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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑬

⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続-2)

無意味な音声には人間の魂を救う力はない。御言葉を聞いても従わず、自分を欺くDr.LukeとKFC
 
一つ前の記事ですでに見た通り、Dr.Lukeは、聖書の御言葉から意味を除き去り、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)という御言葉の意味をも歪曲し、これを無意味な「霊の振動・波動」に耳を傾け、音声化する作業へと変えてしまう。
 

みなさん、信仰っていうのは、じゃあ、どっから生まれるんでしたっけ。信仰は聞くことからくる。聞くことはキリストのことば。あれはレーマです。レーマを聞くこと。
レーマっていうのは、言葉ってのは、前も言ったように振動なんですよ。霊的な振動があるんです。波動があるんです。それの波動に私たちが調和してしているかどうか。

この霊の振動があるんです。それにぼくらがチューニングしてる。調和してること。だから、聞くことがすべての鍵なんです。この聞くということ、私たちこれから聞いた者が、勝ちです。

神のことばを語るってのは、前も言いました、聖書を朗読することではない。内なる聖霊が動く、神が動く、父が語ることばを語ることなんですよ。イエスご自身がそうやってみわざをしたって言ってるでしょ。」

 
しかし、Dr.Lukeの上記の主張を裏づける根拠は聖書にはない。聖書はこう述べる。

「「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:8-10)

「「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。」(ローマ10:16)
 
このように、「キリストについてのみことば」を「聞く」とは、断じて、Dr.Lukeの言うように、霊界からの意味不明な信号としての「霊の波動・振動」に耳を傾けることではなく、「良い知らせ」であるキリストの福音を聞くことを指している。

人は聖書の御言葉に基づいて、神の福音を心に受け入れ、心に信じた事柄を口で告白して救われるのであり、どんなに「聞くことがすべての鍵なんです。」、「私たちこれから聞いた者が、勝ちです。」などと叫んでみても、その信者が一体、何を聞いたのか、何を告白したのか、その内容によって、永遠にその人の生死が分かたれる。

Dr.Lukeの言うように、霊界からの意味不明な信号としての「霊の波動・振動」をどんなに沢山キャッチして、それを機械的に音声化したとしても、信者自身が自分で何を語っているのか、意味さえ分からないような「祈り」や「告白」に、信者の魂を救う力はない。
 
しかも、聖書ははっきりと、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)と、聖書の御言葉を聞くだけでも不十分であり、これに従わなければ意味がないことを信者に教えている。「すべての人が福音に従ったのではありません。」とある通り、御言葉を聞いても従わず、実行に移そうともしない人間は、自分で自分を欺いているのであり、そのような人間は救いの対象ではなく、罪に定められ、神の怒りがその人間の上にとどまるのである。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

だが、Dr.Lukeはまるで聖書そのものから信者の注意をそらそうとするかのように、「神のことばを語るってのは、聖書を朗読することではない。」と述べて、無意味な「霊の波動や振動」にばかりに注意を向けさせ、御言葉の意味内容を考えようともせず、それに従うこともしないのである。

この点で、全くDr.LukeやKFCほど「自分を欺いて、ただ聞くだけの者」となっている者はいない。しかも、彼らが「聞いた者が、勝ちです。」などと言って勝ち誇っている内容が、霊界からの得体のしれない「波動」なのだから、これほど荒唐無稽な「福音」ばないと呆れるのみである。彼らはもはや自分たちが何を信じて告白しているのか、その内容すらも見失っているのである。
 



・神のみことばを授かった者は、自分の十字架を負って、何が聖であり、何が汚れたものであるのか、民の前に峻厳な区別を提示する重大な責任を帯びた
 
Dr.Lukeは、御言葉の意味を骨抜きにするのと同様、御言葉を守り、従うという「行い」や「わざ」の意味をも極端なまでに歪曲する。
 

「「そしてあなたがたはわたしのわざを行ない、わたしのわざよりはるかに大いなるわざを行なう」 誰が言ったんですか。イエスご自身です。

わたしたちがわざを行うのは、内なる霊の波動を語ることです。Amen? 語るっていうのは、いわゆる、行ないとして何とかかんとかじゃないのよ。嗣業として何とかかんとかじゃない。内なる霊が動くから、語りたくなっちゃうんです。

