忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

神のエコノミー(1) 自己犠牲による借金返済はむなしい

「あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言い伝えに基づくものにすぎない。キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。」(コロサイ2:8-10)

「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるであろう。」(マタイ25:29)
 

 人間には基本的に二つの生き方しかない。一つ目は、人類の罪という負いきれない借金を自分で背負って、それを何とか自分で返済しようと努力し、もがき、苦しみながら生きていく方法。そこでは、どんなに努力しているつもりでも、借金はあまりにも重く、もがけばもがくほど、利子は増え、負債に負債が増し加わり、せっぱつまって失敗が重なり、やがて自己破産へと近づいていく。それはマイナスの上にマイナスが増し加わる生き方である。

 もう一つは、神によって巨額の借金を全額返済していただき、すっきりと身軽になって、人生の再スタートを切り、その後の人生の行程も、全て神にお任せし、ただ御霊の導きにだけ乗っかって進むという楽な生き方。時に窮乏するように見えることがあるかも知れないが、心にはいつも平安があるので、道に迷って堂々巡りしたり、重荷を負って、きりきり舞いして苦しむということがない(マタイ11:28-30)。
 さらに大きな喜びがある。それは、あなたが神の財産の良き管理人とされ、神の財産を的確に運用することで、それを豊かに増やす使命を帯びていることだ。こうして、あなたの豊かさは、神の財産の利息で暮らしていけるほどになり、あなたは豊かに与えるキリストの性質に自分もあずかり、人にもその豊かさを存分に届けて生きていく者となる。

 この二つの生き方には、決定的な違いがある。あなたはどちらの生き方を選びたいだろうか? マイナスの世界を一歩も出られない、借金まみれの人生か、神にあって、プラスを構築し、豊かな財産を成していく生き方か。負いきれない負債の自己返済という課題だけで一生を終えるのか、それとも、負債などというものから完全に解放されて、キリストの豊かさをさらに増し加え、神に喜ばれる人生を送るのか?

 前回、チェルノブイリ原発事故のリクヴィダートルの話を持ち出したのには意図がある。私たちキリスト者が、十分に気をつけなければならない、ある悪しきイデオロギーについて触れたいと思ったからだ。その悪しきイデオロギーとは、人間の肉による自己犠牲を賛美する思想のことである。私たちはそれを警戒し、退けなければならない。

 キリスト者は、生まれながらの人間による、生まれながらの人間のための自己犠牲を賛美したり、美化したり、それに感謝を捧げたりしてはいけない。そんなものに負い目を感じて、束縛されるようなことがあってはならない。

 神を知らない、生まれながらの人間には、自分のために各種の生贄を要求するわがままさが本能的に備わっている。人間は自分のためにどこまでも利益をもとめてやまず、そのために他人を踏み台にし、犠牲にしてはばからない。他人に犠牲を強いる人間の身勝手な要求は、「道徳」や「慣習」にすりかえられて、公然と幅を利かせているだけでなく、時には、他人に命を捨てることを堂々と求め、他人を生贄とすることを積極的に肯定し、奨励するような、悪しき宗教、思想、イデオロギーを生み出すことがある。

 生まれながらの人間は、元来、自分のために他人が苦しむことを損失と思わず、自分のために他人が死ぬことさえも追い求め、それを「貴い犠牲」として美化し、喜ぶような醜い心を持っている。これは人間の堕落した悪しき性質から出て来るものであり、それが宗教や思想にまで高められると、大変、恐ろしい。

 たとえば、線路に落ちた子供を助けるために、ある青年が線路に飛び降りて、子供の命を救ったが、自分は電車に轢かれて死んでしまった…という事件が起きたとしよう。すると、世間は早速、それを美談として報道する。青年の「隣人愛」や、「自己犠牲の精神」を誉めたたえ、彼が自分を身代わりにして、子供の命を「救った」ことを賞賛するのである。そこには、まるで青年が死んだのは良いことであり、彼の死は「私たちのためでもあった」とでも言いたげな雰囲気がある。青年の命が失われたという損失には注意を払わず、彼が他人の犠牲になって死んだことを美化し、喜ぶのである。

