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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

リンデはなぜ亡くなったのかを検証する 異端の教えと子供の犠牲の相関関係


異端の教えと子供や若者を
犠牲にする価値観との相関関係

~リンデはなぜ亡くなったのかを検証する~

 





1.子供や若者を犠牲にする弱肉強食のこの世の価値観
 
ようやく今回のブログの本題に近づいてきました。今回、どうしても書いておきたいテーマの一つに、聖書から逸脱した異端思想に基づく組織はどのようなものであれ、必ず、子供(や若者)への虐待を発生させるという問題があります。
 
カルト的異端思想に基づいた宗教組織はいずれもネズミ講のようなピラミッド型年功序列の組織作りを行う特徴があります。そこは早く来た者勝ちの世界、年功序列、弱肉強食の世界です。ですから、その組織的な歪みのゆえに最も大きなしわよせを受けるのは、弱い立場にある者たちです。子供や、若者への虐待が発生しないはずがありません。

けれども、見渡せば、今の日本もまるで同じことですね。大きな世代間格差があります。社会に早く出た者がより多くの特権を手にし、年長者は優遇される一方、社会に遅れて来た者、つまり、年少者、子供たち、若者たちは不利な立場に置かれ、大きな不利益をこうむっています。

少し考えれば、日本社会そのものが大きなカルト団体と同じであることが分かります。カルト団体では、よく知られているように、信者が決して団体の異常性に気づかないように、冷静な判断力を奪うために過剰な訓練や労働を課して徹底的に疲弊させます。賃金も将来もない希望なき労働によって、若者や、貧しい者たちが徹底的に使い果たされている現在の日本社会も、カルト団体とほとんど変わらない誤った理念に支配されていることが分かります。
 
 
 
2.「後の者が先になり、先の者が後になる」聖書の価値観の不思議
 
しかし、聖書の世界観はこのようなものではありません。

「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせて、彼らに言われた。

「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。
あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」(ルカ9:46-48)

労働に関しても、聖書の世界観はこの世の世界観とは真逆です。

この世では、労働もまた早い者勝ちの年功序列の世界で、企業や団体の高職に就けるのは、特権的な家に生まれた者、早くから特権を手にした人々、経験ある年長者らであり、この世に後からやって来た、生まれもごく普通で、経験の乏しい若者などは、圧倒的に不利な立場に置かれます。

聖書の価値観はこれとは正反対です。

「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。

それから、九時ごろに出かけてみると、別な人たちが市場にたっており、何もしないでいた。
そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』彼らは出て行った。

それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。

また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あながたがも、ぶどう園に行きなさい。』

こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。

そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナずつであった。

そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。
ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

このように、あとの者が先になり、先の者があとになるのです。」(マタイ20:1-16)

もしもこの世でこんな風に「あとの者が先になり、先の者があとになる」ようなことが起きれば、大混乱が発生するでしょう! 自分が有利になるために、人間が一生懸命に蓄えて来た教養、実績、スキル、年齢などが何ら有利な条件とならず、ベテランの経験者が後からやって来た経験の乏しい人々と同じ給与にあずかるなど、人のプライドが許すでしょうか。


3.暗闇の圧政からキリストの支配下へのエクソダス

しかし、それでも聖書の価値観はこうなのです。人から見た価値観とは異なる、神の価値観というものがあるのです。そこでは、神の気前の良さ、公平さ、この世の弱い者たちへの憐れみの深さが存分に示されていますが、そもそも、神はこの世で弱い人たち、幼い人たち、未熟な人たちを、弱いとも、幼いとも、未熟だとも考えてはおられません。神は人の経験や実績に全く目を留めておられず、人の努力や資質に基づいて、人を判断されることがないのです。

そのことは、人が信仰によって神と共に歩むようになると事実として分かります。人の目から見て、全くあり得ないことが起きるようになるからです。ある人は、この世から見れば、全く成功の望みのない、人の目に重宝される価値を全く持たない、見込みのない人間に見えるかもしれません。その人の再起の可能性は誰から見ても全くゼロです! 本人も周りもそう思って絶望しています。 しかし、その人がただ信仰だけによって立ち上がるとき、不思議に様々な助けを得て苦境から抜け出し、神の恵みを経験する、そういう不思議なことが起きます。それによって、この世とは違う、この世を超えたもう一つの価値体系、この世よりももっと強力な別の支配体系が確かに存在していることが分かるのです。個人的に経験しなければ、分からないかもしれませんが、そこへ脱出することが、本当の意味でのエクソダスなのです。