ホセアでしたっけ、えーと、誰だっけ、内側で御言葉が燃えて、燃えて、ね、内側にもうとどめおくことができないって言ったよね。誰だっけ、あれ? ホセアでしたっけ? ネヘミヤだった? ホセアでしたっけね? 内側でみことばが燃えて燃えてしょうがないって書いてある。だから私は語るんだって。ね、そうやって証してますけども。我々の内に燃えるんです。燃える。それを降ろさないと、降ろさないと、もう自分がどうかなっちゃうわけです。」(2:32:11-2:33:32)


Dr.Lukeは言う、「わたしたちがわざを行うのは、内なる霊の波動を語ることです。」と。

しかし、そんな記述も、聖書には一切存在しない。主イエスが言われた
「わたし(イエス)を信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)
という御言葉で述べられている「わたしの行なうわざ」の内容が具体的にどんなものであるのかは、イザヤ書に明確な記述がある。

神である主の霊が、わたしの上にある。はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現すの植木と呼ばれよう。」(イザヤ61:1-3)

このように、主イエスの行われた「わざ」とは、何よりも、心貧しい者たちに「良い知らせ」である福音を宣べ伝え、悲しむ者を慰め、心の傷ついた者を癒し、悪魔の捕われ人となっている人々を解放し、神を信じ、忠実に従う人々には真理にある自由を、信じず従わない人々には神の裁きと永遠の滅びを公然と示し、父なる神に栄光を帰し、ご自身の贖いのみわざを世に示されることであった。

しかし、Dr.Lukeは主イエスの行われた「わざ」の中から、御言葉に定義されているこれらの具体性を全て除き去り、「わたしたちがわざを行うのは、内なる霊の波動を語ることです。」と、聖書には全く記載がない定義づけを行い、「語るっていうのは、いわゆる、行ないとして何とかかんとかじゃないのよ。嗣業として何とかかんとかじゃない。内なる霊が動くから、語りたくなっちゃうんです。」などと、何の意味も持たない「内なる霊の波動を語る」ことが「わざを行なう」ことだと歪曲する。
 
さらに、「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃え盛る火のようになり、私はうちにしまっておくのに、疲れて耐えられません。」(エレミヤ20:9)と語った預言者の名前さえも、Dr.Lukeは思い出せないのである。

こうした様子は、同氏がいかに聖書から遠ざかった日々を送っているか、また、いかに急速な思考の衰えと忘却に直面しているかという事実を伺わせる。

実は、こうした忘却や、急速な思考の衰え、視野の狭窄、無知、短気、幼児化などの現象の中には、悪霊が原因となって引き起こされるものも多い。偽りの教えは、これを受け入れた人の思考を、以前に比べると極端なまでに狭めたり、優れた能力を持っていたはずの人に、通常人をはるかに下回るような衰えや故障を引き起こしたりすることができるのである。

さて、旧約聖書を見ると、預言者エレミヤに授けられた「神のことば」の内容は、背教に陥った民に対する神の裁きを宣告するという、非常に厳しいメッセージであったことが分かる。

預言者エレミヤに限らず、聖書を振り返るなら、神から人に託されたメッセージが、神に従わないこの世の生まれながらの人間にとって心地よく優しい内容だったことは全くと言って良いほどない。

神のことばは、常にそれを聞いた人々に従順を要求し、これが守られない場合には、厳しい罰が待ち受けていることを告げ知らせるものであった。このように、神の御言葉は常に、神に属する聖なるものと、汚れたものとの違いを明確に区別して、両者を切り分け、人々にどちらを選ぶのか、選択を迫る役割を担っていた。

神のことばは常に、それを授かった人間を、世の側から引き離し、人類の利益の代表者ではなく、神の権益の代表者として立たせたのであり、それゆえ、それを授かった人間は、人前で栄光を受けることはなく、むしろ、世の憎しみや恨みや反発にさらされるという代価を要求されたのである。

エレミヤも、民の背信の罪を暴き出し、これを叱責する役目を負わされたために、人々に憎まれ、命を狙われ、その迫害の激しさゆえに、「わたしの生まれた日は、のろわれよ」(エレミヤ20:14)とまで言わずにいられないほど追い込まれた。
  
このように、「神のことば」を授かることに、代価としての十字架が伴わなかったことは一度もない。

にも関わらず、すべての障害を乗り越えて、神が命じられたことばを宣べ伝える力を、神ご自身が、僕らに付与された。預言者エレミヤも含め、暗闇の勢力からのあらゆる妨害に耐え抜いて、どんな代価を支払ってでも、神の御言葉を宣べ伝える重大な責務に耐えうるように、御言葉を語る力を、、神ご自身が僕らに与え、彼らを奮い立たせたのである。

