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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

「イゼベルの霊」が生み出すマザコンと、父なる神に反逆する母子が神の家の後継者を詐称して、家の乗っ取りをたくらむペンテコステ運動の危険

・安倍晋三に見る「イゼベルの霊」による支配の危険――母が子に怨念と被害者意識を吹き込むことで生まれる歪んだマザー・コンプレックス
 
さて、ペンテコステ運動の弊害については、以下でも話をつづけるが、この項目では、「抑圧的に支配する異常な母の霊」であるイゼベルの霊が、人の人格をどれほど異常に歪め、人生を狂わせるものであるか、その破壊的影響について、安倍晋三という人物を例に取って考えてみたい。

我が国の現在の首相である安倍晋三が、統一教会と密接な関係にあることは、インターネットでは常識である。さらに、それだけでなく、同氏が相当に深刻な「マザー・コンプレックス」であることも、一般によく知られている。

ちなみに、マザー・コンプレックスという言葉は、心理学用語ではなく、学術的に病理現象として定義されているわけではないようだが、それでも、この語が一般に広く使用されて定着している様子にも見るように、これは日本社会にあまりにも広く蔓延している心の病の一種であると筆者は考えている。

マザー・コンプレックスとは、母親の抱える不安や、孤独、心の傷、被害者意識などが、子に強く投影された結果、それが子供の心の傷となって引き起こされる現象であると筆者はみなしている。

欧米社会では、比較的裕福な家庭の子供などは特に、早くから学校の寄宿舎へ入れられるなどして、親元を離れ、親とは別個の自立した人格としての自覚と責任感を持つよう促される。いつまでも親にべったりな状態が良いものとはみなされておらず、親に依存的な子供は、一人前でないとみなされ、他の子供たちからも嘲笑や侮蔑の対象になることもある。

こうして早くから子供の親離れと自立を促す習慣は、個人を重視するキリスト教的世界観とも無縁ではないであろう。なぜなら、聖書に「その父母を離れ」(創世記2:24)とあるように、キリスト教的世界観においては、人の人生の歩みは、生まれ落ちた家庭から自立して、親の意志とは独立した一個の人格として、自主的に自己決定を下せる状態になることを一人前とみなしているからである。

しかし、東洋諸国においては、集団と個人との概念の切り分けがなく、子をいつまでも親の付属物のように考えたり、社員を企業の所有物のようにみなし、個人をその帰属する団体の所有のごとく考える風潮が根強い。我が国では、家庭においても、子供を健全に成長させるためには、親からの適度な分離が必要であり、子は親だけでなく社会全体で育てるものだという意識が普及していない。

このような社会では、子供は親とは別個の自立した人格であるという意識が非常に薄く、子供を健全に成長させる全責任が、ひたすら親にあるかのようにみなされ、子が成人後に犯罪を犯しても、その責任が親にあるかのようにみなされ、親がバッシングされたりすることも珍しくない。あるいは、親の方でも、子が成人してもなお、子供を自分の付属物のようにみなし、子供の人生を思い通りに支配しようとすることもある。

こうしたことは、まさに東洋的世界観が反映して起きて来る現象であると考えられる。なぜなら、東洋的世界観にはそもそも神と人との断絶という概念がなく、目に見える宇宙と個人とは一体で切り離せないものとみなされ、それが転じて、組織や集団と個人との切り分けも否定され、全世界が一体であるかのようにみなされているためである。

さて、子供への過剰で歪んだ支配は、父親も、母親同様に行う可能性があるが、母から子への抑圧的な支配は、父親の場合と比べて、非常に巧妙で分かりにくい性質を持っている。

父親の子供へのコントロールは、一方的な命令という形で表れることが多い。そこで、もし父親が子供の意志を無視して、一方的な命令を下せば、それは子供の側からの大きな反発を呼び起こし、家庭において、激しい衝突や軋轢を生む可能性がある。それに引き換え、母から子への過剰なコントロールは、父のように強権的で抑圧的な命令という形を取らず、むしろ、一見、子供への「同情」や「愛情」、「思いやり」、「優しさ」といった形をを装って行われることが多い。そこで、それが過剰な支配であり、抑圧であることが、はた目には分かりにくく、当の子供自身にとっても、それが母による自分の人格への侵入であり、人生への不当な介入であることが分かりづらい。

