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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

いつもただキリストを思う

「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた…」(Ⅰテモテ2:5)

「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」(Ⅱテモテ2:8)

「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(Ⅱテモテ3:12)

* * *

 今日、家族とのお別れ会を済ませた。誰もがくつろぐ、なごやかな席となった。主が我が家に与えられた平和。どんなに得がたい贈り物だったことだろう…。

 自己に死んで以来、主にあって、私は俄然、健康を取り戻した。毎日、1.5~2人前くらいの食事を摂っている。これまでになかったことだ。生きる意欲が、内側から回復しているのが分かる。
 本当に、主が共におられると、不思議極まりないことが、毎日、起こる。まるで何十年間も盲目だった人が、急に目が見えるようになったように、私は今までと違った世界を目のあたりにして、毎日、目をしばたたいている…。

 不思議の第一は、毎朝、目覚めた瞬間から、ただ主のことだけを考え続けていることだ。石の心が取り除かれ、肉の心が与えられた。私の思いがすっかり変えられてしまった。今やイエス・キリストに関わること以外は、何一つ、私の気を引かなくなってしまった…。

 ある人々は、それを宗教マニアだと笑うかも知れない。キリストを第一優先すると言いながら、マニアックな狂信に落ちているだけだと…。だが、第二の不思議は、私が人情にも義理にも価値を置かなくなったことだ。人からの外面的評価を意に介さないので、冷たい人間になったと思われるだろう。以前に大切にしていた諸々の人間的価値が、私に対して死んでしまった。

 特に、人知によって塗り固められた偽りの宗教、偽りの道徳、人間の作り上げた各種の倫理道徳的しがらみに対して、私は強い嫌悪を催すようになった。この世の価値観に嫌悪を催すことはあまりなく、何にもまして、耐えられない思いがするのは、宗教的偽善に対してである。神を崇めているように見せかけながら、その実、人間の努力を誇ろうとする心、人の血と汗と涙の結晶としての宗教的道徳や、宗教的遺産を誇ろうとする心、善を装いながら、その実、肉なる人間を立てようとする偽善、義理人情に縛られた遠慮と執着…、そういうものに、嫌悪を催すようになった。生まれながらの人間が、生まれながらの人間(死体)を延命させるために作り出す各種のきれいごと、括弧つきの善意こそ、何にもまして、耐えがたいものとなった…。

 生まれながらの人間の努力の結晶を弁護しようとの気持ちは、私にはもうない。たとえそれがどれほど敬虔な信仰心に見せかけられていたとしても、だ。生まれながらの人間の善意は、全て、死すべきものである。人間の努力によって作り上げられる宗教など、さっさと滅びた方が良い。それを擁護しようとの気持ちは、私には毛頭ない。だが、このように言えば、きっと、先人の努力を理解しない、人類の偉大なる宗教的遺産をないがしろにする、冷たい、独りよがりな人間だとの非難を免れられないだろう。だが、たとえそのような非難をこうむったとしても、構わない、イエスの復活の命以外のものを賞賛したいという気持ちは、私にはもうないからだ…。人間の努力による独りよがりの礼拝は、もうやめよう…。

 さて、話題を戻せば、今夜はただ美味しい食事にあずかれただけでなく、満足そうな家人の顔を見ているだけで、十分に満たされた食事会であった。血肉による家族に平和が戻ってきたことが嬉しいのではない。血肉による家族が、私の家族なのではないことは分かっている。私の家族は主によって生まれた兄弟姉妹だ。しかし、魂を失ったことによって、魂を得た。家族の魂を失ったことによって、私は彼らをもう一度、得たのだ…。

 自分の努力によっては、どうしてもつかめなかった平和が、そこにあった。ラバンがヤコブをさんざん苦しめたように、彼らは私の人格を燃え盛る炉の中に投げ入れ、そこで不純物である私の自己を死なせる役割を担った。それは主のご計画の中で許された出来事であったが、肉なる私にとっては、何と苦しい試練に感じられたことだろう。何十年間、その火に苦しめられて生きてきたことだろう。
 それが今や終わり、私たちは一切の隔ての中垣を取り除かれて、共に和解のテーブルに着いた。私が死んだことによって、和解が訪れた。自分の力では、自己に死ぬことさえもできなかった。すべてが上から、主によって与えられたことであり、私の努力による達成は何一つもなかった(何か誇れるものがあるとしたら、それはあまりにも不完全で不平だらけのみっともない忍耐だけだろう)。これは、どんなに神に感謝しても足りない恵みだ。