つまり、この世の悪魔的価値化体系から、まことの神の価値体系へのエクソダスすることです。病、圧迫、欠乏だけが支配するこの世の支配体系から、神の無尽蔵の富と憐れみの支配する別の霊的体系へのエクソダスです。それがなければ、おそらくこの先、生きられないような時代がやってくるかもしれません。

「神は、私たちを暗やみの圧政から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)
 
この世は基本的にケチです。この世はあなたを幸福にしようとは全く考えていませんし、幸福の基盤となるものを与えるつもりもありません。節電という言葉に象徴されるように、この世はあなたが豊かに暮らせるようになることを全く願っておらず、むしろその逆で、あなたが何かを消費する度にもったいないとケチをつけて来ます。電気さえ自由には使わせたくないのですから、他は推して知るべしで、あなたの給与も値切ってくるでしょうし、あなたのためにはすべてがもったいなく、あなたは豊かさに全く値しないと言ってくるでしょう。この世はあなたができる限り自由にならないように、快適にならないように、窮屈に暮らし、選択肢が限られ、願いがかなわないで絶えず圧迫されるように、あらゆる機会をとらえて脅かして来ます。この世はあなたを苦しめて袋小路に追い込むことしか願っていません。苦しみの果てに、ついには命さえ奪い取ろうとしているのです。しかし、神はそのようには願っておられません。

神が人に願っておられるのは、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」(創世記1:28)です。それは人の創造の時から変わらない命題です。豊かさが前提にならなければ、生むことも増えることも地に満ちることもできません。権威がなければ、地を従えることはできません。

一体、どのようにそれが可能となるのでしょうか。

「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)のです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル10:1)

すべては十字架にかかられたキリストのゆえです。「権勢によらず、能力によらず」、ただ信仰を通して働く神の霊によって、すべての望みが成し遂げられるのです。

信仰とは不思議なものです。もしも今、目の前に豊かさが広がっているならば、誰も何も信じる必要はないでしょう。現に見ている風景がすべてです。待ち望む意味もありません。しかし、周りに何もなく、すべてが終わりに向かっているように思われるときに、神を信頼して歩み始めるからこそ、信仰なのです。それは、神が私たちを滅ぼすことを願っておられるのではなく、キリストのゆえにすでに死から救い出して豊かに命を与え、私たちを生かすことを決めておられ、私たちの幸福を確かに保証して下さると信じることです。しかし、その望みは今現在よりも、未来に向かっているのです。

それにひきかえ、能力や、経験や、実績や、経歴や、仲間の数といったものは、人が努力によって築き上げた成果であり、今現に見ているものに過ぎず、信仰によって待ち望む必要もありません。こうしたものは、神の目から見たときにより頼むべきものではないどころか、むしろ、信仰の障害にさえなるのです。

しかし、これは途方もない価値観なので、この世の観点からは理解できないでしょう。合理的な説明を試みようとも私は思いません。しかし、もしあなたがこの世において全く望みが絶たれているならば、より頼むべきものを持たないならば、新しい価値体系へ移行する絶好のチャンスです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

このことは、キリストの十字架を信じた瞬間から、誰であれ、直ちにエクソダスが完了していることを意味します。仰々しい悔い改めの儀式は必要なく、滂沱の涙を流して回心する必要もありません。あなたはすでに御子による新しい支配体系へと移し出されているのです。

キリストによるこの新しい世界・新しい支配体系は、絶えざる窮乏を押し付けてくるこの世の古い支配体系とは異なり、豊かさにあふれる神の新しい世界です。ただし、それは神を信じた翌日には億万長者になるようなことを意味せず、信じる人が日々、目の前に置かれた障害物を信仰によって乗り越えていくことを必要とするのです。

多分、この世の支配体系はあなたを絶対に逃がすまいと追ってくるでしょう。この世の絶望的混乱はますますひどくなり、あなたは敵対勢力によってますます追い詰められているように感じるかもしれません。どこに自由が、幸福が、復活の命があるのでしょう? 神はどこにおられるのでしょう? 神はあなたを見捨て、助けてくれないのでしょうか? しかし、それでも、エクソダスは完了していることを信じ続けるのです。この世にはもうあなたに対する支配権がありません。ですから、そのことを繰り返し宣言し、すべての状況が敵対的に思われるその瞬間に、信仰によって望んでいる事柄が現実になるまで信じ続けるのです。