しかも、子供を自分の欲望の道具として支配する母親は、子供が母の本当の動機を決して疑うことができないように、それを子供への同情や愛情という形でカモフラージュするだけでなく、しばしば、自分を夫の被害者と見せかけることで、子供の心に父に対する嫌悪感を植えつけ、自分への同情を呼び起こし、母子の距離を縮めて行くことが多い。

こうした異常な母親は、家庭において自分が抱える孤独や、不安、被害者意識を巧みに子供に吹き込み、父を巧妙に悪者にすることによって、自分には悪意がないかのように装い、子供が自分だけの味方となって、自分に同情するよう仕向ける。「まず母に元気になってもらわないことには、自分の幸せもないのだ」と子供に思わせることで、子供を母親である自分と運命共同体にしてしまい、同じ被害者意識によって結ばれるよう仕向けるのである。

早い話が、それは母親による子供へのマインドコントロールなのであるが、「自分たちは脅かされている被害者だ」という同じ意識を共有することで、母子の境界線が失われる。子は、母の不安を自分自身の思いのように継承しながら、母の利益の代弁者となって、母の観点に立ってのみ全ての物事を見、母の不安を解消することだけを人生の第一義的な使命として生きるようになる。
 
こうして、母と子が被害者意識によって精神的に癒着し、一体となって離れられなくなり、子が母の重荷を自分の重荷として背負い、成人してもなお、母から承認を受け、母を守る盾となって、母を喜ばせ、母の抱える不安や孤独や被害者意識を解消するために生き、独立した一人の人格としてのプライドと境界線を失った状態が、いわゆるマザー・コンプレックスである。このような異常な母親による支配は、被害者意識による連帯があるだけに、子供にとって見抜き難く、抵抗しがたい性質を持つ。

さて、安倍晋三に話題を戻せば、安倍氏の母親(洋子)は、「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介の長女として生まれた。現在ではゴッド・マザーなどとも呼ばれる彼女は、未だに息子である安倍氏の精神に絶大な影響を及ぼしており、内閣改造にまで介入しているとも言われる。安倍氏が官邸になかなか住もうとしないのも、母親から離れられないためなのだと世間では囁かれていた。

この洋子という女性は、あらゆる事実に鑑みて、父親である岸信介の思いを誰よりも強く受け継いで育ったものと思われる。父がA級戦犯としての「汚名」を着せられ、死刑に処されるかという瀬戸際まで追い込まれ、そのために家名が汚されたことへの「無念」や「屈辱感」や「被害者意識」を、この女性は強く我が事として感じ、それゆえ、岸信介に下された歴史の「不当な」審判を覆して、父を「名誉回復」することで、家の名誉を回復し、一家を復興したいという願いを誰よりも強く持って生きて来たものと考えられる。つまり、彼女は「家が脅かされている」という被害者意識を人一倍持って成長して来たのである。

LITERA掲載の記事「母親に弟より愛されたい! 安倍首相の岸信介、改憲への拘りは「マザコン」の現れ!?」(2015.04.01.)によると、洋子氏は「岸家の復興」という悲願を、まず最初に、岸家に養子に出した自分の三男に託そうとしたようである。だが、すでに岸家の人間ではなくなっていた彼女が、家を飛び越えて子供の将来を操るという計画は周囲からも不評を買い、結局、彼女はその悲願を、晋三に託さざるを得なくなった。

こうしたことから、この洋子という女性は、自分の父がこうむった恥から来る怨念と被害者意識を、息子を通して解消しようと考えていたことが分かる。彼女はすでに岸家を出ていたにも関わらず、岸家の人間としての意識を捨てられず、息子が彼女に代わって、先祖の無念を晴らし、家の潔白を主張して、彼女の生家の名誉を回復する道具となってくれることを望み、そのようにして息子を自分の欲望をかなえる道具としようとしたのである。

上記の記事などから判断するに、安倍晋三は、母のマインド・コントロールをまともに受けて成長し、母に認められたいという願望のゆえに、母の怨念と被害者意識と一体化し、それゆえ、A級戦犯とされた岸信介を誰よりも尊敬し、亡き祖父と母の思いを代弁して、先祖の「名誉回復」をはかることを悲願として生き、そのために、祖父が持っていたイデオロギーに自分も身を投じた。