 このような、肉なる犠牲を喜ぶ精神に基づいて判断するならば、チェルノブイリのリクヴィダートルは、まさに「私たちのために自己犠牲を捧げてくれた貴い人たちだった」という結論になるだろう。彼らが悲惨な死を遂げてくれたおかげで、大規模な放射能汚染が食い止められ、残りの人類が、今、安全に暮らせるようになっているのだ…、だから、彼らの「貴い犠牲」によって、私たちは生かされていることを知るべきであり、その恩恵について、彼らに感謝を捧げるべきである、彼らはまさしく人民の英雄だったのだ…という話が出来上がるだろう。
 だが、このような考え方に、キリスト者は絶対に同意してはならない。私はそう信じている。一体、人による犠牲が、人を救い得ようか。そんなものは人間の身勝手によって作り出された考え方、要するに、人身御供の肯定でしかないのである。

 疑いを抱いている人のために、このことが誰にでも分かるように、さらに丁寧に説明しておきたい。かつて、私たちの歴史に、人柱というものが存在していたことがあった。どこまで事実であったのかは分からないが、伝承によれば、たとえば、ある地域で、氾濫を繰り返す河のせいで苦しめられた村人たちが、それが悪鬼の祟りによる仕業だと考えて、悪鬼の怒りをなだめるべく、生きた人間を川岸に埋めて、彼(彼女)を生贄に捧げることによって、氾濫を食い止めようとした…、といった話がある。

 このような話を聞くと、私たちは何という不毛で恐るべき考え方だろうかと、ぞっとするだろう。河の氾濫を防ぐためには、堤防を建設することが必要不可欠なのであり、自分たちの仲間の中から、誰か生きた人間を岸に埋めたところで、何の解決にもならない。そんなものは、損害に損害を増し加えることにしかならないではないかと。

 さらに、今、どこかの火山が大規模に噴火したとしても、その噴火を人柱によって埋められるなどと考える人は一人もいないだろう。たとえ何万人という数のリクヴィダートルを現地に派遣して、噴火口で人柱となって火山灰に生き埋めになってもらったとしても、そんな犠牲によって火山の噴火を食い止めることは不可能だと誰にでも分かる。

 ところが、こういう話を聞いて、何と愚かなことよと言ってせせら笑う人たちが、ほんの数十年前には、我が国で、同じことをやっていたのである。つまり、何らかの巨悪の進出を食い止めるために、人々が次々と己の命を生贄として差し出し、そうすることが美徳とされ、奨励され、強制され、制度化されるような時代がこの国にあったのである(今でも恐らくその精神は残っているだろう)。

 私たちはこのように、「人間の自己犠牲から何かが生まれるという考え、自己犠牲を美化する精神」、「人間の自己犠牲を宗教にまで祭り上げる精神」というものの恐ろしさをよくよく考えてみる必要がある。一体、人が他人のために人身御供となって命を捨てることを、美徳として奨励するような思想に、どんな気高さがあるのだろうか? 自分の身代わりの生贄として、身近な他人を堂々と死に赴かせておきながら、彼らが死んだ後になって、塚や記念碑を立てて、「私たちはあなたの貴い犠牲に感謝を捧げます、私たちはあなたのおかげで今生きられているのです、あなたたちのことは忘れません」などと言うことが、果たして、真実な感謝の名に値するだろうか? 断じて、それは人類の身勝手に身勝手を増し加えた行為でしかない。

 私たちは今、誰のおかげで生きているのだろうか。私たちのために、犠牲となって死んで下さった方はただお一人である。その方の死によって、私たちは生かされ、アダムの堕落以来、絶えることなく続いてきた人類のあらゆる罪の負の遺産から解放されたのである。

 アダムの堕落は、どんな原発事故もかなわないほどの史上最悪の汚染を全地にもたらした。アダムの堕落がなければ、大地は不毛とはならず、人類史には死そのものが持ちこまれていなかった。そのアダムのもたらした問題に、完全な解決をもたらしたイエスの十字架は、その貴い血潮によって、私たちの最悪の借金を棒引きにした。こうして、史上最悪の問題をすでに解決している十字架は、今日的な様々な問題にも、すでに解決を与えて余りあるものなのである。

 キリストの十字架は、あらゆる問題に対する永久不変の万能膏薬である。十字架こそが、私たちを全ての脅威から救いうる、ただ一つの解決である。それがどんな問題であろうと、関係ない。家庭問題であろうと、病であろうと、地震であろうと、戦争であろうと、放射能汚染であろうと…。世の人々はこれを聞いて、愚かな信仰だと笑うだろうが、十字架は救いにあずかる私たちにとっては、「神の力」である(Ⅰコリント1:18)。

