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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

魂の命を否む(1)

魂の命を否む

「信者が十字架上での主イエスの身代わりの死という恵みを受ける時、神はその命を彼の中に置き、彼の霊を復活させます。この新しい命はそれと共に新しい性質をもたらします。その時以来、その信者の中には二つの命、霊と魂の命とがあるようになります。彼の中にはまた二つの性質、神の性質と肉とがあるようになります。」(ウォッチマン・ニー、『クリスチャン生活と戦い』、日本福音書房、p.98-99)

キリストを信じ受け入れた時から、私たちの中には、肉、魂だけでく、神の霊が宿ります。信じる以前には私たちの霊はただ死んだ状態にありました。しかし、神の霊の命が私たちの内に宿るとき、私たちの霊も、御霊の命によって再生され、新しく生かされるようになります。信仰生活において、私たちがきよめられるためには、私たちは肉から脱却し、魂的なものからも脱却し、ただ御霊によって生きることを学ばなければなりません。

しかし、今日、多くのクリスチャンは、キリストを信じたとはいえ、依然として「肉的なクリスチャン」の段階にとどまっています。彼らの霊の命は肉に閉じ込められ、まるで再生されていないかのようなみじめな状態にあります。彼らの日々は、肉の欲との絶えざる格闘です。どんなに聖書を読み、御言葉に従いたいと願っても、罪の誘惑が強い力で彼らを後ろへ引っ張るので、それと格闘するだけで日々が過ぎていきます。罪を犯すのをやめようと思っても、やめることができません。この肉的な段階は、アクセルを踏みながら同時にブレーキを踏むようなもので、クリスチャンは勝利と敗北の間を行ったり来りするだけで、前進していくことはほとんどできません。彼はまことの命を実際に生きるということを知りません、依然として、悪い思いの数々の影響下にあり、罪のとりこにされています。サタンにとっても、このような罪の捕われの状態にあるクリスチャンはほとんど何の脅威にもならないでしょう。

次の段階として、「魂的なクリスチャン」がいます。彼らは「肉的なクリスチャン」よりは、少し前進した存在だと言えるでしょう。なぜならば、彼らは十字架上でのイエスの死を自分のものとして受け取ることによって、自分の肉が十字架につけられるということを実際に経験したからです。まだ肉体を持って生きているとはいえ、十字架で、自分の肉に対して死ぬことを学ばされたので、もはや以前のように、汚れた肉の欲のままに引きずりまわされることはありません。彼らに対して、肉は十字架を通して一定の効力を失い、弱められました。彼らは肉の思いではなく、御霊の思いによって、新しくされ、新しい命に生きることをある程度、学んでいます。

この段階のクリスチャンは、神の聖なる霊が自分の内に宿っていることを文字としてでなく、徐々に、実際に経験として知っているでしょう。彼の思いはきよめられ、彼の自己は大きく対処されました。御霊に導かれるようになった彼は、もうあからさまな罪を犯すことはできなくなりました。しかし、多くのクリスチャンは、この段階へ来ると、あたかも自分が高度な成長を遂げたかのように誤解し、そこで自己満足してしまいます。肉的なものにある程度、死ぬことを学んだだけで、それがキリストにあって得られる勝利の全てであるかのように誤解してしまうのです。肉に引きずられさえしなければ、自分が勝利しているのだと思い込んでしまうのです。

しかし、本当の闘いはまさにここから始まると言えます。肉的なものが十字架で対処されなければならないと同様、魂的なものも、同じように、十字架で対処されなければならないのです。しかし、そのことを今日、ほとんどのクリスチャンは知らされてもいません。私たちは肉の罪深さについては知っていますが、魂の堕落した性質についてはほとんど知らないのです。人間の魂というものが、いかに自己を愛するものであり、自己のためだけに企画・提案を行うものであり、呪われた旧創造に属する性質を多く含んでいるか、私たちは知りません。私たちの心がいかに欺くものであり、神の御前に汚れているものであるかということを、上から示されることなくして、私たちは自分では思いもかけないのです。