こうして、安倍晋三は首相の座にあるうちに、何とかして「自虐史観」を廃して、自分たちにとって不名誉な歴史はすべて修正し、憲法を改正し、かつての「皇国」として大日本帝国が持っていた「栄光」(むろん、そんなものは存在しないのだが)を「復活」させることにより、自分たちのルーツを正当化し、栄光の高みに押し上げることを、生涯の目的のようにみなすようになったものと見られる(それが「日本を取り戻す」という同氏のスローガンの意味である)。

こうして、安倍氏は、怨念と被害者意識というへその緒で母と強固に結ばれたまま、成人してもなお、母とは別の人間である自分自身の人生を生きることができず、先祖と母の思いを代弁して無念を晴らすことだけが全生涯の目的となってしまったのである。

本来ならば、安倍氏は岸家の人間ではないので、岸信介の「無念」を継承しなければならない理由もないはずであるが、母の存在を通して、彼の負い目の意識、被害者意識を強烈に心に植えつけられ、その呪縛から抜け出ることができなくなってしまったのである。

祖先が下された審判のゆえに、負い目が心に深く刻まれていればこそ、その怨念と屈辱を跳ね返すために、自分たちは無実であると主張しないわけにいかないのである。つまり、自分たちの家に下された歴史の審判は、ただ戦勝国という強者によって押しつけられただけの不当判決であると主張して、これを覆すことによって、先祖の無念を晴らし、負のくびきを払い落として、栄光を取り戻したいと願わずにいられないのである。それはすべて罪の意識を払拭したいという願望から来ていることである。

そのように、安倍氏が母から受け継いで個人的に抱える怨念、被害者意識、復讐心が、我が国において、敗戦を未だに受け入れられない歴史修正主義者やナショナリストやネトウヨのような人々の負の感情と響き合って、我が国に集団的な被害者意識に基づくナショナリズムを生んでいるのである。

このように、安倍晋三という人間は、母(先祖)の被害者意識に人生を乗っ取られ、これを払いのけることだけを目的に生きているも同然であり、その姿はまさに、当ブログで述べて来たグノーシス主義・東洋思想における「脅かされている母を守る子」の姿に重なる。

そこには、ただ「脅かされている母を守る」という姿勢があるだけでなく、「聖書の神が人類に下した罪と死の(不当)判決から逃れたい」という願望が透けて見える。

幾度も述べたように、悪魔は、神によって自分に下された罪定めと永遠の滅びの判決から何とかして逃れて自分を無罪放免したいと願っており、そこで、自分を「神の被害者」であると考え、自分ではなく神を「有罪」として告発することで、神の判決に逆らい続けて生きている。そして、神を知らず、悪魔の支配下にある生まれながらの人類(罪人)を手下とし、自分と同様の負い目の意識を負わせ、自分への有罪宣告から逃れるために神に敵対するよう仕向けているのである。

岸信介を「名誉回復」して、「大日本帝国の栄光」を取り戻すことで、歴史を修正し、自分たちにかけられた汚名を返上して、再び、栄光の高みに上ろうという、以上のような安倍家の人々の考え方は、その魂の深い次元では、まさに悪魔の抱える神に対する怨念と被害者意識と、秩序転覆の願望へと重なって行く。

だから、以上に挙げた例は、決して、先祖がA級戦犯にされたという特殊な事情を抱える一家に限定された話ではなく、その背後には、聖書の父なる神に反逆するグノーシス主義的な母性による「神を押しのけて自分を神としたい」という普遍的な対立が見えるのである。

この母子が逆らっているのは、東京裁判を含めたあれやこれやの不都合な歴史的事実ではない。彼らは歴史的判決を受け入れないことによって、より深い次元では、結局、神がキリストの十字架において人類に下された有罪宣告そのものに逆らって、人間の生まれながらの自己を無罪放免し、自らを神としようと狙っているのである。


