忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

戸を閉じて、隠れたところにおられる神に祈りなさい。

先月、KFCを介して知り合った最後の信者との別れがあった。KFCに一度でも関わったことのある信者との交流は、その人が最後である。もっとも筆者は何も言わずこの信者と訣別したので、その信者は、その出会いが最後のものであることをも知らない。

この信者からは、ちょうど7月の参院選の投票日間際の、このブログ記事の作成に筆者が最も打ち込んでいた頃、突如、予定変更して呼び出され、映画を観に行こうと誘われた。それもクリスチャン映画で、タイトルは"War room"(「祈りの力」)である。



むろん、この映画には色々と思うところもあり、手放しで絶賛するつもりは筆者にはないが、それでも、キリスト者ならば、ここから学べる多くの点がある。

特に、その信者のように、家庭に問題を抱えている主婦には必見の映画だ。自分の夫を憎んでいる妻には、観るだけの価値がある。キリスト教界ではおなじみの「愛と赦し」のテーマだが、人を憎み続ける生き方に対する強い警告がここにある。
 
その信者は、あまりにも長い間、夫を憎み続けて生き、もう自分に残された時間もごくわずかしかないというのに、この映画から、学んだことも特にないようであった。

その信者は、自分からこの映画に筆者を誘っておきながら、観終わった後、まるで他人事のように筆者を振り返ってこう言ったのだった。

「ヴィオロンさんには、この映画はきっと物足りなかったでしょうね」
「私にはクローゼットを祈りの場に変えることはできそうにないわ」
 
そのようにして、筆者に話題を振って、映画に込められているのが他ならぬ自分自身への教訓であり、警告であるとは全く受け止めようとせず、その後の歓談の席でも、配偶者に対する憤りを延々と語り続けたのであった。

もうこれ以上、そのような堂々巡りの生き方につきあうつもりは筆者にはないので、このような「信者」と交わる願いは皆無である。だが、KFCにはこのようなタイプの女性たちが非常に多かった。

夫に対する幻滅と憎しみゆえに、KFCに通い続けている女性信者たちが非常に多かったのである。

筆者の観点から見れば、そうした女性信者たちは現実逃避のために、KFCとDr.Lukeを利用していた。Dr.Lukeを偶像視し、彼の内に夫には見いだせなかった「英雄」への期待を託し、さらに、利己的で危なっかしい、英雄からはほど遠いDr.Lukeの歩みにも、まるで我が子を心配するかいがいしい親のように一喜一憂しながら、自分自身の抱える現実の諸問題から巧みに目をそらす口実としていたのである。

家庭を隠れ蓑にしていたので、それがDr.Lukeに対する霊的姦淫と現実逃避であるということが、傍目には分かりにくい構造になっていた。だが、彼女たちは、自分が家庭において味わっている本当に惨めさから目を背け、夫よりも自分が正しいという自己正当化に浸るために、集会に通っているのであった。

そういう光景は、ゴットホルト・ベック氏の集会の風景にもよく似ている。たとえば、経済成長の陰で、我が子を自死によって失ったり、家庭が危機に瀕している親たちが、集会で偉い指導者の言葉を通して、自己肯定と慰めを得て、自分は正しいのだという思いを家庭に持ち帰るのである。

こうした指導者たちの言葉には、見るべき問題を直視せず、自分を甘やかして来た親たちの心に巧みに訴えかけるものがあった。たとえば、ベック氏は信仰を持たない人でもキリスト教の葬儀をしてくれる。信仰を持たずに自殺した子も、神に愛され、受け入れられていると言ってくれる。

その理屈は以下に書く通り、村上密牧師と同じである。村上氏は、自殺者が天国に行けないとか、神に受け入れられていないという考えは、クリスチャンの偏見だとする。そのような言葉を聞けば、当然、子供を自殺という痛ましい形で失った親たちは、大きな慰めを得て、罪悪感を薄められ、満足を感じる。

だが、そのような安易な慰めには、弱い者たちを容赦なく犠牲にする価値観そのものの肯定、また、弱い者たちを犠牲に生き残って来た人間たちの側の巧みな自己安堵が隠れているのである。だから、そのような慰めにすがればすがるほど、彼らはより一層、家庭の歪みという、本来、見るべき問題から目を背けるようになる。
 
さらに、自殺という形で子供を失っておらずとも、そのような身勝手な慰めの言葉を聞いた親たちは、たとえ我が子と断絶し、交流が途絶え、我が子が信仰を捨てて集会にもよりつかなくなっていても、それを子供の側の一方的な落ち度として責めるようになる。

