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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

創世記について

兄弟姉妹へのメール

「ウォッチマン・ニーの『創世記を黙想する』を読み終えました。
ある兄弟とお会いした時に、彼が、天地創造は、聖書の記述通り、
1日を24時間として、7日間で行われたと信じていると言ったことを思い出しました。
 
その話を聞いた当初、私は『まさか』と思って、興味を示しませんでした。
なぜなら、創世記の『一日』は、何千年にもわたる長い期間を、神の基準で言い換えたもの、
という、多分、教会で教わったのではないかと思われる固定概念が
その時はまだ、私の中にしっかり植えつけられていたからです。

けれども、ウォッチマン・ニーがこの本の中で書いていることは、
『聖書を文字通りに読みなさい』ということでした。
つまり、『一日』とは、『一日=24時間』なのだと。
 
びっくりしました。
その他の点でも、この本は、あらゆる意味で、私の常識を覆しました。
まず、プレアダミック・エイジのこと。
それから、天地創造の7日間が、人の堕落とイエスによる命の回復
(十字架の死と復活と昇天)のプロセスと重なっているということ。
さらに、人類史の7つの時代とも重なること。
 
私の聖霊派時代、教会では誰一人そのような深いところまで、
解説してくれた人はありませんでした。
しかも、振り返ってみると、何かしら進化論が
聖書の解釈の中にもぐり込んでいたように思います。

この本の記述はどれをとってみても、私が教えられなかったことばかりで、
あまりにも、これまでの私の常識に反するように思われたので、
最初に目を通した時には、『ひょっとして、考えすぎなのでは?』とさえ思ったのですが、
しかし、御言葉による深い裏づけを読んでいくうちに、
なるほどなあ、そういう深い意味があったのか、
(たとえば、イエスが『義の太陽』であるという御言葉が、
創世記での太陽がすなわちイエスの予表であることを示している、など)、
どうにも納得せざるを得なくなってしまいます。
 
イエスは直接、ご自身を『ぶどうの木』にたとえられましたが、
そのようにはっきりとしたたとえがあった場合でなくとも、
御言葉の中に、キリストはさまざまな形で予表されており、
そのような隠れた文脈を、私たちは、深く辿っていく必要があると感じます。」
 

 

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