そうすれば、悪魔は必ず後退します。あなたに対する悪魔の支配は虚偽であり、あなたに対する悪魔の支配権はキリストの贖いによってすでに失われていますから、あなたが真実に立つことによって、虚偽は必ず後退します。

ただ、今はちょっとその話は脇に置いておきます。



4.異端の教えは必ず子供たちを食い物に(いけにえ)にする

今回は、異端の教えは必ず子供への虐待に結びつくということを述べたいと思います。
それは、旧約聖書の時代から変わらない事実です。旧約聖書には、選民でありながら唯一の神を捨てたイスラエルの民が、自分たちの用意した木切れや刻んだ像に過ぎない偶像のために、自分の娘息子を火に焼いていけにえに捧げたことが書いてあります。この背信のために、民は荒廃の中に投げ入れられ、町は廃墟となることが告げられます。

「そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。

『あなたの長い髪を切り捨て、
 裸の丘の上で哀歌を唱えよ。
 主は、この世代の者を、激しく怒って、
 退け、捨てたからだ。』

 それは、ユダの子らが、わたしの目の前に悪を行なったからだ。―主の御告げ。―彼らは、わたしの名がつけられているこの家に自分たちの忌むべき物を置いてこれを汚した。
 また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。

 それゆえ、見よ、その日が来る。―主の御告げ。―その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。この民のしかばねは、空の鳥、地の獣のえじきになるが、これを追い払う者もない。
 わたしは、ユダの町々とエルサレムのちまたから、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。この国は廃墟となるからである。」(エレミヤ7:28-34)

私にはこの旧約聖書に描かれている現象がまさに今日の日本社会そのものに重なって見えてなりません。偶像崇拝、すなわち、まことの神を捨て、聖書から逸れ、自分たちを神々とし、己の欲望を神とすることの結果は、存在しない神(偶像)のために我が子をいけにえにして捧げるという行為へ必ず結びつくのです。
だから、私はそのような時代を「子殺しの時代」と呼んでいます。

今なぜ日本社会に(国家によって意図的に引き起こされようとしている)戦争や、労働環境の悪化、生活の破壊等の数々の脅威が迫っているのでしょうか。これを変えられる道はどこにあるのでしょうか。この国が自らますます荒廃へと落ち込もうしているその原因がどこにあるのか、我々は(ただ政府のみを糾弾して終わりとする姿勢をとる前に)立ち止まって考えなければなりません。

それはこの国が犯し続けて来た罪のためではないのでしょうか。嘘、不正、搾取、弱肉強食、腐敗、堕落、陰謀…。真実や正義などどうでもよく、今さえ自分さえよければそれでいいという発想、自分よりも弱い人々を平気で踏み台にし、誠実な人を欺いて陥れ、他人を犠牲にしてでも、自分さえ安全でより良くなればそれで良いという生き方、金と権力と地位と名誉、己の安寧がすべてであるという生き方、こういった恐るべき罪がうずたかく積み重なった結果、現在のような時代になったのではないかと考えられます。

ですから、時代を真に変えるためには、このような腐敗・堕落した価値観そのものから離れ、これを糾弾せねばなりません。たとえそのために自分自身が脅かされることがあっても、このような腐敗した価値観に身をゆだねないことを決意せねばなりません。隣人がどんな目にあっていても見殺しにし、危険がわが身に迫ってくるその瞬間まで、ずっと沈黙し続けることの罪について考えなければならないと思います。特にクリスチャンが背教と手を切り、聖書に戻ることが肝心です。自分の被害を訴える前に、まことの神がおざなりにされている事実を認める必要があります。それをせずに、ただ他人の罪だけを糾弾している姿勢では、時代を変えることは極めて難しいのではないかと私は思います。


5.吉祥寺キリスト集会の事例~リンデはなぜ亡くなったのか?~

 


