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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

ハドソン・テイラーの信仰(3)

ありがたいことに、さまざまな兄弟姉妹の紹介により、今、私はこれまで触れることのなかった信仰の古典的な良書へと導かれています。今は中古本市場においても、そのような本をほとんど見つけることができなくなっています。それは非常に残念なことです。健全な信仰を養うためには、健全な書物に目を通すことがどれほど大切でしょうか。しかし、私がそうであったように、情報化時代であるはずの便利な今の時代に、それらの良書に触れる機会はかえって、まことに少ないのです。深い真理に触れた霊的先人たちは、今日では、ほとんど忘れられ、彼らの信仰の功績は、ほとんど伝わっていません。そのために一般的なクリスチャンが置かれている信仰的・霊的枯渇状態は恐るべきものです。

 しかし、これらの良書をただ読んで、知識として蓄えただけでは何にもなりません。そこにあるのは、道徳的な啓発ではないため、その真理を私たちが実際に経験するのでなければ意味がないのです。先人たちの書物が徹底して私たちに教えている基本は、私たちが自己の魂から来る力を否み、ただ御霊にのみより頼んで生きることです。私たちは人生において幾多の失敗をします。主に従うと宣言しておきながら、それでも、自分の力で生活を動かそうとし、自分の魂の力でさまざまなものを握り締め、主の導きがあっても、手放そうとしません。あるいは、主の導きがないのに、自分の力で人生をコントロールしようとして、浅はかに行動します。しかし、そのような自力での試みが、次々と、失敗に終わることによって、私たちは、それが御霊の力ではなく、自分の魂から出た力であったことに気づかされるのです。

 どうか主よ、何が魂の力であり、何が御霊によらない力であるかを、私たちにはっきりと見せて下さい。常に自分で自分を守ろうと知恵をめぐらしながら生きている私たちをお赦しください。そして、そのような魂の力に、私たちがますます弱められ、死ぬことができますように、あなたからの光を送って下さい! 何が「自己」の力であるのかをもっともっとはっきりと見せて下さい!

 さて、ハドソン・テイラーの書物に戻りましょう。彼の自伝の中で、私が個人的に最も感銘を受けた箇所があります。それは、彼が中国伝道に旅立った後の波乱万丈の記述ではなく、海外伝道の準備をしていた頃の以下の場面なのです。彼は中国伝道の出発へ向けて、自らの信仰を強めなければならないと感じていました。そこで、経済問題に関して、ただ神に頼ることを実践し始めたのです。

 つまり、彼は自分の働きかけや、人の考えではなく、主ご自身が彼の経済を動かしておられることを信じたいと望みました。彼はある医師に雇われていましたが、そこで、給料に関して、ただ神だけにより頼む決意を固め、給料日であることを思い出させるために、雇い主を動かそうとする一切のアピールをやめたのです。今日、このように神を頼れる人々がどれほどいるでしょうか?

「私はひそかに考えた『中国へ行くについては、自分は何人にも何物をも求めまい、私の要求はただ神にむかつてする。されば出発前の今のうちから、ただ祈だけで神によつて人を動かすという経験をしておくことは如何に大切なことであろう』と。
 ハルに於ける私の親切な雇主は何時も非常に忙しい人であつたので、給料日になつたら私の方からもうし出るようにとの希望であつた。しかし私はそれを直接には言い出さずに、ただ神にむかつて祈ることにした。そうすれば神は主人にこのことを思い出させてくださるであろうし、私は答えられた祈によつて励ましを受けるであろうから。

 さてある毎四季給料日(年四回の支払勘定日―訳註)が近づいた時も、私は例の通りしきりに此のことに就いて祈つていた。とうとうその日になつた。私の親切な友からは別に何の話もない。私は祈りつづけた。何日か過ぎ去つた。しかし彼はやはり思い出さない。ついにある土曜日の夜、一週間の諸支払をすませたところ、銀貨半クラウン(二シル六ペンス)一箇を残すばかりであつた。しかし私はそれまで一度も不自由したことはなかつたのだし、ただ祈りつづけた。

