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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

キリスト教界と官僚制度の闇 ~誤った選民思想 良心を持たない知的エリートの人格的特徴~

これまで官僚制度の闇と牧師制度の闇と二本立てで同時に記事を進行して来ました。私がこのように実社会の構造の問題点とキリスト教界における問題点を並行して論じるのは、そのどちらもに非常に類似した構造――偽りのヒエラルキーの構造、偽りの選民思想――が見て取れるからです。

結論から言えば、キリスト教界も日本社会もともに聖書および憲法の定めたあるべき理念からは全くかけ離れた、むしろそれとは正反対の思想的勢力によって乗っ取られています。
 
今や「統一教会」や「日本会議」の存在を持ち出すまでもなく、日本政府が何かしら恐ろしいカルト的な非人間的イデオロギーに支配され、乗っ取られてしまっていることは、すでに多くの人々の認めるところとなっています。


(たとえば、沖縄タイムス(2014年7月2日付)では、昨年7月1日の安倍首相による集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更の閣議決定に関して、作家池澤夏樹氏が次のように述べています

「閣議決定は、安倍晋三首相による一種の乗っ取りであり、クーデターだ。まるで違う国になってしまうのではないか、とんでもない一線を越えてしまうのではないかと恐怖を覚えている。7月1日は日本が盗まれた日になった。」
画像の出典:Twiscy


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 「これまで、僕たちはその時々の動きに対して、きちんと論理を通して反論してきた。憲法は国の権力から国民を守るためのものであって、その逆ではありません。基本的な認識が間違っています、と。安倍政権の知的なものへの敬意のなさにあきれてもいた。

 国の力があり過ぎるかために国民がひどい目に遭う例が多々あったから、西欧人が英知を結集し、憲法で国を縛るシステムを作った。現行憲法を「押し付け」と言う人はいるが、国民は「もう戦争にならない」と喜んだ。

 9条があったから、他の国に出掛けていって人を殺さず、殺されずやってきた。それが間違いだったと言うなら憲法改正を国民に問うてくださいと訴えてきたが、安倍政権は憲法解釈変更という脇をすり抜ける手を使った。そして、あいつが悪いと中国をさす。ヒトラーのやり方と同じだ。

 安倍政権がひっくり返ったとしても、この日のことは黒い染みとなって、平和をきちんと選ぼうとするときに足を引っ張り続けるだろう。この先も、何とか元の路線に戻るよう言うべき事を言い続けよう。安倍首相から日本を取り戻すために。」

 同様の記事は同年7月2日付の南日本新聞(30面 社会面)にも掲載されています。キャッシュ  



しかしながら、こうして日本政府を乗っ取っている勢力はごく少数であり、彼らの思想もマイノリティの思想でしかありません。彼らは決して圧倒的大多数の人々に支持されているわけでなく、また大多数の人々の承認のもとに手続きを進めているわけでもありません。マイノリティであって大多数の支持を得ていないにも関わらず、マジョリティを騙すことによってマジョリティを支配する、そこに不法な乗っ取りの構造があるわけです。
 
私は最初のブログを開設した当初から、キリスト教界にも同様の問題が発生しており、非聖書的なさまざまな疑わしい思想・勢力がすでに混入していること、また、キリスト教界における牧師制度は、そもそもの初めから聖書に逆らっており、本来、平等であるべき信徒間に誤った差別を生み出す階級制度であることを訴えて来ました。

これまで、異端思想にはピラミッド型の身分制度がつきものであることを指摘してきましたが、そこでは一握りの選ばれた「エリート」とされる少数の牧師だけが、その他圧倒的多数の信徒の信仰生活を指導する一方で、信徒は教会を去ることも自由にできない身分に留め置かれ、ひたすら自らの信仰生活のすべてを教団の拡大や、牧師の権威の拡大のために捧げることになります。プロテスタントにおいても、このような牧師中心・教団中心の信仰生活が「伝統的」とみなされているわけですが、それは根本から誤ったものであり、信徒から信仰生活の自主性を奪い、信徒を道具化する搾取・収奪の構造であることを指摘して来ました。これは信仰者が神に仕える道ではなく、人に仕え、人に栄光を帰する道であり、聖書が最も禁じている偶像崇拝に他なりません。