・「父」に歯向かう「母」と、「母」の過失をかばう「父なし子」が、勝手に神の家の後継者を詐称して、神の家を乗っ取ろうとする詐欺としてのグノーシス主義

グノーシス主義とは「家が脅かされている」という「母」の被害者意識を土台に成立する「母子家庭の母と父なし子の悲劇の物語」である。なぜ悲劇なのかと言えば、彼らの「脅かされている」という被害者意識は、彼ら自身が犯した罪から来るものであって、ゆえなきことではなく、にも関わらず、己が罪を認めようとしないこの「母子」が「父の家」へ平和に復帰することは絶対にあり得ないからである。

ここで「父なし子」と筆者は述べたが、それが何を意味するのかを、グノーシス主義の構造に照らし合わせて、もう一度振り返っておきたい。

グノーシス主義神話においては、自ら神の創造の秘訣を盗み、神のようになりたいと願った最下位の女性人格(ソフィア)が、どのような方法でかは分からないが、神に反逆して単独で子を生むに至った。そして、この「母」が、自分が生んだ子や子孫(人類)と一緒になって、自分たちこそ神の正統な後継者であると主張し、そうして「子」が「母」の犯した過ちを修正することが、この思想においては、人類の生きる最高の目的とされている。

ここで、単独で子を生むに至った女性人格が、「ソフィア(知恵)」という名で呼ばれているのも偶然ではない。聖書的観点から見れば、この「知恵」は、神に逆らう偽りの知恵を指す。その「知恵」とは、聖書の創世記において、堕落した悪魔が、自分と同じように神に反逆するよう人類をそそのかす際に使った「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)という端的に言葉に表れている。つまり、「知恵を受ければ、誰もが神のようになれる。それによって神を乗り越え、神以上の存在となりなさい」という悪魔の誘惑を指す。

グノーシス主義においては、「神のようになるために知恵を手にしたい」と願ったソフィアの欲望が罰せられることなく、それどころか、この「母」の欲望を正当化し、「母の過ちを修正する」ことこそが、「子」たる人類の使命とされる。

母の過ちを修正するとは、子が母の過ちをかばい、その過ちによって生まれた自分自身のルーツをも正当化し、自分たちは神の後継者として、神の家に正式に迎え入れる資格があると名乗り出て、神の家の一員となり、自ら神となることを意味し、そうして自力で神に回帰することが、人類の最終的なゴールだというわけである。

だが、ここに極めて大きな問題が横たわっている。それは、人類は神の側からの承認を抜きに、一方的に名乗り出ただけで、自力で神に回帰する道があるのか、という問題である。

むろん、そんな道が存在しないことは、聖書によれば明らかだが、グノーシス主義神話を見ても、この点については、神話自体に大きな欠陥があると言えよう。グノーシス主義は、ソフィアの生んだ子の子孫である人類は、「神聖な霊の欠片」を受け継ぐ神の子孫であると主張する。だが、そのことを裏づける客観的な証拠は、この神話の中には存在しない。なぜなら、どうやってソフィアが単独で子を生むに至ったのか、その経緯が明らかにならない以上、彼女の「過ち」の結果として生まれた人類が、神の子孫であると証明する手立ては何もないからである。

ソフィアの違反がどのように成し遂げられたのか、グノーシス主義神話においては詳細が何も語られていないことから、自らの欲望を叶えるために、ソフィアが記述することもはばかられるような、何かしらの禁じ手を使ったのであろうことは明白である。

こうして、彼女は違反に違反を重ね、その結果として生まれた「子」が、本当に「神聖な霊の欠片」を持つ神の正統な後継者であると言える証拠は、グノーシス主義神話の中にはどこにも見つからない。普通に考えても、そのような類の話は、全く胡散臭く疑わしいものとしか言えない。

グノーシス主義が、人類が神のものである「神聖な霊の欠片」を持ち、本来的に神と同一であると主張しているのは、単に人類の側からの「自称」に過ぎない。つまり、ある日、自分は神と同一であるという「知識」に「覚醒」しさえすれば、その日から、人類は神の子孫として、神への回帰の道が開かれるというのである。

このような「神話」の中には、「父からの認可」という発想そのものがない。「父の意向」は、この思想においては、徹頭徹尾、無視されている。ただ「母子」が勝手に自称しさえすれば、彼らは「父の認可」を抜きに、勝手に神の家の子孫・後継者となり、神そのものにもなれるというのである。