魂のクリスチャン

なぜ彼は魂のクリスチャンなのでしょうか? わたしたちは、いかにして十字架が働き、いかにして信者たちの肉、罪深い性質がそこで十字架につけられたかを見てきました。しかしながら、魂の命は依然として残っています。すべての罪は肉からやってくるのであり、魂はただそれによって導かれ、その操り人形として行動するだけですが、魂はアダムから受け継がれたものであり、完全に汚されているわけではありませんが、アダムの堕落によって影響を受けていることは避けられません。

天然の存在と神の命との間に違いがあることは、真実です。信者の中にある汚れた肉は死にましたが、彼の魂は彼の生活の背後で力を持ち続けます。罪の性質は死にましたが、自己の命は残っています。ですから、必然的に、人は依然として魂からのものです。

今や、罪深い性質、肉は死にましたが、魂は人の振る舞いの背後で力を持ち続けています。神の性質が肉に置き換わったのであるからには、自然に、すべての好み、願望、提案は義しく(ただしく)なり、もはやかつてそうであったように汚れたものではありません。しかしながら、この新しい性質の提案と願望を遂行しているのは、依然として、以前の魂の命なのです。<…>

 わたしたちは、必ずしもすべての魂の経験が邪悪で、汚れているわけではないことを、認識する必要があります。肉というのは、罪深い性質がある限り、汚れた、罪深い事柄を産出しますが、魂は必ずしもそうではありません。魂の命とは、わたしたちの本来の命、すなわち、わたしたちを生きた被造物とする命にすぎません。この命は、いったん罪深い性質、肉から切り離されれば、必ずしもその思うことが常に邪悪であるわけではありません。多くの人は、最初から生まれつきの善、忍耐、愛、優しさを持っています。これらの徳は、誕生によります。」(p.100-101)

 それぞれの魂には、個性があり、長所や美徳もまた備わっています。私たちが神を愛するのは、魂を経由して愛するのであり、私たちが心から主を讃美する時、私たちの魂も霊と共に喜び歌います。私たちは自分の魂を注ぎ出して、主に祈り、仕えることが求められています。ですから、クリスチャンは、決して、魂のあらゆる機能がすべてが悪いものであると決めつけ、魂そのものを敵対視して、魂そのものを滅却しようとする必要はありません。しかしながら、たくさんの長所を帯びているように見えても、私たちの魂は、深くアダムの堕落によって汚染されており、この堕落した部分について、私たちは神の対処を受ける必要があるのです。このことを知らないまま通り過ぎてしまうと、自分では御霊によって生きていると思いながら、実は、魂の堕落した性質によって御霊を閉じ込め、御心から遠く離れた生活を送ってしまう危険性があります。

 「クリスチャンは自分の肉を十字架につけた後、一つの危険性の中にあります。それは、神の性質からの新しい提案を、魂の命の力によって遂行することです簡単に言えば、これはわたしたち自身の力によって善を行うことです。このような人は、部分的には成功するかもしれません。これは正確にはそれています。信者たちが、『自分の自己を活用する』と効果があると見いだす時、自分は霊的な成長に到達したと考えます。彼らは、魂の力によって善を行っていることに、気がついていません。彼らは善を行っているかもしれませんが、依然として魂的です。<…>

霊の命それ自身は、とても強いものではありますが、魂の命の深く根ざした働きは、わたしたちの全存在を支配します。人が進んで自分の魂の命を捨て、霊の命が生き、働くようにしなければ、霊の命が発展する可能性はほとんどありません。

 霊的なクリスチャンとは、聖霊に自分の霊の中で働いてもらう人です。かれは 聖霊を自分自身の霊の中に住まわれるかたとして受け入れ、聖霊によって与えられた命に、自分の歩みのために必要となるすべての力を供給してもらう人です。彼の生活の原則すべては、もはや思いや感情によって導かれたり、影響されたりはしません。むしろ、彼は霊の中で冷静に生きています。