従って、旧約聖書でエレミヤが「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃え盛る火のようになり…」と述べているのも、こうした文脈でこそとらえなければならない。

エレミヤが授かっていたメッセージは、決して、彼自身にとっても、すすんで人々に語りたいと願うような、心地よい内容ではなく、Dr.Lukeの言う「内なる霊が動くから、語りたくなっちゃう」などという軽薄なレベルの衝動とはおよそ無縁であった。
   
今日も、神のことばを真に授かった信者たちは、みな主イエスにならって、日々自分の十字架を負って主イエスに従うのである。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:24-25)
 
内なる霊が動くから、語りたくなっちゃう」などと、十字架を負うことを拒み、ひたすら自己を喜ばせる心地よい活動だけに邁進しているDr.LukeとKFCが、神の僕としての条件をどれ一つ満たしていないことは明白である。この人々は「神のことば」を預かって語っているのではなく、反キリストの偽りの霊に憑りつかれているだけである。



・自己を神格化したDr.LukeとKFC 御霊はキリストの栄光を証するが、この世の霊は人間を高ぶりに陥らせる

キリストの御霊とは、すでに確認したように「わたし(=イエス)のものを受けて、あなたがたに知らせる」(ヨハネ16:14)。御霊は、罪なき神の独り子でありながら、死に至るまでの従順を通して、人類の罪の身代わりとして十字架で贖いを完成されたキリストを証し、キリストだけに栄光を帰する。

これに対して、反キリストの霊は、あたかもイエスを証しているようでありながら、「異なるイエス」「異なる福音」を作り出して、イエスの定義を歪曲し、最終的には、キリストの十字架を否定して、人類の罪を正当化し、人の自己を高く掲げてこれを栄光化、神格化する。

すでに述べた通り、人類に対する悪魔の誘惑の手口は、有史以来変わっておらず、それは人類が神の御言葉に背いて、己の情と感覚(欲)に従って生きるようにそそのかし、なおかつ、その反逆によって、人間が破滅するどころか、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と、人が神以上の存在になれるかのように偽りを吹き込むものである。

もともと悪魔はその高ぶりのゆえに神に反逆し、永遠の滅びに定められているのであるが、悪魔の送り出す「反キリストの霊」も、これを受け入れた人間に、悪魔と同じ高ぶりをもたらすのだと言って差し支えない。

Dr.Lukeのメッセージには、こうした悪魔的反逆の思想が余すところなく表れている。
 
前述のくだりでも、同氏は、「神のことばを語るってのは、前も言いました、聖書を朗読することではない。内なる聖霊が動く、神が動く、父が語ることばを語ることなんですよ。」と述べて、自分たちは「父なる神のことば」を授かって語っていると述べているが、聖書は、今日、クリスチャンがキリストを介さずに、直接、「父(なる神)が語ることば」を受けて語ることができるとは教えていない。
 
「神と人とのあいだの 仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)とある通り、新約の時代には、父なる神と信者との間には、あくまで仲介者としてのキリストが存在しているのであり、キリストを介さずに父なる神と直接、交わることのできる人間は一人もいないのである。

ところが、Dr.Lukeは、旧約聖書のモーセの例を引き合いに出して、異言を語る者は、父なる神の言葉を授かって語るのだから、神に代わって神の言葉を語っているのであり、従って、その信者は「神である」と宣言する。
 

「ちょと前置き長かったけれども、言いたいこと、この前ですね。出エジプト7の1で、『主はモーセに言われた。見よ、私はあなたをファラオに対して』、これ、『神の代わり』、新共同訳では、『神の代わり』、となってますが、原文では、『神とする』。前も言いましたね、新改訳では、神のようなもの、『神とし』、エロヒムとするんです。

みなさんね、私たちは神になっちゃうわけじゃないですよ、もちろん。だけど、この霊が、我々の中に染み込んで、内側には父と子と聖霊、その三位一体の神がおられる、そのお方が内側で波動を起こすその波動を語り出すということは、我々は神の言葉を語ってるでしょ。

神の言葉を語るってのは、聖書を朗読することじゃない。内なる神の言葉をほんとに語るんです。じゃ、皆さんは何なの? 神ですAmen? 」(2:22:54-2:24:02)