しかし、見渡せばそれと全く同じ誤った構造が、この日本社会全体に普及していることが分かるのです。キリスト教界も実社会も、ともに同じ重層的な支配構造、身分制度に貫かれており、さらに重要なことには、キリスト教界に異端思想が蔓延する危険性を訴えて、カルト化を防ぐという名目で登場して来ている人々も、その実、異端思想の取り締まりを口実にしてキリスト教界全体を乗っ取って実効支配しようとしている点で、本質的にこの世と同じ現象が起きていることを述べて来ました。統一教会出身の牧師が提唱しているカルト監視機構の設立などはその最たる例であると言えます。
  
この点で、キリスト教界はまさに世と合わせ鏡であり、同じ起源と性質をもっていると言うことができましょう。記事に書いて来たように、教会のカルト化という現象は、聖書から逸脱したキリスト教界の誤ったイデオロギーの副産物であり、その根本原因がキリスト教界の誤った身分制度と聖書からの逸脱にあることを見落として、ただ教会のカルト化という事実だけを糾弾しても、それは単なる結果論に過ぎないため、決して問題は解決することがないのです。それどころか、このようにカルトとの闘いを推進することにより、教会同士、信徒同士の争いが助長され、教界はもっとひどい混乱に陥っていくことになるのです。
  
このため、私はカルト被害者救済活動は、キリスト教界のマッチポンプ運動であり、しかも、キリスト教界の腐敗の取り締まりや弱者救済の美名を口実に、都合よくキリスト教界全体を乗っ取って実効支配するための仕組みを作ることを真の目的としている大変、危険な運動であり、その偽りに気付かない限り、被害者は永久に利用されることになると警告して来ました。つまり、カルト化しつつあって信者を徹底的に搾取するキリスト教界の腐敗も、それを「救済する」という名目で被害者に手を差し伸べる運動をビジネス化している勢力も、ともにコインの表と裏に過ぎず、どちらも本質的に同じ支配と搾取の構図であることに気づく必要があり、そうでない限り、信者はずっと犠牲にされ、利用され続ける立場から逃れられないと警告して来たのです。



2009年8月の終わり、私は「キリスト教界からエクソダスせよ」という呼びかけに共感し、このような腐敗したキリスト教界の重層的な差別・支配構造から脱出して、真に自由な信仰と交わりに生きるべく、関東へやってきました。当時は政治的無関心から、その出発が戦後初めての自民党政権の終わりと民主党政権の誕生と重なっていたことには注意を払いませんでした。

ところが、私が関東へやって来て遭遇したのは、自由で理想的な信徒の交わりなどではなく、むしろすさまじいまでの二重性を帯びた生き方を続ける「既得権益」の陰謀との闘い、それから、決して信徒を自由にすまいとするすでに脱出して来たキリスト教界の側からの攻撃でした。第一回戦は、ほぼ私の完敗に終わったと言えますが、それは私が「キリスト教界からエクソダスせよ」と語っている人々こそ、まさにキリスト教界の補完勢力であるという事実を見抜けなかったために起きた出来事でした。

しかし、この闘いのおかげで学んだことも多くあります。特に、Dr.Lukeという人物の人となりをよく観察した結果、私には彼を通してキリスト教界の問題のみならず、自民党の伝統的な体質、ひいては日本の伝統的な「エリート」を自負している人々の体質がよく見えるようになりました。なぜ民主党の政権交代があのような悲劇的結末に至ったのかも理解できるようになりました。不思議なことに、宗教と政治の問題は全く分野が異なるにも関わらず、本質的に同じなのです。

再び結論から申しますと、本当に闘い抜いて、目指しているものを獲得するためには、味方を装って近づいてくる偽善者の裏切りと陰謀に騙されないように注意を払う必要があります。蛇のようにさとく、鳩のように純真でなければなりません。一見、相反するように見える二つのものが、裏では一つにつながっているということは、実によくあることであり、それを見抜き、敵の仕込む偽りを完全に見抜き、退けるだけの賢明さが必要となります。

たとえば、当時、多くの人々の目に、杉本徳久氏の「随想 吉祥寺の森から」や、Dr.Lukeのブログは、一見、キリスト教界の罪を告発し、その腐敗を糾弾しているように見えたことでしょう。また、二人は互いに対立しており、その働きは全く相いれない別ものであるように見えました。しかしながら、この両者の歩みはうわべの目的とは全く裏腹に、キリスト教界に反対する個人を次々と排除しながら、キリスト教界の支配をより強化し、補完する点では完全に一致しているのです。

