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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

ハドソン・テイラーの信仰(2)

以下の記事に書いたように、私たちは誰もがハドソン・テイラーのように海外宣教に旅立つ使命を与えられているわけではなく、一人ひとりのクリスチャンに対して、神の召しは異なっています。誰もが一様の生き方をすべきだと考えることは間違いです。しかし、それでも、生涯を神に捧げる決意を固めた人々は、テイラーが実践したのと同じく、ある決まった重大原則に忠実に従うべきなのです。

 それは、神が召し出した人々には、神が全ての必要を整えてくださると心から信じきり、あらゆる必要性に関して、ただ神にのみより頼むことです。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。」(マタイ6:33-34)

 私たちが見習うべきは、一大財産を築き上げ、一生食べるに困らないほどの穀物を地上の蔵に貯え、これで人生は安泰だと思った金持ちではありません。私たちはこの世では明日も分からない寄留者であり、貧しいこと、乏しいこともあるかも知れませんが、私たちの望みはただ天にのみ置かれているのです。御国の働き人に対して、天の貯蔵庫は決して空になることはないのです。そのことをただ私たちが信じるかどうかが問題です。もし信じられなければ、私たちの働きも私たちの信仰に見合った矮小なものにとどまってしまうでしょう。

 さて、ハドソン・テイラーの伝記に戻ります。先にあげた引用箇所より、時は少し遡りますが、彼がどのようにして献身の決意を固めたか、どのようにして中国伝道のために召されていることが分かったか、またその召しに対してどう応えたかを示すエピソードを挙げます。

「回心後幾月と経たぬ或日の午後、私は暇を得て自分の室に退き、そこでもつぱら神との交わりに時を過した。その時のことを私はよく記憶している。いかに喜悦の心あふれて霊魂を聖前に注ぎ出したことであろう。私は私のために救を成し就げ給うた彼――私がすべての希望と救の願いをすらすててしまつた時もなお私を救いたもうた彼――に対し、感謝溢るる私の愛をいくたびもいくたびも言いあらわした。

そして私の愛と感謝のはけ口として、何か彼のための仕事、たといそれは何であつても、どんなつらい、どんなつまらない仕事であつてもよい、何か自己否定的な仕事、何か彼を喜ばし奉る仕事、かくまで私のためにつくしたもうた彼のために、私にも出来る何かの仕事を与え給えと祈り求めた。

私はよく記憶している、私が無条件の献身をもつて、私自身を、私の生命を、私の友人を、私の全てを祭壇上に捧げた時、深い深い厳粛感が私をおおつて私の献身は受け入れられた、という確信が上から臨んだことを、私は記憶している。ありありとした神の臨在感と、言いあらわせぬその祝福。私はまだ十六にならぬ少年であつたが、神の聖前のいうに言われぬ荘厳と、いうに言われぬ喜悦とで、ただ音もなく地にひれふしていたことを。

 どういう御用のために受けいれられたのか、私にはわからなかつた。ただ『自分はもはや自分のものではない』という一つの深い意識が私を占領した。そしてその後この意識の消え去つたことはない。それはまことに実際的な働をする意識であつた。

二、三年の後私は私の友であり、また師である或医者から、彼の所に年季奉公をするという条件で大変有利な申し出を受けた。然し私は何かそうした身をしばられる約束を受けいれてはならないと感じた。何故ならば、私はもはや私自身のものではない、自分で自分を自由にすることは出来ない、私は彼だけのものである、そしていつ如何にして御用に召されるかもわからぬ私は、常に彼の聖旨のままに従い得るよう、自由な身になつていなければならぬ、と感じたからである。

 この献身聖別の数ヶ月の間に、主が私が必要としたもうのは、中国においてであることがだんだん示されてきた。当時中国はまだ今のように国を開いていなかつた。さればかくして召された私の仕事は、ほとんど生命がけのものであろう事がぢゆうぶん予想された。中国に働き人を持つている伝道会はまだわずかであつた。中国伝道に関する本で私の手に入れ得るものは少なかつた。

しかし町の組合派の一牧師が、メドハーストの『中国』を持つていると聞いたので、私はその借覧を頼みに彼を訪問した。彼は快く私の願いを聞いてくれた。そして何故その本を読みたがるのかとたずねた。私は神が私を召して中国伝道に生涯を献げしめ給うたことを告げた。

『では如何にして中国へ渡るつもりか?』と彼はたずねる。

私は答えた『私は十二使徒や七十人の弟子達がユダヤでやつたように――財布も袋も持たず――私を召し給うた彼がすべての必要を満し給うと信じて行くべきであると思う』と。

彼はやさしくその手を私の肩において言つた『ああ、君ももう少し年をとれば賢くなるだろう。そんな考はキリスト御在世当時ならとにかく、今の時世では通用しないよ』と。

 私はそれ以来、年もとつたが賢くもならない。私は、もしも私どもが主の命令と、彼がその最初の弟子達に与え給うた約束とを、もつと無条件に受け入れて己が導きとするならば、あの当時と同様、今日にもなお全くあてはまるものである事を、更に一層確信しているのである。」(ハドソン・テイラー著、『回想』、p.23-26)


 クリスチャンの召しの内容や、働き方、それは確かに時代に応じて変わるでしょう。たとえば、今日、中国伝道の意義は、テイラー存命当初のものとは大きく変わっています。けれども、真に重要なのはそんなことではありません。私たちの召しの内容がどんなものであれ、神の国の永遠の原則は、キリストが地上に来られた時から、今に至るまで、何も変わっていないのです。もしも神があなたを本当に何らかの働きのために召されたならば、あなたの全ての必要性を整えるのは神の仕事なのです。神があなたの雇い主なのであり、神があなたの生活を保障して下さる方なのです。

 キリストが地上に来られた時からその原則は不変です。私たちは今日でも、イエスに遣わされるならば、自分の財布を空っぽにして(=神がこの召しを完遂するための全ての必要を整えて下さることを信じ、己や人の力を頼みとせず)出かけていくべきであり、そうしてこそ、天の貯蔵庫は無限であることを味わう幸いを保障されているのです。自分の資金で神の働きを成し遂げられる人は一人もいません。十代の青年であったテイラーは、その若い当時に、ただ神にのみより頼んで召しに従うことを決意し、生涯、その考えを変えることはありませんでした。それは、彼が頼みとした神は、彼を一度も裏切らなかったからです。私たちが今日、彼が信じたのと同様に、イエスの言われたことを無条件に信じるならば、私たちは予想だにしない祝福を受け取ることでしょう。私たちの側の信仰が問われているのです。

 神が始められた仕事は、必ず、神が責任を取って下さいます。そして私たちは地上に宝を貯えるための働き人でなく、天に宝を貯えるための働き人なのです。私たちが地上の事柄にではなく、天の事柄に思いを馳せ、自己の力でもなく、地上の権勢でもなく、ただ天に無尽蔵の富を持っておられる唯一の方により頼んで進んで行くことが、祝福が降り注ぎ、働きが豊かな収穫の実を結ぶ秘訣となるでしょう。

「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町に入るな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。」(マタイ10:5-10)

「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」(マタイ6:19-21)

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