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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

ハドソン・テイラーの信仰

このところずっと書きたいと願っていた内容があります。今後の生活をいかに支えるべきかという問題について考えるにつけ、ハドソン・テイラーの伝記から学ばされることは多いのです。誰でも、生活の問題に直面するでしょうが、そのような時、私たちがいかにそれを解決すべきか、テイラーから学ぶことができます。

テイラーは全てにおいて、神に頼りました。特に、彼は中国伝道の召しが与えられてからずっと、経済問題について完全に神に頼ることを学んだのです。神が召しを与えられたのだから、それを全うするための手段も、神が与えてくださるはずだと、彼は信じ続けました。テイラーの自伝的回想を読みますと、彼がいかに神に信頼して、日々を生きていったかがよく分かります。度々、思いがけない困難が起こります。彼は窮乏します。しかし、彼の信仰が間違っていなかったことの証拠として、神は彼の願いに誠実に応えられました。信仰に基づくそのような生活は時に、か細い一本の糸の上で綱渡りするように、恐れと不安と背中合わせになりました。それでも、彼は不信仰と闘いながら、信仰を選び続けました。

テイラーの伝記から学んだ最初のことは、私たちは神のために生涯を捧げる決意を固めた時から、自分の所有物を対処することを学ばなければならないということです。ウォッチマン・ニーの著書からも、このことについては述べました。勝手気ままに暮らしていた頃には、私たちは沢山の所有物を溜め込み、そのことに疑問もありませんでした。その頃、私たちが神の御用に用いるために用意しているものは何一つもありませんでした。しかも、それに加えて、もっと多くを所有できないだろうかと、それだけを願いながら暮らしていたのです。

しかし、自分の生涯を主に捧げるということが起こると、主は少しずつ私たちの所有物に対しても、働きかけます。私たちの持ち物は天幕に置かれたのであって、そこには自分の所有だと言えるものは何もないことを主は示されます。そして生活のあらゆる点で、神に目を向け、不要なものを捨てる、または捧げるように促すのです。「まず神の国とその義とを第一に求めなさい。その他は全て添えて与えられます」ということを、万事につけて思い起こさせるのです。そして、たとえ私たちが貧しくとも、富んでいても、どんな状態にあっても、御心に信頼して安らげるよう、私たちの内面の状態を変えていかれます。

一つ注意しておきましょう。前にも書いたように、テイラーの生きていた時代は、現在とは少し事情が違います。テイラーの時代、キリスト教界において、今日ほどの背教がはびこっていなかったため、キリスト教的団体を通じて働くことは、彼にとってつまずきとはなりませんでした。しかし、残念ながら、今現在、多くの教会では、正統な教義がゆがめられ、献金(十分の一献金等)、礼拝、日曜学校、慈善活動、布教活動のほとんどは、人に見せるため、また特定の組織の勢力を拡大するために行われています。それらは、信徒に重い賦役のように課され、人々のつまずきの源となっています。どれほど多くの献身者が、まるで神に仕えるように牧師に仕え、神を差し置いて、人の栄誉を高めることに貢献しているでしょう。信徒も同じです。そのような場所では、信徒間に競争があり、人々が先を争って、活動すればするほど、ますます神の御心から遠ざかっていくのです。このような状態が、決して、御心にかなうものでないことは一目瞭然です。

そこで、私は、テイラーが実践したことを全ての人が形式的に真似をすることによって、誰もが献身生活を送れるなどと言うつもりはありません。一人ひとりに対して、神の召しは異なっているのです。私たちは人真似をすることによって神に仕えることはできません、自分に与えられた個人的な召しについて知らなければなりません。ですから、神の御心を仰がず、自分の思いで外国伝道に志願したり、耐貧生活に適応すべく、わざと極端に貧しい生活を送ってみたり、体を鍛えるために戸外で一生懸命運動したり、汗水流してトラクトを配ったり、日曜学校の教師になったり、十分の一献金を行ったり、あらゆる教会活動に熱心に参加し…、そういった人間による活動が献身生活の本質であるかのように誤解してはなりませんし、ある一定の形式さえ守っておけば、神の御心を喜ばせることができるなどといった、短絡的なものの見方は避けるべきです。

