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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

ある失敗―音楽の恐ろしさ―

今日の昼下がりのことだった。
昨日から、今日の午後には、予めリストアップした書籍を予約するため、図書館へ行くことを予定していた。
だが、午後になって、とても良い日差しが窓から差し込んでおり、ちょっと今しばらく、外出を遅らせて、ここ数日、ほとんど鍵盤に触れていなかったピアノを弾こうと思った。

久しぶりに弾いた曲はどれもこれも新鮮に、とりわけ美しく感じられた。特に、教会オルガン奏者の作曲した曲は、信仰の友に聞かせたいほどの美しさだった。「この曲はきっと、イエスの誕生と復活を謳っているのに違いない」という以前からの確信を私はその時も新たにした。

音楽の美しさは、私をまさに天にも昇るような気持ちにさせた。
そこで、私はこれはとてもとても信仰的な曲なのに違いない、イエスを証しているのだから、この感動や、喜びは、信仰から来るものなのに違いない、と思い、それから、弾くのを終えて、予定通り、外出の準備にとりかかった。

予め図書館に問い合わせねばならない用件があったので、電話をかけた…
「すみません、レファレンスサービスについてお伺いしたいことがあるんですが、よろしいですか?」

ところが、向こうで受話器を取ったのは、ひどく横柄なもの言いをする職員。
彼は開口一番、明らかに、私を門前払いしようとして、事務的な口調で言った。
「あ、それね、今日は注文できないから、明日、平日にまたかけ直して」

はあ!?
私は心の中で怒りを覚えた。
休館日でもないのに、明日かけ直せって、どういうこと?
(その時、今日が祝日であることは私の念頭から消え去っていた。)
まだ一つの質問もしていないのに、かけ直せって、どういうこと?

私は怒りをかみ殺して、職員に質問を重ねた。
「あのー、私は注文をしたいのではなくて、問い合わせのために電話をかけているだけなんですけど…」
「あ、そう、じゃあ、どうぞ」
悪びれる様子もなく、職員はぞんざいに返事を続けた。

それは時間の経つごとに、苛立ちの増す会話だった。
何を聞いても、曖昧な回答ばかり。
判で押したように、基本的なことしか言わない。
説明が他館で聞いた内容と食い違う。
明らかに、その職員が電話応対を面倒だと思っている様子が声を通じて伝わって来る。

親切心のかけらもない応対に、私は電話の間中、心底、業を煮やしていた。
また、結局、私が利用しようとしていたサービスは有料であることが判明した。
そこで、それを利用するならば、大がかりな出費が余分に発生することが分かり、
私は今までの計画をあきらめざるを得なくなった。

その時の私の落ち込みようといったら、限りなかった。

かろうじて、職員にクレームはつけずに済んだが、私は憤りのあまり、
かなり語気を荒げて会話を終え、投げ捨てるように受話器を置いた。
失望が大きすぎたため、電話後も、しばらくの間、胃がキリキリと痛んだほどだった。

だが、しばらくして、心が落ち着いてきて、私は思い至った。
おかしいのは、職員の対応ではなく、私の方だと!
(もちろん、市立図書館員として、彼の応対が、非常にまずかったことは事実である。
私がここで述べているのは信仰による見方である。)

私は自分の反応が、自分でも驚くほどに感情に流されていたことに気づいた。
まるでパブロフの犬のように、私は職員の物言いに、ただ肉的に反射しただけだった。
私は、神の御前に、深く、うなだれなければならなかった…。

昨日、一切の不平不満を捨てると、あれほど決意したのに、それはどうなったのだ?
不平不満は、全ての物事に主の最善の采配を見ることと正反対の行動であるから、
そのようなものは捨て去るべきだと、あれほど思ったのに、
なぜ、今日はそのことを思い出しもしなかったのか?

