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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

求めなさい、そうすれば与えられます

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ1:17-23)

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヨハネ15:7)

「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。」(ヨハネ16:24)

* * *

 ニッポンキリスト教界において、不正な事件のために傷つけられ、苦々しい思いのうちに、信仰を失って、去って行く人々が絶えない。そのような人々を見る度に、どうしようもなく心が痛むが、人に過ぎない私が、彼らをどうやって引きとめられるだろう。私に彼らを救う力があるわけではない。私の言葉の影響力によっては、誰一人の心をも変えることはできない。たとえ私が生涯をかけて、教界の不正を声を大に叫び、全力をかけて彼らと闘ったとしても、私には彼らを打ち倒す力はなく、すでに傷つけられた人々の心を癒す助けにもならない。さらに、そのような活動は、義侠心から出た肉の働きに他ならず、全て実を結ばない、むなしいものである。

 しかし、神が、知恵と啓示の霊をその人に賜るならば、どんなに深刻な被害を受けた人であっても、人間の力によらず、ただ神ご自身の力によって、自分が辿って来た道が、神によって絶妙に整えられたものであったことを見出すだろう。たとえ幼い頃から、不幸な事件の連続、不正な事件の連続ばかりを見聞きして来たとしても、災いでさえ、その人が主の御許に引き寄せられるために必要な行程だったことを見いだすだろう。彼は自分が神から愛されている(しかも特別に愛されている!)がゆえに、そのような特別の采配の下に置かれたことを知るだろう。そして、神は、その人が心から神を呼び求めるならば、必ず、窮地からその人を救い出して下さるだろう。

 だから、ある人に私は言いたいのです、希望を失わないで、神に救いを求めて下さい。そのために手助けできるなら、どれほど幸いなことでしょう。

 最近、ある姉妹が、私の変わりように驚いたと言った。かつては非常に傷ついて悲しみに暮れているようだったのに、今は喜びに満ちて、信仰が強められているようだと。もしそうだとすれば、そうなったのにはただ一つの理由しかない、私は多く赦されたがゆえに、多く感謝するようになったのだ。以前の私は、恐らく、どんなカウンセリングによっても立ち直れないほどに、絶望と悲しみに暮れていた。将来を思い浮かべても、希望らしきものが少しも見いだせず、人生に大きな負債を抱えている実感があった。しかし、その中から、ただ神を呼び求め、また、私のために兄弟姉妹の熱心な祈りが捧げられた結果として、今、私は心の全ての縄目から解放されて、負債を帳消しにされて、自由を与えられた。それは全て神がお与えになったものであり、私が自力で獲得したものは何一つない。悲しみも大きかったが、それゆえに、喜びもまた大きいのだ。

 だから、悲しむ者は幸いである、と私は思う。自己満足して、誰からも助けを必要としていない人には、神の栄光を見るチャンスが全くない。しかし、傷ついた人、弱り果てた人、悲しみに暮れる人、不正に心を痛め、義を求める人が、心からまっすぐ神に向かって祈る時(ただ神にのみ心を向けることが大切である)、そこには主の栄光が現れる大きなチャンスがある、神はそういう人たちに必ず、ご自身の力と栄光を現して下さるだろう。

 多く赦された人は、解放された後も、ただ自分の自由を満喫し、ハッピーな生活を送るだけで人生を終わろうという気持ちにはならない。私たちの望みは、この地上で、搾取や、蔑みや、不幸とは無縁の、幸せな人生を個人的に獲得することにあるのではなく、ただ見えない神の国でいただく栄光こそが、ゴールなのだ。確かに、今はもう、罪と死の囚人ではなくなったが、今度は、自分から、主の囚人となりたいと願う。与えられた恵みが大きければ大きいほど、きっと、そう願わずにいられないのではないだろうか。

 だから私は言いたいのです、教界の不正を見て心痛めている人たち、混乱に満ちた世の中で、自力では自分を満たすことができないと分かって、心が貧しく空っぽになった人たち、義に飢え渇いている人たち、どうか一心に、神に心を向けてください、イエスの御名によって、あなたの願うものを、神に求めて下さい。一回の祈りであきらめたりせず、求め続けてください。扉を叩き続けて下さい。

 イエスは万物を足の下に支配しておられ、イエスの御名は、万物に勝って高く掲げられています。彼の名は、この地上のあらゆる支配、権威、権力、権勢にまさり、きたるべき世においても、あらゆる名の上に置かれるのです。イエスの御名が、キリスト教界に勝って高いことは言うまでもありません。

 キリスト教界で正義を見失い、信仰のあり方まで見失った人たち、どうかその傷ついた心を正直に、ありのまま、まっすぐ、ただ神に向けて、あなたが心から求めるものを、イエスの御名を通して、父なる神に願い求めてください。人に求めず、神に願い求めて下さい、そうすれば、あなたたちは飽き足りるまでに満たされることでしょう。

 恵みは水のように、低い方へ向かって流れる、とよく言われる。高ぶった魂を、神は退けられるが、打ち砕かれて、へりくだった魂を、決して、神は軽んじられることはない。
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