人に見せるための善行は、決して、神へのささげ物とはなりません。人の真似をすることも、神を喜ばせることにはつながりません。また、誰かの指示に妄信的に従った結果として(いわゆる)「献身生活」を送ることは、自主性を放棄することであって、これもまた御心にかなう行いではありません。神の御用のために収入を捧げるとは、決して、何も考えずにただ教会の献金袋に毎月一定の金額を投げ込むことを意味するのではありません。私たちは、何らかの外面的な形式を模倣することによって、献身を成し遂げられるわけではないことを覚えておかなければなりません。

しかし、そのような問題は別として、ハドソン・テイラーが実行した大まかな原則、すなわち、私たちが神と出会ったならば、まず自分の生涯を何らかの形で神に捧げたいと熱心に願うようになること(これは自然に起こります)、すると次に、自分の所有物を対処することを学ばされること、つまり、自分の時間を有効活用して、神に捧げなければならないと気づかされ(これも自然に起こります)、自分の持ち物をも、自分で握りしめていてはならず、神に捧げなければならないと気づかされること、収入の一定の部分は神の御用のために喜んで用いるべきであること、経済的困難にある時にも、常に神に祈り求めることを学ぶこと(これらは全て自然にそのように促される時がやって来ます)、そういった原則が、神に仕える人たちが、今日も、怠ることなく実行していくべき根本原則であるということは、変わっていません。神に絶対的に献身する決意を固めたならば、何よりも、私たちは、自分の所有物を自分で所有しようとすることをやめ、全ての必要をただ神に委ねるよう促される時がやって来ます。そして私たちは、不満を押し隠し、喘ぎ喘ぎ、歯を食いしばりながらそうするのではなく、喜びと平安を持って、それらを実行していくことができるのです。そうする時に、私たちの働きが真に実を結ぶようになり、豊かな祝福が私たち自身に降り注ぐのです。

このような生活は、誰か偉い人にそうせよと命じられて行う類のものではなく、私たちが神との交わりの中で、自然に気づかされ、促されて、無理なく、自主的に起こることです。以下は、テイラーの伝記からの引用です。

「私の愛する両親は、私の外国伝道志願に奨励も反対もしなかつた。ただ彼らがはつきり私に言つてくれた事は、私が最善の努力をもつて身と魂と精神とを一層強めること、また祈り深く神を待望み、もしも私がまちがつていたとわかつたならば、すなおに彼の導きに従い、又もしも時至つて神が外国伝道への道を開き給うたとあらば、ためらうことなく前進するように、という事であつた。此の勧めがいかに大切なものであつたか、私は其後しばしば知る機会を得た。

私は健康増進のためつとめて戸外で運動するようにした。またもつと困苦欠乏の生活に耐え得るよう鍛錬のつもりで、羽根布団を取去ったり、其ほか家庭的慰楽も出来るだけ省くように努めたりした。私はまた基督教的仕事で、私に出来ることは何でもするようにした。たとえばトラクトの配布、日曜学校の教授、病者貧民の訪問等その機会が与えられる毎に何でもやつた。

 家庭でしばらく準備の時を過ごした後、私は医学と外科とを修業するためにハル市へ行き、其処で或医師の助手になつた。此の人はハル医学校に関係があり、また多くの工場の外科医であつたので、診察室にたくさんの怪我人が来る。それで私は外科の小手術を見たり、実習したりする機会を多く与えられた。

 さて此処で書きもらすことの出来ない事が一つあつた。まだ家にいる頃、私はすべて人はその収入の最初の果と持物の適当な部分とを、主の御用のために別に取置くべきではないか、という問題を考えるようになつた。そしてまだ家を去らぬ今の内に、すなわち周囲の必要や思いわずらいなどのために、その結論がゆがめられるような境遇に入らぬ前に、此の問題を手もとの聖書について十分研究しておいたほうがよいと考えた。このようにして私は、得た金、手に入つた金は、どんな金でも、そのすくなくとも十分の一を主の御用のため別にするという決心をするにいたつた。

