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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

キリストと一つであるとは

 エクレシアとは不思議です。

 最近、ある人が「(あなたの言う)エクレシアなんてものはしょせん虚構ではないか!」とたいそうな言葉でエクレシアを非難しました。まるで教会を迫害していた時代のサウロのような、この台詞に答えるのは私の仕事ではありません。

 エクレシアが虚構かどうかは、神様ご自身が必ず証明なさいます。エクレシアが非難され、迫害され、傷つけられる時、使徒時代にそうであったように、主はきっと黙っておられないでしょう。なぜなら、エクレシアとは今日のキリストだからです。

 今日に至るまで、私が兄弟姉妹を名乗る信者から裏切られたり、中傷されたりした回数は数知れず、私はエクレシアの実際を、兄弟姉妹の現実の交わりの中に、ほんのか細い一人一人の信仰の中に垣間見た以外には、はっきりと見たことはありません。

 しかしながら、それでも、私は確信しているのですが、キリストが永遠であるように、キリストの花嫁たるエクレシアも永遠です。

 そして、エクレシアとは、私たちが今日、目にしている混乱に満ちたキリスト教界や、世俗化し、地上の団体と成り果ててしまった教会とは全く異なるものなのです。

 実は、キリストの次に、エクレシアほどにリアリティを持つものは今この世にはほかにないのではないかと私は思います。この世の物質は全て有限ですし、この地上の団体としての教会には、生成と消滅の過程があるでしょうが、天的なエクレシアには永遠なるキリストの性質が満ち満ちており、エクレシアはすでに完成しているからです。

 もし私たちがキリストのうちにあり、キリストが私たちのうちにおられ、私たち一人ひとりがキリストにあって一つに結び合わされているならば、それがエクレシアを構成するのです。むろん、地上にいるクリスチャンたちはみな自分がエクレシアの構成員だと主張するでしょうが、本当にキリストから承認を受けて、ご自身の御身体に連なっているのが誰なのかは、神だけがご存知です。

 しかし、神の目から見れば、エクレシアは完成しているということを心に覚えておく必要があると思います。そして、私たちは、このエクレシアの実際の中に、入りこむ必要があります。

 キリスト者は好みや性格や主義主張を軸にして集まっている団体ではなく、また、教えや、規律といったものでまとまっているわけでもありません。そのように地上的な結束のもとに集められた団体はみな全ていずれ消滅しますが、私たちは、キリストと永遠に一つになるように、地の基がすえられる前から、神の愛によって入念に選び出されたのです。

 万物がキリストを表し、キリストに服する時代の前触れとして、今、エクレシアにおいては、全てがキリストを表し、キリストに服しているのです。

 キリストと一つであること。言葉は簡単ですが、何という驚くべき深い意味がそこにあるでしょうか。今日、自分自身がキリストと全く同じ性質であるほどまでに、彼と一つになっているとはっきり宣言できる人たちがどれくらいいるでしょう? 

 おそらく、実に多くの人たちはここでしりごみしそうになるかも知れません。あなたは自分を見て、あるいはこの私を見て、首を振るかも知れません。いいえ、無理です。私たちは罪深すぎます、あなたも私も罪深すぎて、あまりにもキリストから遠くかけ離れており、そのような言葉は、口にしただけで畏れ多く、自分がみっともなくて恥じ入ります…。

 しかし、それでも、信者一人一人がキリストと一つに結びつくこそが主イエスが願われたことであり、キリストにある新しい人へと造り替えられて行くこと、この新しい霊と新しい人格の中に生きること、それが御心に従って、私たち信じる者に与えられている偉大な特権であり、約束なのです。ですから、今、現状、自分自身がどうあるか、あるいは自分を取り巻く世の中がどうあるかに注目せずに、神の御心に照準を合わせたいと思うのです。

 今、この記事を訂正している最中、目に見えるエクレシアというものは、私の目に、あたかも散り散りとなって砕け散ったかのようです。当初、この集合体を形成しているように見えた信者一人一人は、数々の出来事を経て、散って行きました。地上のリーダーや組織に逆戻った人たちも数多く存在します。

 ですから、エクレシアなどは「虚構に過ぎない」という非難が正しかったかのようにさえ、見える状況かも知れません。しかし、ヨハネが黙示録を書いていたのは、彼がパトモス島に幽閉されていた時のことであり、パウロが各教会に手紙を書いていた時も、彼は囚人だったのです。

 そのような状況で、使徒たちはどうして終末の時代における悪魔に対するキリストの大胆な勝利と、花嫁なるエクレシアの天的な実際を見ることができたのでしょうか。それはこの世における有様とはあまりにも異なる天的な幻だったでしょう。しかし、いかにこの世が暗闇に覆われてただ悪魔の策略だけが勝ち誇って功を奏しているように見えたとしても、ある意味で、霊的に妨害が激しく、大きな苦しみが伴う時にこそ、聖徒らが天の実際に入りこむ道もまた同時に開けていると私は考えます。

 ですから、たとえ多くの人たちが希望を失い、探求をやめたとしても、私は大胆に、「キリストとの一つ」がもっと成就するようにと願い求めたいと思います。私たちが生きているのは、ただこのことのためだと言っても過言ではありません。伝道、礼拝、祈り…、そのような形式的な行事にいそしむことを一切停止してでも、まず神の御前に立ち止まり、「キリストとの一つ」の実質を得ることこそ願い求めるべきなのです。

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