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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

一点キリスト

 「一点キリスト」。これはSugarさんから学ばせていただいた言葉だ。
 私たちがキリストの歩まれた道を歩む時、主のご計画に基づいて、さまざまな不思議な出来事が身の回りに起こって来る。しかし、そんな時、私たちは決して、自分の五感に訴えかけてくる現象の中に主がおられると思って、現象に注目し、現象そのものを求めるようになってはいけない。
 また、祈っても、何の現象も起こらず、主からの応答もないように思われる沈黙の時があるだろう。しかし、そんな時にも、現象の有無を基準にして、御心をはかっているようではいけない。

 御霊に導かれて歩むとは、五感に訴えかけるこの世の現象に基づいて、私たちが信仰の判断を下すことではなく、ただ信仰の導き手であり、完成者であるイエスから目を離さずに、この方だけを見つめながら、歩み続けることである。
 ただ一点キリスト。私たちが見るべきは、このお方だけである。そうしていれば、どんなことが周りに起こっても、現象に惑わされて、信仰を見失うことはない。

 たとえるならば、この世は不完全な鏡のようなものであって、そこに映し出される主の栄光は、全体のほんの一部分、しかも一つの角度からの反映に過ぎない。「私はありてある者」と言われる方は、鏡の中にはお住すまいにならず、四隅に区切られない、永遠を住まいとされる。だから、この世の現象がキリスト者にとって、どんなに素晴らしく感じられることがあったとしても、私たちの眼差しは、いつもこの世を越えて、ただ見えない世界にだけ注がれる、思いはいつも、御座についておられるキリスト、ただそれだけである。

 さて、無事、家を決めてきた。
 夜行バスはさすがに疲れる。解体が進むチボリ公園前の広場で、深夜、バスに乗り込み、翌日、たった一日で、引越し先を決めて戻って来た。

 これまでに幾度も引越しを行った経験に立つと、見知らぬ土地で、一日で、しかも5つにも満たない選択肢の中から、物件を決めるというのは、無謀極まりないことである。今回、私は、これが最善であるとの確信を持てる策を実行したつもりだが、行ってみると、さすがに、こんなことをやっていて、本当に大丈夫だろうかとの恐れが心をよぎった瞬間があった。(最近、気づいたことは、肉体的に疲労困憊している時は、聖霊の導きに対しても鈍感になるということである。)

 だが、主は不思議な方法で道を開いて下さり、制度上の不可能事をさえ、次々と、可能として下さり、私は困難を乗り越え、3つの選択肢の中から、最良のものを選ぶことができた。非常に悪くない選択だったと自分でも思う。

 とある独立行政法人の営業センターで契約について話をしていた最中、私が隅々まで暗譜しているセザール・フランクのヴァイオリンソナタ イ長調がかかっていた。その時には、気にもとめていなかったのだが、今から考えると、我が主は、まことに茶目っ気のある方のようで、こんな形でも、私の門出を祝福して下さっていたのかも知れない。

 今回、私は一つ一つの行程を進むに当たり、幾度も、主の明確な導きを求めて祈った。チボリ公園の解体工事を例として学ぶべきであるように、キリスト者は、自分の欲望や、目先の利益だけに惹かれて、自分勝手な計画を立てても、決して、その後の人生は上手く行かない。私たちには、真理に逆らっては、何事も成し遂げる力がないのだ。そのことを、私は幾度、自分の人生で、思い知らされてきただろう…。莫大な資金と、果てしない労力をかけて、精魂こめて積み上げてきた計画が、失敗に終わり、人手に渡され、無惨に解体されていくところは、もう二度と見たくない。

 だから、今は何事についても、主との質疑応答の繰り返しの上、進んでいる。これから先も、きっとそうなるだろう。特に、今回、私が引越しに関して、すでにいただいているいくつもの証拠の上に、また新たに主に願い求めた証拠は、私が選んだ物件を、父が祝福してくれるように、ということであった。

 それはかなえられた。帰宅して引越し先について報告すると、父は「良かったじゃない、いいところが見つかって」と喜んでくれた(それに支援を快諾してくれた)。今回、父が私のためにしてくれたことは本当に大きい。十字架の和解があったので、もはや家族の間に恨み事はないが、もし今、私がそのような負の感情を引きずっていたとしたら、このような恵みを受けることもなかっただろう。

 さて、山積する次なる課題の中でも、最大は職探しである。パウロが教会に迷惑をかけないために手ずから働いたように、私も、この先、エクレシアに迷惑をかけずに済むよう、一刻も早く、今のような窮乏生活から抜け出したいと本気で願う。主はこのことをも必ず、かなえて下さるだろう。

 そして私には今もう一つ、主に願い求めている証拠があるが、それはエクレシアの成員と会う時まで、この先のお楽しみとして取っておきたい。

 以上のことは全て、主がなさったことであり、私の力にはよらない。私に必要なのはいつも、信仰を持って応答することだけである。そして、この先も、私には一連の大変な行程が待っており、その全てを一人でこなさねばならないのだが、その中においても、主との静かで密接な交わりを保つなら、そこで、一つ、一つ、主の導きを見いだすだろう。御霊に導かれて歩むということの味わい深さを、こうして、日々、経験していくことができるのは、何にもましてゴージャスな恵みだと思う。

 田舎に帰ってくると、すでに稲穂が色づきかけていた。いよいよ収穫の時が近づいて来ている。

 主を恐れる人はだれか。
 主はその選ぶべき道をその人に教えられる。
 かれは みずからさいわいに住まい、
 そのすえは地を継ぐであろう。(詩篇25:12-14)

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