正直に言って、こんなにも一方的で虫のよさすぎる話に、誰も信憑性を見いだすことはできないであろう。何よりも、ここまで徹底的に存在を無視され、その意向を踏みにじられ、愚弄されている「父」が、このような「母子」の主張に耳を傾け、これを正しいと認めて、彼らを自分の家族として、自らの後継者として家に迎え入れるようなことは全く考えられない。

もしそんなことが起きれば、もはやそれは「家」ではなくなる。一家の大黒柱、最高の権威である「父」が認めないのに、何者とも知れない者たちがその家の主となることが許されるなら、それは家の乗っ取り事件であり、家の破壊である。そして、ここにこそ、グノーシス主義の狙いが存在する。

グノーシス主義とは、結局、「神の家の乗っ取り」の思想である。だからこそ、最初から最後まですべてが「自称」なのである。人類がただ知識に覚醒して自分から名乗り出さえすれば、神にまでなれるという考えは、神を愚弄している。もともと神を愚弄していればこそ、神の承認など抜きにして、勝手に物事を進めようとするのである。

このようなグノーシス主義の特徴は、誰でも手を挙げれば明日からでも牧師やメッセンジャーになって人を教えられるという、ペンテコステ運動の安っぽくお手軽な特徴にもぴったり重なる。

聖書のテモテ書には、教会の監督や執事の選出の際の審査基準についてこうある。

「「ひとが もし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。

ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。

――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。


また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。

執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。」(Ⅰテモテ3:1-10)

監督や執事になるための条件は、ここに挙げた記述にとどまらず、さらに続くのだが、いずれにしても、そこでは、教会の要職に信徒が何の審査もなしに就くべきでないことがはっきりと示されている。

以上のような条件は、監督や執事のみならず、当然、牧師やメッセンジャーの選出の際にも当てはまるであろう。牧師やメッセンジャーには、もっと厳しい審査基準が要求されて当然である。

以上に挙げられている条件は、かなり厳しいものであり、それに照らし合わせれば、自分や他人の結婚生活をないがしろにして、他の信者との霊的姦淫にふけっているような信徒は、初めから教会の要職には不適格者として問題外にされているのは言うまでもない。

このような記述が聖書にあるにも関わらず、それを無視して、誰でも神秘体験を受けて「神の霊の器」となったと自称しさえすれば、監督や執事どころか、牧師やメッセンジャーにまでなれるペンテコステ運動が、どれほどいかがわしい信用ならないものであるかは、改めて強調するまでもない。

なぜこの運動においては、牧師やメッセンジャーになるための審査基準がないに等しいほどまでに甘いのか? なぜ客観的な証拠が何もないまま、「自称預言者」が横行するのをいつまでも許しているのか?

それはこの運動が、もともと詐欺師に活躍の場を与えることを目的としているために他ならない。詐欺師のために用意された舞台だからこそ、そこでは詐欺師にとって不利な審査基準が撤廃されているのである。つまり、ペンテコステ運動の指導者は、キリストの名を使ってキリスト教徒を名乗ってはいても、それは完全な偽りであって、彼らは本当はクリスチャンではないということである。

同じことが、統一教会にも当てはまる。「再臨のキリストである」と勝手に自称しさえすれば、その人間がその日から偉大な宗教指導者とみなされ、神にまでなれるというわけだから、何とお手軽な宗教であろうか。ペンテコステ運動との違いは、ただ「神に油注がれた預言者」を名乗るか、「再臨のキリスト」を名乗るかという違いだけである。どちらもキリスト教に名を借りただけの絶望的なまでに信用ならない偽りの宗教である。

キリスト教は、父なる神への従順を信仰生活の基礎としている。人が神に受け入れられるためのすべての条件は、父の御旨に従うことにあり、父の御旨に従うとは、父が遣わされた御子を受け入れ、その御言葉に従うことにある。

それにも関わらず、グノーシス主義は、父の戒めを無視し、父の遣わされた御子を無視し、父の意向を徹底的にないがしろにして、「母の御旨」を全てとしている。

「母の御旨」とは、人類の身勝手な欲望のことである。

統一教会もペンテコステ運動も、共にキリスト教の異端であり、こういう思想の持ち主にとって、大切なのはただ自分の欲望だけである。彼らの「信仰」は、自分自身への信仰、つまり、自己崇拝である。彼らにとって、他人はみな彼らの欲望を満たす手段でしかない。
 
