指摘して来た通り、その起源からして聖書的でなく、いまや異端の流入を抑える術もなく、被害者救済活動や異端・カルト撲滅運動さえも、キリスト教界から発生した一種のマッチポンプ的な運動であり、本質的な解決には何らつながることはないと考えます。聖書から離れたことがそもそも堕落の原因であるならば、聖書に立ち帰ることなく異端撲滅運動に熱中しても、事態はより深刻化して行く一方でしょう。


キリスト教界は、その起源からして聖書に反していますが、それは後述するとして、キリスト教界の堕落の原因の一つである異端の教えについて考察していると、私はそれが大昔の異端グノーシス主義に通じていることに気づきました。
「日の下には新しいものは一つもない。」(伝道者の所1:9)と聖書は言いますが、異端も同様で、昨日や今日初めて生まれたものでなく、そもそもアダムとエバを堕落させた蛇の教えにその起源を求められます。ですから、異端の教えを研究すると、その構造は、昔から今に至るまでほとんど変わらないことが分かるのです。


異端グノーシス主義の構造を一言で言い表すならば、それは嘘と横領の精神に貫かれた思想で、聖書をねじ曲げること、みことばを否定すること、それによって神を否定し、人間を神以上に高く掲げるという、聖書に対する秩序転覆、聖書に対するクーデタの思想です。聖書は、人は神によってしか救済されないと教え、人が自力で(自己努力で)救済されて神に至る可能性を完全に否定しています。

また、神を信じた人は、内側に住む聖霊によって真理を直接、教えられるので、人間の仲介者によって救われる必要もなければ、真理を学ぶために人間の指導者に依存する必要もないとしています。


ところが、グノーシス主義は人間の中に何らかの「生まれながらに神に至る聖なる要素がある」として、原罪を否定します。そして、人間の中にある善良さや賢さなど、何かしらの美点を強調することにより、人間がその「聖なる要素」を高めさえすれば、神に等しい者になれるとして、キリストの十字架の必要性を否定します。たとえ表向き、キリストを認めているようであっても、巧妙にキリストを神の位置から引き下し、キリストが神の子ではなく、人間の指導者であったかのように説きます。そして、人が神によらず、御子キリストの十字架によらず、自力で神に到達できるとして、人間による人間の救済を行おうとするのです。


さらに、グノーシス主義は人間を救済するために、こうして人間の仲介者(グルのような存在)を肯定するばかりでなく、聖書に反して、真理を教えるためには指導者に聞く必要があるとして、教える者と教えられる側の区別を作り、信徒の間にヒエラルキーを作り出します。


聖書はもともと
「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」(マタイ23:8)と、神のみ前に兄弟姉妹が平等であることを説き、教師や指導者を名乗る信徒が、他の兄弟姉妹の信徒を指導し、支配するという階層制を認めていません。

しかしながら、グノーシス主義は徹底したピラミッド構造を持っており、少数のエリートの指導者層による大多数の信徒への「教育」や「指導」(=「支配」)を肯定します。一握りの「悟りを開いた」エリート集団が、その他大多数の「愚かな」平信徒を指導するというピラミッド型の差別構造が、異端の教えには必ず伴います。ですから、グノーシス主義を取り込んでしまった宗教団体は、ネズミ講のような上意下達式の組織を持つことになり、それが支配と収奪のシステムとして機能し、指導者は偉くなって君臨する一方、末端の信徒は虐げられるということになります。


こうして、異端の教えは、巧みに神の名や、人の救いを口実として利用しながらも、神への服従ではなく、「神の代理人」や「みことばを取り継ぐ人」を名乗る人間の指導者の権威への服従を説くことにより、平信徒が少数のエリートに依存し、服従するようなシステムを作り出します。これに反すれば、指導者に逆らうことは神に逆らうことと同一視され、「地獄へ落ちる」、「悪魔に心を奪われた」、「悪霊に取りつかれた」などと批判して、追放します。