上の写真は吉祥寺キリスト集会が御代田に建てた巨大なセンターです。(写真の出典:2003年御代田コンサート

美しい写真ですが、このブログを知っている人であれば、巨大なセンターという言葉が決して肯定的な意味で用いられていないことを理解されるだろうと思います。
 
吉祥寺集会はキリスト教界のどの大規模教会にも負けないほどに規模が大きく、日本全国にその支点となる家庭集会があります。この集会には二つの特徴があります。それは第一に、キリスト教界から脱出して来た人たちが非常に多く集まっていること、第二に、ローカルチャーチとは無関係ながらも、ウォッチマン・ニーの教えを受け入れていることです。

ローカルチャーチは「~にある教会」と銘打って地域ごとに教会を運営していますが、こちらの集会(彼らは自分たちを教会と区別するために集会と呼ぶ)は地域ごとの家庭集会を組織しています。 

大規模施設を建造する資金能力があり、企業家、学者、専門家など高名なクリスチャンが集まり、集会全体が非常に社会層が高いという印象があります。一見すると、とても繁栄している昔ながらの伝統的なクリスチャンの集まりという風に見受けられます。

この集会に集う人々は、指導者であるゴットホルト・ベック氏の書いた「リンデ 実を結ぶ命」という本を必ず読んでいます。この本はこの集会に入るための入門書のようなもので、ベック氏(彼らはベック兄と呼ぶ)の娘さんのリンデが20歳を迎える際にがんで亡くなるまでの闘病生活を信仰的な観点から記したものです。
  
この本は、非常に巧みに書かれており、一見、涙なしに読めない内容になっています。ある意味、ウォッチマン・ニーの生涯にもよく似て、悲劇ゆえに人の心を強くひきつけるのです。

しかしながら、ここでは、あえてこの著書を疑いながら読んでみたいと思います。実に多くの人が涙する悲劇の物語に異議を唱えようとしているわけですから、どんな反応が返ってくるかは分かりませんが、私はこの著書には極めて大きな不審点・疑問点があるという印象を強めています。


6.誤った宗教教育の可能性~リンデががんに冒される極度の痛みを家族にも打ち明けなかったことへの疑問~

まず、リンデが発病したのは、ベック夫妻が日本で宣教しており、リンデがドイツで看護師になる勉強をしていた時ですが、なぜ彼女はがんに冒されるという極度の痛みを誰にも言わずに、特に家族にも打ち明けずに一人で耐え続けたのかということが、最大の疑問として残ります。

著書が今手元にないため、ネット上(出典元)に掲載されているベック氏の告白を引用しましょう(内容はほぼ本と一致しています)。

いつリンデに対する病気の時が始まったか、もちろん知りません。もちろん、今日私たちは、彼女が長い間、痛みを持っていたことを知っていますし、彼女が、患者さんたちのベッドを作るときに、しばしば目の前が暗くなったことも知っています。
また彼女が、自分で痛み止めで、苦痛を和らげようとしたことも知っています。

29年前にドイツに帰る前、私たちは本当に忙しかったのです。
ドイツのことを喜んで考える余裕がない程でした。
けどそのような時に、リンデから一通の手紙が来ました。その内容は、次の通りです。
「私は、みんなと会えるのがうれしくて、夜も寝られないほどです。」

なぜ、その時喜んでドイツに帰らなかったのか理由ははっきりしません。おそらく、あんまりにも大勢の人々が悩むようになり、苦しむようになり、イエス様によって救われたいと願ったからでしょう。間違いなく、それもひとつの理由です。
そのために、私たちは日本に留まりたかったです。
けれども、リンデが家族に会える喜びのあまり、夜もほとんど寝られないほどですというリンデの手紙の一部分は、私たちも喜んで帰国したいという思いを起こさせました。

家族に再会できるというリンデの喜びは、やがて、自分が病気であり、しかも自分が考えている以上に重い病気であるということを知ったことによって、少し変わったものとなりました。
というのは、翌日、リンデはお手洗いで排泄物の中で血を見いだしたのです。
その時リンデは姉に、私は癌だと思う。けれども、家族に絶対に話さないでと言ったそうです。

その後に続く聖書の引用と美しい物語はさておき、ここではなぜ、リンデは手遅れになるまで、自分の痛みを、しかも、がんだと分かっていながら家族に打ち明けなかったのか、という重大な疑問だけに焦点を絞ります。