「私はこうして罪を悔い改めて、正しい信仰生活に立ち戻っているのに、あの子たちは信仰をも拒絶して、指導者の説教を聞こうともせず…」と、親たちは、自己正当化の思いで一段上の目線に立って子供たちの非を責めるようになる。要するに、集会に出ようとせず、自分たちの信仰を理解しようとしない子供たちが悪い、という理屈に逃げ込み、どうして親子の断絶が生じたのか、根本的な原因を考えようともせず、それを子供たちの不信仰のせいにかこつけて、より無反省になって行くのである。
 
だが、そうした親のかたくなさを見れば見るほど、子供たちはますます彼らが理想としている「信仰生活」に疑念を抱き、それは何か変だと感じて、そこから遠ざかって行くだけである。

だが、上記のように考えることによって、親たちは少なくとも子供たちの前でプライドを保てる。親たちは、集会における信仰生活が本物だと思っているので、まさかそれが自己の見栄とプライドを保つために作り上げられた虚飾の生活であり、自分たちの真の怠慢を覆い隠すためのアリバイ工作であるとは思ってもみない。

そして、あまりにも多くのものを集会に捧げ切っているので、それが幻想であることに気づくには、もう手遅れかも知れない人も大勢いる。

村上密氏の場合もこれと同じである。同氏は自殺を肯定する記事を自分のブログに書いている。つまり、自殺を神と自分自身に対する罪とする従来のキリスト教的な考えは、死んだ人間の思いや尊厳を傷つけるものであって、キリスト教徒の傲慢で誤った偏見だというのである。

こうして、自殺者の尊厳を優しく包んで擁護してやるように見せかけながら、ベック氏や、村上氏は、その実、巧妙に自らの主張において、死に対する抵抗を弱め、死を助長して行くのである。

彼らはクリスチャンを名乗っているにも関わらず、キリストが十字架において、悪魔の最大の武器である死に打ち勝った方であるという信仰の根本原則を信者に忘れさせ、死に対して徹底的に立ち向かうべきであるという姿勢を忘れさせ、信者に死を何か美しい、身近なものに感じさせ、キリスト教界にひそかに自殺肯定論を持ち込むのである。

その点では、ベック氏や、村上氏の述べているような理屈は、精神的な自殺幇助と言っても良いくらいで、そうした理屈はこれから死のうとしている人間にも大義名分を与えるし、すでに我が子を痛ましい形で失ってしまった親たちにも安易な慰めを与える。

こうした考えは、あたかも犠牲者に同情しているように見せかけながら、その実、人の死を助長する効果がある悪質なものであり、しかも、誰かを犠牲にして生き残った強者たちにとっても、非常に好都合な方便である。
 
だが、キリスト教とは本来、罪と世と死に打ち勝った方を救い主としているのであり、信者の信仰生活は、キリストの復活の命に立脚するものであるから、当然、この世の全ての圧迫や、死に対しても、力強い勝利を示すものではならない。その事実を曲げている点で、彼らの主張は信仰とは呼べないのである。
 
肉の思いは死であるが、御霊の思いは命と平安である。だが、ベック氏や村上氏は、そのことを全く知らないのであろう。彼らの理屈は、彼らの掲げている「信仰」は、死を食い止める術がないまやかしだ、ということをよく物語っている。自分の非力を覆い隠すために、自殺者を優しく擁護しているのだと言っても過言ではないくらいである。

おそらくは、ベック氏には心にリンデの死を防ぎ得なかったことに対する無意識の罪悪感があるのであろうし、村上氏は、カルト被害者救済活動に携わる過程で、あるいはもっとそれ以前から、身近な弱い者の自死を防ぎ得なかった自分自身への自責の念があるのだと思われてならない。

そうした無意識の罪悪感が、形を変えて、自殺肯定論になって登場して来るのである。彼らは死んだ者たちをかばうためにそう言っているのではなく、むしろ、自分自身の罪悪感を薄めるために、「自殺は罪ではない」と言い続けているのであって、そのまやかしの自己肯定の思いが、似たような罪悪感を抱えている多くの人たちを惹きつけるのである。
 