 従って、貴い犠牲とは、何か。それは、十字架で血を流された小羊をおいて他にない。私たちのために生きた人柱としてご自分を捧げられたのは、イエス・キリストただお一人であり、その犠牲の御業はすでに完成したので、それ以上の犠牲は、誰にも必要とされていないのである。
 だから、人間の努力によって、十字架に何かを付け加えようとしたり、新たな贖いを作り出そうとする行為や思想を、私たちは、忌むべきものとして、きっぱり退けなければならない。人間によって作り出される様々な犠牲が、私たちを罪による堕落や、脅威から救い出すのではない。
 何度も繰り返すが、私たちを死をもって贖い、生かして下さっているのは、イエス・キリストただお一人である。だから、この方以外の誰かの死や、自己犠牲を、偉業として誉めたたえたり、それが贖いの犠牲であるかのように感謝を捧げることを、忌むべき偶像崇拝として、私たちは退けるべきである。

 人間の肉による自己犠牲を高らかにほめたたえようとする宗教は、神から出て来たのではない、人の肉から出て来た、悪しきイデオロギーである。それはサタンの作り上げた人命の使い捨て思想であり、人殺しの思想であるため、この先も、何らかの脅威を持ち出しては、人類を脅迫し、絶えることなく、その負債の返済のために、人柱を要求し続けることだろう。

 リクヴィダートルが、チェルノブイリから私たちを救ったのではない。チェルノブイリは今も、人類の火薬庫のような脅威として存在し続けているが、あの原発にとっての本番は、恐らく、これからになるのではないだろうか…。リクヴィダートルの犠牲が、痛ましい損失でしかなかったことは、今後、歴史によって、さらに明らかにされるだろうと思う。チェルノブイリのために要求される人柱は、これからも絶えないであろう。

 だが、私たちは感謝しよう、キリストの十字架を信じている私たちは、もはや各種の脅威が迫り来る時、存在もしない何らかの神々の怒りをなだめるために、あるいは、支払いきれない罪という借金を返済するために、自分の命を犠牲にして、人身御供として我が身を差し出すという誤りに陥らなくて良いのである。私たちはイエスの十字架によって、すでにあらゆる脅威から解放されているのである。

 私たちが警戒しなければならないのは、キリストの十字架によらずに、人間が自らの自己犠牲によって、人間を救おうとする様々なイデオロギー、価値観、宗教である。それら人間の努力や、血と汗と涙が結晶化して出来上がっている肉的価値観、肉なる宗教をこそ、警戒しなければならない。それはどんなに犠牲を高らかに謳いあげていようと、結局、負債に負債を増し加える結果にしかならず、生贄の上に生贄を要求するばかりで、貧困から貧困へと落ちていくのである。

 現在、ニッポンキリスト教は、そのような自己犠牲の精神で固められた宗教となっている。そこでは、イエスが完成された十字架の贖いが退けられて、逆に、人間の努力、人間の自己犠牲、人間の血と汗と涙によって作り上げられた計画や運動が、高らかに誉めたたえられている。だが、小羊の聖めの血潮によらないで、どうして人間が救いを得られよう? 「私は神のためにこれほど多くのものを捧げ、これほどの努力をし、これほどに自分を捧げました」と、どれほど自らの犠牲を誇っても、幸福は遠ざかり、苦しみは増し加わり、借金はますます大きくなり、負いきれない負債だけが残るだろう。それはマイナスからマイナスへの人生である。だからカルト化教会には貧困と悲惨と死しかないのである。

 では、そのような永遠に返しきれない借金返済の義務からすでに解放されて、神の財産の管理人となっている私たちは、どのようにしてキリストの豊かさを人々に届ける存在となるのだろうか? どうすれば、その豊かさはプラスからプラスへと増えていき、キリストの満ち満ちた豊かさにまで達するのだろうか。続けて、そのことを見てみよう。

(P.S.朝から3時間以上かけて書いたワード文書が、パソコンがフリーズし、全部、ぶっ飛んでしまった。いささか意気消沈したが、重要な内容だったと思うので、何とか復元に努めた…。ちなみに、ロシア語の聖書で黙示録の「苦よもぎ」にあたる単語はполыньでした。)

PR