 新しい土地で、何が私を待っているのかさっぱり分からない。何のために主が私をそこへ持ち運ばれようとしているのか、今は全く不明だ。だが、主が私を祝福のうちにこの地から送り出そうとして下さっていることが、とても嬉しい。
 以前にも書いたことだが、神が召し出された者たちは、何らかの方法で世から隔離され、特別な忍耐の要求される苦境を通らされるように感じられてならない。私たちが自分から世を出て行くのではなく、不思議な方法で、自然と、世から遠ざけられ、患難が向こうからやって来るのだ。私のこの一年間の孤独と苦痛も、主が私に与えられた一種の隔離であった…。

 今は、主にあっての兄弟姉妹たちが与えられているので、私は一人ではない。初めは、このつながりが、この先、めまぐるしいほどの勢いで、強化され、増えていくのだろうと思っていた。しかし、そうではないことに気づいた。世からの隔離は、これからも終わらないだろう…。

 私は神の御前に、独り者として、これからも、歩み続ける必要がある。必要に応じて、交わりは与えられるだろうが、それにしても、荒野で、ただ一人きりで御前に立つこと、キリストにのみ捧げられた純潔の花嫁として、神の御前にただ一人で立ち続けること(これは生涯を独身で通すといった世的な意味ではない)が、私の神への真心の証としてこれからも求められるだろう。ただイエスお一人だけを見上げ、イエスだけに心を注ぎ出すために、私は荒野に導かれたのであり、ある意味で、荒野は終わったが、これからも荒野は続くのだ。

 御子の降誕を告げる天使の歌声を聞いた荒野の羊飼いたちのことを思う。一体、なぜ、天使たちの麗しい歌声を聞く特権を、他でもない貧しい羊飼いたちが得たのだろうか? 彼らに信仰心などというものがあったのだろうか? 分からない。どうして神が、彼らを選ばれたのか、分からない。東方の博士たちにしてもそうだ…。けれども、神はいつもそのような不思議な方法で働かれる。神は人の誉れの集中する場所には決して現れず、取るに足らない、打ち捨てられたような人々に眼差しを注いでおられる…。

 だから、私は今までと同じように、何の荘厳さもなく、きらびやかさもない荒野にいよう。そこで、静かに、差し向かいで神を礼拝することを続けよう。そこには、人知による信仰の手引き書は一切なく、いかなる方法論もない。目に見えるレールはどこにもない。御言葉なるイエスという見えない道を、御霊に従って、進んでいくだけだ。不安と言えば不安だ。レールがないのだから。けれど、真実と真心を主に捧げ、この先の道を示してくださいと主に願い求めながら、一歩、一歩を進んで行こう…。

 道は見えないが、霊には安息がある。今、分かっていることは、私は自由とされたのだから、二度と奴隷のくびきにつながれてはならないということ。そして、我が主が地上において、そしられたように、私も恐らく、この先、同じか、それ以上にそしりを受けるようになるだろうということ。そのそしりは、世から来るのではなく、何よりも、信心深い信者を自称する人々から最も激しくやって来るだろう。

 今はキリスト教においても、異端が花盛りだ。人々が健全な教えに耐えられなくなり、自分の好みに合わせて、よりどりみどりの教師や、カウンセラーを立てては、そこに殺到している、背教の時代である。そんな中で、偽教師たちを告発するような、まことの信仰者が現れれば、逆に、彼らこそが偽物であるかのように攻撃され、中傷されるのは当然だろう。

 (偽教師を人知によって見極めることは不可能な場合があることによくよく注意されたい。何が本物であるか見極めるためには、真実、御霊による証印を受けていることが不可欠である。クリスチャンには絶対に聖霊に導かれることが必要である。そのことを何度でも繰り返したい。)

 だが、厳しい迫害の中でも、しっかりとイエスに従う人々の道は、必ず守られるだろうことを信じて疑わない。このパラドックスを何と言い表せば良いだろうか。私は、手ぶら同然で出かけようとしているのに、豊かになることを信じており、何の保証もないところへ踏み出すのに、安全が守られると信じ、荒野へ導かれると思いながらも、ますます兄弟姉妹との愛の一致の中に入れられることを疑わず、落ち着き先がないのに、自由であると感じ、迫害を覚悟しながら、ますます栄光に満ちた姿へと変えられることを信じている。

 主は不思議な方であり、主が用意された矛盾の中を生きることは楽しい。私の魂と肉から出た計画には滅びあるのみ。私の思いをはるかに越えて、何にもまして優れた主の御旨がなりますように。

 さて、この先、しばらく、ブログはお休みです。皆様、良い秋をお過ごしください。

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