しかし、このように人間が人間の上に立ち、人間を支配するシステムは聖書の真理に全く反しており、そのようなシステムは奴隷化をもたらすだけで、決して本物の救いをもたらさず、人を解放することも、幸福にすることもありません。最も虐げられるのは、子供や、社会的弱者です。しかし、ヒエラルキーの中で上位を占める人々は優遇されている旨みのゆえに、その偽りに気づくことはないでしょう。


また、グノーシス主義には常に出来合いの宗教組織をのっとるという特徴があります。グノーシス主義そのものが「のっとり」(横領、盗み)の思想だと言って差し支えありません。グノーシス主義はもともと宗教ではなく、神話を持たない哲学的な思想体系なので、様々な既存の宗教に仮装して、宗教思想を装って組織の内側に入り込み、自分の寄生した宿主としての宗教を内側から破壊して行くことにより、転覆させる(組織ごとのっとる)働きをします。ですから、グノーシス主義はあらゆる革命思想、クーデタの思想の始まりだと言っても過言ではありません。

 
 
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私はこうしてグノーシス主義を追及しているうちに、実はこの日本においても全く同じ構造を持つ不幸で恐ろしい現象が起きていることに気づきました。欧米などからすでに指摘されている通り、今、日本政府は、「日本会議」という特殊な宗教的思想を持つ団体にのっとられている状態にあり、その異常な宗教思想に日本全体が左右されていますが、それだけではありません。「日本会議」の存在が明らかになるより前から、日本を支配するエリート集団としての官僚組織そのものが、政治家と一体になって、憲法を無視して全く国民のためにならない政治を推し進めて来たのです。


一体、官僚組織とは何なのでしょう。なぜこのようなことが起きているのかを考えていくと、まず、日本の労働市場、ひいては社会そのものが、徹底したピラミッド型の身分制度のようなものに貫かれていることが分かります。企業もそうですが、官僚組織には企業よりもさらに徹底した年功序列のピラミッド構造があります。そして、そのカースト制度の頂点に立つのが、若くして国家公務員試験を通った高級キャリア官僚や、司法試験に合格して法曹界に入った人々などです。受験戦争も就職戦線も、こうしたピラミッド構造を作り上げるためにあるシステムに他なりません。

ですから、このように日本では、子供が義務教育に入り、まだ若く将来も決まっていないうちから、気づかなくとも、すでにこのピラミッド構造の中に組み込まれて生きることを余儀なくされているのです。そして、このピラミッドはますます強化され、もし一旦、ドロップアウトしてしまうと、二度と元に戻り、這い上がるチャンスがないような、固定化した身分制度になりつつあります。もし若者が新卒で採用されなかったとか、正規雇用だった人がリストラされて非正規雇用になるなどして、一度、不利な立場に落とされてしまうと、一生、負い目を負い続けなければならないような仕組みがますます完成されています。これは生まれによってのみ差別されているわけではないにせよ、カースト制度にも似た差別制度であり、能力や、性差や、色々な要素から構成されている、人がほとんど自力では克服不可能な差別構造であり、身分制度にも近いものであり、もちろん、日本国憲法はそのような身分制度を認めていません。


「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」(日本国憲法第14条1項)

それなのに、一握りのエリート集団だけに絶大な権限と経済的可能性を与え、圧倒的大多数の人々を虐げられた状態に打ちのめし、絶望に陥れているようなこの不幸なカースト・ピラミッド制度がなぜ、どんな根拠で出来、まかり通っているのでしょうか。実は、そのようなカースト制度は違法に出来上がっているものであって、何らの正当な根拠も持たないものなのです。でも、多くの人たちは、若い頃に一生懸命、勉強して良い成績をおさめて難しい試験に通った人たちが、政府や大企業などで要職について出世して、人よりも多くの給与をもらい、多くの人たちの運命を決定するような重要な政策に携わり、他の大多数とは全く違った待遇で、人生を送っていることに、何の疑問を持たないでしょう。彼らは「偉い」人たちであり、自分たちとは違うのだから、支配され、虐げられても我慢するしかないと思い込んでいる人たちは多いでしょう。しかし、それは本当ではありません。