 魂のクリスチャンは、まさにその反対です。彼は霊の命を持っていますが、自分の霊の命から活力を引き出しません。むしろ、彼の日常生活は、依然として魂をその命としており、続けて思いや感覚によって導かれ、影響されています。」(p.102-103)

 魂的なクリスチャンの問題点は、彼が神の霊を受け、御霊の導きを受けながらも、同時に、依然として、自分の思いや感情、感覚を中心としてそれをエネルギー源としながら生きていることです。この段階にあるクリスチャンは、自分の力で神に従って生きようとして、活動に励むことが多いかも知れません。熱心に聖書を読み、熱心に伝道するかも知れません。人から善いと勧められることをみな実行しようと頑張っているかも知れません。しかし、彼はただ自分の心の提案に従っているだけであり、御霊によって生きているのではないことを知りません、自分の心を中心にすえて神の御心を成し遂げようとすることがもともと不可能であることを知らないのです。

 彼の思い、感覚、感情は、ある程度、きよめられて、以前のように肉に影響されたあからさまに罪なるものではなくなったでしょう。とはいえ、やはり、それらは彼の天然の人から出て来るものであって、自己を中心として活動し、自分を立て、自己を守り、自己の好みを遂行し、自己を義としようとつとめるのです。それは自己保存の法則に支配されたものであり、自己の好みに限定されており、神に栄光を帰する御霊の思いとは決定的に異なります。魂の命は、根本的に、御霊の命とは対立します。しかし、彼はしばしば、自己の魂から来る思いが、御霊からのものであると勘違いします。
 彼は魂と霊との区別を知りません。自分の心の思いや好みに従って歩む人生は、御霊に導かれる人生ではないということを知りません。その結果、彼は甚だしく汚れた罪を犯すわけではないかも知れませんが、御霊を自分の魂の中に閉じ込めようとし、御心からは逸れた生活を送ることになるのです。彼は絶えず自分の心を中心にして活動しているため、その活動は彼の自己を強化し、彼に栄光を帰し、神の栄光のためにはほとんど実を結びません。彼は自分の心、感情、感覚、すなわち魂の命そのものを、十字架に置かなければならないことを知りません。

 さらに、ニー兄弟によれば、魂的なクリスチャンの中には、これより少し進んで、霊と魂が混合されている信者もいます。彼らは多くの御霊の賜物を持ち、貴重な霊的な経験をさえ持っているかも知れません。そのような点から見れば、彼らには霊的な要素の現れが見られるので、彼らこそまさに「霊的なクリスチャン」であるように見えるかも知れません。しかし、彼らは自分が非常に霊的になったと勘違いしているだけで、まだ魂に導かれて生きていることを知らないのです。

「霊と魂とが混同されているこれらの信者たちは、その実際において魂的です。しかしながら、その知識においては、彼らは霊的であるように見えます。この種の信者については、霊と魂とが一つに合わされています。彼の魂は肉(罪深い性質)から分離されていますが、彼の霊はまだ魂から分離されていません。以前は、彼が肉的であったとき、彼の魂は肉に密接に結びついていました。一方は彼の命であり、他方は彼の命の性質でした。今や、同じように、彼の霊は魂に結びついています。一方は提案し、他方はその力となります。

体は魂の外側の殻であり、魂は霊の外側の殻です。わたしたちはこれを覚えておくべきです。すなわち、魂は霊の殻であるということです。こういうわけで、霊は魂によって囲まれており、魂によって絶えず影響を受けます。魂は、思い、感情、感覚、意志などを含みます。霊は魂によって囲まれているのですから、魂の中に埋没されているようです。こういうわけで、それは思いと感覚とによってしばしば影響を受けます。」(p.106-107)

 以前は、肉がクリスチャンのまことの命を暗闇に閉じ込め、振り回しました。肉が彼を導き、彼に罪を犯させ、御心から遠く引き離しました。今は、魂がクリスチャンを振り回しています。彼はあからさまな罪からは離れましたが、彼の信仰生活には依然として安定がありません。

