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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます

本日は雨であったが、午後に外出先で、当ブログが工作員の襲来に見舞われているのを知って投稿したところ、いつものごとく、すぐに雨は止んだ。それを見て、次の御言葉を思い出した。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

 筆者が御国の働き人である以上、日々、主の御前で果たさなければならない義務がある。ただ恐れず勇敢であるだけでなく、日々、悪魔に立ち向かわなければならないのである。だが、そうして、キリスト者がキリスト者としての分を果たしさえすれば、主はすべてのことについて、信者を守って下さる。そのことをいつも様々な出来事を通して感じさせられる。

 2012年、KFCのDr.Lukeが「今年は破滅と制御不能の年になる」と神からお告げを受けたと宣言し、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド信者である鵜川貴範氏によってこの団体がかき回され、「真に忠実な信徒以外はみなふるい分けられていなくなるだろう」などと、メッセージで主張するようになり、人数の激減を高らかに宣言し、いよいよ異常になって来たと分かった頃、筆者は、以下の聖書の御言葉をブログに引用した。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことがないためです。人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。」(ヨハネ16:1-3)

 筆者はこの御言葉を通して、この会堂から自分が追い出されることを予め示されて分かっていた。会堂を占拠した人々が間違っており、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド信者が、ルーク氏を裏切るであろうことも分かっていた。なのになぜそこに残ったのか。友人は行くべきではないと引き留めた。だが、筆者は、すべてを自分の目で確認したいとその当時は思っていた。そして、自分がそこにいたことが無駄ではなかったと考えている。

 筆者は自分の目で多くの「信者」が御言葉を拒んで偽りの福音に落ち、堕落して行く様子を見て来た。これは恐ろしいことであり、幾度も警告は発したが、止めようもなかった。だが、彼らに向かって語った警告が無駄であったとは思わない。神は必ずそういう人を用意されるものと思う。それでも、これを退けて御言葉を否んだ時、人は本当の破滅に至るのである。そこで、これらの人々を見て、筆者はより一層、御言葉に立つことの重要性を噛みしめるのみである。 

 キリスト者の道は、絶えざる「エクソダス」であり、「分離」である。それは決してきらびやかな歴史の晴れ舞台の真ん中に立って、我こそは歴史の主役であり、神に選ばれた者であると宣言するような生き様からはほど遠いものである。

 キリスト者は確かに神に選ばれている。それは人間の側からの努力によるのではない。だが、キリスト者の側でも果たさなければならない義務がある。それは常に御言葉の内にとどまり、十字架の死にとどまることである。ゴルゴタが我々の家であり、十字架によってこの世に対して死んでいるがゆえに、この世の名誉、力、栄光と、キリスト者は一線を画しているのである。十字架の死がないのに、復活があろうはずもない。

 KFCという団体を知ったばかりの頃は、筆者には、彼らは「高み」にいるように見え、自分もそこへ行かねばならないかのような焦燥感を覚えたこともあった。(それはもうずっとずっと前の話である)。

 しかし、長い間の観察と接触を通して、こうしてきらびやかな舞台に立ち、派手なパフォーマンスで人目を引きつけ、あたかも歴史の頂点に立っているがごとくに饒舌に自慢話を繰り広げ、人前に脚光を浴びて賞賛され、不器用な人々を哀れんで上から見下しているような人々に、内実があったためしはない、ということが心底、よく理解できるのである。

 内実がない空っぽの器であるくらいであればまだ良いか、そういうものはことごとく偽物なのである。ゴルゴタの十字架における自己の死――主の御名のゆえに人がこうむるあらゆる苦難――を何一つ経過することなく、それを他者にばかり語って聞かせながら、自分には適用しようともせず、常に己を一番として弱者を踏みしだき、利用しながら勝ち誇っているような人物は、ことごとく詐欺師なのである。

