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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

霊の人が直面する危険

霊の人が直面する危険 を再掲します。

「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
心の思いと意図を素早く識別します。」(ヘブル4:12、改訂訳)

 今までの流れから見ると、急に話が飛躍してしまうが、ある必要性から、この記事をぜひとも書かせていただきたい。

 すでに幾度も書いてきたように、多くのクリスチャンは、御子イエスを救い主として信じた時から、内側に聖霊をいただいているが、依然として、自己が強く働いているため、御霊の働きを妨げ、実を結ぶことができないでいる。そこで、私たちは御霊によって訓練を受け、また啓示を受けることにより、自己を否み、自己に死ぬということを経験し、外なる人の固い殻から解放され、外なる人と内なる人が真に一体化した霊的な人へと変わらなければならない。

 しかし、ここに第二、第三の重大な危険性が潜んでいることについて述べたい。私たちはどのようにして自己を否むのだろうか? どのようにして自己から脱却するのだろうか? 自分の努力で? 環境を変え、心機一転することによって? 催眠療法によって? カウンセリングによって? 旅行に出ることによって? …そんなことはまず不可能である。外的影響力によって、私たちは少しも自己から抜け出ることはできない。それどころか、私たちが外的影響力に自己を解放し、誤った方法で自己から脱却しようとする時、それはかえって、私たち自身を悪霊の影響下へと導き出すものとなるだろう。

 人の魂と霊を切り分け、何が人の自己であって、何が神の霊であるのかをはっきりと指し示すことができるのは、生きて働く神の御言葉だけである。
 私たちは、聖霊の照らしを抜きにしては、何が自分の自己の魂に由来する衝動であり、何が悪霊から来る影響であり、何が神の御霊から来るものであるか、決して識別することはできない。私たちにそれを教えてくれるのは御言葉だけである。他の方法によって、自己を否もうとすることは、私たちを破滅へと導く。

 私たちは御霊に導かれる「霊の人」となる必要があるが、同時に、御霊以外の霊から影響を受けてしまうことに警戒しなければならない。全ての霊が神から来たわけではなく、サタンに支配されるこの世には、諸霊と呼ばれる邪霊や悪鬼がおびただしく働いている。そのようなものに影響される危険性にさらされているのは、スピリチュアル・カウンセリングや、ニューエイジや、占いや、オカルトにのめりこんでいる人々だけではない。また、巨大集会や、クルセード、個人預言集会などに駆けつけて、やたらと超自然的な現象の現わればかりを追い求めている聖霊派の熱狂的な信者だけが、悪霊の攻撃対象となっていると思うのは間違いである。

 私たちは、自らを「霊的な人」であると自称し、「私は自己を否んでいる」と自称する、随分と経験を積んだ、高度な段階にいるように見えるクリスチャンでさえも、キリストを証する霊ではない霊によって欺かれてしまう危険性があることによくよく注意する必要がある。

 もしも私たちが、生きて働く御言葉を通して、霊を識別する力をいただかなければ、私たちは自称「霊的な」人々にすぐにも欺かれてしまうだろう。誰でもちょっと観察すれば、すぐにでも、御霊に導かれているのではないと見抜けるような、キリスト教界でスキャンダルを起こし続けている有名指導者たちは、さほど大きな問題ではない。それよりも、私たちが本当に注意し、警戒すべきなのは、外なる人が一旦、砕かれ、御霊に従って生きる人になったクリスチャンでさえも、その後で、警戒を怠るならば、知らず知らずのうちに、各種の欺きや誘惑にさらされて、神の霊を封じ込め、神から来たのではない霊の影響下に陥ってしまう危険性があるということである。いや、一旦、霊的な人になった信者であるからこそ、全く霊的な方面に関して閉ざされている信者よりも、より一層、偽りの霊からの攻撃を受けやすくなっているのだということを知らなければならない。

 以下は、ジェシー・ペン=ルイス夫人著「魂と霊」第五章「霊的なクリスチャン」の中から、「霊の人が直面する危険」の抜粋。
 

* * *

 真に「霊的」になった信者、すなわち霊によって魂と体を治めている信者は、その時、戦いの領域から出たわけではありません。むしろ、エペソ人への手紙6章10~18節に記されているように、いっそう微妙な戦いの段階に入ったのです。エペソ人への手紙2章6節では、その人は「キリストと共に天上に座らされて」いると言われています。しかし後の方では、彼が「高きところ」にいる悪霊の軍勢と「格闘」している様子が描かれています。彼は特に、悪魔の「策略」に立ち向かわなければなりません。