杉本氏のブログはあたかもキリスト教界の腐敗を叩いていたようでありながら、今やアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の繰り広げるカルト被害者救済活動を宣伝・補完し、キリスト教界の支配をより強固なものにすることにしか役立っていません。そして、「キリスト教界からエクソダスせよ」と唱え、当初は杉本氏からも非難をこうむっていたDr.Lukeも、キリスト教界や杉本氏に反対して立ち向かっている個人を一見、支援するように見せかけて、彼らを次々と争いの中で敗北に追い込んではインターネットから追放することに貢献し、結果としてネット空間からキリスト教界に属さない個人を駆逐し、キリスト教界の勢力を補完する働きを果たしました。

こうしたことは、両者が本質的に同一であるからこそ起きたことであり、あれほどキリスト教界とは違う存在であると自分を誇っていたKFCが後に完全にAG信徒に乗っ取られ、好きなようにかき回されるという出来事が起きたのも、両者がもともと本質的に同根であったためであると言えます。

杉本氏とDr.Lukeとが表面的にキリスト教界と対立し、全く異なる主張をしているように見えるのはうわべだけのことであり、両者はその働きをきちんと見れば、本質的に同一の目的に寄与していることが分かるのです。それはキリスト教界の支配をより助長し、強化するという目的です。このことを見抜くためには、彼らの表面的な言葉に注目せずに、彼らの実際の働きがどのようなものであるかに注目しなければなりません。

Dr.Lukeは信徒間の分断と争いを助長して来た点においても、村上密牧師と何ら変わる点はありません。この人々の共通点は、自ら手を下すことなく、信徒同士を上から巧みに操って互いに対立させ、その争いや対立によって彼らを疲弊させて、自分の利益を得ることにあります。村上密氏が教会のカルト化という問題を糧にして生きているのと同様、Dr.Lukeもキリスト教界の争いを糧に生きているのだと言えるでしょう。分断は、支配のためのツールです。

Dr.Lukeがどのようにして信徒同士を欺いて対立させることに成功して来たかについては後述します。今はそれをさて置き、彼がキリスト教界をどれほど激しく非難して来たかを思い起こしても、自ら忌み嫌っていたキリスト教界と本質的に同化したことは非常に罪深い堕落だと言えます。

このようしてまさに「カルトとアンチカルトは同一である」、「キリスト教界と反キリスト教界は同一である」というパラドックスが実現しているのです。




イエスが地上に生きておられた時から、神が最も忌み嫌われる偽善者の姿とは、聖書を用いて正しいことを語り、人々を罪に定めながら、自分自身はその戒めを実行せず、平気で罪を犯している聖書学者たちの姿にありました。彼らは当時、いわゆる「エリート」であると自負しており、民からもそのようにみなされて賞賛されていました。しかし、イエスは彼らの正しさはうわべだのけのものであり、彼らの内側は腐敗で満ちていることを指摘されました。

今日、キリスト教界における「牧師制度」や、兄弟姉妹の上に立ってメッセージを語る人々にも同じことがあてはまります。それは彼らが一見、聖書に立っているようでありながら、その実、聖書の言葉を守らず、二重性のある生活を送っていることによく表れています。
 
こうして、口では一つのことを唱えながら、他方では全くそれと矛盾する行動をするという二重性のある生き方をしている人々を避けなければなりません。「キリスト教界からエクソダスせよ」と言いながら、キリスト教界と仲良くお付き合いを続けているような人々に関わっている場合ではないのです。仲間の兄弟姉妹だからと言って油断していれば、必ず自分も同じ生き方に染まっていくことになります。本当に助かりたいと、自由になりたいと願うならば、彼らの道を変えようとか、立ち直らせようなどと考えて交渉してはいけないのです。

「たとい、すべての人を 偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3:4)

これは信仰者であってもなくても、原則的には同じだと思いますが、聖書を信じ、唯一の神を信じるならば、二重性を帯びた生き方をする人々といたずらに群れることをやめ、たとえ一人になったとしても、決して自分の信念を曲げず、義理人情よりも、真実、偽りのない生き方をしているかどうかという点を重視して人々と関わらなければなりません。

Dr.Lukeの言動はこの点で完全に自己矛盾に満ちていました。実際のところ、私は幾度もDr.Lukeと口論し、納得できない点を正そうと試みましたが、彼はのらりくらりと時間を稼ぐばかりで、決して言動を統一することがありませんでした。そうこうしているうちに、彼に関わっているすべての人たちがその影響に巻き込まれておかしくなっていくのです。彼と議論することそのものが無駄でしかないことを理解しました。

