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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

日本人の集団性(1) 東洋的世界観とグノーシス主義

あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。
(ローマ3:4)

「次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」
(ローマ3:10-18)
 
筆者の大嫌いな言葉に「協調性」なるものがある。

日本人は協調や連帯が大好きだ。確かに、狭い組織の中で、お互いに傷つけ合わず、耳の痛いことをあえて言わずに、お互いに気分を害さずにやりくりしようとする精神性は、ある意味では、礼儀正しさであり、日本人の美徳と言える。

東日本大震災が起きたとき、駅のホームなどで帰宅難民となり、不便な状態で夜明かしした人々が、暴動を起こすこともなく、場所の取り合いで争うこともなく、静かに事態を受け入れている様子を映した映像は、世界各国の人々を驚かせた。

大惨事が起きたときにも、自分の利益を真っ先に優先するのでなく、まずは全体を見回して、全体が混乱しないためにどのように行動すべきかを考える日本人の几帳面な国民性に、世界は驚いたと言われる。またそのようにして黙って苦難を耐え忍んでいる被災者の姿が、世界の同情を集めたことは当然だろう。

しかし、それはほんの表面的な事象に過ぎない。震災後すぐに、被災地へボランティアに入った若者たちに私は職場で出会ったが、その人たちが一様に口にしたことは、テレビで報道されているような秩序正しい被災地の姿はほんの見せかけに過ぎず、実際には、被災地では略奪、暴行を含めて、さまざまな犯罪と混乱が起きているのだが、それはあえて報道されないということであった。

一体、誰のために報道されないのか? 当然ながら、それは内地(ここでは被災地以外)に住む人々の心の安寧を脅かさないためである。

私は、福島県はもうこの時から、中央政府と内地の人々から見捨てられ、なきものにされてしまっていたのではないかという気がしてならない。

だが、もしも本当に実際に起こっている混乱が報道されなかったのだとしたら、それは明らかに、「被災地の秩序は保たれている」という偽りの雰囲気を演出するために行われていることを意味する。

このような偏った報道姿勢は、安倍首相による、福島原発事故は「コントロールされている」という発言にも通じる。つまり、「(現存の体制の)秩序は維持されており、微塵もほころびがないので、国民は何も心配するようなことはない」と、震災と原発事故以降、日本政府は繰り返し、繰り返し、まるで子守唄のように国民に言い聞かせて来たのだと言える。

その意図が、各メディアによる報道姿勢にも透けて表れている。台風については毎回、大騒ぎする。用心しすぎて困ることはないので、大いに命の心配をして下さいと、煽り過ぎるほどに不安を煽る。ところが、被災地では、まるで原発事故そのものがなかったかのように、人々は汚染された地域へ帰還を促され、子供たちは被災地への修学旅行を勧められ、汚染された海で泳ぎ、果物を摘んで食べているのである。

被爆の影響がこれからどんな形で現れてくるかも分からないのに、この人々は役者のごとく、「全ては安全だ、無事である、秩序は保たれている」という雰囲気の演出に駆り出されているのだ。

こうしたことの背景には、集団信仰、あるいは組織崇拝にも近いような現体制への礼賛、何かしら異常な域に達している日本人の「和」に対する信仰があるように思われてならない。

日本人は秩序が壊されることを嫌い、自分個人の利益よりも、まず全体(集団)の利益を念頭において行動するよう、幼少期からしつけられ、教育されている。「協調性」という言葉は、いかに全体の和を乱さず、全体の秩序を壊さないように配慮して行動できるかという個人の資質の度合いを表すもので、日本ではしばしば個人の能力や実力以上に、「協調性」の方が重んじられる傾向にさえある。

だが、日本人の協調性の恐ろしさは、時として一歩間違えば、それが集団催眠にも似た一種の盲目的状態となり、目指す目標が良いものか悪いものか、自分では何も吟味することなく、空気のような集団意識に流されて、レミングのように手に手を取り合って、破滅へ突っ走って行くような無責任な心理状態へと早変わりしかねない点にある。

たとえば、ある企業に入社したとして、そこで全ての社員が自主的にサービス残業をしていたら、自分も貧しさと過労で倒れるまで、それに黙って加わるのが「協調性」なのだろうか。むろん、サービス残業に異を唱えれば、当然、角が立つだろう。その場の空気を乱し、秩序を乱したことにもされかねないだろう。だが、そうやって、周りの空気に合わせて巧みに道理を引っ込め、「空気」なるものに流されて、白を黒とし、黒を白として生きることが、果たして人間として評価される立派な資質になりうるのだろうか。それは協調性というよりも、むしろ人としての卑しさに他ならないのではないか。