それどころか、思い返すと、私はその電話の間中、完全に神の御心を忘れ切っていた。
たった一瞬たりとも、主が私をどう見ておられるか、考えもしなかったのだ。
これは、何かがおかしい、と私は思った。
ただ私が利己的な反応を返したということに終わらない、恐ろしいほどの冷静さの欠けがそこにあった。

そのようなことは、御霊に導かれて生きるようになってから、一度も起こったことはなかった。
完全に、主を忘れ去っていたなんて!?
完全に、肉だけで反応するなんて!?

もちろん、御霊に導かれて生きるようになってからも、私には色々な失敗があったわけで、
ここには書かなかったが、私の魂や肉が先走りしてしまうことは往々にしてあった。
それでも、そんな中でも、常にどこかで、御霊の声を聞いてはいたのだ。

だから、私には、我を忘れるほど激怒することはなくなり、絶望することもなくなっていた。
どんな混乱の最中にあっても、いつでも、不思議な落ち着きが心の底にあった。
(「御霊の思いはいのちと平安である。」)

ところが、今日、ある一定時間、私は、まるで神を全く知らない人間に逆戻りしたかのように、
魂と肉100%の反応を返していた…。
自分でも気づかない間に、私は御霊によるコントロールの完全な埒外へ出ていた。
無意識のうちに、内なる人のコントロールを完全に失っていた。
なぜ、そのようなことが起きたのか?
なぜ、私はある時間帯、御霊の平安を完全に失ったのか?

考えていくと、音楽という原因の他、思い浮かべられるものはなかった。
楽曲の演奏の際のあの高揚感、陶酔感、歓喜、それらがいつの間にか、私を完全に魂と肉体だけの領域へと連れ出し、私の魂と肉体の感覚を異常なほどに鋭く研ぎ澄まし、その研ぎ澄まされ(すぎ)た感覚を維持したまま、私は電話をかけて、職員の対応を聞いたのだ。

音楽が私の心を全開にし、私を魂の領域へと連れ去った。
私はそれが純粋に霊的な感動だと思っていたが、そうではなかったのだ!
音楽を聴いて、喜びに浸っていた間は、それで良かったかも知れないが、
そのままの調子で、私は魂が全開になったまま、不快な会話の中に、突入して行った。
それはちょうど、静かな音楽を楽しんで聴いていた人が、突然、何の断りもなく、
最大のボリュームで、いきなり、ヘビメタやロックを聞かされるようなものだ。

職員の言ったことが、心を開きすぎていた私には、200%くらいの衝撃となって及んだ。
私はその印象に圧倒されてしまった。
魂と肉体の過剰反応が私の外なる人を圧倒し、御霊の声を聞けるだけの余地は、もはや私には残されていなかった。外なる人がビジー状態になったため、内なる人には全く居場所が与えられなかった。

私が信仰的な音楽だと思ったものは、魂と肉体の過剰反応を引き起こしていた!
霊的な感動だと思っていたものの中に、魂の過剰な活動を引き起こすものがあった!
そのことに気づいてから、私は今更のように、音楽に含まれている「魂的なもの」に、強い警戒心と恐れを抱かずにいられなかった。
以前から、音楽の危険性については、記事の中で幾度か触れて来たのだが、その頃はまだ、私には魂と霊との区別を通してその危険を理解する能力がなかった。
だが、今や、私は、音楽を含めて、クリスチャンを内なる霊から、いつの間にか、魂の領域へと引きずり出すあらゆる外的刺激(それは見かけはとても快いものとしてやって来る)を警戒せずにいられない!

もちろん、外的刺激を楽しむことを全て一概に悪だと決めつけたいわけではない。
(そのようなものを全て排除するためには、私たちはこの世を去らなければならない。)
私たちが警戒すべきものは、気づかないうちに、私たちの心を極めて無防備にしてしまう感奮、私たちを御心から引き離してしまう、魂と霊の混ざりものである。
極めて崇高で宗教的な形式や、霊的な風を装って、私たちの魂に巧みに働きかけてくる、かの者からの影響力である。

主よ、私をあわれんで下さい、欺きは予想を超えて深いのです!
何と私は外からの影響に弱い人間なのでしょう!
何が魂であり、何が霊であるか、私はもっとはっきりと知らねばならないのです!
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