日本国の最高法規である憲法は、頭脳の優秀さや、貧富の差や、社会的な立場や、生まれや、いわゆる五体満足で健康であるかなど、何であれそういった属性によって人が差別されることを認めていません。一生懸命勉強して、優秀な成績を試験でおさめたから、だから人よりも多くの権利を得、他の人々の権利を制限することができるかというと、決してそんなことを憲法は認めていないのです。


にも関わらず、若くして国家公務員試験なるものに通った人のみがエリートとみなされて高級官僚となり、後の人々はそれに比べるとあたかも敗残者のごとく適当な人生しか送れないかのような、ほとんど固定化した厳格なピラミッド制度がこれほど公然とまかり通っているのは、憲法に対するクーデタが長年、行われてきたからに他なりません。実のところ、官僚制度そのものが、憲法に違反しており、この憲法違反の集団によって、日本が密かに破壊されてきたからに他ならないという現実が次第に見えてくるのです。

 

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これは、異端に侵されつつあるキリスト教界に見られる風景と非常に酷似しているように思われます。聖書は、牧師制度を認めていないにも関わらず、(プロテスタントの)キリスト教界は牧師制度を基本原則として成立しています。つまり、牧師制度は聖書に違反して成立しているのです。また、聖書には、教会籍や、神学校という概念が全くありません。にも関わらず、教会には教会籍があって、信徒は牧師の許可なく離脱の自由がままなりません。また、神学校が存在し、そこで良い成績を収めた牧師たちが教会に派遣されて信徒を教え、多くの信徒数を獲得して教会の権勢を伸ばした者が牧師界の中でも出世して行くのです。また、牧師家庭出身の子弟たちが神学校などで見合い婚姻するので、牧師という支配階級はすでに世襲制の世界となっています。聖書は人が努力によって救われる可能性など全く認めていないのに、教会に行くと、信徒は献金、ご奉仕を熱心にしないと、信仰が保てないかのように教えられ、絶えず高いハードルをクリアするよう努力し続けなければなりません。


キリスト教界のこのような制度や伝統は、少数のエリートを生み出すための日本の教育制度や産業界の有様に非常によく似ていますが、根本的かつ完全に、聖書に反しているものであり、神に仕えるために救われたクリスチャンを、牧師や教団という人間組織のために仕える道具や召使のように貶めています。聖書がそもそも牧師という存在(支配階級)の存在を許していない以上、牧師を頂点とする教会内のピラミッド構造は全く反聖書的な支配と搾取の構造ということになります。


こんなことが起きるのは、本物のふりをして偽物が大手を振って偉そうに支配しているからであり、純粋に神を求めていたはずの多くのクリスチャンが、まんまとその罠にはまって、彼らの嘘に騙されて、ねずみ講のようなピラミッド型の搾取のシステムに取り込まれ、はまり込んでしまっているからに他なりません。多くの異端の思想の流入も問題ですが、それ以前に、キリスト教界は構造そのものが聖書に反しているのです。初めから堕落しているのに、どうして途中から改善することができるでしょうか。



しかし、実に同じことが、日本の官僚制度にもあてはまるのです。憲法は、国家公務員を普通選挙で選ばれた人々としており、官吏とは別物であることを示しています。


日本国憲法第15条1項~3項
「1.公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2.すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
3.公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。」



ここで公務員は国民の選挙によって選ばれた人々を指していることが分かります。ですから、官僚は、国家公務員試験という訳のわからない難解な試験を突破したいかにも頭脳優秀な人々かも知れませんが、選挙を受けていない以上、国家公務員と呼ばれるべきではないのです。選挙を受けて選ばれているのは政治家であり、政治家こそ本来は国民の代表であり、国家公務員と呼ばれるにふさわしいのです。



憲法上、官僚は「官吏」と記されており、これについて書かれているのは第7条5項、第73条第4項の二項です。「官吏」という言葉は、明治時代に官僚制度が出来た頃から使われていたものですから、明らかに、「公務員」と「官吏」とは別物であることが憲法の文言から明確に分かります。明治時代に大日本帝国憲法のもとで始まった官僚制度でも、難解な試験が義務付けられていましたが、そこでは主権者は国民ではなく、天皇ということになっていたので、官僚は天皇の直属機関であり、その任命や人事などについては議会も関与できない仕組みとなり、天皇の聖域のようになっていました。