「出エジプト4の16、ちょっと戻って下さい。ここでモーセが召命を受けます。で、一生懸命、私は口が重いとか、もうね、誰も言うことを聞かないとか、ね、神と、争うわけです。で、『アロンを私はあなたに与える。彼によく話し、語るべきことばを託すがよい。私はあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう、彼はあなたに代わって民に代わり、彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して』、ここまたね、『神の代わりとなる』、と書いてあるんです。『神とする』、です。新改訳では、『神の代わり』。『神とする』。つまりモーセとアロンが、神のことばを代わって語る、神なんです」(2:24:02-2:25:05)


だからモーセは、パロに対しては神なんです。なぜ? 神のことばを語るからです。モーセと、あ、アロンと、ね、えー。アロンか、アロンは、あれはモーセに対して神とされたんです。なぜ?神のことばを語ったからです。あずかって。

つまり、我々、いいですか、内なる霊から生まれる父の霊は、これは霊的な振動です。言葉です。言葉って振動でしょ。この振動が霊の中で起きて来る。波動が起きて来る。それに調和した私たちの霊が、何らかの印象を受ける。そのまんま音声にすれば異言です。それを思いで解釈して言葉にする。あるいはみことばと照らして語り出せば、それは預言です。これをなす存在が、神なんです。わたしたちは、神なんです」(2:27:23-2:28:35)


ここではっきりと、Dr.Lukeは、「自分たちは神々だ」と宣言して、聖書に対する冒涜的な思想を披露している。すなわち、主イエスの定義を歪曲し、霊界と交信した結果、正体不明の霊の言うことをに聞き従い、意味すらも持たない、「内なる波動」を語る彼らが、「神のことば」を授かっているから、「神である」と言うのである。
  
このような主張を正当化するために、Dr.Lukeがどんな説明をしているかを見てみよう。
 

「詩編82 の6。『わたしは言った、あなたたちは神々だ。みないと高き方の子らなのか。』新改訳はどうなってます? 『あなたがたは神々だ。』Amen。

どういうこと? これを受けてヨハネ10の34見て下さい。これね、イエスがね、神の子だと言ったら、律法学者たちは反対したわけです。それに対して主はですね、ヨハネ10の34、『そこでイエスは言われた。』その前を見ると、『あなたは人間なのに自分を神としている』それは冒涜だって言ってるわけです。

そこでイエスは言われた、『あなたたちの律法に、私は言う、あなたたちは神々である、と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが神々と呼ばれている。そして聖書が廃れることはあり得ない。それなら、父から聖なる者として世に遣わされたわたしが、わたしは神の子であると言ったからとて、どうして神を冒涜していると言うのか。

もしわたしが父のわざを行なっていないのであれば、わたしを信じなくとも良い。しかし行っているのであれば、わたしを信じなくとも、そのわざを信じなさい。父がわたしの内におられ、わたしが父のうちにいると、あなたたちは知り、また、悟るであろう。』

はい。今、詩編の言葉をイエスは受けたね。『神々』って何ですか。『神のことばをあずかっている人』 Amen? 」(2:27:23-2:25:05)


このメッセージの異常さを理解するためには、ここで引用されている主イエスの御言葉と詩編とを、前後の文脈をきちんと踏まえて理解することが必要である。

まずは、新約で主イエスの述べられた次の御言葉から見てみよう。

「ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」

 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。」(ヨハネ10:33-36)

これは主イエスがご自分を「神の子である」と言われたことに対し、ユダヤ人たちが反発して、「あなたは人間に過ぎないのに自分を神としているのだから、神を冒涜している」と言って非難する場面である。

ユダヤ人たちは、イエスが神の独り子であるという事実を認められないために、イエスが「私は神の子である」と言ったこと自体が、神に対する許しがたい冒涜だとみなして憤るのである。

だが、これに対して、イエスは旧約聖書の詩編82編を引用して反論された。
 
主イエスのこの反論の意味を理解するためには、この詩編が書かれた時代背景を踏まえておかなければならない。

主イエスはここで、旧約聖書では「神のことばを受けた人々が、神々と呼ばれていた事実があった」という事実を示されたのであるが、この詩編が書かれた当時、イスラエルには、民の間に生じた争い事を仲裁するための裁き人(裁判官、判事)が存在していた。彼らは、神に代わって善悪を判断するというその職務の重さゆえに、人々から尊敬の意味を込めて「神々」と呼ばれていた。

