忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

十字架の死と復活の原則―栄光から栄光へ―鏡のように主の栄光を反映させながら、主と同じかたちに姿を変えられて行く

偽りの宗教からのエクソダスが完了し、悪しき霊どもを除霊し、地獄の軍勢にもと来たところへ帰るように命じ、原点に立ち戻って、生ける水の水脈を見つける。

追いすがるファラオの追手を振り切って、その軍隊がことごとく水に沈むのを見届けて、この地にやって来た時に見えていた、新たなすがすがしい展望を取り戻す。

キリスト者が立っている土地は、悪しき軍勢に占領され、踏みにじられたために、荒廃している。この土地に、彼はキリストの復活の旗を立てて、御子の統治を宣言する。

キリスト者は、はるかに天の都を仰ぎ見つつ、前途に神が信じる者のために備えて下さった豊かな約束の地を見据える。そこで天の無尽蔵の豊かな富と、永遠の栄光がキリスト者を待ち受けている。

そう、御子の復活の命の統治は、信じる者の内ですでに始まっているのだが、信者が自分の内でそれを知ったことで、すべてが終わるのではない。キリスト者にはまだまだこれから獲得せねばならない土地がある。つまり、自分自身の内にある統治を外へ流れ出さなければならないのだ。

信じる者の足元では、荒れ果てた大地の割れ目から、澄んだ泉が湧き出すように、復活の命の統治を通して、清らかな水が流れ出ている。それはまだ少量の流れだが、いずれは大河になって、荒廃した大地全体を潤し、よみがえらせるはずだ。これは、主イエスが信じる者たちにただで受けよと言われた生ける水、疲れた人々を癒し、病んでいる人を立ち上がらせ、死んだものを生き返らせ、サタンに支配されていた人々を解放する力のある命の流れである。

御座の統治から流れ出す生ける水の川々である。

長年に渡り、深く深く井戸を掘り続けてきたキリスト者は、ようやく水脈に達したという確かな手ごたえを感じて、安堵する。飢え渇きと共に飽くことなく井戸を掘り続けて来た彼は、ようやく荷を降ろし、喜びのうちに安堵して、額を拭う。やはり、神は信じる者の呼び声に応えて下さったのだ。求め続けるうちに、天の資源にようやく達した。そうなれば、工事はあらかた終わったようなもので、あとはこの水を汲み出し、絶え間なく流れさせるための設備を整えなければならない。

さて、前回の記事では、キリスト者にとっての苦しみと栄光の不思議な関係について述べた。

キリスト者が神の御前に栄光を受けようと思えば、地上で苦しみをも受けなければならないことを書いた。この二つは密接に結びついており、苦しみがキリスト者の体を通過することによってしか得られない栄光がある。

クリスチャンは世から召し出された者たちであるが、御国の働き人であり、神の兵士でもある以上、ただ自分自身の幸福と平和と繁栄のためだけに召されたのではなく、神の国の権益を守る兵士として、神の利益のために召し出されたのである。そうである以上、キリスト者は、神の軍隊の兵士として、地獄の軍勢との激しい戦いを戦い抜いて勝利をおさめることなしに、神からの褒め言葉にあずかることは決してできない。そして、戦いはどんなものであっても、命がけであり、自分自身のためだけでなく、自分を召して下さった方の栄光のために、あらゆる障害を乗り越えてでも、勝利したいとの強い願いがないなら、むしろ、初めから臨まない方がましである。
 
だから、クリスチャンには、地上で人前に栄光を受けて、拍手喝采を浴びて、安楽に生き、自分自身だけを楽しませながら、なおかつ、神の御前にも栄光を受けようなどという生き方は成り立たないのである。むしろ、神の御前にどれだけ己を低くして地上における患難を耐え抜いたかが、来るべき日において、キリスト者が神の御前で受ける栄光の度合いを決める。

今回は苦難がもたらす栄光というテーマをさらに発展させて、「栄光から栄光へ」というテーマを語りたい。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