それにも関わらず、なぜ明らかに選挙を受けていない「官吏」が「公務員」ということにされているのでしょうか。今日、官僚のために国家公務員法という法が制定されており、そこで「官吏」が「公務員」読み替えられていますが、これは明らかに官僚が憲法に違反して国家公務員を詐称していることになります。つまり、大日本帝国憲法の廃止と日本国憲法の制定により、天皇は主権者ではなくなり、国民の象徴とされ、真の主権者は国民であるとされました。それに伴い、官僚も主権者たる国民に仕えるために存在するものとなったにも関わらず、こうして憲法を勝手に読み替えることにより、官僚は、本来、真の主権者たる国民によって選ばれた政治家のためにこそ備えられていたはずの地位を奪ってしまったのです。しかも、選挙を受けておらず、国民によって任命も罷免もされていないのですから、自分たちの不利益になる部分は勝手に除外して、美味しいところだけを盗んだのです。こうして大日本帝国憲法はすでに廃止されたにも関わらず、官僚はその頃に持っていた地位と権限を温存しようとして、議員などの政治家よりも上に立つことによって議会からの干渉を排除し、真の主権者たる国民に仕えることを拒否したのです。これは横領であり、憲法そのものへの密かなクーデタです。


こうして、もともとその立場が横領によって始まり、密かに国民を裏切って、廃止されたはずの大日本帝国憲法の精神をそっくり温存しようとして密かに滑り込ませた以上、そのように始まった官僚制度が、国民のために機能するはずがないことは火を見るよりも明らかなのです。官僚は、新しい憲法の精神を受け入れることを拒むことによって、敗戦によって起きた変化を拒み、果ては敗戦そのものも拒んで、戦前の風土を今日に至るまで密かに温存しており、今も主権者が国民だとは全く思っていません。また、選挙で選ばれた政治家の政策に従わなくてはならないとも思っていません。では、今日の官僚は一体、誰に仕えているのでしょうか。もはや天皇が政治に関与しておらず、大臣の任命も名目上でしかないとすれば、官僚は、まさに主人がいなくなって自己目的化したのであり、己の他には誰にも仕えていないことになります。


ですから、そのような風にして国民の目を盗み、国民を裏切って始まった官僚が、日々、いかにして国民を苦しめ、騙し、国民の血税を少しでも多く巻き上げて私腹を肥やすかということにのみ気を遣ったとしても、何ら不思議ではありません。主権者たる国民に仕えているというのは、単なる見せかけでしかなく、彼らは心の中では、仕えるべき主人など誰もいないと思っているのです。敗戦によって起きた変化を何も受け入れておらず、戦争中に犯した失敗や犯罪など、認めているわけがないのです。天皇にも仕える必要がなくなったので、もはや自分自身が神であり、誰にも裁かれる必要がないと思っているとしても不思議ではないのです。

* * *

ですから、こうして憲法に違反して、戦前の風土を今日に持ち込み、選挙で選ばれた政治家からその地位を奪って、国家公務員を詐称している官僚集団が、いまや憲法そのものも自分たちに都合よく変えようとしているのは不思議ではありません。彼らは自分たちの違憲状態が見抜かれないために、今日の日本国憲法など、できるだけ早く消し去ってしまいたくて仕方がないのです。そして、大日本帝国憲法によく似た、自分たちが決して罪に定められることなく好き放題に振る舞えて、議会を含め、誰にも干渉されず縛られることなく、間違っても、愚かな国民になど仕える存在に貶められないように、逆に国民の方が官僚によって支配され、多大なる制限を受け、場合によっては官僚が国民を罰することさえできるような、彼ら好みの違った憲法を制定したくてたまらないのです。


それはちょうどグノーシス主義者が最初は聖書を敬い、神を敬っているように見せかけながら、その実、どんどん聖書のみことばを変えていき、聖書とは「異なるイエス」、「異なる霊」、「異なる福音」(第2コリント11:4)を宣べ伝え、やがては、公然とみことばを否定して、神に逆らうようになるのと同じです。官僚たちはこのクーデタを時間をかけて着々と行って来たのです。彼らは敗戦によって罪を暴かれ、罰せられ、新しい法に従うように求められたのに、それを受け入れずに、罰せられる以前の過去を復元して、以前の地位を取り戻そうと、密かに国民を騙し、裏切って今日まで来たのです。