あるいは、誰かが被災地で暮らしていたとして、周りのみなが放射能による被爆に不安を抱えて生活を送っているところ、自分ひとりだけ、そこから引っ越して、不安を解消するわけにはいかないと、いつまでも汚染された土地に住み続け、不安を抱え続けながら生活するのが、「協調性」なのだろうか。

そんなものは「協調性」でも何でもない。それは単に問題を見過ごしにして解決を先延ばしにしているだけの無責任な姿勢である。

協調性という言葉を、誰かに問題を見過ごしにさせ、悪事に目をつぶらせ、不自由や、貧しさや、犠牲を黙って我慢させるための都合の良い口実に用いるのはナンセンスである。「赤信号みんなで渡れば怖くない」の心境で、大勢が行なっていることだからからと、悪い結果が伴うのを知りながら、それに苦言を呈することなく手をこまねいてみているか、もしくはその悪事に加担することを 「協調性」とは呼ばない。

ところが、昨今、この「協調性」というものが、人に理不尽な犠牲や苦痛や損害を黙って耐えさせるための実に都合の良い口実として用いられているような気がしてならない。

もっと言うならば、日本社会全体が、まるで「欲しがりません、勝つまでは」と言われた戦時中のように、当然のごとく貧しさや困難の中に落ち込みつつあって、いつの間にかそれに抵抗して豊かさを取り戻すのではなく、むしろ、みんなが耐えているのだから、自分も耐えるのが当然だと、無意味な貧しさに自分を合わせ、必要のない自己犠牲に甘んじるべきだとするような、意味不明な精神論が醸造され、奨励されつつあるように思われてならない。

たとえば「節電」なるものもそうである。

多くの人々は、節電とは、東日本の震災以後に、電気が逼迫するという差し迫った必要性から呼びかけられるようになったスローガンだと思っていることだろう。震災のために原発が停止し、電気が足りなくなるかも知れないと、計画停電が行われてから、電力会社が先頭に立って節電を呼びかけるようになったのだと勘違いしている人も多いのに違いない。

だが、実際はそうではない。東京電力は東日本大震災が起きるよりずっと前から、自主的に「節電」に取り組み、「節電」を呼びかけてきたのである。それは震災以前から、東京電力の発電所などの施設で、不要な電気が消灯され、節電を呼びかけるポスターが壁に貼られていたことではっきり分かることである。

不思議なことである。電気を売る会社でありながら、電気をじゃんじゃん使ってもらって利益を上げようというのではなく、むしろ電気を使うなというがごとくに、自ら省エネをするだけでなく、道行く人々にも省エネを呼びかけていた。それはこの会社の理念の一つだったのだと言える。それがただ震災をきっかけに、何らかの大義名分を得て、東京電力の枠組みを超えて、関東全域に(日本全域に)爆発的に広がり、まるで正しいことのように押しつけられて行っただけの話である。

押しつけられて行った、と言うのは、震災後しばらくの間、関東では電気を普通に消費することがまるで後ろめたいこと、悪いことであるかのような「空気」が出来上がったからである。人々は自主的に節電に取り組み、節電を呼びかけるポスターが街のあちこちに貼られ、駅構内の電気は消えて、人の集まる場所は暗く、陰気になり、大観覧車も消灯し、街から活気が消えた。

こうして関東の人々が自主的に耐乏節電生活を送っている最中、西日本から復興ボランティア合唱隊などがやってきて、電気の消えた陰気な駅構内で、被災者の心を励まそうと晴れやかな明るい歌などを歌っていた。それを聞くと、何だか異次元の風景を見ているような気持ちになり、いかに関東と西日本が切り離されてしまったのかを痛感したものだ。本当に戦時中にいるような気がした。

とにかく、関東の人々はその頃、極力、電気を使わない生活を耐え忍ばなければならないかのように思い込まされていた。多くの人々が駆け込むように家庭の電気契約のアンペアを下げた(本当はそんなことでは節電にはならないのだが)。そのような節電奨励の「空気」が変わり始めたのは、原発が停止しても、電気が足りなくなる恐れがないことがはっきりと実地で証明され、さらに過度な電気使用の自粛が日本経済(産業)の成長の足かせとなり、国民の過度な消費生活の抑制が市場経済の成長に打撃を与えることがはっきり国と人々に認識されるようになってからのことである。だが、その認識が広まるまで、「電気をじゃんじゃん消費すると、大変なことになるかも知れない」という恐れに満ちた「空気」が醸造され、人々はそれに踊らされて、自ら電気の個人消費を控えて苦しい生活を送ろうとしていたのである。

余談になるが、なぜ東京電力は、震災が発生してもいない前から、節電を奨励していたのであろうか。一体、いつからそのような考え方があったのか。それは分からないが、考察に値するテーマだと思う。それは何か戦前を思わせるようなとても奇妙な考え方である。すでに書いたように、電力会社である以上、電気を消費してもらうことこそ、企業の利益につながるはずなのに、その逆を自ら呼びかけるというところに、何かしらとても屈折した理由があることを思わずにいられない。