しかしながら、その裁判官らは、自分たちが「神々」と呼ばれて民の間で持ち上げられていることで高慢になって他者を見下していた上、賄賂を取って悪者の顔を立て、貧しい人々を不利に陥れる不公平な裁きを行い、神に代わって人を裁くという崇高な務めをきちんと果たさず、その尊厳に全くふさわしくないものに歪めてしまっていた。

そこで、詩編を書いたダビデは、そのように正義を曲げて、寄る辺ない弱く貧しい者たちを虐げる役に立たない不義なる裁判官が「神々」と呼ばれていることに憤りを示し、まことの神ご自身が、こうした不義なる裁判官らの間に立って、彼らを裁き、彼らの不正を正し、模範を示して下さるように、貧しく寄る辺ない人々を、残忍な彼らの手から救い出し、民に直接、正しい裁きを示し、民を救って下さるようにと求めたのである。

イエスが引用された詩編82編の全体を引用しよう。

「神は神の会衆の中に立つ。
 
神は神々の間中で、さばきを下す。
 
いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、
 
悪者どもの顔を立てるのか。
 
弱い者とみなしごとのためにさばき、
 悩む者と乏しい者の権利を認めよ。
 
弱い者と貧しい者とを助け出し、
 
悪者どもの手から救い出せ。

 彼らは、知らない。また、悟らない。
 
彼らは、暗やみの中を歩き回る。
 地の基は、ことごとく揺らいでいる。

 
わたしは言った。「おまえたちは神々だ。
 
おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。
 
にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、
 
君主たちのひとりのように倒れよう。

 神よ。立ち上がって、地をさばいてください。
 
まことに、すべての国々はあなたが、
 ご自分のものとしておられます。」


従って、主イエスがこの詩編を引用して、人間に過ぎない不義なる裁判官らが「神々」と呼ばれていた時代があったことを示されたのは、決して、不義なる裁判官らを「神々」として賞賛するためではなかったのだと言える。

むしろ、これは、自分たちは「神々だ」と吹聴して、高慢に陥っていた不義なる裁判官たちの姿を、主イエスが地上におられた当時、自分たちは律法を忠実に守っている宗教指導者であるから、平凡な信者たちとは別格の存在であるとみなして自分を聖なる存在であるかのように誇り、人々に尊敬を要求していた当時の律法学者やパリサイ人などの姿に重ね、彼らの偽りを論破し、その高慢さを罪に定めるために用いられた一種の逆説であることが分かるのである。

すなわち、人類はかつて、神々と呼ばれるに全くふさわしくない不正な人々を、神々と呼んで誇っていた時代があったわけだが、その当時、人間を高く掲げるその呼び名が、まことの神に対する冒涜であるとも思っていなかった。ところが、そのようなことを自ら行っていた人類が、今、本当に神の御子であるイエス・キリストが地上に来られて、ご自分が「神の子である」と主張されたからと言って、なぜそれを冒涜だと非難する資格があるのか。自分たちを「神々だ」と呼ぶことは正当化しながらも、なぜまことの神の独り子が来て「わたしは神の子である」と言ったことを、冒涜だと言って罪に定めようとするのか。そんな理屈は全く支離滅裂で筋が通っていない、ということを主イエスはユダヤ人たちに示されたのである。
 
実は主イエスが引用された詩編の「わたしは言った。「おまえたちは神々だ。」という個所が書かれた文脈も、主イエスが述べられたのと全く同じように、決して、不義なる裁判官らを誉め讃えるためのものではなく、むしろ、この記述を通して、不義なる裁き人たちの不正と高慢を罪に定めることこそ、真の狙いだったことが分かる。
 
そのことはこの詩編をよく読んでみれば分かる。「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。という、一見、不義なる裁判官らを高めるかのようなフレーズの直後には、次の厳しい宣告が続く。「にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう。
 
結局、この詩編が示しているのは、自分たちは神々だ、などと言って、あたかも自分が他の人々とは別格の存在であるかのように考えて他者を見下し、真実や正義を曲げて、弱い者を痛めつけ、驕り高ぶっている高慢な連中には、容赦のない裁きが下る、ということに他ならないのである。