古い契約、それはキリスト者が去って来た世界、すでに水に沈んでいる世界であるが、それは何も律法や、ユダヤ教のことだけを指すのではない。今日、聖書に従う信仰に見せかけた偽りの宗教においては人が敬虔な信者を装うために勝手に作り出した様々な規則や掟が存在する。日曜礼拝を遵守することや、奉仕や献金を行うこともそれに含まれ、そのような定めを数多く守って、人の目に正しい行いをしていると認められることこそ、敬虔な信者のあるべき姿だと説かれる。

しかし、そのようにして、各種の規則で自分を縛り、自分自身の立派な行動を通して、人前に義を得ようとすることは、どこまで行っても終わらない偽りの霊性を得るための偽りの精進である。どれほど人が善行を積んでも、そのことによって、「私はここまで達したのだから、もう義人となった。これ以上、誰からも後ろ指をさされることなく、何も要求されることはない。もう大丈夫だ」と言える日は来ない。また、世が信者が学びや精進によって高みに到達しようとする必死の努力を認めてくれて、「あなたはここまで努力を払ったのだから、合格水準に達しました。もうこれ以上何も要求しません」と言ってくれる日も来ない。

むしろ、人が努力すればするほど、ますます深く泥沼にはまって行くかのように、要求だけが加算される。どれほど人が善行を積んでも、心に「もう大丈夫だ」という確信と平安はやって来ないばかりか、彼に対する期待と要求がさらに増し加わる。だから、そのように自分自身の善行や努力によって義を得ようとする人は、自分自身の心の消えない不安を覆い隠すために、永遠に終わらない努力を重ねているのであり、その行為は、人が義とされるために行っているというよりは、むしろ、心の内なる罪悪感を薄め、本当の自分自身の惨めな姿から目を背け、これを覆い隠すために行われる自己欺瞞であり、キリストによらない人類の偽りの贖罪行為なのである。

このような努力を人がどんなに重ねても、ちょうど巨額の負債を抱えて苦しむ人が、返済しても、返済しても、利子がますます膨らんで行くことにより負債の額が減らないように、人類がどんなに自分で自分を義としようと努力しても、罪悪感はますます膨らみ、義とされることはなく、神に到達することはない。魂のあがないしろは高価で、人は自分で自分の罪を贖うことはできないからである。

そのような人たちは、心に覆いがかかり、思いが鈍くされており、神の義が分からなくなってしまっているのである。彼らは自分では神を信じていると思っているかも知れないが、彼らの悲痛なまでの努力の根底にあるのは、神への信頼や、愛ではなく、むしろ、神に対しての虚勢、演技、取り繕いであり、なおかつ、彼らの心の根底にあるのは、「どうして神は我々に対して、こんなにも重い返済不可能な罪の負債を負わせたのだ」という憤り、恨みである。そして、彼らは「神によって不当に負わされた罪の債務証書」を帳消しにするために、それほどまでに悲痛な努力を払っているのだから、神もそれを認めざるを得ないと考えて、神ご自身を否定して、神の御心を退けて、神の御怒りから身を避けて、自分自身を守るための偽りのレンガの塔(バベルの塔)を建設し続けているのである。

だが、そのように人が己が力では到底、返しきれない罪の負債を人類に負わせたのは、神ではなく、サタンである。だから、サタンを打ち破ることによってしか、人がその負債から解放される術はない。そして、神はそれをすでに成し遂げて下さったのであり、神はキリストの十字架を通して、すでに人間の罪の債務証書を無効にする道を開いて下さっているのである。だから、人がこの「罪の債務証書」を自力で返済する必要はなく、また、そのことで神を恨みに思う必要もなく、むしろ、糾弾されるべきは悪魔であって、神はキリストを通して彼に打ち勝たれたことを確信し、それを宣言し、喜び、現実に適用するだけで良いのである。

ただ上記のような人々はそれが分からず、自分に負わされた途方もない負い目を返済し続けることにより、自分たちは神に仕えているのだと誤解しており、彼らが仕えている相手は、神ではなく、彼らをまさに罪の負債地獄に突き落とした地獄の看守たる悪魔であるということが分からないのである。

しかし、人が真にキリストご自身の方を向くならば、この救いようない古い契約でがんじがらめにされた泥沼の状態から、誰しも自由にされることができる。それだけではない、その人の内側が新たにされ、主の御姿へと変えられて行く。

しかしながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行くことは、やはり、信じる者が己を低くして苦難を甘んじて受け、キリストの遜りにあずかることにしかないのである。だから、キリスト者が「いいとこどり」の人生を送ることはできない。神から喜びや恵みと平安だけを頂戴し、苦しみは一切御免だと言うことはできない。

しかし、誤解してはならないのは、信者が無駄に虐げられ、抑圧の中にとどまり、悪魔の圧迫の虜とされ続けることが、神が栄光をお受けになる手段ではないことである。むしろ、信者はそうしたすべての圧迫の中で、これに勝利する力を信仰によって得なければならないのである。

信者にとって地上の苦しみとは何なのかと問えば、それは、苦しみを通して信者に突きつけられる地上的な限界のことだとも言えよう。信者は患難を通り抜けることによって、恐れや、不安や、自分自身の限界を痛切に感じる。しばしば、自分自身の人生を照らされ、自分の誤りの多い選択を振り返り、もしかしてこれは避けることので来た苦しみではなかったかと考える。

しかし、信者は自分の抱えるあらゆる限界や愚かさにも関わらず、それに対して自分の力によってではなく、ただ信仰に立って、キリストにより、絶え間なく、この限界に「NO」を突きつけるのである。つまり、信者は、「自分にはできないが、神にはできる」という確信に立って、迫りくるすべての苦難に立ち向かい、それを乗り越えるのである。信者はこの地上で圧迫を受け、苦しめられ、追い詰められもし、そのような出来事が起きた原因がどこにあるのかさえ分からないことが多いが、絶え間なく、これらの地上の圧迫に対し、地上の限界ある人間としての自分自身に基づいてではなく、天的な人である「キリスト」によって、立ち向かい続けるのである。その時、そのパラドックスの中に、神のはかり知れない力が働く。

従って、信者が患難を通過することによって得られる天の栄光とは、信者が苦しみに翻弄され、悪魔に圧迫され続ける立場に受け身に立つことや、自虐的的で、自縄自縛の立場に身を置くことを意味せず、むしろ、それとは反対に、信仰によってそれらの圧迫を内面的に打ち破り、これに勝利する秘訣を学ぶことにある。信者の人生には、絶え間なく外側で様々な事件が起き続けるであろう、しかし、信者が苦難に勝利する力を学ぶと、それらの出来事が、信者の内面に影響を及ぼさないようになる。いかなる現象が起きようとも、どのように自分自身を脅かされようとも、信者が大胆な確信に基づいて、キリストの復活を宣べ伝えることが可能になるのである。

パウロは書いている、

「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する賞賛が届くのです。」(Ⅰコリント4:3-5)

パウロは神の力ある使徒であったにも関わらず、兄弟姉妹と呼ばれた人々からも中傷されたり、あらぬ疑いをかけられたりもし、兄弟姉妹ではないこの世の人々からは、まして誤解され、憎まれ、迫害され、しばしばあらぬ罪を着せられて法廷にも立たされ、弁明を求められたりした。

このような迫害を使徒たちも経験したというのに、今日、キリスト者がこうした誤解や偏見や対立や苦難を全て避けて通ることができると考えるのは大きな間違いであろう。もしそのようにいかなる対立も迫害も生じないのだとしたら、その信者の信仰生活は何かがおかしいのだとはっきり言える。

しかしながら、パウロは、この世の目線に立って、人間の見地から、自分に対して下される評価や「人間による判決」をものともせず、「私は自分で自分をさばくことさえしません」と述べた。パウロはかつては熱心なユダヤ教徒であり、教会の迫害者であり、それゆえ、クリスチャンからは回心当初は恐れられもし、疑いもかけられもしたが、そのような過去でさえ、パウロは神の御前に死んだものとして一切ないがごとくに自分の手から放し、すべてを神の御手に委ね、自分自身では全く過去に拘泥せず、それに限らず、回心後に起きたどんな事柄についても、自分で自分を振り返って犯した過ちとキリストへの従順を勘定して、自分がどの程度義人であるかをはかるようなことをしなかった。