だから、そのような理屈に、我が子のように身近な弱い人々を痛ましい形で失って、自分だけは生き残ってしまった親たちのような人々が、罪悪感を和らげるために群がって便乗し、自己安堵を得るのである。こうして、人々が結託して罪悪感を覆い隠すための一大要塞が築き上げられる。そのイデオロギーへ深入りすればするほど、「信者」が自分自身が真に犯している罪に気づくことは難しくなる。現実逃避的な信仰生活に邁進すればするほど、心はますます頑なになり、弱い者を責めるばかりになって、頭の中も抽象論だけで占められるようになり、本来、自分の家庭を立て直すために、自分自身は具体的に何をせねばならないのかという現実的な課題が見失われて行くのである。

Dr.Lukeの集会も、そうした現実逃避の点では同じ特徴を持っている。そこには世代間格差のようなものもあって、自分たちは恵まれた強者の立場にある人たちが、弱い者たちを容赦なく犠牲にしている罪を覆い隠し、そこから目を背ける方便として、信仰を利用しているのである。
 
さらに、配偶者間の争いによってずっと我が子を犠牲にし続けて来たような親たちが、そこに慰めと安堵を見いだして群がるのである。
 
そうした点では、KFCも、ベック集会や、村上密氏の礼拝と同じような意味で、弱肉強食の世界で生きて来たがために、子供を犠牲にしてしまった身勝手な親たちや、配偶者との絶えざる対立の中にあって互いに理解し合えない伴侶たちの心のアリバイ作りに大いに役立っていた。KFCの集会は、子供の自殺にまで至らずとも、我が子と断絶していたり、夫を憎む妻たちにも居心地の良いアリバイを与えていたのである。
 
ところで、夫婦間に深刻な心の断絶があると、子供たちも必ず深刻な悪影響を受ける。夫婦が憎み合っている家庭では、子供は成人すると、全く家によりつかなったり、親子関係が断絶してしまうケースも珍しくない。

ところが、KFCもそうなのだが、アリバイ作りのために信仰生活を逃避の場にする親たちは、神の御前で、自分が抱える配偶者への憎しみという罪を認めて懺悔するどころか、むしろ、その罪から目をそらすために、礼拝へ駆けつけるのである。

あたかもそうした罪を認めているかのように見えても、実際には、心の根本では、問題は解決していない。Dr.Lukeを夫の身代わりに見立て、彼に期待することで、本当に直面すべき心の課題から逃げているだけである。
 
しかも、彼らの中には、自分たちが持っていた配偶者への嫌悪や憎しみが、子供たちからどれほど平和な家庭を奪ったのかには露ほども思いを馳せず、やがて子供が成人して家によりつかなくなってもまだ、「このくらいの距離がちょうど良いわ!」などと言って自己安堵の中に逃げ込み、問題の本質をごまかす者もある。
  
彼らは「神」を口実にして自己肯定し、信仰生活を自分の罪から目を背ける口実としているので、彼らの身勝手な「信仰生活」は、続けば続くほど、より深いまやかしとして、信者を真実から遠ざけるのみである。

そうしたごまかし・まやかしの「信仰生活」が長く続くほど、その「信者」の心には、自分の罪を認めないための屁理屈が山のように築き上げられて行くので、だんだん事実を事実と認識することができなくなり、たとえば、自ら配偶者を憎みながら生きていても、上記のような映画を観ても、それが自分に大いに当てはまっていることだと、全く感じられないほどまでに心が硬化するのである。
 
さて、話を戻せば、上記の信者は、自分から筆者を誘ってその映画を観たのであるから、話題を筆者に振って終わりにするのではなく、今こそ、自分自身の妻としての至らなさ、母としての至らなさを認識し、夫婦が憎み合っていたために我が子へ与えた悪影響について考えるべきタイミングに至っていたのであるが、映画は自分には関係ないことであるかのように考えることによって、その貴重なタイミングを自ら逸したのであった。
  
筆者はその時が来るまで、その信者はとても幸せなのだと思っていたが、実際には、そうではないことがよく分かった。というよりも、その信者がまやかしの表面的な幸せを保つために、どれほど忌まわしい思考操作・ごまかしのからくりを水面下に隠していたかがよく分かって、筆者はもうそのような幸せを羨ましいとも思わず、そのようなものに関わりたい願いをも完全に失ったのであった。
 
KFCに関わったがゆえに、己が罪が見えなくなった人々は多い。カルト被害者救済活動も同じであるし、ベック集会も同じである。彼らの罪の概念は歪んでおり、指導者に逆らうことが「罪」とされる一方、人が真に心の中で犯す罪が全く罪と認識されないのである。だから、そんな集会の信仰生活に関われば関わるほど、人はより自分を「ひとかどの人間だ」と己惚れるばかりで、自分の罪や身勝手さが見えなくなっていくだけなのである。
 
生涯の終わりになっても、配偶者に対して何十年間も抱えて来た軋轢と憎しみを心に抱えたまま、自分は正しいと思いながら、配偶者の過ちだけを責め続け、憎みながらも別れようともせず、むしろ憎んでいる配偶者の助けによりすがって、その経済的な庇護を受けて、表面的にのみ幸せで平穏な生活を送り続ける、それが何か信仰と関係があるだろうか?

