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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

一事不再理の原則(1) ~東京裁判の否定―日本のグノーシス主義的原初回帰~

彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」
(ヨハネ3:18)

一事不再理の原則、これはキリスト者なら誰でも信仰的な意味でよく知っていることだろう。

信仰者は、キリストが我々と共に十字架において罰せられ、その身代わりの裁きが、自分のための裁きであったことを信じるときに、罪を赦され、裁きから解放される。

救いは一度限り永遠で、キリストの受けた裁きを自分のものとして受け取るならば、信者は二度と裁かれることはない。判決はすでに下った。その事実を信じて受け取るか、受け取らないか、それによって個人の命運が永遠に至るまでも分かれる。

自分が罪を犯したことを認め、裁きに値することを受け入れるのには勇気が要るが、 一度裁かれた者は、二度と裁かれることはない。

一事不再理、司法の原則と同じことが信仰にもあてはまる。

しかし、信じない者には、これは当てはまらない。キリストの裁きを自分のものとして受け入れないなら、その者はこれから裁きを受けなければならない。

「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、 」 (ヘブル9:27)



 同様のことを、私は日本の敗戦や、東京裁判についても考えてみる。

日本は第二次世界大戦に負けて無条件降伏し、連合国の設置した極東国際軍事裁判(東京裁判)では、戦争を引き起こした日本の指導者らが有罪の宣告を受けた。

ウィキペディア「極東国際軍事裁判」の冒頭より引用。

「この裁判は連合国によって東京に設置された極東国際軍事法廷により、東條英機元首相を始めとする、日本の指導者28名を、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した[1]「侵略戦争」を起こす「共同謀議を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて[1]行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、人道に対する罪(C級犯罪)および通常の戦争犯罪(B級犯罪)の容疑で裁いたものである。

「平和に対する罪」で有罪になった被告は23名、通常の戦争犯罪行為で有罪になった被告は7名、人道に対する罪で起訴された被告はいない。裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。

日本政府及び国会は1952年(昭和27年)に発効した日本国との平和条約第11条によりこのthe judgments[2]を受諾し、異議を申し立てる立場にないという見解を示している[3]


このように、日本政府の公式見解が、東京裁判の判決に異議を申し立てないものであることは、上記注[3」のリンクにある通り、外務省のホームページに記されている。

(後日追記:注) 極東軍事裁判に関するこの日本政府の見解を示す外務省ホームページは、2015年8月14日、安倍談話の発表直前に削除された。朝日新聞の記事等を参照。)

問7.極東国際軍事裁判に対して、日本政府はどのように考えていますか。

  1. 極東国際軍事裁判(東京裁判)は、戦後、連合国が日本人の重大戦争犯罪人を裁くために設置された裁判で、28名が平和に対する罪や人道に対する罪等により起訴され、病死または免訴となった者以外の25名が有罪判決を受けたものです。
  2. この裁判については様々な議論があることは承知していますが、我が国は、サンフランシスコ平和条約第11条により、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しており、国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはないと考えています。

(参考)サンフランシスコ平和条約第11条

 「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法 廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の 決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、 行使することができない。」


日本政府は、東京裁判の判決を公式に正当なものとして受け入れ、その路線に沿って、約70年近く戦後処理を行なってきた。にも関わらず、ある人々は、まるで歴史をひっくり返そうとするかのように、東京裁判はアメリカから押しつけられた不当な裁判であるため、その判決は受け入れられないと言う。

このような議論は今に始まったものでないが、昨今、再びその論調が高まってきているように感じられる。それはどうにも、東京裁判で下された日本の戦争遂行者に対する有罪判決は、不当な恥辱を我が国に負わせるものであり、これからの日本の穢れなき面目を保つためには、何としても払拭しておかねばならないと考える人たちが、公然と現れて来たためであるように見える。

なぜそんな主張が、今更のように起きているのであろうか。それはもしかすると、日本に新たな戦争を起こしたい人々が、その遂行に大義を与えるために、再び国家主義を復活させる目的で、歴史を改ざんしようとしている可能性がある。

日本政府がかつて起こした戦争が悪とみなされればみなされるほど、これからも、日本の戦争遂行に大義を与えることは非常に困難となる。そこで、戦争遂行したい勢力から見ると、敗戦の事実そのものが認めがたい恥辱であり、敗戦に伴い、かつての政府要人が有罪判決を受けた事実などは、可能な限り速やかに消し去ってしまいたい目の上のタンコブのように見えていたとしてもおかしくない。



しかしながら、それよりももっと深い問題として、私はここにグノーシス主義思想の存在を感じないことはできないのだ。

それは、これからも追って書いて行くように、このような歴史修正主義的な考えの中には、原初回帰と、権威に対する反逆の霊の存在があることを感じずにいられないからだ。

もっとはっきり言うならば、そうした考えの中には、己を罪に定めた権威者に対する恨みと、その権威者によって下された有罪判決を覆すことにより、その権威者に対して復讐を果たし、罪に定められる前の潔白な自分を取り戻したいという願望があるように見える。