安倍家の例では、母洋子は、自分がすでに岸家の人間ではなくなっているにも関わらず、家を飛び越えて他家の事情に介入し、自分が嫁いだ夫の家を尊重せずに、夫の意向を無視して、自分の生家にこだわり、自分は生家の人間であるかのように振る舞い、自己のルーツの正当化に固執する。そして、彼女は、自分では叶えることのできない夢を、岸家の人間ではない息子に託す。

こうしたことはすべてルール違反であり、彼女は、社会常識を破り、夫の意志を飛び越え、家の枠組みをも飛び越えて、ただひたすら自分の欲望だけを叶えようとしている。歴史的事実もないがしろにし、自分の主人をもないがしろにし、自分の属する家もないがしろにし、他人の家もないがしろにしながら、ただただ自分の祖先の罪をかばって自己正当化をはかることだけを目的に生きているのである。

このような非常識で規則破りの常習犯としての自己中心で厚かましい行動は、ペンテコステ運動の信者たちにも共通して見られることである。何度も繰り返して来たことであるが、ペンテコステ運動に関わる多くの信者たちは、信者が妻である場合には、自分自身を夫の被害者と考えて、夫を心の中で侮蔑しているケースも珍しくない。彼女たちは、自分の主人である夫の意志を決して尊重しようとはせず、家庭を無視して宗教行事に入れ込むなどのことは日常茶飯事で、夫の被害者であることを至る所で触れ回り、夫の面子を潰している例もある。さらには、この運動の信者たちは、自分の所属している教会があっても、牧師や指導者の意志に従わず、彼らに隠れて、平気で他教会に出かけて行き、母教会をよそにして他教会の信徒や指導者と親しく交わるなどのことも日常茶飯事である。こうして、信仰生活においても、平気で二重生活を送り、家族のしがらみや、組織の枠組みなどないがごとくに、どこにでも入り込み、規則を無視して他教会の事情に首を突っ込み、そこにもとからいる信者を追い払ってでも、自分の縄張りを広げて行く。このように、規則も常識もないがしろにし、他人の意志も無視し、自分の意志を妨げるものなど何もないかのように、アメーバのように形を変えてどこにでも浸透し、無限に膨張・拡大しながら、関わるすべての者たちを自分の色に染め上げて行こうとするのが、ペンテコステ運動の信者の特徴である。彼らにはその厚かましく自己中心で非常識な行動に対する罪や恥の意識は全くと言って良いほどない。

ペンテコステ運動の信者たちをそこまで尊大かつ非常識にさせている原因は、彼らの心の被害者意識にある。彼らは、自分たちは家庭においても、教会においても、社会においても、一方的な被害者であると考えることで、自分の行動を正当化していることが多い。もし自分たちの行動に疑いを投げかけられるようなことがあれば、彼らは弱々しい外見や、社会的弱者としての立場などを存分に用いて、情に訴え、自分たちは哀れな被害者であって、多くの過失を情状酌量されるべき存在であるから、自分たちを責めるのは無情で残酷な行為だと主張する。そのような泣き落としも功を奏さなければ、自分と同じように被害者意識を抱える厚かましく自己中心な人間を仲間として呼び寄せ、被害者意識によって結託することで、自分たちに耳の痛い言葉を投げかける人間を「悪魔」扱いし、恫喝し、嘲笑し、呪いの言葉を浴びせることによって、集団的に排斥するのである。

敬虔なクリスチャンの仮面を被りながら、そのようなネットワークを、自分の教会の枠組みを超えて、既存のキリスト教界の中にどこまでも張り巡らそうとする。そのようにして、結果として自分たちの所属していない教会にまでも勢力を広げ、これを乗っ取ることが、彼らの隠れた目的なのである。断じて、教会にこのような破壊的影響を及ぼす運動が、聖書に基づくものであることはあり得ない。

グノーシス主義は、反逆と秩序転覆の思想である。そこでは、神に反逆した「母」と、反逆によって生まれた「子」が一体となって、自らの罪をかばい、「父」に無理やり自分たちを認知させることによって、自己のルーツを自力で浄化し、神の家に回帰して「母子家庭」の汚名を返上しようとたくらんでいる。