それは、当ブログで再三に渡り、記事で示したように、弱者救済を唱えながら、その実、強者にばかり寄り添い、自分に従わない弱者には徹底的に制裁を加えて来た村上密氏や杉本徳久氏のようなカルト被害者救済活動の指導者たちにも言えることであるが、十字架における自己の死について知りながら、これを自分だけには適用しようとしない全ての人々にもあてはまるのである。

 KFCをよく観察すれば、彼らが幸せそうに見えるのはほんのうわべだけで、実際には水面下で絶えず分裂といがみあいと不幸に見舞われているのがすぐに分かるであろう。

 だから、今は人の目に賞賛され、人の弱みに巧みにつけ込みながら、教師然と上から目線で他者に向かって道を説き、歴史の晴れ舞台に立って脚光を浴びているように見える全ての物事に意味がないということがよく分かるのである。また、こうしたものに浅はかに拍手を送る愚かな人々の末路がどういうものであるかも。

 地味で目立たないことや、不器用であることは、こういう見かけ倒しの偽りから身を守ってくれる防護服である。キリスト者は外見が控えめで目立たないことが多いが、それは神がわざと彼らを隠されているのだと筆者は確信している。

 目立ちたがり屋で、正義の味方や、弱者の救済者・仲裁者をきどりたがる饒舌な人間は、ことごとく本質は詐欺師であるから、そういう人間の道連れになっても何の意味もない。彼らと共に歩んでいく先に待つものは滅びでしかない。
 
 伊勢志摩サミットから除外されたロシアではないが、筆者は自分がそうした恐ろしい呪われた「晴れ舞台」の共犯とされなかったことを神に重ねて感謝すべきであると考えている。

 また、彼らの姿を見ながら、つくづく、御言葉に服さないことは恐ろしいと考えるのである。俺は勝者だと自ら勝ち誇っている人間、自分はやもめでも孤児でもないと勝ち誇って、自分よりも弱く孤独で寄る辺ない者たちを踏みしだき、その悲しみと犠牲をダシにして手柄を立てているような人間は、この世でどんなに勝者に見えても、神の御前では、誰よりも敗者であり、やもめであり、孤児なのである。何が本当のリアリティかと言えば、神の御前での人間の姿である。それがやがて誰も否定できない現実となって現れることであろう。

「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
 見なさい。あなたがたの畑の借り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。
 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」(ヤコブ5:1-6)
 
この世でいくら大所帯を構えて孤独を知らずとも、真の夫であるキリストに結びつかない霊的「やもめ」であっては何の意味もない。この世の幸福をやたら見せびらかし人数を集めることで集合体となって自分の優位を誇りたがる人間が、なぜそうするかと言えば、彼らには霊の財産が何もないからであり、本当は自分が極めて惨めで裸で孤独であり、この世の朽ちゆくものの他に誇るものが何もないから、つまり、キリストを内にいただいていないから――の一言に尽きる。

追記: ちなみに、以前に書いた記事「家庭は主からの贈り物(2)」は、家庭を賛美する文脈で書かれたものではなく、すでに家庭を持っているにも関わらず、異端の宗教のために家庭が破壊されたまま、これを放置している兄弟姉妹に向けての警告の意味を込めて筆者が書いたものである。

 
特に、我が子が異端の教えの痛ましい犠牲になって非業の死を遂げたり、深刻な病に陥っているにも関わらず、子供を置いて宗教活動に邁進している人々の冷酷無慈悲さ・無責任さに対する非難と警告の意味を込めたものである。(詳細を書かなかったのは個人情報に触れないために他ならない。)
 
しかしながら、これとは正反対の文脈で、上記の標題のような言葉を用いて、筆者の前で自分の家庭をあたかも「信仰の賜物」であるかのように誇ろうとする信者は、これまで数多く現れて来たが、じっくり観察して見ると、彼らの家庭は、あらゆる点で破綻に瀕していることが分かるのである