リンデは自分を神にささげ、他人の幸福のために奉仕し、人に迷惑をかけないように生きることを目的にしていたのでしょう。そのために、病める人々の世話をすることを自分の職業にしようとしていたのだと思います。しかし、日々、自ら病気の人々を世話する仕事をしており、多少なりとも医学の知識もあったわけですから、激痛をこらえて病気を手遅れになるまで放置することのリスクを知らなかったはずがありません。痛みを我慢するよりも、早期に検査を受けて適切な処置を施すことの方がはるかに合理的な選択であることも分かっていたはずです。外国にいる身内を束の間煩わせたとしても、手遅れになって皆を悲しませることに比べれば、はるかにましな選択であることが分かっていたでしょう。

にも関わらず、なぜ彼女は我慢し続ける道を選んだのか。考えられることはただ一つ、彼女が家庭において常日頃から、わがままを極度に禁じられる環境にあり、自分の体の不調や痛みを両親に打ち明けることさえ、わがままとみなされかねない教育を受けていたのではないかということです。宣教師として外国の人々のために身を捧げている両親の働きを自分の都合で邪魔することは、彼女にとって、自己中心なことであり、わがままであり、他の人々の模範にならない行動のように見えていた可能性があるのではないかと思われるのです。

つまり、人々の幸福のために一心に身を捧げて生きることこそ善であり、自分に注意を払うこと、人々にも自分に関心を払ってもらおうとすることは悪である、そういう極端な価値観の中を生きていた可能性があるのではないかと考えられるのです。

もしそうであれば、このような宗教的価値観は子供にとって極めて過酷な要求となりかねません。なぜなら、子供は大人たちから関心を払われ、世話を受けなければ生きていけない存在だからです。もし両親が、宗教教育を盾にとって、自分たちが子供を世話するのではなく、むしろ、子供の側に大人への積極的な配慮を求めていたらどうでしょう。子供にとってはそれは重過ぎる要求となってしまいます。しかし、そういう実例は、キリスト教界には絶え間なく発生しているのです。
 
カルト的な宗教団体では、子供に十分な関心を払わないで宗教行事に没頭している両親が、「神のため」という大義名分を用いて、その行為を正当化し、神の御用を邪魔する子供の要求が罪深いのだと考えることはよくあることです。

また、両親が宣教師という職業についている場合、その職業そのものが神聖視されるため、子供が両親の仕事の邪魔をすることは、下手をすると、神の邪魔をすることと同一視されかねません。 
 
ですから、リンデも、体の不調という自分の都合を訴えることによって、両親を煩わすことが、神が喜ばれない自己中心で罪深い行為だと考えて、自分だけの秘密としてこらえようとしていた可能性があるのではないかと思うのです。わがままで罪深い子供とみなされるくらいなら、自分の一切の必要を殺してでも、ただ「愛の人」として他人の幸福を優先して生きるべきであり、その方が立派な信仰者として両親からも他の信者からも評価してもらえると考えていた可能性があるのではないかと推測されます。逆に言うと、そこまでの何かしらの悲痛で尋常ならぬ固い決意がなければ、十代の少女が進行していくがんの痛みを黙って耐えることは無理であっただろうと思われるのです。それは、他者の幸せのために積極的に自分を放棄して犠牲にすべきだと常日頃から教え込まれていなければ、決して至りつくことのなかった選択だっただろうと私は思います。


7.大人たち(強者)の都合のために子供たち(弱者)を積極的に犠牲にし、いけにえを美化する誤った宗教思想

もしそうであったとするなら、それはリンデが他人のために愛のゆえに自己犠牲したのではなく、ただ大人たちの都合のために、誤った宗教イデオロギーの犠牲となっただけであることを意味します。聖書のまことの神は、絶対にそんな犠牲を人に要求することはありません。

「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6:6)

常識的に考えても、自分が保たれていて初めて他者への奉仕が可能となるわけですから、自分のすべての必要を滅却して、自己管理のできない状態で、他者に仕えることは不可能であり、それは決して美徳とは言えません。

ですから、リンデの死の背景に何があるかを考えると、そこには、弱い者が強い者のために自己を放棄して奉仕するようにとの誤った宗教イデオロギー(宗教的な装いをした”弱肉強食”の理論)があって、それゆえに、本来ならば、救えたはずの命が、犠牲になったのはないかと考えられてならないのです。