地球環境問題が出現してきた頃から、「エネルギー大量消費は地球を滅ぼす脅威であるから悪である」という発想が世界に広まった。その観点に立てば、電気も節約すべきエネルギーとなるのかも知れない。だが、そもそも、この省エネの発想の根底にあるものは、「個人の欲望に基づくエネルギー大量消費は悪である」、なぜなら、「地球のエネルギー資源は、地球全体の人口を養うのには足りない」という考えである。地球全体の人口が小さなパイを取り合うように、少ない食糧、エネルギー資源、等々を奪い合っているから、その中で個人がエネルギーを大量消費することは、他の人の分を取り上げることになり、全体の利益を脅かす悪だというのである。

だが、それは一体、本当なのだろうか。またしてもここで「全体」が登場する。まず個人として何がしたいのかというところから出発するのでなく、まずは地球「全体」のことを考えて、地球全体が迷惑をこうむらないように、個人としての自分を抑制し、自分の欲望を抑制して、自分の取り分が少なくなるように消費を控えなさい、そうでなければ、地球は維持できません、という考え方である。

もっともっと端的に言うと、これは「あなたの欲望に基づく消費活動は地球全体にとっての迷惑だから控えて下さい」と言われているのに等しい。この路線に沿って、「人類の欲望が地球環境を壊した」などと言われるのである。

だが、こうした考え方の根底には、脅しが含まれているだけでなく、さらには人間の欲望を悪としてとらえ、人間の消費生活を罪悪であるかのようにとらえ、ひいては欲望や消費生活と切り離すことのできない人間そのものの存在を悪としてとらえる考え方が潜んでいるように私は思う。

そして、このような発想には果たして信憑性があるのかどうかを疑う。

なぜなら、まず、人間の欲望や消費生活がない限り、決して文明や経済が発達することはない。人の欲望も消費生活も、文明発展の起爆剤である。それを抑制することによって、地球環境を改善できるという考え方には非常に疑問が残る。

さらに一人のクリスチャンとして私は考えるのだが、神は人間を創造した際に、「生めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従えよ」との命題を人に与えられた。これは神が人間をとても高く評価し、崇高で力強い使命を与えておられたことを意味する。それなのに、神が人間を創造しておきながら、他方では、人間の数にふさわしいだけの資源を地球に備えなかったという説には非常に疑問を持つからである。

では、戦争や、食糧危機や、旱魃や、飢餓はなぜ起きるのか、という問いもあろう。一言で言えば、それこそ防ぎうる、もしくは手立てを考えることのできる災害ではないだろうか。それを神の責任にするのは、責任転嫁というものだろう。信仰をよそにしても、エネルギーや食糧を含めて、地球上の資源の不公平な分配という問題は、資源そのものが足りないために起きているのではなく、植民地支配の名残や、差別に満ちた不平等な社会、不正な企業活動等による環境破壊や、政府の怠慢などの問題が放置されていることに起因するものであり、そこを正さない限り、個々人がどんなに頑張ってみたところで、そんな大海の一滴のような成果で、全体的問題が解決されることはあり得ないと思うからである。

むしろ、節電などの個人に負担を強いるだけの(ど根性耐貧論、精神論的)省エネ生活などは、むしろ、この問題を作り出している本質的原因とその責任者の存在をごまかすためのカモフラージュに他ならないと考える。

計画停電中に、計画停電の不便を耐え忍んでいる世帯に配られた東電の検針票に「電気は無駄なく正しく使いましょう」と書かれてあったことから、それに怒り心頭に達して、東電に苦情をたたきつけた者もあった。原発事故の被害の実態さえも明らかにしようとしない企業が、電気という、家庭生活に欠かせないライフラインのひとつを握っているからと言って、それを質に取るように、上から当然のごとく、各家庭に節電を押し付けてくる高飛車な姿勢に、人々が怒り狂ったのは無理もないことであった。しかも、原発を再稼動しないと電気が足りなくなるから再稼動に賛成せよと、福島原発事故の悪夢も覚めやらないうちに、まるで脅されているも同然だと、関東の人々が怒りと恐怖を感じたのは無理もないことである。

電気を使わねばならない立場にあるからと言って、なぜそんなにまでも見下げられ、脅されなければならないのだろうか???平和に見えたごく普通の企業が、多くの人々の目の前で、ヤクザのように変身して正体を見せた瞬間であった。そのようなわけで、東電の電気を二度と使うまいと、さっさと太陽光発電に変えてしまった知人もいた。

