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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

聖霊の訓練

以下で、私はバイクの盗難事件について書いたが、それを読んで、あまり悪い印象を受けて欲しくない。特に、それを、神に従う生活の味気なさや、虚しさの表れであるかのように誤解しないで欲しい。神は、愛する者たちの全ての必要に応えて下さり、また、私たちを悪から救い出し、守って下さる方である。神は耐えられない試練を私たちにお与えにならないし、決して、ご自身に心から従っていきたいと願っている者に、理不尽かつ意味のない事件を起こされることはない。

 私は、今回の事件もまた、上からの訓練の一つとしてやって来たのだろうと思っている。まだはっきりとは分からないが、それは私の所有物への取り扱いであったかも知れないと思う。何しろ、今回のことは、私が自分の持ち物を、天幕の中にあるものとみなし、もはや自分の所有物とはみなさないことを決意して後、起こったことである。口で言うほど、私の所有物への執着心は、完全には吹っ切れてはいない。そのことを、事件に対する私の反応が証明している。

 私たちは自分の魂が執着するもの全てについて、神の対処を受ける必要がある。ある時、私たちが自分の人生を神に全面的に捧げる決意をする。すると、その時から、神は私たちの存在そのものや、生活や、思いの中から、不要なもの全てを取り除く作業を開始される。それが、私たちの外なる人が、聖霊の訓練によって、砕かれる過程である。絶対的な献身の決意の後で、私たちの人生に起こることの中には、何一つ、偶然や、意味のない事件はない。たとえ突然に降って沸いた災いのように感じられる事件であっても、それは全て、私たちを訓練するために、上から与えられる必要な経験である。だが、不平不満の多い私たちは、いつでも、一つ一つの出来事から、神が自分に願っておられることを的確に理解できるとは限らないのだが…。

 私たちは神に自分を捧げる決意をした時から、神によって訓練されなければならない。キリストを信じれば、ただ平安と喜びだけに満ちて、毎日、優雅で快適で何不自由ない生活を一生、送れると思うのは大きな勘違いである。私たちが、本当に神がかくあれかしと願っておられる栄光の姿に近づくためには、私たちは、何度も、何度も、打ち叩かれ、失敗させられ、失望させられ、剥ぎ取られ、予想外の苦難に遭い、打ちのめされ、それらの経験を通して、この世をますます手放していかなければならない。この世からますます遠ざかっていかなければならない。私たちは途方に暮れるだろう、行き詰るだろう、しかし、それでも、主の守りの御手は、私たちから去ることはない。そこで必要とされていることは、どんな状況の中にあっても、私たちが神の采配が最善であることを信じ、神が望んでおられることは何かを理解し、それを受け入れ、従うことである。

 私の人生を振り返って言えることが一つある。それは、神は決して、信徒の意志に反して、信徒の人生に強制的に介入されるということはないということだ。ヨブは試練に見舞われた時、「主の御名は誉むべきかな」と、神を賛美することができたが、それは、裏を返せば、彼が信仰において、試練に遭うことに対して、心の準備ができていたことを示している。

 神はヨブの信仰の状態をご覧になられ、彼がどの程度、耐えられかを確認して、ふさわしい試練を与えられた。多分、今日、多くのクリスチャンは、神からのいかなる試練をも、与えられる恩恵にあずかることはできないだろう。それは彼らが、主が彼らに「与える」ことだけを願っており、主が彼らから「取られる」ことに対して、何一つ、同意しようとしないからである。かつての私の人生もそうであった。

 私が自分の所有物にしがみついて、どうしてもそれを手放そうとしなかった間、神は私の上に全く働かれず、私を無視し、目を背けておられた。しかし、私が心のどこかで、その所有物にもはや満足できなくなった時、そのような事物を大量に抱えた生活が、御心に反しており、間違っていること、そこに私の真の幸せがないことを、心のどこかで、かすかにでも理解し始め、そのような生活にうんざりし始めると、その瞬間から、ただちに、神は私の上に働きを開始された。

 しがみついていた所有物は、ほとんどの場合、あっけなく、取り去られた。それは友人であれ、家であれ、持ち物であれ、名誉や、地位であれ、誇りであれ、将来の夢であれ、みな同じであった…。神の御前に好ましくない私の所有物は、全て剥ぎ取られた。それは決して、神の側からの強制的な介入ではなく、私自身でさえ、心のどこかで、その生活が悪いものであることを分かっていたのに、それでも、私は失ったものを思って、嘆き悲しんだものだ…。二心に生きていた私の魂は、一つ剥ぎ取られる度に、大きな打撃を被った。

 クリスチャンは、自分の魂と肉体、そして所有物について、神に厳しく対処されなければならない。神が見てよしとされるのは、キリストの命を経由したもの、御霊によって生まれたものだけである。私たちの魂も、肉体も、神は肯定されない。私たちはあまりにも余計なものを持ちすぎ、神以外のあまりに多くのものに目を奪われすぎている。私たちがこの世のものを愛する時、神はそれを喜ばれない。この世の楽しみ、面白おかしい刺激、興奮、自分を楽しませてくれるあらゆる物質や、富…、そういうものを、神に徹底的に従うことを決意した時から、私たちは、一つ一つ、手放すことを学ばせられる。

 私たちが、神がかくあれかしと望んでおられる「真のあるべき人間」になるためには、物質的なものや、肉的なもの、魂的なものに惹かれる心、要するに私たちの旧創造に属する古い性質は、徹底的に滅ぼされなければならない。これは私たちが自虐的な方法で自己を取り除こうと努力すべきだという意味ではなく、聖霊が、そのような働きを私たちの上に自然に開始するのである。

