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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

アブラハム、イサク、ヤコブの神

つい先日、ある青年を病室に訪ねた。
数ヶ月前、初めて彼に会おうと思いついた時、
私はまだ遠い地に住んでおり、
こんなにも早く、主が私たちを会わせて下さるとは思ってもみなかった。

私とある兄弟とは、主のすばやい采配に驚きつつ、病院へ向かった。
だが 二人の心の中には、溢れる喜びがあった。
受付で面会を申し出て、青年と三人で向き合った時、
開口一番、彼が私に向かって話し出したのは、
『アブラハム、イサク、ヤコブの神』についてだった。

私は度肝を抜かれた。
わずか数日前に、私はその本を贈呈されて、読み始めたばかりだった。
しかも、青年が話し出したのは ヤコブがもものつがいを外された話。
道中の電車の中で、私がちょうど目を通したばかりの箇所だった。

すべてが偶然とは思えない面会。
主は何を意図して、この状況を整えて下さったのだろう?

さて、クリスチャンは、
アブラハム、イサク、ヤコブの3人全ての経歴を持たなければならない、
この本の中で、W.ニーは確かにそう言っている。
アブラハムだけではダメ、イサクだけでもダメ、ヤコブだけでもダメなのだ。
この3人全ての経歴を クリスチャンは持たなければならない。

信仰の父と呼ばれたアブラハム、
彼は信仰によって、父なる神から約束の嗣業を得た。
イサクは父に従順に従い、全てのものを父から受け継いだ。
策謀家だったヤコブは 生まれつきの性格を聖霊から取り扱われなければならなかった。

この3人のうち、私たちが最も避けて通りたいのは誰だろう?
きっと ヤコブ だろう。
私たちは 自分の生まれつきの性格が 聖霊によって打ち砕かれることを好まない。
自分の性格が それほどまでに悪く 腐敗しており、
神の働きの妨げになっているとは 認めたくないのだ。

だが、主はクリスチャン人生のどこかで、私たちの性格を取り扱われる。
私たちが 持って生まれた性格に、絶望せねばならない時が来る。
天然の魂から来るエネルギーが もはや 私たちを生かさない時が来る。

青年は私に向かって言った、
「生まれつき活発な人がいたとしても、果たして、その活発な性格が、
本当に主に喜ばれるものなのか、分からないですよね。
生まれつき、内向的な人がいても、その性格が、
そのままで主に用いられるのかどうか、分からないですよね。
自分の性格を聖霊によって管理されなければ、
本当の意味で 私たちが神のために働ける日は来ないのでしょう」

私たちは注意しなければならない、
アブラハムの子孫すべてが神の民なのではない。
イサクの子孫すべてが神の民なのではない。

ハガルから出たイシマエルは 父の嗣業を受け継ぐことはできなかった。
長子の権を売り渡したエサウも 父の嗣業を受け継ぐことはできなかった。
これらの人々は、選ばれた者の血筋をひいてはいるが、本質的には
肉によって生まれた 神の民に敵対する 約束の子ではない者たちである。

バプテスマのヨハネが民に向かって言った言葉を思い出そう、
「まむしの子らよ! 
迫り来る神の怒りから逃れられると 誰がおまえらに教えたのか。
自分たちの先祖には、アブラハムがあるなどと、思ってもみるな。
神はこの道端の石からでも、アブラハムの子孫を起こすことができる!」

今、その言葉通りに 肉によれば アブラハムの子孫であるはずの民が退けられ、
肉によっては アブラハムの子孫たり得ない異邦人が 
信仰によって アブラハムの子孫に接木されて 約束の子とされた。

だが、注意しよう 約束の嗣業を受け継ぐためには、
私たちは アブラハム、イサク、ヤコブ全ての子孫でなければならない。

今日、とりわけクリスチャンに欠けているのは、
ヤコブの経歴、だろう。
信仰によって義とされ、従順に恵みを享受し、聖霊によって管理され、日々、自己を否む。
この最後のステップが 何と私たちには 欠けていることだろう。

私たちは ヤコブのように 御霊によって びっこにされなければならない。
天然の自己を失うことなくして クリスチャンは 決して神の望んでおられる完成に至ることはない。
願わくば 主が私たちを憐れんで 早くもものつがいに触れて下さるように。

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2016年、この記事もある意味、今から思い返すと感慨深いものがある。
筆者は関東に来る前、KFCのメッセージをネットで聴いていたが、そこでDr.Lukeが「あなたたちはアブラハム、イサク、ヤコブのうち誰に習いたいですか?」と信者たちに尋ねていた。

ある信者が(今だから誰だかも分かるが)「イサク!」と、Dr.Lukeの望み通りの答えを嬉しそうに叫んでいた。

その頃のDr.Lukeは、筆者から見ると、その当時の筆者には望むべくもないほどの多くの富を手にして高みに輝いているように見えたが、同氏はそれらがすべて、「(神の)恵みによって与えられた」ものであることを強調していた。自分はヤコブのように、望んでいるものを獲得するために、もがき苦しんだり、人を出し抜いたり、策略を巡らすタイプではなく、イサクのように安息のうちに約束のものを上から受け継ぐのだと。