つまり、この詩編は、そのような人々は、自ら主張している高貴さに全くふさわしくない、惨めで卑しい人間の死を遂げることになるだろうと警告しているのである。

後にもう一度記すように、詩編のこの「神は神々の間中で、さばきを下す。」というフレーズは、旧約聖書の不義なる裁判官、そして、救い主を受け入れなかったユダヤ人たちに対する罪の宣告だけでなく、新約の「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」(Ⅰペテロ4:17)という教会への宣告にも一致する。

つまり、こうした御言葉は、神の家にいて、自分たちは神(キリスト)と一つであり、神々のようなものだと言って、他の信者を見下しながら、自分を誇っている者たちに対する警告なのであり、そのような者たちこそ筆頭となって、神の裁きの前に立たされ、申し開きを求められることになるのであって、自らの不正な行いの数々の報いを受けることを覚悟せよと警告したものなのである。

「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」(Ⅰペテロ4:17)
 
まことに聖書の「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)方である。

そこで、主イエスでさえ、「わたしは神の子である」(ヨハネ10:36)としか言われなかったことを私たちは思うべきである。主イエスは、カルケドン信条によれば、「神性において父と同一本質のものである」から、父なる神と一つであり、たとえご自分を「神である」と宣言されたとしても、何ら罪に当たらなかったはずである。

しかし、主イエスは決してご自分を「神である」とは言われず、「神の子である」として、ご自分を低くし、栄光を父なる神に帰された。

そのように、主イエスでさえ、ご自分を「神の子である」としか言われなかったのに、Dr.LukeとKFCが自分たちを「神々である」と主張していることが、どれほどの高慢、愚かさであるか分ろうというものである。

しかも、彼らはそうした主張を、旧約聖書に登場する不義なる裁判官らに自分たちを重ねることで正当化しようとしているわけであるから、それならば、「おまえたちは神々だ。」という個所だけでなく、「にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう。」という宣告も、当然ながら、同じように彼らに当てはまることになるのだとなぜ思い至らないのであろうか。

上記の詩編は、Dr.Lukeが主張しているように、人間に過ぎない者を「神々」として高く祀り上げることを正当化するために作られたものではなく、むしろ、罪人らが自己を神以上に高く掲げることへの戒めと、神の裁きを曲げる者たちに待ち受ける厳しい報いの警告なのであるが、 それが分からないKFCとDr.Lukeこそ、見ても信じず、聞いても悟らず、暗やみの中をさまよっているのである。それは神ご自身が「真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるため」に、惑わす力を送って、あえて彼らを盲目にされたのである。これは恐ろしいことである。

「この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、
 自分の心で悟り、
 立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:10)

「なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:10-12)

「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」(ヘブル10:31)



・キリストの十字架を否定して、己を神とする高慢な者たちを待ち受ける悲惨な最期
 
ちなみに、詩編82編に記されている「人のように死に、君主たちのひとりのように倒れる」という御言葉は、一見しただけでは、それほどまでに厳しい宣告には感じられないかも知れない。

だが、ここでアハブ王を背教で惑わせた王妃イゼベルの最期について考えてみよう。旧約聖書の王妃イゼベルは、アハブ王を誘惑して、王だけでなく、イスラエルの民の大半をまことの神に背かせ、神に遣わされた預言者エリヤを殺害しようと企て、迫害した人物である。

新約聖書の黙示録にも、テアテラの教会に対する警告の中で、イゼベルという同名の人物が登場し、異端の教えを宣べ伝えて多くの信徒を惑わした女として記述されている。そこで、イゼベルとは、ただ単に特定の歴史人物を指しているだけでなく、特に黙示録では、背信の罪を犯し、異端の教えを言い広める要塞と化した信者全体、もしくは、背教の原則そのものを象徴的に含んでいると理解することができる。

さて、旧約聖書のイゼベルはどのような最期を遂げたのであろうか。

「エフーがイズレエルに来たとき、イゼベルはこれを聞いて、目の縁を塗り、髪を結い直し、窓から見おろしていた。エフーが門にはいって来たので、彼女は、「元気かね。主君殺しのジムリ。」と言った。

彼は窓を見上げて、「だれか私にくみする者はいないか。だれかいないか。」と言った。二、三人の宦官が彼を見おろしていたので、彼が、「その女を突き落とせ。」と言うと、彼らは彼女を突き落とした。それで彼女の血は壁や馬にはねかかった。エフーは彼女を踏みつけた。