また、異端思想がいかに死を親しみあるものとして描き、歓迎するかということについてはカルバリーチャペルに関する記事の中でも書きましたけれども、聖書が一貫して死を罪の結果として憎むべきものとして記しているのに対し、この著書には、死を憎み、死を拒み、死に向かって力強く信仰によって立ち向かっていくという姿勢が見受けられません。むしろ、病や闘病生活や死が美化されていると言っても過言ではなく、その美しい闘病生活の物語を読んでいるうちに、人は信仰によって病を拒否し、死を拒否すべきだという姿勢を失ってしまいます。
 
にも関わらず、こういった疑問がさしはさまれることなく、リンデの死は「天国への凱旋」、信仰によって過酷な闘病生活を耐え抜いた少女の美談として大いに利用され、今も数多くの信者を集会に集める有力な広告材料のようになっています。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)という聖書の言葉を引用して、闘病生活の中で信仰を証した彼女の立派な死があったからこそ、多くの人々の回心が起こったのだ、という説明がされています。

さて、この集会には家庭内で問題を抱える信徒が多数集まっています。特に子供の自殺、うつ病、等々に苦しんでいる両親が多く存在します。そのような人々には、この物語は特に強烈に心に訴えかけるものがあるのではないかと感じられます。

高度経済成長期に日本の多くの一般家庭では、父親がサラリーマンとして企業戦士となることを要求され、母親は専業主婦として自分のキャリアを捨てて家庭に入り、夫に仕えることが要求されるという家庭のモデルが出来上がったわけですが、そこでは経済活動ばかりが優先され、人としての自由や、内面的な豊かさや、家庭の幸福がおざなりにされたために、日本の一般家庭に大きな歪みが生じました。その犠牲となったのは子供たちです。追い詰められた子供たちの自殺や、非行や、うつ病や、数えきれない問題が発生しました。

自分たちのエゴのために我が子を犠牲にしてしまった大人たちは、行き場のない罪意識を、あくまで個人の問題として抱え続けるしかありませんでした。なぜ我が子はこのような人生を歩んだのか、なぜ自分はそれを救えなかったのか、その無念をどうすることもできないでいたとき、この著書が彼らの心にある種の現実逃避的な慰めを与えたのではないかと想像されます。

つまり、リンデの死に自分たちの家庭の悲劇や、子供の痛ましい犠牲を重ね合わせることによって、自らの罪悪感を消化できないで来た大人たちが、そうした悲劇は自分たちが責任を放棄したために起きた「あるまじき出来事」ではなく、むしろ、「神の摂理」、「信仰の完成」、「天国への凱旋」であったととらえて美化することにより、自分の心の傷を慰め、子供たちを犠牲にしたり、死に追いやった本当の原因をすりかえるという心理的なトリックが働いたのではないかと考えられてならないのです。そこには、子供の犠牲を美化することによって、大人が罪意識から逃れようとする心理的なテクニックがあるように思われてならないのです。

歴史を振り返ると、これと全く同じことが、靖国(国家神道)にあてはまります。戦争が泥沼化し、日本が負け続けで途方もない犠牲が出ている時に、そのおびただしい犠牲を正当化するために、犠牲そのものを美化し、賛美する思想が必要となりました。もはや、勝つための犠牲ではありません。何の合理的な目的にも寄与しない、残酷で無意味な死、人命の使い捨てが起きており、到底、通常の感覚で正視しうるような現象ではありませんでした。そこで、この正視できない残酷な状況を正当化するために、死んだ人々は神になったのだという理屈をつけていたわけです。亡くなった人々は無意味の死を遂げたのではなく、自ら神に身を捧げたのだという理屈をつけて、いけにえそのものを美化する思想を作り上げていたわけです。