 これからわかるように、戦いの中にある霊的な信者は、おもに霊の敵の巧妙な霊的策略に対して警戒しなければならないのです。敵は彼を、ガラテヤ人への手紙5章17節で描写されている肉と霊の戦いよりも、霊の領域に関する事柄に巻き込もうとしています。

 戦いのこの局面における暗闇の軍勢の策略は、霊の人を霊にしたがってではなく、ある程度魂にしたがって歩ませること、すなわち、神の聖霊と協力している霊によってではなく、感覚領域の中にある事柄によって歩ませることに、おもに向けられています。

 サタンの欺く霊どもは、人の霊の偽物を魂の領域に造り上げることができます霊的な信者はこのことを理解しなければなりません。これは重要です。欺く霊どもは、策略を用いて外なる人に接触することにより、次に霊からではない動きをその人の中に生じさせることにより、これを行います。このような動きは霊的に見えるかもしれませんが、いったん主導権を握ると、真の霊の動きを封じ、圧倒するほど強くなります。もし信者がこのような敵の戦略を知らないなら、たやすく真の霊の動きを棄ててしまうでしょう。彼は、「霊にしたがって歩んでいる」つもりなのですが、霊的な感覚の偽物にしたがっているのです

 真の霊の動きがやむ時、「神は今、新しくされた思いを通して導いています」と悪霊どもはほのめかすかもしれません。これは、彼らの偽りの働きと、人が霊を用いていないことを隠すためのたくらみです。それと同時に偽りの光が思いを照らし、続いて偽りの推論や判断などが生じます。その人は、「自分は神からの光を持っている」と思います。なぜなら彼は、自分が「霊にしたがって歩く」ことをやめてしまったこと、そして今、天然的な思いにしたがって歩んでいることに、気づいていないからです。

 霊の人が直面するもう一つの危険は、彼を肉(体)にしたがって歩ませようとする、サタンの欺く霊どもの巧妙なたくらみにあります。欺く霊どもは、人が「霊的」だと思う感覚を体の中に生じさせることにより、「自分はなおも霊にしたがって歩んでいる」という確信の下で、人を肉にしたがって歩ませようとします

これらの策略を打ち破るには、超自然的事柄を知覚するすべての肉体感覚だけでなく、通常の事柄を知覚する過度の肉体感覚をも拒まなければならないことを、信者は理解しなければなりません。なぜなら両方とも、思いを「霊にしたがって歩むこと」から逸らし、肉体的な感覚に向かわせるからです。

過度の肉体感覚は、絶えず精神を集中する妨げでもあります。敵は、霊的な信者の「肉体感覚」を「攻撃」することによって、精神の集中を乱し、霊を覆おうとします。ですから、体は平静に保たれなければなりませんし、完全な統制の下に置かれなければなりません。この理由により、過度の笑いや、精神と霊を支配するまでに肉体のいのちを高揚させるすべての「衝動的行動」は、避けなければなりません。「霊的」になって、神のいのちの中で「成熟」することを願う信者は、万事について、行き過ぎ、無節制、極端を避けなければなりません。(コリント人への第一の手紙9章25~27節参照)

 人の肉体的部分が支配し、体に感じる超自然的経験を誤解することから、体は霊の働きをさせられ、真の霊の動きを抑圧する最高の地位に無理矢理着かせられます。このような状況の下、は圧迫を感じ、葛藤を感じます。こうして、精神と霊のかわりに、体が「感覚」になります。信者は、真の霊の感覚を識別することを学ばなければなりませんし、それを見分ける方法を知らなければなりません。霊の感覚は、感情的(魂的)な感覚や肉体的な感覚ではありません。(マルコによる福音書8章12節、ヨハネによる福音書13章21節、使徒の働き18章5節などを参照)*

