忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

キリスト経由でいただく命

キリスト者は、主の御霊によって導かれて生きているのであって、その命はキリストと共に神のうちに隠されている、私たちは、この世に対しては死んでおり、もはや自分の肉に対して生きる責任を負ってはいない、ということを、たとえば私はどんな瞬間に感じるだろうか?

 答え: ご飯をちゃんと食べられている時に感じる。

 そのご飯が、主が備えて下さっているものであることが分かるからである。私は蒔かなかった、だから、本来、刈り取る資格のないものをいただいている。主は一羽の雀を生かすように、わたしを生かしていて下さる。さらには、これまで私の生存に無関心だった人が、私のために食事を備えてくれていたりするの目にするのは、本当に奇跡を見るようである。
 エリヤを養われたように、神は、今、私をも養ってくださるのだなあと実感して、感無量だ。これまで食事は大きな問題であった。だが、今は、私の命が尽きることがないように、神ご自身が心配して下さっているのだと考えることは、本当に喜びである。

 答え: 絆創膏が用意されている時に感じる。

 傷を覆う絆創膏が尽きた。さて、ではどうしよう、と思う時に、まず祈る。すると、誰かが頼みもしないのに、すでに何かを用意してくれているのである。やはり感動である。

 こんな風にして、日常生活の具体的必要の全てを、何もかも、祈りによって主に願い求める。すると、本当に、私の命を支えているのが主であるという事実が、生活を通して、分かって来るのだ。今まで、肉にあって自分を支えようとひたすらあくせくし、失敗したり、不足してきた様々なことが、こんなにしてもらって良いのだろうかと思うほどに、主によって備えられていることを知る。

 この一歩、一歩を通して信頼を学んでいくのが大切だろう。よちよち歩きの子供が、親の手にすがって歩くようなものだ。神が本当に根気強く、また気前よく、人の面倒を見て下さる方であることを学ばせてもらっている。今は、見えない主の御手に思い切りよりすがろう。

 世界がたとえどんな混乱に見舞われようとも、キリスト者にだけは関係がないと信じられるほどの安心。こんな安心は、これまで味わったことはなかった。
 キリストの十字架を信じ、御霊に導かれて生きることができれば、人生はこんなにも楽になるのだ。世に対して死ぬまでは、かなり厳しい道のりだったが、世に対して死んでしまってからは、楽になった。不思議なことである。

 主がよくして下さったことを何一つ忘れるな!

PR