このように、グノーシス主義が、聖書の神に敵対する徹底した反逆の思想であるからこそ、初代教会の時代に登場したグノーシス主義の様々な流派の中には、アダム、カイン、ニムロデ、ソドムとゴモラの住人、エサウ、イシマエル、イスカリオテのユダのような、神に反逆した聖書の登場人物たちをまるで聖人のように誉めたたえ、彼らこそキリストの真の弟子であったとして、堕落した罪人らを「名誉回復」しようとする思想も生まれたのである。

このようなグノーシス主義の支離滅裂な反逆の精神は今も健在であり、今日のキリスト教の数多くの異端のみならず、ペンテコステ運動にも脈々と受け継がれている。だから、もしこの運動の支持者をキリスト教徒だと信じて疑わずに関わると、大変な目に遭わされることになろう。

鈴木大拙が、「東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。」と述べているのは、まさにグノーシス主義的世界観に基づいた考えなのである。「母を守る」という言葉は、「母の過ちを修復する」ということと同義である。過ちを犯した母だからこそ、存在を脅かされているのだが、その母をかばうことによって、子までも母と同じ過ちを身に背負おうとする思想である。

そして、このような東洋的・グノーシス主義的世界観における「母を守る」という概念を、キリスト教に公然と持ち込むことによって、キリスト教を骨抜きにしようとしているのがペンテコステ運動である。
 
カリスマ運動の指導者である手束正昭氏は、キリスト教における「母性の欠如」を非難する。同氏は、鈴木大拙と同じように、カトリックがマリア崇拝によって母性原理を補われたのは良いことであるとしながらも、他方、「プロテスタント教会は“聖書のみ”の立場から、聖書からは導き出し得ない『マリヤ崇拝』を廃棄せざるを得」なくなり、その結果、父性原理と母性原理のバランスを失い、「極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまった」と嘆く。そして、このようなプロテスタントに、「人間性の安定や健全さを求めることは難しく、従って、プロテスタント国においては精神的な病を患う人々がより多く排出されることになったのである。父性というのは、上と下、善と悪を峻別して、秩序立てていこうとするので、どうしても心理的葛藤が起こりやすいからである」と言って、まるでキリスト教の父性原理こそが諸悪の根源であるかのように非難する。
 
クリスチャンがこんな主張に簡単に欺かれているようでは話にならないであろう。ここに、グノーシス主義的な「母性」による神の家の乗っ取りの精神があることを見抜かなくてはならない。

こうした主張の本質は、決して「母性原理を補うことによってキリスト教にバランスを回復する」などという美化されたところにあるのではない。そこにあるのは、「父」と「母」を同等に並べ、次に「母」が「父」を凌駕することによって、「父なる神」から主導権を奪おうという試みなのである。そして、「母」とは人類を指す。

だから、そこにあるのは、神の家の主人は誰なのかという問題なのである。

心理的葛藤が起こらないため」などと称して、そこには、同情や愛情や優しさや善意に見せかけて、巧妙に「父」を悪者とし、御父への従順から信者を引き離そうとする思惑が働いていることにクリスチャンは気づかなければならない。

その「母」は優しげに言う、「キリスト教の父なる神様は、全くひどい横暴な独裁者で、考えることもなすことも、みな一方的で偏っているから、そんな残酷で独りよがりな神様の言うことは、あなたは聞かなくても良いわ」。こうして、父の決定をことごとく骨抜きにし、ないがしろにし、その権威を否定し、その戒めを無にして行こうというのが、この「母」の目的なのである。

 「父」の役目とは、まさに手束氏が述べているように、「上と下、善と悪を峻別して、秩序立てて行く」ことにこそある。もしそれが否定されるならば、そんな家庭に「父」はいないも同然である。上下もなければ、善悪もなく、秩序もない。そんなものは家と呼ぶことさえできない。単なる混沌(カオス)である。

グノーシス主義的な「母」が、父性原理の二分性を嫌い、これを残酷なものとして非難するのは、彼女が「父」の意向に服していないからである。自分の罪が暴かれないためにこそ、自分を罪に問うことのできる権威を持つ存在を否定し、告発し、消し去りたいのである。