(筆者コメント:
 敵は信者の中に、偽物の「霊的感覚」を作り出します。それは御霊から来たのでなく、信者自身の魂から来るさまよう思いと、感覚(五感)に頼った刺激なのですが、信者はそれが「偽物の霊的感覚」であることに気づかず、それらが神から来たものであると思ってしまう場合があります。
 また、敵は信者に、五感に頼った外的刺激を霊的感覚であると取り違えさせることがあります。あまりにも五感から来る刺激が素晴らしく、快楽的である場合、信者の魂は、それに病み付きになり、自分が外的刺激のとりこにされていることにも気づかずに、むしろ、それが神の恵みであり、自然な生き方であると取り違えさえするのです。このようにして、自分を楽しませる刺激に過度に(もしくはひっきりなしに)身を委ねることを、私たちは警戒しなければなりません。)

 無知のゆえに、信者の多くは、「霊にしたがって歩んでいる」と感じながら、「魂にしたがって」、すなわち思いや感情にしたがって歩んでいます。信者は活気に満ちた霊の力を奪われています。悪魔の軍勢は、あらゆる策略を用いて信者をおびき寄せ、魂や体によって生きさせようとします。悪魔の軍勢は、閃く幻を心に見せたり、祈りの間思いに出現したり、強烈な喜びや生命の躍動感を体に与えます

(筆者コメント:
キリスト教界で頻繁に、神の名を語って与えられる幻や、祈りの時に信者に与えられる思いや、個人預言などが偽りである危険性がまことに高いことについては、再三、このブログでも触れてきました。それらは全て直ちに信ずるに値するものではなく、御言葉を通して吟味、識別しなければならないものであることには何度も触れました。しかし、ここで注意が必要なのは、別のことです。たとえば、強烈な喜びや、生命の躍動感などといった、一見、宗教とは何の関係もないところで起こる、極めて自然に思われるような感覚でさえ、敵からの欺きの感覚として信者に与えられる場合があることに、改めて注意してください。敵の狙いは、物質界から来る刺激を、私たちに唯一のリアリティとして信じ込ませて、真のリアリティである神の霊の領域から目を逸らさせることです、物質に目を向けさせて、御霊を見失わせることなのです。)


 外から与えられる超自然的事柄や、感覚領域の経験に頼ることは、内側の霊のいのちを妨げます感覚による「経験」というエサによって、霊の真の領域に生きるかわりに、体の外側の領域に生きるよう、その信者はおびき寄せられますその時彼は、自分の中心から行動することをやめ、自分の周辺領域で外側の超自然的働きに捕らえられ、無意識のうちに内側で神と協力することをやめます。そして、霊の敵と戦う聖霊の器官である彼の霊は、機能停止に陥り、黙殺されてしまいます。なぜなら、その信者は感覚的な経験で満たされているからです。その結果、霊は事実上、導く働きをやめ、奉仕や戦いの力を与える働きをやめます。

 聖霊と協力せずに働く人の霊から、深刻な危険が生じます。霊が魂から「切り離され」、支配的になる時、それは全く違った方法で欺く霊どもの影響を受けるようになります。前に示したどれかの方法により、あるいは他の方法により、(無意識のうちに)聖霊と協力することをやめてしまった人を考えましょう。

彼はなおも自分の霊によって導かれています。彼は、「自分の力強い霊は神の力の証拠である」と考えます。なぜなら、他の方面で聖霊が自分を用いて魂を勝ち取られるのを、彼は見るからです。このような幻想の下、彼の霊の中に怒りが込み上げてくるかもしれません。彼は、その怒りはまったく神からのものであると考えて、怒りをぶちまけます。しかし、真の識別力を持つ他の人々は、明らかに神からではない荒々しい調子に気づきます。

(筆者のコメント:
 欺く霊からの影響が、怒りの爆発や、過度な落ち込み、悲嘆など、あからさまにネガティヴな感情となって現れる場合は、周囲にいる人々は、その人が神の霊でないものに影響され、異常事態に陥ったことに比較的簡単に気づくでしょう。しかし、それが、普段より少しばかり大目の陽気さ、かなりの活発さ、多大な喜び、子供のような無邪気さ、歓喜や興奮、楽観、有頂天、自己愛、御霊に基づかない予知能力や、各種の霊的な洞察力となって現れた場合、そのようなものが、悪魔的起源を持つものだと、すぐに人々が見抜くことは困難です。なぜなら、それはすぐにその人や周囲に破滅的影響を及ぼすわけではないからです。しかし、このような影響は必ず、その本人を徐々に、そして最終的に破滅へと導いていきます。)