 人の肉体が食物を採らなければ維持されないのと同じように、魂も供給を受けなければ生きられません。人の魂の機能は、刺激というガソリンが供給されなければ、活動が止まってしまう小さなエンジンのようなものです。そのようにして活動停止に陥らないために、魂は、本能的に、自分のための供給を絶えず必要とします。魂的なクリスチャンは、神のために生きていると自分では思いながら、実際には、自分の好みに応じて、自分の魂を喜ばせてくれるものをひっきりなしに追い求めています。神に従っている、と自分では思いながら、実は自分の思いや感情や感覚にコントロールされ、それらの囲いによって御霊を圧迫して生きていることを知りません。

 魂と霊の混合したクリスチャンは、神についての知識を得ることを追い求めますし、主にあっての喜びや、平安や、素晴らしい「霊的な」体験を追い求めます。彼らは自分の興味あるテーマに関してならば、非常に熱心に勉強を積んでおり、御言葉に関する知識が豊富かも知れません。様々な活動の経験があり、また、特異な霊的経験をさえ持っているかも知れません。しかし、彼らは、自分がそれらの知識や経験を、ただ魂を喜ばせ、魂を生かすために追い求めているだけであることを知りません。それがなければ、彼らの心は塞ぎこみ、活動は止まってしまうのです。

 ですから、そのような信者には、安定性と首尾一貫性がありません。ある時は御霊の平安に満たされていたかと思えば、何かのきっかけで、不安のどん底に突き落とされたようになるかも知れません。あるいは、自分の好みに合うものに囲まれている時は、非常に喜びに満ちていますが、自分の好みに合わないものに対しては、冷淡で、そっけなく、無関心な態度を取るかも知れません。彼は自分が依然として感覚や感情に導かれているだけであることを知りません。このような、魂に従って生きるクリスチャンの人生は不安定で偏ったものとなり、自分の望むものが供給されなかった場合、すぐにでも活動停止に陥るでしょう。

「この段階における信者は、おもに彼ら自身の思いによって管理されています。彼らは知識を愛し、真理を追い求めることを愛します。彼らは、何かを思いの中で完全に理解するまでは、満足することができません。彼らは、興味をそそる思想を好みます。彼らはさらに多くを知ることを好みます。なぜなら彼らは、自分が知っていることが、自分の所有しているものであると考えるからです。

彼らはまた、自分の感情によって管理されています。彼らは、主の臨在を感じることを求め、喜びの感覚を持つことを求めます。彼らは心の中に燃え上がる火を感じる時、百マイルでも歩くことができ、霊的行程において飛び跳ねながら進んでいくことができます(もちろん、外面的に言ってですが)。もしこのような感覚がなく、あるいは憂うつであると感じるなら、彼らは怠惰になり、全く前進しなくなります。彼らは良い感覚を求めます。彼らの心の中の感覚の善し悪しが、彼らの外面的な霊的状態の高低を決定します。

彼らはまた、彼らの意志によっても管理されています。彼らは、ピリピ人への手紙第二章十三節の約束を彼らの中にあって成就する聖霊の力を、まだ受けていません。彼らは、決定がすべての働きの始まりと終わりであると考えます。彼らは多くの決心をし、多くの規則と規定を定めますが、さらに多くのなわめへともたらされるだけです。これらのうちのどれも、彼らが霊的命における真の前進を持つことを助けません。」(p.108-109)

 霊と魂の混合したクリスチャンは、ひたすら自分の魂を喜ばせる計画や活動を追い求めます。しかしそのような魂の活動にいそしむことが、まさに彼らに霊的な貧困をもたらしている原因であることをほとんど自覚しようとしません。彼らは自分の魂が活動停止状態に陥ることを極めて恐れています。また、少しばかりの霊的な経験を持っているだけに、自分が通常のクリスチャンよりも高められていると勘違いし、それによって、ますます、その状態が御霊の真の豊かさからはほど遠いものであることを自覚しようとしなくなるのです。