私がハルの医術見習生として今いつたころ受けていた給料では、このことを容易に実行することが出来たであろう。しかし親切な友であり雇主でもある医師の家庭のつごうから、私は別なところへ引越さねばならなくなつた。幸いある親戚のところに居心地の良い場所が得られたし、また私の仕事に対する一定の報酬以外に、下宿料としての必要額も与えられることになつた。

 しかしここで私の心に一つの疑問が起つた『この金額もやはり十分の一だけささげるべきではなかろうか?』と。それはたしかに私の収入の一部分である、もしも政府の所得税の場合であつたなら、それは確かに除外されないだろうと考えられた。しかしもしも全部の十分の一が引かれるとすれば、私は他の使い途にどうしても不足するのである。どうしたらよいか、私はしばらくの間非常に当わくした。

十分考えまた祈つた結果、私はいま宿つている居心地の良い場所と幸福な環境とを去つて、郊外の小さな下宿に間借――そこは居間も寝室も一つで、食事は自炊――することにした。このようにして自分の全収入の十分の一を、困難なく献げることが出来るようになつった。此の変化はかなり身にこたえた、しかしそれには少なからぬ祝福がともなつた。

 孤独の間、今までより一層多くの時間が神の言の研究と、貧民訪問と、夏の夜の伝道にささげられた。こうして失意のうちにある多くの人達と接するようになつた私は、やがて一層節約する特権を知るようになり、また私が最初考えていた程度より、更に一層多い割合を与えることも困難でないことがわかつて来た。

 ちょうど此の頃一人の友人は、主イエス・キリストの再臨とその千年王国との問題に私の注意を向けさせ、註も解釈もせず、ただ此の問題に関する聖書の章節の一覧表だけを私に与えて、よく研究するようにすすめてくれた。私は一しようけんめい聖書につき此の問題を研究した。その結果地上を去り給うたイエスが、再び復活の体をもつて来り給うという事、彼の足は橄欖(オリーブ)の山上に立ち、まだ彼の生まれ出でぬ先から約束されてあつた父ダビデの王位につき、此の世を支配し給うであろうという事がわかつた。

私は更に、主の再臨は新約全体を通じ、その民の一大希望になつている事、そして常に清潔と奉仕とに対する最も強力な動機であり、また試練と苦難との中にある者の最大の慰めであることがわかつた。私はまた知つた、彼が再びその民のもとに来り給う時期は明示されていないこと、そして毎日毎時主を待望む者らしく生活することが彼の民の特権であること、さればかかる生活にとつては、彼が何時来るとか来ないとかいうことは決して大事ではなく、たとい何時来り給うとも、悲しみならぬ喜びをもつて善き支配人の報告をすることが出来るよう、不断に待望むことこそ最も重要であると。

 この幸いな希望には全く実際的な効果があつた。その後私は自分の小さな文庫内をよく気をつけてみるようになつた。そしてそこにもしも不要な、又もう役にたたぬ本なぞありはしないか? また私の小さな衣裳だんすの中を調べては、今主が来り給うたとして、此の中に何か説明に困るようなものがありはしないか? よくたしかめるようになつた。その結果私の文庫は或貧しい隣人の幸福のため、また私自身の魂の更に大きな利益のため非常に減つた。

 一生を通じ機会あるごとに、時々そうすることは私にとつてたいへん有益であつた。私はこんな考を抱いて、家中を地下室から屋根裏まで歩きまわつた結果、霊的喜悦と祝福との非常な増加を受けなかつたことは一度もない。私どもにはみな貯蔵の危険があるようである。それは一つには無思慮から、一つには仕事の必要に迫られてであろう。とにかく他の人にこそ有用であれ、今の自分には少しの必要もない物を貯えこむ、そして知らず知らず祝福を失うことになる。

もしも神の教会の全財産がもつとよく利用されたならば、更にどれほど多くの事業が成し遂げられることであろう。如何に多くの貧しき人が食を与えられ、はだかなる者が着せられ、まだ福音の伝えられていない人たちにまで福音が行きわたることであろう。私どもはこうしたことを不断の心がけとし、また事情の許すかぎり常に実行すべき有益な生活態度として、たがいに勧めあうべきではなかろうか?」
(ハドソン・テイラー著、『回想』、岡藤丑彦訳、三一書房、1957年、p.26-31)

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