最近も、ある姉妹と話しましたが、彼女は私に言いました、「わかってるわよ、彼がずるくて嘘つきだってことは」。私よりも長い年月、KFCに関わって来た兄弟姉妹は、誰から指摘されるまでもなく、指導者の欠点を十分に理解していました。それだけでなく、いかにこの指導者が巧みに人心を操作して来たかについてもよく語りました。それにも関わらず、離れられないのです。

Dr.Lukeの二重性とは、彼が信徒の交わりがいかにあるべきか知っていながら、そして大抵のクリスチャンよりも多くの知識を持っていながら、それを実行しないことにありました。彼はキリスト教界の牧師を非難して、兄弟姉妹の対等な交わりを主張しながらも、自分は特別に優れた存在として講壇からメッセージを語り、兄弟姉妹の注目を浴び、指導的な立場に立つ誘惑を捨てることができませんでした。その誘惑が最終的には彼を最も嫌っていた牧師階級と完全に同化させ、自分を神の代理人であるかのように主張して、自分に逆らう者は神に逆らっているのだと言わせるところまで行き着いたのです。

Dr.Lukeは「真理はあなたを自由にする」と主張しながらも、自らの特権的な地位を保つために、真の意味で兄弟姉妹の自由を願って集会から手を引くことができませんでした。彼はKFCを軽蔑し、常にこう吹聴していました、「KFCなんてものはお荷物だから、できるなら、いつでも早く畳んで去りたいと思っているんだ」と。ところが、多くの人たちがそれはポーズに過ぎないと私に向かって言いました。片方ではいつでも捨てられるかのように蔑みながら、KFCに誰よりも依存していたのは彼自身でした。実のところ、多くの兄弟姉妹が何度も彼に引退を勧めており、そのチャンスも訪れていたのですが、その度ごとに、彼は機会を逸し、そうするごとにKFCは悪化して行ったのです。そうまでして彼を担ぎ上げた周囲の人々にも重い責任が残ることでしょう。

また、Dr.Lukeは民主党政権が続いている間、しきりに講壇からこの政権を非難しては叫んでいました、「ぼくは民主党が政権をとったら、必ず同士討ちで崩壊すると予見してきた」と。それが彼の持論であり、そういう結果になることを彼は強く望んでいるようでした。小沢一郎だけは別であると言いながらも、彼は民主党に対して何かしらの尽きせぬ憎しみを燃やしているようで、攻撃の言葉をふんだんに向けていました。他方、自民党政権の腐敗を糾弾する言葉は一度たりとも聞いたことがありません。

今、このことだけをとっても、Dr.Lukeという人がいかに自分をエリートであるとみなして既得権益の側に立って改革を拒む人間であったかがよく分かります。もちろん、歴代のすべての偽善者がそうであったように、一方では、大変、先駆的で、学ぶべき言葉も語っていたのですが。
 
今、私は多くの点で、Dr.Lukeという人物の人柄に、単に彼の個人的な人柄のみならず、自民党の伝統的な体質、ひいては、良心を持たない日本の知的エリートの典型的な人格の歪んだ特徴を見ることができます。たとえば・・・

1) 二枚舌である(約束を守らない、平気で嘘をつく、ごまかす、理想を述べながら、平気でそれを踏みにじる、自分だけは他の人々と異なり、どんなに二重性のある行動をしても罪に問われないと考えている)
2) 人前で自分が栄光を受けるのが大好きである(自分は特別に他人よりも優れた人間であると考えてさかんに自慢話を吹聴する)
3) ねたみ深い、他人の栄光を奪わずには気が済まない、交わりや人の主張内容など人のものを平気で盗む
4) 常にいいとこどりをする、自分に不利な事実は隠ぺいする
5) 目の欲・肉の欲・持ち物の誇りを語らずにいられない(自分がいかに特権的な地位にあるかを絶えず自慢して、他人の心を打ちのめしていなければ落ち着かない)
6) 人を平気で陥れる(自分の身代わりに絶えず誰かを苦しめていなければ心が落ち着かない)
7) 他人に依存してしか物事を解決できず、絶えず自分が傷を受けないために自分よりも弱い他人を盾にしようとする
8) 自分に対する非難に自力で正当に勇気をもって立ち向かうことができないので、人を騙し、虚偽の信頼を勝ち得て、陰謀に頼って物事を解決しようとする
9) 自分が支配した相手を逃がさず、離反者には徹底的に報復せずには気が済まない
10) 助けてやると見せかけて人の弱みを利用して都合よく支配し、周りをイエスマンだけで固め、常に自分よりも弱い者だけを取り巻きにする
 等々。
 