 あくる日曜日はまことに幸いな日曜日であつた。いつもの通り私の心は祝福にみちあふれていた。午後は礼拝につらなり、午後と夜とは私のいつも行く貧民外のきちん宿で福音伝道の御用がなされた。こうした時はあたかも天国がもう地上に始まつたかのように思われ、願うところはなおそれ以上喜びに満たされん事ではなく、ただ今ある喜びにたえ得ん事だけであつた。

其夜十時頃に最後の集会が終わつた時、一人の見すぼらしい男が私に来て、彼の妻のところで祈つてもらいたいとの頼みであつた。聞けば彼女はひん死の状態にあるとのこと、私はさつそく承知した。そしてみちみち彼に、何故坊さんを迎えに行かなかつたかとたずねた。そのなまりから彼がアイルランド人であることがわかつたから。彼の言うには、迎えに人をやつたけれど、坊さんは十八ペンス出さねばだめだというし、いま一家がうえ死しそうな場合そんな金のありようはないのだと。

すると急に私の心に浮んで来たことは、いま自分が此の世で持つている金はわずかに半クラウンだけ、それも貨へいでただ一箇、もつとも夕食にはかゆが用意してあるし、あくる朝の食事もまずあるが、ひるまにはもう何もないということであつた。

 どうしたわけか私の内なる喜びの泉が急にとまつてしまつた。ところが私は自分を責めようとしないで、かえつてそのあわれな男をとがめだした。そしてこんなになるまでほつておくということはない、さつさと方面委員に願い出ればよかつたのにと言つた。彼の答によれば、彼もそうした、けれどあくる朝十一時にまた来いと言われたのだと、しかし妻の方は今夜にもどうかと思われるありさまなのである。

私は考えた、『ああ、もしも此の金が半クラウン(銀貨一枚)でなくて、二シル六ペンス(の小銭)であつたなら、私はどんなに喜んでそのうち一シルだけ此の気の毒な人たちに与えるであろうに?』と。しかし半クラウン全部をやつてしまうなぞとは思いもよらぬことであつた。事の真相は次のような簡単なものであつた。すなわち私は神プラス一シル六ペンスには頼ることは出来るが、ポケツトに一文もなくて、ただ彼だけに頼る心がまえが未だできていないということである。しかし私はそうとは夢にも気づかなかつた。

 男は私をとある小路へ連れて入つた。私は多少の不安を感じながら後に従つた。私は前に其処に来たことがある。じつは先ごろ尋ねた時はずいぶんひどい目に会つている。私のトラクトは引裂かれた。そしてもう二度と此処へ来たらただではおかぬぞとおどしつけられている。私はすくなからず心配になつた。しかしそれは義務の道であつた。私はついて行つた。ひどい階段をのぼつて一つのみじめな部屋に導き入れられた。

なんという光景であつたろう! 四、五人のあわれな子供たちが立つている。その落ちこけた頬とこめかみには、まぎれもなく彼等が次第に飢えつつある事を語つている。そして無惨なぼろ布団の上には、あわれにも衰え切つた母親が、生後一日半の赤ン坊を抱いて寝ている。赤ん坊は母親のそばで泣くというよりうめいていた。その子もまた弱りはてて死にかかつていたから。『ああ、もし半クラウンでなく二シル六ペンス持つていたなら、喜んで一シル六ペンス与えるんだが!』と私は考えた。しかしなお悪しき不信は、私の持つている全部を投げうつても彼等の不幸を救わうとする衝動に従う事をさまたげた。

 此のあわれな人達を慰めようにも、私には多くを語る力のなかつた事にべつだんの不思議はないであろう。私自身慰められる必要があつたのだ。それでも私は語り始めた 『まことにお気の毒な事です、でも決して絶望してはいけません。天に恩恵深い愛なる父がい給います』と。然し私の心の中で何ものかが言つた 『なんじ偽善者よ! これ等の未信者に天にいます恩恵深き愛なる父について語りながら、自ら半クラウン無しでは神を信頼しようともしない!』 