彼は内にはいって飲み食いし、それから言った。「あののろわれた女を見に行って、彼女を葬ってやれ。あれは王の娘だから。」彼らが彼女を葬りに行ってみると、彼女の頭蓋骨と両足と両方の手首しか残っていなかったので、帰って来て、エフーにこのことを知らせた。す

ると、エフーは言った。「これは、主がそのしもべベティシュベ人エリヤによって語られたことばの通りだ。『イズレエルの地所で犬どもがイゼベルの肉を食らい、イゼベルの死体は、イズレエルの地所で畑の上にまかれた肥やしのようになり、だれも、これがイゼベルだと言えなくなる。」(列王記Ⅱ9:30-37)


イゼベルは王妃という高貴な身分にあり、君主たちの一人のようであったが、その失脚及び死に様は、以上のようにまるで悲惨なものとなった。まことの神を否定して、背教を広め、聖徒らを神に背かせ、迫害した彼女は、その罪の報いとして、死の際に、跡形もなく粉砕されてしまったのである。これは背信の罪に対する神の憤りの深さを示している。イゼベルの死は、はっきり言えば、人間の死からもほど遠く、まして君主としての尊厳など微塵も伴わないものであった。

さらに黙示録のイゼベルの末路を見てみよう。黙示録のイゼベルは、異端を宣べ伝えた報いとして、「病の床に投げ込まれ」、彼女の宣べ伝えた異端の教えを受け入れた人々も、みな「悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込」まれると予告されている。彼女の背教によって生まれた子どもたちも、「死病によって殺」される
 
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
また、わたしはこの女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。

しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」(黙示2:20-25)

すでに書いたことであるが、2012年、KFCでアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信者の鵜川貴範氏がまだメッセンジャーをしていた頃、彼らはDr.Lukeと一緒になって、自分たちのメッセージに逆らう者は「聖霊に逆らっている」のであり、「赦されない罪を犯している」などと主張していた。

すでにこの時点で、KFCのメッセンジャーたちによる自己の神格化が明確に表面化していたのであるが、その頃、彼らは「自分たちはこれから深みに漕ぎ出すのだ。それには着いて来られる信徒だけが着いて来られる。それ以外の信者はみなふるい分けられ、脱落して行くだろう。」などと主張していた。

その「深みに漕ぎ出す」という言葉を聞いた時に、筆者に思い起こされたのが、上記の黙示録の御言葉に記されている「サタンの深み」であった。

通常、信仰生活において「深みに漕ぎ出す」という表現はあまり使われない(信仰生活は道にたとえられ、前進があるのみだからである。また、聖書では「海はその中にいる死者を出し」(黙示録20:13)とあるように、海は一般に死者の霊などの住処とされ、(霊的な意味においては)どちらかと言えば不浄の場所とみなされている)。さらに、KFCのメッセンジャーらの言う「深み」が具体的に何を意味するのかも明白でなかった。

いずれにせよ、人は自ら語った言葉によって、自分自身の歩みを規定して行く。従って、おそらくはその時にDr.LukeとKFCは、超えてはならない一線を決定的に踏み越えて、「サタンの深み」に向かって漕ぎ出したのではないかと筆者は考えている。

その瞬間が来るまでにも、Dr.LukeとKFCは着々と聖書の御言葉から逸脱していたのだが、キリスト教界を批判しながら、自らペンテコステ運動という偽物の聖霊運動を取り入れ、それに加えて、ローカルチャーチやサンダー・シングの異端の教えとも手を結び、サタンの自己高揚の教えを無批判に取り入れた時、KFCはまるで異端の殿堂のようになりながら、「サタンの深み」に向かって漕ぎ出して行き、もはや後戻りは永久に不可能となったのである。

このように、キリストの贖いを知り、一度は福音を受け入れながら、これを自ら拒んで、贖いの主を否定して己を神と宣言した人々の末路は、おそらく、通常の最期では決して終わらないのではないかと筆者は見ている。それは聖書が明らかに随所で警告していることだからである。

義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。」(Ⅱペテロ2:21)
 
「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。

また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。
」(Ⅱペテロ2:1-3)


「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18)

Dr.Lukeは以前からも、松沢牧師の例などをよく引き合いに出して、キリスト教界の牧師が多々正常でない最期を辿っていることを主張し、アーサー・ホーランドの行く末などを憂慮していた。それを聞きながら筆者は、同氏は他人の行く末を憂慮しているのではなく、むしろ自分自身の最期を予見して、御言葉から逸れた人々の悲惨な終わりに自分を重ねているのではないかと感じたものである。

