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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

「私に従ってきなさい」

「さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。」(マタイ4:18-22)

「イエスは彼に言われた、『もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい』。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」(マタイ19:21-22)

「そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、『ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか』。イエスは彼らに言われた、『<…>おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。』」(マタイ19:27-29)
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 ペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネが、家や仕事、慣れ親しんだ故郷の土地を捨てて、イエスの招きに従った日のことを私は考える。
 彼らがすべてを捨ててイエスに従った日から、約2000年が過ぎた。だが、今日も、キリスト者が召し出される方法は基本的に変わらない。イエスに従うことを求められる時、私たちは、この世と完全に訣別することを求められる。それがこの道の特徴の一つでもあるだろうと思う。

 主イエスが私たちを呼ばれる時、そこには目に見え、耳に聞こえる形での具体的指示が伴うわけではない。誰か指導者が、私たちにどこへ行って何をなすべきか具体的に教えるということはない。この先あれこれの団体に所属して、このような仕事をせよという命令がどこかから下ることもない。(そのように人を介した形で伝えられる召しには要注意である。)個人預言があるわけでなし、未来の具体的ビジョンもない。

 だが、どこからも明確な指示がなくとも、それでも、不思議に、内なる御霊によって、私たちは自分がキリストのために今、すべてを捨てるように求められていること、この世と訣別するよう求められていること、家、父、母、兄弟、姉妹、妻、子、友人といった、肉なる人間関係を捨て置いて、また、田畑、家屋、財産といった地上的な富にもさよならを告げて、自分の命の心配をすることさえやめて、身一つで、御霊の導きだけに従って、新しい地へ旅立つよう求められていることを理解するのである。

 全てが曖昧で、不明瞭のようだが、明確に分かっていることが一つある。それは、私たちの行く先が、見えない教会としてのエクレシアであるということだ。
 そのエクレシアは、まだおぼろげで、生まれたばかりで、形も見えない。決して、それには団体名はついていない。しかし、私たちはとうの前から、自分がそこへ召し出されていることを知っており、そのおぼろげなエクレシアが、よりリアリティを持った現実としてこの地に実在するために、その見えない「一つ」の中に身を投じるために、キリストの御身体の小さな細胞として、すべてを捨てて旅立とうとしているのである。

 私はこの世を後にして、キリストの愛の一致の中に、身を投じようとしている。これから何が始まるのか、さっぱり分からない。ペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネも、きっと何が何だかよく分からないままに、イエスについて旅立って行ったことだろう。しかし、そこには平安があった。喜びがあった。イエスへの愛があった。私たちは、キリストがせよと命じられることに、どうしても、逆らうことができない。たとえ理性では理解できないようなことであっても、どうしようもないほどのイエスの魅力に引きこまれ、また、彼の命令が与える絶対的な喜びと平安に満たされて、気づくとすべてを捨てて、すでに従っているのである。その日、キリストは私たちにとって、この世の何にもまして、現実となる。

 私は考える、当初、全財産を捨ててイエスに従うことができなかったあの金持ちの青年でさえ、きっと、後になって、御心を理解し、何らかの方法でこの世と訣別させられ、この道に入ったのではないだろうかと。なぜなら、イエスが発せられた御言葉は、御父の命令なのであり、それがむなしく散じるということはあり得ないからである。イエスご自身が青年を招かれたのに、彼が従わなかったということが、どうして考えられよう。人の魂には受け入れ難いことであっても、神にはできる、イエスはそう示唆された。だから、あの青年は、少し後になって、どうしようもなく御霊にとらえられて、この世を捨てて、身一つで、完成者なるイエスに従う道に、飛び込んで行ったのではあるまいか。

 「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
  わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
  主は言われる。
  天が地よりも高いように、
  わが道は、あなたがたの道よりも高く、
  わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。<…>

  このように、わが口から出る言葉も、
  むなしくわたしに帰らない。
  わたしの喜ぶところのことをなし、
  わたしが命じ送った事を果す。
  あなたがたは喜びをもって出てきて、
  安らかに導かれて行く。」(イザヤ55:8-9,11)

 今私は、本当は、大きすぎる喜びのゆえに、エクレシアに連なる成員に、何もかもを語り告げたくて仕方がない。けれども、あえて静まって、主と二人きりで、一歩一歩、歩みを進めて行くことにしたい。そうすることによって、この道で私を導いておられるのが、本当に、ただ主であることを、よりはっきりと認識できるようになると思うからである。

 今までのような頻度でブログを更新することはできなくなるだろう。けれども、今は私にとって、とても厳粛に、秘めやかに、大切に取り扱われるべき、歴史的瞬間であると思うので、野暮ったい詳細な報告などは後回しにして、御霊にあって生きるということに、喜びをもって、専念することにしたい。
 そんなわけで、皆さんも、どうか主にあって、喜びと平安のうちに日々を送られますように。

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