話を戻せば、このようにして、震災を機に、わずかな期間で、利用できるものも極力利用せずに、わざわざ苦しい生活を耐え忍ぶのが全体のためだという「空気」が関東に醸造されたのである。そしてこの「空気」は今も残っており、全体として、さらに危険な方向へ向かっているように思われる。もはや節電などという可愛いレベルではなく、「放射能汚染はない」とか、「原発事故はコントロールされている」とか、重度の安全神話が形成されつつあり、やがては「被災地は存在しない」、「そもそも原発事故などなかった」と言い出しかねない、恐ろしい妄想じみた方向へと進んで行っている。

「空気」は暴走するものだ、と言っておきたい。

どんなときにも、自分を一個人としてではなく、自分の属する集団の一員としてしかとらえることができないために、一個人としての自由や解放を目指して声をあげることができず、組織の枠組みの中に自分を押し込めて、自分の声を殺してしまう日本人の国民性は、この国民の大きな限界であり、盲目性であるとも言えるのではないだろうか。

その限界あるゆえに、どんなにひどい事態が起こり、どんなにひどい人権侵害を受けても、この国民は概して、一個人として、自分を取りまく集団の状況を変えるために、怒りをもって立ち上がることができないのではないだろうか。

それどころか、むしろ、今の集団のあり方がおかしいと気づいて声を上げる勇気ある人が出現すると、「赤信号」を黙って渡っていたい大勢の人々が大挙して押しかけてきて、その人を取り囲み、リンチして、主張を押しつぶしてしまう。それはちょうど狭いバケツから這い上がろうとするカニが出現すると、他の多くのカニがそれを引き摺り下ろして、脱走を阻止してしまう風景にも似ているし、何やらカルト宗教団体に近いまがまがしい雰囲気である。

良い団体に入って恩恵を享受していると信じていられるうちだけが花であり、何かが変だぞ、ここはおかしいと気づいたが途端、早速、他の「信者」たちが血相を変えて押しかけてきて、「絶対におまえをここから逃がさないぞ」、「ここから自由にはしない」、「しゃべったら命はないと思え」、「ここ以外におまえの居場所はない」、「ここを出たら破滅するだけだ」などとさんざん脅してくる。

こうなっては集団は個人を閉じ込めて権利を奪うための監獄にも等しいものになる。しかも、その時に何も気づいていない大勢の「信者」=「囚人」たちが、事実に気づいた人間に対して無意識に取る行動の残酷さは言い知れないものがある。

そうなることが怖いので、みなは何かに気づいても、気づかないふりをしている。そしてその沈黙を「優しさ」や「思いやり」や「協調性」などの言葉で巧みにごまかして正当化しながら、互いをかばいあっている。

結論から言うならば、何を隠しているのかと言えば、つまり、自分たちは「囚人」であり、そこは「監獄」であるという事実を隠しているのだ。その不自由さには、できるだけ気づかないように気をつけながら、「私たちは自由であり、恵まれており、解放を目指している最中なのだ」と、正反対のことを主張して、自画自賛しているのだ。

今まで、このような風景に何度、遭遇してきたか分からない。それは宗教団体のみならず、被害者運動も然り、原発問題も然り、学校も、企業においても然り、すべてにおいて共通して同じ現象が繰り返されていた。

本当は、形あるものに絶対はないはずであり、組織も目に見える愚かな人間の集まりに過ぎないわけで、間違うこともあれば、狂ってしまうこともある。組織の理念が、時代を超える普遍的、絶対なものでありうるかというと、そういうことは決してない。

それにも関わらず、人が集まると、いつの間にか、自分たちの組織や理念を絶対的なものとしてとらえるようになり、自分たちの属する集団を崇拝の対象にさえしていくのはなぜなのか。しかも、それに向かって石を投げる人間に、徹底的に報復しないでは気が済まないという恐ろしい驕りが生まれるのはなぜなのか。

それは、本来、絶対でありえないはずのものを絶対視しているという前提あってこそ、起きることなのではないだろうか。そうなると、これはただメンツや建前の問題を超えて、宗教や信仰心の領域に入っていく。

一体、なぜそれほどまでに日本人は組織や集団を絶対視するのか、その背景を探っていくと、どうしても東洋独特の文化的・精神的土壌に行き当たらないわけにいかなくなる。それは一見、礼節や、常識を装っているが、その根底には似非宗教めいた、非常にまがまがしい信仰心のようなものが隠されているのではないか。

それをつきつめて行くと、東洋的世界観が浮かび上がってくる。
やはり、グノーシス主義へと行き着かざるを得なくなるのだ。

一体、この東洋的世界観とは何なのか。
それと向き合わないことには、この問題は究明できないだろう。

これから長きに渡って、「協調性」も含めて、日本社会の根底に流れる集団性の正体が何であるのか、また、それがグノーシス主義とどうつながっているのかをきちんと説明していきたい。
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