 私たちの外なる人(魂と肉)は、御霊の訓練によって、打ちのめされ、剥ぎ取られ、苦しめられ、砕かれていく。その痛みを伴う学課(=日々の十字架)を受けずして、私たちがキリストの似姿へと変えられ、内なる御霊が私たちから自由に外へ向かって流れ出す日は来ない。ウォッチマン・ニーは再三に渡りそのことを述べている。以下、彼の著作から。

 「わたしたちの外なる人が砕かれるためには、わたしたちは自分自身を主にささげる必要があります。しかしながら、献身がすべての問題を解決するわけではありません。それは、わたしたちが喜んで自分自身を、無条件に、徹底的に、明確に神へささげる意図の表現にすぎません。<…>

 人が神によって用いられることができるかどうかは、献身だけにかかっているのではありません。献身がなされた後、聖霊から来る訓練がやはり必要です。これは非常に重要です。わたしたちが神に対して有用になるかどうかは、この点に大いにかかっています。<…>

 わたしたちは、自分についてしばしば無知です。わたしたちは、自分が何を通過する必要があるのか知りません。わたしたちの最も賢明な選択でさえ、間違いに満ちています。

わたしたちが必要であると考えるものは、往々にして、神によればわたしたちが実際に必要とするものではありません。わたしたちが自分の側から見るものは、全体の絵のごく一部にすぎないかもしれません。しかしながら、聖霊は神の光にしたがって、わたしたちのために事物を指図されます。聖霊の訓練は、わたしたちの思いが考え及ぶものをはるかにしのぎます。

わたしたちはしばしば、ある訓練に対して準備ができておらず、わたしたちはそのような訓練は必要ないと考えます。聖霊の訓練が実際にわたしたちを訪れる時、わたしたちは驚いてしまいます。環境の中で聖霊がわたしたちのために指図したものは、わたしたちが期待していたものではありません。聖霊からの多くの訓練が、神からの警告無しにやってきます。突如として、わたしたちは強打を被ります。

わたしたちは、自分は神の光の下で生活していると考えるかもしれませんが、神にとっては、この光は実に弱いかすかな光です。神は、それを光とは全く考えないかもしれません。しかしながら、聖霊は神の光にしたがって、わたしたちを対処されます。わたしたちは自分の状態を知っていると思いますが、実際には知っておりません。神だけがわたしたちを知っておられます。わたしたちが神を受け入れた時から、神はわたしたちの環境を整えてこられました。神が整えたものはすべて、わたしたちの最上の益のためです。神はわたしたちを知っておられ、またわたしたちの必要を知っておられるからです。

 わたしたちの中における聖霊の働きには、積極的な面と消極的な面とがあります。建造する面と取り壊す面があります。わたしたちが再生された時、聖霊はわたしたちの中に住んでおられますが、わたしたちの外なる人は聖霊の自由を制限します。これは新しい靴を履いている人に似ています。靴があまりに堅くてきついため、その靴では歩きにくいのです。

外なる人が内なる人を困らせます。内なる人は外なる人を管理できません。こういうわけで、わたしたちが救われた日から、神はわたしたちの外なる人を対処し砕いておられます。神がわたしたちの外なる人を対処されるのは、わたしたちが知覚する必要にしたがってではなく、神が見られるわたしたちの必要にしたがってです。神はわたしたちの中で何が固執するものであり、何が内なる人が管理できないものであるかを見いだされ、神が知っておられるものにしたがってわたしたちを対処されます

 聖霊は、わたしたちの内なる人を強化することによってわたしたちの外なる人を対処するのではありません。聖霊は、内なる人にさらに多くの恵みを供給することによって外なる人を対処するのではありません。これは、内なる人は強められる必要がないという意味ではありません。この意味は、神には外なる人を対処するには、異なる方法があるということです。

聖霊は、外側の事柄を手段として用いて、わたしたちの外なる人を減少させます。内なる人をもって外なる人を取り扱うことは、決して容易ではありません。なぜなら、これら二者は異なる性質を持っているからです。内なる人が、外なる人を傷つけたり砕くのは難しいことです。外なる人の性質は、外側のものの性質に対応します。すなわち、外なる人は外側の事柄に容易に影響されます。外側の事柄は、外なる人を、内なる人ができるよりももっと上手に押しつぶし、痛みを与え、傷つけることができます。こういうわけで、神は外側の事柄を用いて、わたしたちの外なる人を対処されます。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の解放』、『p.105-109)

 さまざまな事件に遭遇する時、私たちは、すぐには神の御心が分からないことがあるだろう。望ましくない事件が起こった時には、特にそうだ。こんな事件のどこに、有意義な意味を見出せるだろう?と、私たちの心は混乱する。しかし、どんな時でも、それは私たちに必要な経験なのだ。どうか、神が私たちに光を送って下さり、一つ一つの事件を通して、神が私たちに願っておられることは何であるか、御心を理解できるよう、助けてくださいますように!

「十字架は単なる教理ではありません。それは、実行されなければなりません。十字架は、わたしたちにおいて実行されなければなりません。わたしたちに属するすべての事物は、滅ぼされなければなりません。私たちが一度、二度、また幾度も打たれていると、わたしたちが自然に目が覚める時が訪れます。…」(p.123)


 
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