 
たとえば、親のわがままのために子供が育児放棄されていたり。親子がほぼ完全に仲たがいして長期に渡り断絶していたり。子供が自殺を遂げていたり。あるいは、親の闘病生活を支えるために子供が過酷な労働をしていたり。未成年の子供を働かせながら、親が宗教活動に没入していたり。夫婦が互いに隠しごとをし合って、一方が他の信者と霊的姦淫に陥っていたり。そうでなければ、幸福な家庭と言いながら、借金返済に追われて争いが絶えなかったり。

 こんな風に、彼らが誇る「信仰の賜物としての幸福な家庭」なるものが、現実には、半ば破壊されかかっている様子、そしてこれらの人々が家庭に対する義務をきちんと果たしていないためにその数々の問題が起きている様子が見えて来るのである。

 筆者は、このような無責任な「信者」たちが、まるで信仰の手柄であるかのように常に繰り広げる己が家庭の自慢話と、その破滅に瀕したお寒い現状には正直、心から飽き飽きし、うんざりして来た。そういう人々は、まずは自分の家庭に対する義務をきちんと果たしてから他人にその自慢話をするが良かろう。まことに、これもまた、人が口先だけで誇っているものには、全く内実がない、ということをよく示す事例である。)
 
ルーク氏の名言の一つに、「あえて事を難しくせよ」という言葉があった。その鉄則を今でも私は守っている。神がどれほど強い方で、全力で信じる者を守って下さるかを証明するために、筆者はあえて人数に頼らないのである。この世の力にも頼らず、能力にも頼らない。大体、権勢や能力によって勝つのでは何の面白みもありはしないではないか。

ゴリアテに向き合ったダビデのように、石つぶて一つしか武器を持たない若造に過ぎないのに勝利するからこそ、面白い。ゴリアテが強ければ強いほどその勝利は奇跡であり、神が介在されたことが明白になるわけである。

そこで、エリヤのように、祭壇に幾度も水をかけ、神がついておられなければ、到底、火がつかず、勝利もあり得ない状況を自ら作る。そうしないことには、神だけが栄光をお受けになるということがないからである。

そうして、この世のどんな目に見えるものにも頼らず、見えない神だけに頼り、ただ御言葉のみを武器として、自分よりもはるかに強そうに見える無数の者どもの前に勇敢に立つ、それが、キリスト者の生き様である。

さわやか読者は相変わらず、この世の目に見えるものに信者の関心を引きつけるべく、労苦しているようであるが、それはことごとく徒労に終わるであろう。

キリスト者が生きているのは、もはや自分自身のためではなく、私を愛し、私のために死んで下さった方の栄光のため、神の栄光のためである。私を守る方は天にも地にも神のほかには決していないことを、生きて世に証明するためである。

そこで、神以外のどんなものも、誇るべきものは私にはなく、他のどんなものに頼って勝利を得たわけでもないと証明するために、あえてゴルゴタにとどまり、孤独や孤立無援や自ら貧しさを選んでいるかのような、困難な道を取るのである。主の民が荒野で訓練されたように、神の軍隊において訓練される道を取るのである。

しかし、このようにして、キリストを待ち望むために、世の富と虚栄を拒み、あえてゴルゴタにとどまった花嫁をあざ笑った人々には、いずれ恐ろしい報いが降りかかるであろう。なぜなら、ただ主のみを待ち望むという貞潔さから来る孤独と、寄留者としてのつつましい身分こそ、エクレシアに不可欠な要素だからである。この世ですでに望むものを得て、地上に居場所を構え、幸福になって満ち足りてしまっている人々は、エクレシアではなく、バビロンなのである。
  
よくよく言っておく、エクレシアの貧しさの前で己の豊かさを誇った人々がこの先どうなって行くのかは、非常に面白い参考事例であると。エクレシアとは、この場合、私のことでもあり、同時に、御言葉の飢饉に見舞われている現在のキリスト教界のことでもある。現実に目に見える教会には幾多の問題があるかも知れないが、教会を告発することにより、その背後にあるエクレシアを否定した時、その人は神の敵となるのである。キリスト教界を告発することをライフワークとしている人々とそれに賛同する人間にはゆめ関わらないことである。
 
「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)
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