だが、このようにして、歴史を逆行してでも、一旦自分に下された有罪判決を覆し、罪に定められる前の穢れない自分の状態を取り戻そうという願望こそ、あらゆるグノーシス主義に特徴的な考えなのである。

つまりは、原初回帰、である。グノーシス主義思想は、人類が神に対して罪を犯して原罪を負ったという事実を認めず、人が神との関係を覆し、己が神となることにより、自力で堕落以前の状態に回帰し、あらゆる問題を解決してユートピアに至るという、決して叶うことのない到達目標を掲げている。
 
上記の政治的な主張においても、これと同様の構図が見られるのである。ここでは、日本を罪に定めた者とはアメリカを始めとする連合国であるから、連合国によって押し付けられた東京裁判の判決や、”押し付け”られた憲法”を廃することにより、敗戦国としての屈辱と制約から抜け出し、「強者」である連合国との関係を覆し、「弱者」のくびきから抜け出し、雪辱を果たしたいという考えがあるように見受けられる。
 
何よりも、その根底にあるのは、自分が有罪であるとは認めがたい、有罪判決を受けることが耐えられないという思いである。自分は罪人などではないから、己に下された罪の判決という不当な恥辱から何としても抜け出し、汚名を返上し、罪を犯す前の無傷で潔白な自己を取り戻したいという願望があるように見える。

すなわち、戦争犯罪という「前科」で汚れた歴史を払拭し、「今まで一度も罪を犯したことのない」、「潔白で」、「穢れのない」、「真っ白な日本史」を取り戻したい 、そのために敗戦という事実は、戦勝国によって不当に押しつけられた屈辱の歴史として排除し、あれは正義の戦争だったということにして過去を正当化し、自分のルーツである歴史を浄化したいというわけだ。

戦争犯罪という罪を負わされる以前の、穢れない潔白な日本のイメージへ回帰したいという願望」、 それが、「日本を取り戻す」という、一般人には半ば意味不明な自民党の短いスローガンに如実に表れているのではないか。つまり、取り戻したいのは、敗戦に至る前の、戦前の日本なのである。

戦争犯罪人を祖父に持つ現在の首相にとって、もしかしたら、それは単に日本史のルーツを浄化することだけでなく、自分自身のルーツを浄化することにも重なり、よって人生をかけた悲願なのかも知れない。そのような首相を代表にいただく日本全体が、今やその病的な復古の流れに巻き込まれつつあるのではないか。

だが、もっと深い意味でとらえるならば、これは首相自身のルーツや、日本のルーツというレベルだけでなく、まさにグノーシス主義の思想が引き起こしている現象であり、人類のルーツそのものへ通じる問題であると言える。この問題は、人類が己の罪の問題に対してどのような態度をとるかという普遍的な問いに通じているのである。

己を罪に定めた強者との関係を覆すことにより、己に下された有罪判決を退け、強者に復讐を果たし、罪によって堕落する以前の自己へ回帰しようという願望は、あらゆる形態のグノーシス主義思想の土台である。己の罪から目を背け、堕落する以前の状態に自力で逆戻りしようとする試みこそ、生まれながらの人間の神に対する根本的な反逆精神を表すものであり、あらゆる異端思想の土台をなすからである。

グノーシス主義思想の根底には、神が人に対して下した有罪判決を、人自身の力によって覆したいという願望がある。そこで、このような思想に立つと、人が己に下された有罪判決を退けるためには、必然的に、その判決は不当だったと主張せざるを得ない。さらに、ただ判決が不当だっただけでなく、その不当判決を下した神も、不当な神(悪神)だったということになる。こうして、神を悪者にして神に反逆するということが、グノーシス主義思想には必要不可欠になる。

 このような原罪の否定と原初回帰の願望というグノーシス主義的な願望は、歴史を振り返ると、何も安倍首相の歴史修正主義に限らず、共産主義を含め、あらゆるユートピア主義者たちの理論に、再三に渡り、登場してきたものであった。

だが、聖書によれば、堕落した人類が、歴史を逆行して罪を犯す以前の状態へ回帰することなど不可能である。

だからこそ、キリストの十字架があるのだ。人が罪から贖われるためには、神による救済を通らなければならない。人自身による自己救済の道は存在しない。 罪なき神の子イエスが十字架において罪人として自分の身代わりに罰せられた刑罰を、人が自分自身の刑罰として受け取るからこそ、キリスト者は再び裁かれないで済むのである。だがもし、自分を罪人でないと主張して、十字架における裁きを退け、神が人類に下した有罪宣告を退けるならば、それは神の判決を否定することを意味し、神の救いが適用される余地はその人にはもうない。だから、キリストの血による贖いを受けることはできず、自分で裁きを受けて、自分で弁明しなくてはならなくなる。だが、どんなことをしても、人が自分の罪を否定することはできないので、その裁きは人にとって大変恐ろしいものとなるだろう。

人類史そのものが、振り返れば、人の拭い去ることのできない罪の絶え間ない証明であると言える。時と共に人類の残酷さはますますエスカレートしており、時計の針を戻すことはできない。仮に百歩譲って、昔の人類が今ほどまでには悪くなかったという説に立ったとしても、どうやって、これほどの悪しき歴史をすべて拭い去って、歴史に逆行して、人類を無罪として名誉挽回することなどできようか。