これは生き残った者たちや、弱い者を積極的に犠牲にした人々が、自己を慰めるために作り出した偽りの思想です。その当時、親が子を、教師が生徒を、上官が部下を積極的に戦地に送り出し、国民が国民を互いに死地に追いやらなければいけない社会があったわけです。強い者が弱い者を積極的に犠牲にする、そういうことが至るところで起きるわけです。それは弱肉強食が最後に行き着く姿だと言えますが、普通の意識では耐えられないことです。ですから、弱い者を積極的に死に追いやった人たちが、自らあるまじき犠牲を作り出した罪を正当化し、生き残った人々が自己を慰めるために、死んだ者たちを「神々」に祭り上げ、あたかもそれが自主的な犠牲であったかのように装い、その犠牲の塚に涙を注ぎ、その死を「名誉の死」として栄誉にすりかえ、あたかも亡くなった人々を尊んでいるかのような外見を装うわけです。人の命を奪って、殺しておいて、その後で、これは立派な犠牲であったと言って、犠牲そのものを讃えることにより、自らの行為を正当化しようとするわけです。一見、死者に敬意を払っているように見えますけれども、実際のところはそうではなく、それは犠牲そのものを肯定し、犠牲になった人を死後に至るまで犠牲にし続ける、大変恐ろしい思想なのです。


8.子供たちへの誤った思想教育としての「労働による再教育」

このような誤った宗教思想はいつの時代にも現れうるものですが、吉祥寺キリスト集会の場合は、年功序列、弱肉強食の「大人たちの支配」を正当化するために用いられている教本として、ウォッチマン・ニーの「権威と服従」があります。これに限らず、彼らが使用しているのは、ローカルチャーチの出版社である「福音書房」から刊行されたニーの全集です。

実のところ、ウォッチマン・ニーは同時代の霊的先人から一定の評価を受けて認められているクリスチャンの奉仕者であり、そのメッセージには非常に重要な主張も含まれていると私は思いますが、彼の著書に関しては、取扱いに非常な注意が必要になります。

まず、ニーは自分自身では数少ない著書しか残していないため(「キリスト者の標準」、「霊の人」は自身の著作だと言われています)、今日、ウォッチマン・ニーの著書とされているものの多くは、メッセージの速記録を他者が後から書き起こしたものであり、どこまでが本当に本人の言説であるのか、判別しがたい事情があります。さらに、仮に本人が実際に語っていた内容が記されているとしても、ローカルチャーチが出版に及んだ段階で、内容が改ざんされている可能性が十分にあります。特に、ローカルチャーチは「神と人とが混ざり合う」ことを教えている団体ですから、聖書に照らし合わせて矛盾する内容が記されていることについて、私はすでに指摘しました。

ですから、ローカルチャーチが刊行したウォッチマン・ニーの著書を無批判に権威あるものとして受け入れている時点でこの集会にもすでに大いなる問題があると言えます。

さらに、すでに述べたように、「兄弟姉妹は対等であるから牧師制度は要らない」と主張しながらも、事実上、指導者を置いていたKFCと同じように、この集会にも、二重性があります。この集会はホームページにも記されているように、「牧師制度がなく、組織や会則がなく、会員制度がなく、献金制度もない」と謳っています。特に、聖書に忠実であるために、牧師制度を持たないことを公言している点は重要です。しかし、実際には、ベック氏を頂点とする、どの教会の牧師制度にもないほどの強力な中央集権的ピラミッド型の組織が作られています。

今日のキリスト教界には女性牧師も多数存在していますが、この集会では兄弟(男性)だけがメッセージを行うという決まりがあり、こうした性差による待遇の違いもまた、重層的な差別構造に基づくピラミッド型宗教組織の特徴であると言えます。会則もないわけですので、当然ながら、献金の使途も不明です。このように、組織を持たないという表向きの説明を口実にして、実際には強力な独裁体制を可能とする集会運営が行われているのです。

年功序列のピラミッド型の組織を作り上げるためには、福音書房から刊行されているウォッチマン・ニーの、「権威と服従」は、まことに良い教材です。というのも、この著書においては、「年少者はたとえ納得できなくても年長の兄弟たちの指示に従うべきである」という内容が説かれているからです。これは年長者への絶対服従を求める思想であって、それが本当にウォッチマン・ニー自身の見解であったのかどうかも定かではないですが、上記したように、聖書の価値観は明らかにそのような「年功序列」を肯定していないので、これは明らかに聖書に合致しない教えであることが分かります。

しかし、吉祥寺キリスト集会では、こうしたローカルチャーチの教えを無批判に取り入れて組織強化のためのイデオロギーとして用いた結果、年少者は年長者へ服従を求められ、(男性優位+)年功序列の信徒の関係が出来上がっています。