だから、こんな「母」が「父」と並んで上手くやって行くことは絶対に無理である。彼女は偽り者であって、「父」のふさわしい助け手ではない。この「母」の優しさや寛容さは、偽りであって、真の愛情から来るものではない。彼女は自分の過ちを隠ぺいしているからこそ、他人の過ちにも寛容なのである。

だから、このような罪深い「母」と一体化させられると、「子」は神への従順、貞潔さ、清い良心を失って、魂を汚され、自己を喪失する。母の罪意識を一体となって抱えさせられ、一生、負い目の意識から抜け出られなくなり、父なる神に純粋に向かうことはできなくなる。

そして、その「子」は「母」と一体となって自分の抱える罪の意識を正当化するために、絶えず「父」を否定し憎みながら生きることになる。それは「子」の自尊心をむしばみ、屈辱感、劣等感、被害者意識と、憎しみでいっぱいにしてしまう。「母をかばう」ことによって、「子」は真実を直視できなくなっているので、己が罪をも認められず、悔い改めて、罪赦される機会も失われる。こうして、「子」には「父」に回帰する道が永遠に閉ざされることになる。

挙句の果ては、そのように残酷に支配されている「子」の心では、やがて「母」への憎しみが高じて、それが神と全人類への憎しみになり、特に、エクレシア(教会)への憎しみへと発展するであろう。

人が神の家に正式に迎えられるための手段は、このように怨念と被害者意識の塊である「異常な母」としての「イゼベルの霊」と手を切ることにしかない。人類が無意識に追い求めているのは「父からの承認」であるが、罪深く異常な「母」に結ばれている限り、人は決して「父の本当の子供」にはなれない。

人が神の家に迎え入れられるための条件は、父なる神に対する従順であり、その従順は、御子が十字架において死に至るまでの従順として達成された。この御子の十字架の贖いの御業を通してしか、人間が神に迎え入れられる手段はない。

「イゼベルの霊」と訣別するとは、人間が自己崇拝・自己栄化の偽りの霊と手を切り、神がキリストの十字架において人類の生まれながらの自己に対して下された罪と死の判決を余すところなく自分のものとして受け入れ、神の御手の下に己を低くすることを意味する。それは、キリストが十字架で耐え忍ばれたすべての恥辱と苦痛を、人が自分自身のものとして受け入れ、神が御子に下された裁きを自分自身に対する裁きとして受け入れ、彼の死を自分の死として認めることである。

ところが、ペンテコステ運動は、羊のための唯一の門であるキリストを介さず、人類が一方的に神秘体験によって神と結ばれ、神の子供とされたと主張する。キリストの十字架を抜きにして、神秘体験を誇ることで、信者が自分は「神属人類」となったと主張して、自分を神に等しい存在として高く掲げるのである。

彼らは、神だけを聖なる方とせず、被造物に過ぎない自分を神として誇り、神から神の地位を奪って自分に栄光を帰し、信者の心をも神から奪って、自分自身を崇めさせている。

このように、御父の戒めに従順でなく、キリストの十字架の贖いも否定して、自己の死を経ておらず、本当は、神の家の後継者を名乗る資格を何一つ持っていないのに、ただその身分を詐称しているからこそ、ペンテコステ運動の支持者らが自分を「神の器」だとするその主張には、それを裏づける客観的な証拠が何一つ見つからないのである。

神の家の後継者を詐称しているだけだから、彼らの主張には、主観的な体験以外に何も根拠が存在しないのである。

「イゼベルの霊」とそれに操られる「子」という、詐欺師のような「母子」のペアは、厚かましくしたたかに振る舞うので、しばらくの間は、人を惑わすことはできるかも知れないが、最終的には、必ず、御国の後継者を詐称した罪と、神の家の不法な乗っ取りの罪によって裁かれ、神の家から永久追放される。この「母子」に対する判決はすでに下されている。

「しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」」(ガラテヤ4:30)

父に従わず、父をないがしろにする母と、その母が生んだ誰の子とも分からない子が神の家に家族として迎え入れられることは決してない。この母子による神の家の乗っ取り計画は成功しない。彼らに待ち受けているのは滅びだけである。だからこそ、グノーシス主義とは「母子家庭と父なし子の悲劇の物語」であると筆者は言うのである。

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