これは大変、恐ろしいことです。官僚のクーデタは今も完成に向かって時を刻んでいます。彼らが目指しているのは、官僚が国民の生殺与奪の権を握っていた戦前への逆戻りです。「神の代理人」や「神のみことばを取り継ぐ教師」を勝手に名乗る牧師たちが、あたかも聖書を信じ、信徒を助けるように装いながら、その実、聖書のみことばそのものに反して、教会を私物化し、信徒を支配し、搾取し、信徒の富を横領して虐げているのと同じように、官僚集団は、あたかも憲法を敬い、国のためを思い、国民に仕えているように見せかけながら、その実、国そのものを横領して私物化し、国民を支配と搾取の対象とし、いずれは彼らの犯罪行為を証明する憲法そのものも廃止しようと企んでいるのです。つまり、彼らは、何者にも縛られず、自らが法になろうとしているのです。神になろうとしていると言っても、差し支えありません。

* * *

こうしたことを皆さんはどう考えるでしょうか。聖書に反した「一握りの指導者層」、憲法に反する一部の「エリート集団」が、いつまでもネズミ講のような横領のシステムの中であなたを虐げ、不可蝕賎民のように蔑み続けることが皆さんの望みでしょうか。そのような人たちが本当に「偉い」人たちだと思いますか。


こうした不法な少数者による国ののっとり、密かなクーデタ、目に見えない革命が進行し、彼らの悪い企みを見抜いて反抗した人々が、逆に罪を着せられて追放されていくような、正義も真実もない無法集団による恐怖政治が始まることが、あなたの望みでしょうか。


本当の罪人は誰でしょう。それを早く明らかにしなければなりません。


王妃エステルが、悪い大臣ハマンが王の心をたぶらかし、全権を握って民族絶滅のお触れを出した時、たとえ自分が殺されてでも良いから、それに立ち向かうことを決意した聖書のエピソードを思います。結果、何が起きたかというと、モルデカイを殺すために自分が用意した処刑台に、逆にハマンが吊るされることになりました。


「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。」(ルカ8:17)


 諦めるにはまだ早すぎます。悪は大手を振って勝ち誇り、至るところを跋扈しているように見えるかも知れませんが、神はすべてを見ておられ、それぞれの行いに応じて報いられます。人はどんなに高い地位についても、神にはなれません。それは神に対する反逆行為です。私たちが自分に都合が悪いからと勝手に聖書を書き換えることはできず、私たち自身が聖書に従わなければならないのと同様に、官僚にも、勝手に憲法や法律を書き換える権利はなく、彼ら自身が憲法や法律に従わなくてはならないのです。最高法規である憲法に違反するような法律は、いくら定めても無効です。憲法に違反する議論は、どんなに国会で積み重ねても無効です。


牧師制度は間違っています。聖書に反するような制度は、どんなに長年かけて巨大に作り上げても、腐敗していくばかりで何の意味も持たないのです。キリストは、神を独占して自分たちだけの専売特許として売り物にしていた偽善者のエリート集団から、信じるすべての人々を解放して下さいました。敗戦によって、すべての日本人は間違ったイデオロギーに突き動かされる天皇とその手先となった官僚集団によって、彼らの利益のために戦争の道具として使い果たされる奴隷になることから解放されたのです。


私たちは自由になったのですから、再び奴隷に落とされることを断固、拒否せねばなりません。神を詐称して、空き放題に振る舞い、民を再び奴隷に貶めるような計画を黙って放置しているわけにはいきません。


「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放して下さいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)


真理は私たちを自由にします。真に子羊の血潮によって罪赦されて、自由にされたことを信じるならば、私たちは再び、私たちを奴隷に貶めようとするあらゆる圧迫に対して、断固、立ち向かい、そのくびきを拒否することができるはずです。


「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)


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