私は息がつまらんばかりであつた。もしも一フロリン銀貨(二シリング)と六ペンス持つていさえしたなら、私はどんなに喜んで良心と妥協したことであろうに。 私は感謝をもつてそのフロリン銀貨を与え、残りを自分にとつておいたであろうに、しかも私はまだ六ペンス無しで、ただ神だけに頼る心の用意ができていなかつたのである。

 このような心の状態では、物を言うことは不可能である。しかし奇妙なことに、私は祈ることなら困難であるまいと考えたのである。当時祈は私にとつて喜ばしい仕事であつた。祈のうちに過した幾時間は決してたいくつを感じなかつた。また祈る言葉にこまるようなことはほとんど無かつた。此の時も私のなすべきことは、ひざまづいて熱心に祈ることだと考えたらしい、そうすれば救は彼らにも私自身にも一しよに来るであろうと。

『あなたは私に、来て奥さんのために祈つてもらいたいと言われましたね、では祈りましよう』と私はその男に言つた。そしてひざまずいた、しかし私が口を開いて『天にいます我らの父よ』と言うやいなや、内なる良心は言つた 『お前は神をばかにするつもりか? お前はポケツトの中の半クラウンを持つたまま、ひざまずいて彼を父と呼ぶつもりか?』と。後にも先にも経験したことのない苦闘の一ときが私をおそつた。私はその祈のようなものをどう切り抜けたかもわからない。また口にした言葉のつぢつまが合つていたかどうかも知らない、ただ私は非常な失望のうちに起ち上がった。

 その気の毒な父は私にむかつて言つた 『あなたは私共が実際どんな恐ろしい状態にあるかおわかりです。もしも助けてくださることが出来ますなら、どうか神のためにお助け下さい!』ちようどその時 『なんじに乞う者に与えよ』との一言が私の心にひらめいた、主の言葉には権威がある。私は手をポケツトにつつこみ、そろそろと例の半クラウンを引出してその男に与えた、そして言つた 『私の比較的よい暮し向きからすれば、こんなこと大したことではないかも知れません。でもそのお金をあげてしまえば私にはもう何もないのです、しかし私が今まであなたにお話ししたことは決して間違ではありません。神はまことに父であり、信頼され得るお方です』と。

喜びは全部洪水のように私の心にもどつてきた。その時私はもうなんでも言えるようになつたしまたそうと感ずることが出来た。祝福のじやまものは取去られた――私は信ずる、永久に取去られたと。

 かの哀れな婦人の生命ばかりではない、私の生命も救われたのだ、ということがわかつた。もしもあの時恩恵が勝利を得給わなかつたならば、また御霊の切なる求めに従順がささげられなかつたならば、私は難破したかもしれない――すなわち基督者の生涯としてはおそらく難破したであろう。私はよく記憶している、其の夜下宿へもどる時の私の心は、私のポケツトのように軽くあつたことを。

さびしい人通りの絶えた街路は、おさえ切れぬ私の賛美の声で響きわたつた。寝床のそばにひざまずいた時、私は主に彼自身の御言葉 『貧しき者に与うるは主に貸すなり』を思い出していただき、なお『私の貸金が長期のものでありませんように、明日の昼ごはんをいただけなくと困りますから』とお願いした。心の内も外も平安に包まれて、私は楽しいいこいの一夜を過した

 翌日の朝食にはかゆがまだあつた、そしてそれをまだ食べおわらぬうちに、郵便配達の戸口をたたく音が聞えた。私は日曜日に手紙を受取ることはめつたになかつた。両親や多くの友達は、土曜日に手紙を出すことをさしひかえたから。それで宿の主婦がぬれ手を前かけでおおいながら手紙か小包のようなものを持つて入つて来たときは多少驚いた。私はその手紙をよく見た。しかし誰の字か見別けがつかなかつた。それは知らぬ人か、仮名を使つた人の筆で、消印もはつきりせず、何処から来たものかわからなかつた。封筒を開いて見ると中には手紙は何もなく、ただ一枚の白紙に皮の手袋が一そく包みこまれてあつた。驚きながらそれを開いた時、半ポンド金貨が下に落ちた。