さらに、この集会にはうつ病になったり、自殺したり、社会に不適応となった子供たちを抱える家庭が多数、集っていることはすでに述べましたが、学校や社会で不適応となった子供の中には、集会の信徒が吉祥寺に開いているお店「リンデ」で働いている子供もいるそうで、信徒らはそれが宗教教育上、子供に大変、好ましい更生の影響を及ぼしていると考えています。

しかしながら、私はこうした風景を見ると、どうしても「労働による再教育」を謳っていた共産主義体制を思わずにいられないのです。‪反体制的な人間を逮捕・収監して社会から隔離した挙句、労働を通して思想教育を施し、思想改造して、共産主義社会にふさわしい人間に思想改造しようということが歴史上、行われていました。しかも、それは奴隷的労働であったのです。

そもそも、日本の学校教育や社会には、大きな歪みと問題があると私は思っていますので、仮に子供がそれに適応できなかったとしても、それは必ずしも適応できなかった側だけの問題であるのかどうか分かりません。むしろ、社会の側にも深刻な問題があって、そうした結果が引き起こされた可能性も十分に考えられます。ですから、こうした点を見ないで、ただ大人たちの作った社会に適合できなかったことを子供の責任とし、社会に適合させることだけを目標に子供たちを教育していくことは、いずれ悲劇的な結果を招くことにつながりかねないように思えてならないのです。

学校教育に適応できない子供であっても、それ以外の場所で、それ以外の様々な機会を通して才能を伸ばしていくことは可能です。子供が苦痛を感じている学校や社会に適合させることだけが必ずしも望ましい結論ではないと思います。仮に更生させるにしても、その方法が労働を通じてというのでは、まるで刑務所やラーゲリのようです。未成年者を労働させることそのものが搾取ではないのかという批判もあるでしょう。こうして子供たちを働かせながら、大人たちは自由に集会を行き来しているのでは、なおさらのこと疑問が生まれます。

ですから、これはどうにも誤った宗教思想であり、宗教的な装いをした弱肉強食の思想の生んだ未成年者の労働の可能性があるように思われてなりません。社会に不適合とされた人間を不利な条件で働かせて搾取を正当化することは、共産主義体制で実際に行われていたわけですから、誤った宗教教育でも同じことが起きても不思議ではありません。特に、社会に不適応との烙印を押された子供たちの矯正手段として労働を肯定するような思想が、正しいものなのかどうか疑念がさしはさまれねばなりません。
 
最後に、この集会は近年、大規模な分裂を経験していますが、御代田にある立派な素晴らしいセンターの建設に深く関わった人々の言によると、このセンターは設計そのものに無理があり、耐震、防火、非難経路など、安全性を確保するための基本的な建築の基準が満たされていないということでした。

毎年、行事がある度に、この御代田のセンターには全国からたくさんの信者がお参りのように訪れ、そこで家族そろって礼拝に出席できることは、特別な喜びとされています。裕福な信徒の多くはセンターには宿泊せず、近くに別荘を持っています。こうしたことは大きな幸福であり祝福であるように見えるでしょう。しかしながら、カルバリーチャペルやKFCの場合と同様、表向きとても繁栄していて楽しそうに見える礼拝が、本当に神の喜ばれる礼拝なのだろうかと、巨大な疑問が沸き起こってならないのです。

そこには、病や死に力強く立ち向かっていく姿勢もなければ、この世の諸問題に勇気をもって立ち向かい、虐げや不正や搾取に立ち向かい、強い者の横暴から弱い者を守ろうとする姿勢も見受けられません。むしろ、再臨を待って、連日、楽しい集会が開かれているので、この世の諸問題からは注意がそらされているのです。彼らはすでに望む安定を得てしまっているように思えてなりませんが、もしそれが、虐げや、搾取や、弱い者たちの犠牲の上に築き上げられた繁栄や栄光であったなら、どうでしょうか。神はそんな犠牲を本当に喜ばれるでしょうか。

キリスト教界と同じで、本当に神を求める人々は、こうして自分たちこそ正しい信仰を持ち、祝福された人々であると誇って囲いの中にとどまっている人々ではなく、囲いの外にいて見失われた人々の方なのではないかと思えてならないのです。

「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。
『貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。
 いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。

 人の子のために、人々が あなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。

 その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。

 しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。
いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。
いま笑っているあながたがは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。
みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。」(ルカ6:20-26)

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