断じて、そんなものは信仰生活とは呼べない。

そのような人は、ずっと自分の本心を偽っているので、それが極めて欺瞞に満ちた身勝手な生き方だということには気づこうともせず、そのくせ、心の底にある不満を隠すこともできないので、ずっと配偶者に対する愚痴を生涯に渡って、あらゆる無関係な人たちに語り続けるのであろう。そのような行為が、健全で幸福な結婚生活に関する他者の夢を壊している悪影響にさえ思いが及ばないほど身勝手なのである。

そして、棺桶に片足を突っ込んでいると言われても差し支えない年齢になっても、まだそのような自分自身の本当の身勝手な姿から逃げ続けるために、日々、何かのエキサイティングな行事や、娯楽を追い求め、美しく着飾り、現実逃避して、本心をごまかし続けて生きるのである。

本当の幸せを手に入れるために起こさなければならなかった全てのアクションを捨て去って、ただ自分は幸福な主婦であるという表面的な見栄とプライドと安定的な生活を保つためだけの、まるで無限ループのように生産性のないまやかしの生き方を、生涯を閉じるまで、離れられないのであろうか。
 
今だから言うが、 Dr.Luke本人を筆頭として、KFCには、世の中の情勢とは全く関係なく、世人が常に味わっている苦労とも無縁で、幸福そうで、悩みなく生きているように見え、またそのように豪語している人たちが存在した。

だが、そのように浮世離れして、悩みがない人というのは、人として何かが根本的に狂っていて、おかしいのだと、筆者は今は推測せずにいられない。

聖書には、正しい人には悩みが多いと書かれている。信仰者には地上で悩みがある。試練もある。艱難もある。だが、主がそれらの苦しみから私たちを救い出して下さり、苦しみの只中で、勝利する秘訣を教えて下さる。

だから、若い時に苦しみを受けることは幸いなのである。また、それがなければ、信仰が訓練されて生長するということもあり得ない。
 
なのに、全く悩みにも遭わず、試練にも遭わず、悔い改めるべき罪も自分にはないと言い、ひたすら他者の罪だけを責め続けて、信仰の戦いがまるで存在しない人は、おそらくは信仰者ではないのだろう。ただ単に信仰者でないだけでなく、それは人間のあるべき姿からもほど遠く、実際には、羨むだけの価値が全く存在しない欺瞞の生き方なのである。
 
その美しい平和な外見は、信仰に裏打ちされたものでは全くなく、むしろ、内面にあるものは、白く塗った墓なのだと言って良いのではないか。見るべき全ての問題から逃げ続けているために、偽りの平穏が保たれているのでしかない。

だとすれば、そのように棚上げした問題のツケは、おそらく人生の最期、主の御前に立たされる時になって、洪水のように押し寄せて来るに違いない。
 
もしかしたら、上記の信者については、あの映画がラストチャンスだったのかも知れない、と思う。だが、その人にその先、何が待っているのかは、筆者にはあずかり知らないことであるし、それ以上、関与したいとの願いもない。
 
さて、映画を観た結果、筆者自身が思うことは、もし筆者自身が、今後、家を変わることがあれば、祈りの部屋にできるウォーク・イン・クローゼットがある家も悪くない選択だということである。

集会への出席状況などを人前で誇るのではなく、楽しい讃美歌を歌い、飲み食いし、浮かれ騒いで踊ることを「信仰生活」と考えて喜ぶのでなく、ただ隠れたところで、神にのみ心を注ぎだして祈ることだ。ただ神だけに栄光を帰することだ。

神は隠れたところにおられ、隠れたところで捧げられる祈りに目を留めて、信者の願いに耳を傾け、聞いて下さる。信仰生活は、対外的に見せびらかして自己肯定するために存在するのではない。信者の内面の生活は、神にのみ知られ、神の目に評価されていれば、それで良いことである。

PR