『主を讃めたたえよ』 私は叫んだ『十二時間の投資に対して四十割!これは大した利息だ! こんな利率で金を貸せたら、ハルの商人はどんなに狂喜するだろうに!』 
私はその場で決心した、破産することなき此の銀行へ、私の貯蓄又は所得を時に応じて預入れようと――それ以来私はいまだかつて此の決心を後悔したことはない。」(ハドソン・テイラー著、『回想』、p.34-41)


 このような体験は私にもまざまざと覚えがあります。それはまだわずか数ヶ月前のこと、主の導きに従って、エクレシアのために旅立つと決めた時、家探しに出かけようとした私の懐には、たった一泊の宿泊費さえもありませんでした。異郷の地で、家探しのために、許されたのは一日だけ。それが当時の私の財産でできる全てでした。しかし、私は誰にも自分の貧しさを知らせて、助けを乞うことを願いませんでした。主は私の全ての必要をご存知であると知っていたからです。ですから、出発前、わずかなお金を私は主に捧げて、祈りました、「私が今持っているものはこれだけです。このありったけをあなたに捧げます。それでも、あなたは旅立つようにと私を促しておられます。ですから、私に与えられた一日で、必要な家を探し当てることができますように助けて下さい。またその後の経済的必要性の一切を、あなたが整えて下さることを信じます。」

 そしてどうでしょう、その祈りは無駄にはならなかったのです。私は神の恵みと憐れみによって、今、誰の助けを乞う必要もない平凡で穏やかな生活を送っています。それは、あの時、私が懐にあったわずかな金額だけで、神を信頼して旅立ったことの結果です。そのお金は、消えてしまったのではなく、天に投資され、むしろ考えられないほどに祝福されて、主から私へと返されたのです。ですから、私は今、はっきりと言えます、主に従うために、私たちが投資したものは、何一つ無駄になることはないと! 時には、手持ちの最後のお金を投げうつように、自分の持っているありったけのものを主に差し出すことが、私たちに求められる時があります、しかし、信仰を持って、勇気を持って、従いましょう、それによって、私たちが貧しくなったり、人に依存するようになることは決してありません! それどころか、主は考えられない祝福をもってあなたに報いて下さり、その憐れみの深さを、その恵みの豊かさを思い知らせて下さるのです! 主に従って自分を投げ出したことで、後悔させられることは決してありません!

(注意: ただし、これをカルト団体でよく信徒に強要されている極端に圧迫的な奉仕や、法外な献金の呼びかけなどと混同してはいけません。そのような場所では、神の御心ではなく、ただ人による誤った考えが強要されているだけですので、たとえ指示に従ってひたすら自己を犠牲にしても、神に喜んでいただくことはできませんし、主から報いを受けることもありません。一つ一つの奉仕が、本当に御霊によって示されたものなのか、それとも、人の誤った考えから生まれたものに過ぎないのか、信徒は神との交わりの中で、納得できるまで、幾度でも、個人的に確かめる必要があります。妄信的に人の指示に従ってはいけませんし、神からの導きを待たずして、性急に自分の判断で危険な行動をすることは無意味です。

 しかしながら、本当に主からの導きに従って、己を捨てる場合であれば、私たちの投資は、地上でのリスクが伴えば伴うほど、ますます豊かに報いられるのです。天の取引所で行う取引は、地上のどんな取引よりもはるかに有利で報いが大きいのです。神は今日、私たちに、さまざまな形で、自分で握り締めていたものを手放すように求めておられます。それは個人によってさまざまに異なるでしょう。たとえば、ある人にとってはそれはお金かも知れませんが、ある人にとっては物や、時間、愛する人、などかも知れません。しかし、主は今日、己の魂の命を憎んで十字架を負う人を求めておられます。天でのその報いは大きいのです。このようにして、今の時代にあって、神の無尽蔵の富と無限の憐れみを味わうことができる人たちが一人でも多く現われますようにと願わずにいられません!)


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