祈る人が警戒していなければ、語る時だけでなく、戦いの時にも、このようなことがすぐに起きるでしょう。悪魔的な力は、直接的に、または魂的な感情を通して、霊に影響を及ぼします。

 悪霊は人自身の中の神の働きを真似します人が聖霊と協力していない時、彼の霊は悪霊の影響を受けます。神と共に歩むことを求める信者は、この影響を理解し、見抜く必要があります。彼は霊的だからこそ、彼の「霊」は霊の領域の二つの力に対して開かれているのです。彼はこのことを知る必要があります。

もし「聖霊だけが霊の領域の中で自分に影響を及ぼすことができる」と考えるなら、彼は確実に誤りに導かれるでしょう。もしそうだとしたら、彼は絶対に間違いを犯さなくなるはずです。しかし彼は、目をさまして祈り、神の真の働きを偽物から区別するために、理解力の照らしを求める必要があります

(筆者のコメント:
キリストはカルバリーで勝利を取られ、天に昇り、御座につかれましたが、私たちはまだこの時空間に残されて、神とこの世の両方の陣営から引っ張られ、両方の影響を受けながら、神のために戦うことを要求されています。私たちはおびただしい敵に包囲されています。そこで真に勝利するためには、私たちは霊的に目を覚ましていなければなりません。それがなければ、私たちは敗北するでしょう。目を覚ましているとは、敵の働きが深く強力であり、自分では太刀打ちできないことを知り、決して、自惚れや、増長や、霊的怠慢、平和ボケに陥ることなく、絶え間なく、イエスの十字架の死と復活と昇天の力を自分のものとして受け取り、神の武具によって武装し、敵の欺きを看破し、来るべき試みに対して警戒していなければならないということです。)

 「霊的」な信者は、エペソ人への手紙第6章に記されている天的戦いの啓示を、深く熟慮しなければなりません。そして、「神のすべての武具」の経験的な意味を完全に知るよう努めなければなりません。敵の猛攻の「邪悪な日」に際して、彼は神のすべての武具を「取り」、用いなければなりません。

 この現在の時における神の霊の負担は、キリストの体の肢体を完成させること、完全に成熟させることです。それは、彼の再来が速やかに起こり、キリストとその共同の相続人たちの千年間の統治がもたらされるためです。こうして、世界は平和になり、サタンは敗北します。サタンは穴に投げ込まれ、この世の王国は主とそのキリストの王国になります。

 「主イエスよ、速やかに来てください。アーメン」

(筆者のコメント:
 言葉を変えるならば、千年王国が来るまで、戦いは少しも終わってはいないのです。それにも関わらず、キリストの勝利だけを指して、戦いはすでに終わっているので、クリスチャンは警戒する必要もないと思ったり、敵を何らかの団体や組織だけに限定して、それに近づきさえしなければ、自分は守られていると浅はかに考えようとすることは、私たちを敗北へと導くでしょう。
 私たちはこの世の影響に絶えずさらされており、この世は私たちを絶えず魂と肉に従って歩ませようとします。この世から来る全ての影響が、私たちの注意を御霊から逸らせます。しかし、私たちはキリストの身体をさらなる完成、成熟へともたらすために、絶え間なくこの世を拒み、私たちを滅びゆくこの世の影響力、外的刺激、魂の衝動に服従させようとする、敵のあらゆる策略を打ち砕き、それに勝利し、暗闇を駆逐しながら、御霊の照らしを受けて、まことの命である復活のキリストだけを選択し、前進していかなければならないのです。すべての命と勝利は(サタンの敗北でさえ)キリストの中に含まれており、キリストは完全な勝利を取られたのですが、しかし、この時代にあって、この時空間の中で、私たちが真実、それを受け取るためには、私たち自身がキリストの勝利をこの地に現実にもたらし、暗闇に支配される世に光をもたらす必要があるのです。それには、私たちが目を覚まして、敵の策略に一つ一つ打ち勝つことが不可欠なのです。


 どうか御霊の光によって、私たちが、神の霊ではないものを識別し、それらを看破して退け、私たちを、魂と、肉へと引き戻し、感覚に従って歩ませようとする全ての偽りの影響から抜け出すことができますように!)

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