このことは、Dr.Lukeが三島由紀夫や、イスラエルの「受難」に並々ならぬこだわりを抱いている様子からも感じ取れる(たとえば、2015年10月11日のメッセージのタイトルは「ユダヤ人の苦難と資産に与る」)。

だが、なぜ同氏は、神を信じ、御言葉に従う人々の栄光ある終わりに注目せずに、神を拒み、御言葉に従わずに生きた人々の「受難」に共感を見出すのか。

全く同じことが、同氏にサンダー・シングの教えを紹介したアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のcandy氏にも当てはまる。同氏は自身のブログ「主と一つ 」の中で、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの言葉に、未信者である夫と自分自身を重ね、キリストと自分たちを同一視していた。このくだりについては追ってまた述べるが、このように、神を信じない者をもキリストと同一であるかのようにみなして、生まれながらの人間を高く掲げながら、同時に、自分たちを「迫害されている」キリストの立場になぞらえて、一種の被害者意識を通じて世界を見ようとする考えは、彼らの内にある偽りの霊から生まれて来る、将来に対する予感から生じたものであるとみなせる。

このような考えは、実際、キリスト教と、聖書の御言葉、そして神ご自身に対する被害者意識からこそ生まれて来るものなのである。悪魔と暗闇の軍勢は、自分たちが永遠の滅びに定められているという事実をよく知っている。そして、この定めを決して変えられないことを知りながら、それでも、一人でも多くの人間を滅びの道連れにしようと、日々、欺きを続けているのである。

従って、悪霊の欺きの教えを受け入れた人々には、一方では、自分を神に等しい者として高く掲げて栄光化し、絶えず幸福の絶頂にあるかのように陽気に振る舞い、他の人々にはない特権を自慢して自己満悦しながら、同時に他方では、神を信じない人の悲惨な末路に自分自身を重ね合わせて、それに我が事のように同情と自己憐憫の涙を注ぎ、自分自身が彼らと同じような末路を辿るのではないかという予感を示すという自己矛盾が見られるのである。
 
こうした予感は霊的なものであると言える。聖書では、己を神とする者の末路は、いつの時代にもほとんど変わらず、とりわけ厳しい破滅で幕を閉じる。そのような宣言を行って、通常の最期を迎えた者は誰一人としていない。それは、己を神とする思想が、まさに神の地位を盗むことにより、神に反逆を企てたサタンの高ぶりと同じところから生まれて来る思想だからである。
詩編で不義なる裁判官らに下された宣告、「人のように死に、君主たちのひとりのように倒れる」は、エゼキエル書に記された、己を神としたツロの君主に対する次の宣告にも重なる。「心高ぶり、『私は神だ。海の間中で神の座に着いている。』と言った」ツロの君主に対する宣告は次の通りであった。「あなたは海の間中で、刺し殺される者の死を遂げる。」
 

己を神として 「サタンの深み」に漕ぎ出した人々の末路を暗示するような詩編である。
 
 
「人の子よ。ツロの君主に言え。
 神である主はこう仰せられる。
 あなたは心高ぶり、『私は神だ。
 海の間中で神の座に着いている。』と言った。
 あなたは自分の心を神の心のようにみなしたが、
 あなたは人であって、神ではない。

 あなたはダニエルよりも知恵があり、
 どんな秘密もあなたに隠されていない。

 あなたは自分の知恵と叡智によって財宝を積み、
 金や銀を宝物倉にたくわえた。
 商いに多くの知恵を使って財宝をふやし、
 あなたの心は、財宝で高ぶった。

 それゆえ、神である主はこう仰せられる。
 あなたは自分の心を神の心のようにみなした。
 それゆえ、他国人、最も横暴な異邦の民を連れて来て、
 あなたを攻めさせる。
 彼らはあなたの美しい知恵に向かって剣を抜き、
 あなたの輝きを汚し、
 あなたを穴に投げ入れる。
 
 あなたは海の間中で、
 刺し殺される者の死を遂げる。
 それでもあなたは、自分を殺す者の前で、
 『私は神だ。』と言うのか。

 あなたは人であって、神ではない。
 あなたはあなたを刺し殺す者たちの手の中にある。
 あなたは異邦人の手によって
 割礼を受けていない己の死を遂げる。
 わたしがこれを語ったからだ。
 ―神である主の御告げ。―」(エゼキエル書第28章)

<続く>

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