まさに今「自民感じ悪いよね」と言われている日本のエリート官僚の持つ傲慢な体質のすべてを凝縮したような有様ですが、これは残念ながら、特定の人間の個人的な人柄というよりも、この日本において一定の社会層に属する(自称)「エリート」集団全体に共通するカラーであると言うことができます。

それが要するに、東大を頂点とする学閥に基づく日本の「支配層」のカラーであり、竹原氏の言うところの「良心を持たないエリート」、絶えず陰謀と奸計に頼ってしか人の心と生活を支配できない人格障害の知的エリートの人柄なのです。

しかしながら、これは場所を変えれば、キリスト教界における牧師たちの姿と何ら変わることろがありません。すべての誤った「エリート思想」の根源は、宗教指導者たちの(その元祖はイエス存命当時のユダヤ教指導者の姿に見られる)誤った選民思想にあります。

選民のプライドや優越感は、選民でない民がいてくれて初めて保たれます。彼らの自信の源は、自分自身のあれやこれやの長所にはなく、彼らが優れて別格な存在であって、他の劣った人たちとは違うという確信にあります。彼らの自信はヒエラルキーに依拠しています。ヒエラルキーがなければ彼らのプライドは決して保たれません。自分を「エリート」であると自負している人たちの誇りは、彼らよりも下の階級がいて初めて成り立つのです。
 
ですから、キリスト教界を問わず、あらゆる宗教指導者の元来、目指すところは共通して「支配」であり、彼らは道具として支配できる信者を絶対に逃しません。口ではどんなに自由や解放を語っていたとしても、本音では決して信徒を自立させず、自由にもさせません。信徒が真に自由になろうとすると、周り中の手先を使って徹底的に妨害します。たとえ人助けにいそしんでいる救済者然とした指導者に見えても、その究極的な目的は同じように「支配」なのです。

宗教指導者は己の栄光を築き上げるために信者を道具として支配します。この世においてならば、まだそういった虐げもありふれたこととして許されるかもしれませんが、神の名を用いて信徒を道具として支配・搾取することは、神に対して罪を犯すことであり、そのような偽りの支配構造にはまりこんでしまい、神に仕えるべき人生を人の奴隷となり犠牲者となって過ごすことも、神が願っておられる信仰生活では決してありません。

ですから、もし本当に自由を目指すならば、こういう風に、人が人を奴隷として支配することを究極目的に行われる妨害や陰謀をすべて退けて進んでいかなければなりません。宗教指導者になりたがる人々の野心の道具として利用される道を避け、正真正銘、「神のみ前の単独者」として歩まなければなりません。

しかしながら、この「エリート」には最大の弱点があります。それはそのエリート性が虚偽であり、根拠のない脆弱な見せかけでしかないことです。このような良心を持たない知的「エリート」は宗教界を問わず、至るところで、一見、強大な支配を誇っているように見えるかもしれませんが、彼らの嘘と傲慢と抑圧は世間にもよく知られているので、実際のところ、彼らは忌み嫌われており、あまり多くの人たちから支持されていません。そして、彼らは自分たちが犯してきた罪が明るみに出されることと、彼らが本当は大衆から支持されていないマイノリティに過ぎないという真実が明るみに出されることをひたすら恐れています。彼らのプライドはすべて不利な事実や敗北を隠すという見せかけによって保たれています。

だからこそ、カルト被害者救済活動にいそしむ村上牧師が裁判に敗北してもそれをきちんと総括しないのと同様に、Dr.Lukeも彼が「支援」して来た人々が敗北したり、自分に不利な出来事が起きてもその事実をきちんと見据えようとはせず口をつぐんでいるのです。彼らにとって大切なのは真実ではなく、指導者としての己の見栄とプライドに過ぎません。この人々はもうとうに大衆からの支持も失っており、幾度も敗北を重ね、虚偽も露呈しているのに、未だ人々が自分を支援してくれているかのように装うことにより、存在しない権威に頼って自分を偉大に見せかけているにすぎません。

ですから、彼らを打ち倒そうとして力をもって立ち向かう必要は全くありません。嘘はそれを信じる人がいて初めて効力を持つのですから、虚偽は虚偽であることが明るみに出た時点で信頼を失います。虚偽に対抗する術は、力によって立ち向かうことではなく、ただ真実を明らかにすることにあります。

「だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。からだを殺しても、たましいを殺せない人たちを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:26-28)
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