「最もあわれなことは、この段階における信者たちが、たいてい自己満足しており、とても頑固に彼らの経験に固執するということです。彼らは、自分の認識がすべて霊的な認識であると思っています。彼らは、『頭脳の銀行』の中にある豊富さを誇ります。彼らは、ときどき起こる『第三の天』の経験が霊的な経験であると考えます。彼らは感覚や、燃えるような感動、喜び、主の臨在にふけります。彼らは、これをほかにしては、もっと高い霊的な生活などないと考えます。それにもかかわらず、彼らは、外側の事柄が依然として自分の心を迷わせ、平安を妨げていることを、謙虚に認めようとしません。彼らの振る舞いは外側の演技であり、それは多くの企てと計画から来るものであり、彼らの内側の状態と一致しません。」(p.106)

 私たちの魂は、絶えず外から供給され、絶えず動いていなければバランスをとって生きていることができず、何物にも左右されずに、真に自立的に働くことができません。最も活発に活動しているときでさえ、それらの命は、外側の何かに依存し、大きな限界と制約の中で活動しているのであり、最も素晴らしく神のために有益な活動をしているように見えるときでさえ、これらのものは本能的に、自己保存という目的のために働いているのです。

 肉も魂も、基本的には、死というものを受け入れることができず、それに徹底的に逆らう性質を持っています。そこで、人の魂もまた、死を避けるため、自己の目的をかなえ、自己を延命し、自己保存のために働き続けようとするのです。しかし、この自己保存という目的は、御霊の性質と相反しています。そこで、私たちは肉だけでなく、魂の機能に対しても死ぬ必要があるのです。私たちが、絶えず外的刺激というガソリンを注入されなければ活動することもできない魂という小さないれものを通して、神の御心を実現しようとしている限り、それは外側の演技のようにしかなりません。私たちが魂を中心として生きる限り、魂は霊を圧迫し、霊を閉じ込め、霊を間違った方向へ引きずって行こうとし、真に自由で独立的で無制限な御霊の現われを阻んでしまうのです。

 御霊の命の性質は自己保存を追い求める魂の性質とは全く異なっています。それは人の自己を満たすためでなく、神の栄光のために生きます。また、御霊は、刺激や物質の供給といった、外側の何物かに依存しなければ働けなくなるということは全くありません。ですから、真に御霊に導かれて生きる人には、外的刺激をひっきりなしに受けなければ、進んで行けなくなるとか、楽しい活動がなければ、憂うつに落ち込むということはないのです。強力な迫害にさえ、耐えうる力をクリスチャンに与えるのは、私たちの魂ではなく、御霊です。ですから、御霊によって生きる人は、外側で何が起ころうと、内には平安があり、力があるでしょう。疲れることがないのも、御霊の特徴の一つなのです。

 クリスチャンは、この倦むことも疲れることも休むこともなく、神の栄光のために絶えず働かれる無制限のキリストの命の霊をすでに内にいただいているのです。しかし、私たちの内に住まわれる霊は、何と実際にはみじめな状態にとどめおかれていることでしょう。私たちの肉体と魂の殻が、絶えず、御霊を閉じ込め、御霊の現われを妨げ、逆に、御霊を私たちの自己に従わせ、自己のために利用しようとしています。

 こうした自己の魂の厭らしい性質を、たとえ気づいたからといって、私たちが自力で取り除くことは容易ではないばかりか、不可能です。霊と魂を切り離すその「手術」は、御言葉によって、十字架上によってのみ可能だからです。私たちが魂の命を否むことは、自分の力でなすべきことではなく、十字架上で、神ご自身によって行われなければなりません。ですから、私たちは自分を絶えず十字架に持って行く必要があるのです。

 次回は、十字架上で魂の命を否むとはどういうことなのかを具体的に見ていきたいと思います。どうか主が私たちにあれあみをかけて下さり、魂の命の本質が何であるかを見せて下さり、私たちの魂と霊とを切り離して、御霊によって生きることを教えて下さいますように!

 

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