にも関わらず、己のうちに罪を認めない態度は、あからさまな歴史的事実をさえ否定して、人類の無謬性を主張しようとする恐ろしいイデオロギー思想を歴史上、幾度も生み出して来た。

この人間の無謬性という考え、すなわち、人のうちに罪を全く認めないという考え方以上に、忌まわしく、恐ろしく、罪深い考え方はない。なぜなら、それは人が自分を神とすることに等しいからである。



かつて日本の政治指導者たちは愚かにも自己の無謬性を信じ、国民もまた愚かにもそれを信じで滅びへ突入して行った。

「神国日本」などと言って、自国を神聖なものに祭り上げ、戦争に負けるはずがないと確信していた。

多くの日本人が死ねば神になれると言い聞かされて、死んで神になって靖国に祭られることを望んで戦死して行った。

その結果、何が起こったのだろう?
負けるはずのない「神国」が負けたのだ。

神国のはずが、信じていた神に裏切られ、彼らの神は国を救わなかった。希望通り、靖国に祭られたのは、戦死者のうちごくわずかであり、おびただしい数の戦死者は、未だどこで朽ち果てたのかさえ分からないまま、その遺骨は大陸に埋れている。あるいは運よく見つかって帰還しても、身元も分からず引き取り手もないまま、埋葬さえされずに今日を迎えている。

今、立ち止まって考えてみなければならない。我々は日本国民として、かつて戦争であれほど苦い経験を味わったにも関わらず、自分に下された有罪判決を再び退けて、まるで一度の罪も犯さなかったかのように、過去に学ぶことなく以前の「清潔な歴史」に戻ることを主張して、再び愚かな戦争に突入していきたいのであろうか。

これは私たちが敗戦国としての日本に下された有罪判決とどう向き合うのかという問題に直結しているが、もっと深いところでは、私たちが己の内深くに巣食う罪や悪の問題に、どう向き合うのかという問いに直結する

皮肉なことである。人を罪に定めるという行為は、一見、失礼な行為にも見える。あなたは罪人だと言われて気分が良い人はいないだろう。だが、振り返ってみて、本当に自分は罪人ではないと主張できるほど、我々は潔白なのだろうか。「私たちは罪人ではなく、罪を犯したこともない」という主張は、一見、人にとって耳障りよく、プライドをくすぐるだろう。しかし、その耳障りの良さとは裏腹に、そのような自己反省の欠如した傲慢な思想は、大変に恐ろしい無責任状態へと人々を駆り立てていきかねないのだ。

東京裁判で戦争犯罪人が裁かれたとき、いわばこの国全体が裁かれたのだと言える。たとえ生まれていなかったとしても、我々も一緒に裁かれたのだ。勝てるはずもない愚かな戦いに無謀に挑み、負けるべくして負けた事実を認めるのには確かに苦痛が伴うかも知れない。だが、一度、その判決を受けてしまえば、二度と裁かれることはない。

だから、どちらを選ぶことが得策だろうか。己の罪を認めて一度限り判決に服することか、それとも、罪を拒み続けて以前よりももっと悪い過ちを犯し、もっと重い裁きを受けることか。

自国が罪を犯したことを認め、その有罪判決を受け入れ、戦争を永久に放棄したがゆえに、世界において、日本はこれまで平和の使者として尊敬を集め、平和に活動することが出来た。その信頼と実績を、今全て放棄し、罪など一度も犯したことがなかったかのように主張して、もう一度、裁きを受けたいというのだろうか。

ラスコーリニコフは社会正義のために殺人を犯し、その殺人を正当なものであったかのように見せかけようとするが、ついには己の罪を認めて、流刑へと出発せざるを得なくなった。

正義の殺人などというものは存在しない。日本国憲法も同じように、正義の戦争は存在しないと主張している。勝っても負けても、戦争はいずれにせよ悪である、その理念に立ってこそ、戦争そのものを永久に放棄したのである。

ただ敗戦国であったから、権利を制限された状態で、やむなく戦争を放棄せざるを得なかったという消極的な決断ではなく、勝ち負けという概念をはるかに超えて、人間の冒すべからざる尊厳を擁護する側に立って、戦争とはどんな場合であっても人間性を脅かし破壊する悪であるとみなして、これを永久に放棄したのである

その決断を下すに至るまでに、あれほどおびただしい数の民の犠牲がなくてはならなかったのである。それにも関わらず、その犠牲さえ無視して、今また己の無罪を主張して、過去と同じ暴挙へ進んでいくのでは、何のための犠牲であり、何のための歴史なのか。我が国は過去から一体、何を学んだことになるのだろうか。仮にそんなことを望む人たちがいたとしても、そんなにまでも学習のない愚かな人間として私は生きたくない。

だから、裁きを受け入れるかどうかは自己責任だ。再び裁かれるのは、罪を認めず、裁きを受け入れなかった人たちだけにしてもらいたい。

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