当時から、何事についても、絶えざる戦いを経なければ、約束のものを獲得することのできなかった筆者は、そういう生き方もあるのだなと、感心していた。

そして、もしすべての願いを、戦いも、苦しむこともなく手に入れることができるならば、ぜひとも自分もイサクのようになりたいものだと考えていた。

だが、今現在、Dr.Lukeは当時誇っていたイサク型の生き方を完全に離れてしまい、むしろ、ヤコブの策略によって長子の権を奪われたエサウのようになっている。己の欲のために、神の子供としての御国の後継という、最も売り払ってはならないものを売り払ったのである。

その結果、神の承認によらず、自己申告によって、「自分は神だ」と宣言するにまで至っている。

どうしてそのような恐るべきことが起きたのか、その過程をつぶさに検証するつもりもないが、それにしても、この世の欲や、人の賞賛への二心を捨てられなかったことが最も大きな原因であろう。

これは筆者の見解であるが、人の人生にはある意味、公平なところがあって、信仰者は決して己の人生においてすべての苦難や試練を避けて通ることはできないのだ。誰もが経験する痛みや苦しみや悲しみを全く経ておらず、常に苦しみとは無縁の安楽な人生を歩み、苦労なしに幸福の絶頂に輝いているかのように振る舞っている人間には、必ずウソが隠されており、その人には、当然、減るべき十字架の死を回避して歩んだ分だけ、その後の人生で、待ち受けている苦難は大きいものであるということが言えるのではないかと思う。

 Dr.Lukeに限らず、当時、筆者が出会った信者たちの多くが、恵まれた時代に青春を迎え、窮乏だとか、苦しみだとかとはおよそ無縁の生活を送っていた。むろん、彼らは自分たちにもそれなりに悩みはあったと当然、言うであろうが、その悩みの深さが、我々の世代とはまるで違ったのである。そうであるがゆえに、彼らは筆者が何のために苦しんでいるのか、その苦しみも、悲しみも、全く理解することができず、それは筆者が若く未熟なせいだと思い込んで、いつまで同じところを堂々巡りしているつもりかと辛辣に批判していたのであった。

だが、その彼らが、当時の姿そのままに、現在も安楽で平和な生活を送っているかと言えばそうではない。

その人々は信者を名乗っていたが、彼らの幸福は、時代の趨勢が与えたものであって、信仰によって獲得したものがどれほどあったのかは不明である。彼らは主の御名のゆえの苦難を甘んじて受けようとはしなかった。苦難がやって来ると、そこを通らなくて済むように、巧妙に従来の信仰を曲げるか、捨てるかして、世の情勢に自分自身を合わせ続けたのである。それが、カッコいい生き方だと、彼らは思っていた。だから、当時、筆者がエクレシアだと考えて交わっていた人々の大半は、恐るべきことに、後に異端の教えに逸れて行ったのである。

その結果、彼らはイサクとしての生き方ができなくなった。そのことを彼らは未だに認めようとはせず、あらゆる方法でごまかしているが、いずれ結果は誰の目にも明白になろう。つまり、本当に彼らが御国の後継者たる資格を今も持ち続けているのかどうか、それは必ず、明らかにされるのである。
 
誰もが通る試練がやって来た時、自己の美が失われることに耐えられず、もものつがいが外されることを頑なに拒み続け、他の哀れな信者たちの窮状や苦しみを高みから見下して、自分たちは彼等とは違うので、そのような痛み苦しみを通らされることはないと豪語しながら、まるで王侯貴族のように欲しいままに振る舞っていた人々は、ついには御国の後継者から除外されていくのであろうと筆者は考えている。
 
筆者自身は、未だヤコブのような人生を送っているが、それはそれで良いことであり、少しばかりイサクに近づいて来た側面もあるように思う。恵みによって手に入れた事物がそれを証明している。今では、「もものつがいを早く外して下さい」などと神に向かって祈ることはしない。わざわざそんなことを願い出なくとも、時の流れの中で、主の采配により、信者は自然に様々な学びをして変えられて行くことを知っているからである。

ただ、自己を神とするような恐るべき冒涜に落ちないことと、そのような誤った教えを信じる人々の誘惑や欺きに巻き込まれないことを祈るばかりである。

若い時に苦しみを受けるのは良いことだと聖書に書いてある。何の苦しみもなく人生の絶頂期を過ごし、その幸運を神の恵みだと誇っては自慢しながら、他者の窮状を見下していた人々の末路を見るとき、運命に甘やかされすぎることは、本人にとっては都合が良いかも知れないが、その人の人生全体に実に恐ろしい害をもたらすのだと思わずにいられない。

だから、筆者は自分の悩み苦しみと全く無縁でないこの地上の人生を振り返って自らケチをつけたり、それを恥じるつもりはない。苦しみのない人と比べて、自分は不幸だ、とも思わない。むしろ、筆者のあらゆる弱さの中に生きて働かれるキリストを賛美するのみである。筆者がどれほど傍目に不器用に、あるいは、無駄に苦しんでいるように見えようとも、神は「わたしの恵みはあなたに十分である。あなたの弱さの中に、私の力(強さ)が完全に現れるからである」と言われるだろう。
 

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