パウロは人前に立たされて弁明を求められる時、自分自身により頼まず、ただ彼を贖い出されたキリストの御名、キリストの義と聖と贖いだけに頼って立ったのであった。それだけが自分を守る防御の盾であることを彼は知っていたからである。彼は、神がいずれ自分を裁かれることを知っているが、神の裁きをも恐れてはいない。神の裁きについて大胆に述べることができたのも、彼が人間の裁きから身を避ける口実として、神の裁きを持ち出していたからではなく、人間の裁きよりもはるかに正確で決して間違いのない、すべてをご存知である神のさばきの前に立たされる時でさえ、確信を持って進み出ることができるという自負を持っていたためである。

その確信に満ちた自負は、地上の人であるパウロ自身から生まれるものではなく、パウロを通して働かれるキリストによるものであった。全身全霊でキリストに従い通しているがゆえに、パウロは、この方が、自分自身を力強く弁護して下さり、義として下さり、神は信じる者の信頼に応えて下さるという確信がったのである。

それだけではなく、パウロは、神の裁きの前に立たされる時、自分が罪に定められることがなく、義とされるばかりか、朽ちない栄冠を受けるであろうことを確信していた。信仰者はただキリストの贖いを信じて神の目に義とされただけでは十分ではない。それだけでは、罪赦されて、ただスタートラインに立っただけのことである。それ以上に、神からの栄誉にあずかるために、地上で勝利を持って試練を通過せねばならないのである。

兵士が戦いを経ずして勲章をもらうことはできず、スポーツ選手が試合を経ないのに賞を勝ち取ることができないように、信者には、この地上において患難を忍び抜くことによってしか、得られない天の栄誉がある。苦しみや圧迫を通して、信仰が試され、すべての試練に勝利する秘訣を学び、キリストにあって、完全に「おとな」にならない限り、神の朽ちない栄冠を得ることはできないことを、パウロは知っていた。だからこそ、救われた後の地上における生涯を、彼はこの朽ちない「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走る」ことに費やしたのである。

つまり、天で用意されている「神の栄冠」という栄誉を得るために、信者は、この世における苦しみを通され、それを通して、キリストの十字架の死に同形化され、より深く復活の命にあずかるのである。この死を土台とした復活の命の増し加わりこそ、教会の成長の秘訣なのである。

「私たちは、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくさる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:12-14)

ヤコブも同じように、試練、患難、苦しみを信仰によって忍び通すことによってのみ、信者は「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者とな」ることを書いている。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いてよしと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

以上の事から、私たちは、どうすれば信者がキリストに似た者とされるのか、どうすれば、「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くことができるのか、どうすれば、「キリストの身丈まで成長し、完全なおとなとなる」ことができるのか、その秘訣を学ぶことができる。

エペソ書4章11節から16節には、キリストのからだを建て上げるために、信者それぞれに与えられた賜物に従い、教会には役割分担があることが語られると同時に、そうして信者一人一人が賜物に応じて互いに仕え合うことが、信じる者たちが「キリストの満ち満ちた身丈」にまで成長し、「完全におとなになって」、もはや人間の言い伝えに過ぎない偽りの教えに騙されたり、弄ばれたりすることなく、真理のうちにとどまり、キリストに従い抜いて成長するためであることが語られている。

しかしながら、多くのプロテスタントの教会においては、エペソ書のこの箇所は、組織としての教会内の信者の役割分担を示すものと解釈して、教会に牧師制度を置く根拠とさえみなしている。だが、筆者はそのような文脈でこの聖書箇所を引用しない。筆者はそもそも教会というものを、地上の組織としては見ておらず、教会内に町内会やらPTAやら、はたまた学習塾のような、様々な固定化された役割分担を置くことにより、教会の成長を促すことができるとも考えていない。

むしろ、筆者自身の経験に立って言えば、キリストのみからだなるエクレシアの働きは、決して、地上的な組織としての役割分担や、まして教団教派や組織の枠組みにとらわれるものではなく、むしろ、そのような地上的な疑似教会組織と無関係になった時点で、初めてキリストの生きた働きが信者に見えて来るのである。神は人間が人間の意志によって立てた地上の組織のネットワークを通さず、人の思いによらず、人知を超えた不思議な方法で、互いに知らない信者たちをも時宜に応じて引き合わせ、しばしば、予期せぬ形で、塩気を失って死んだこの世の地上組織としての教会の代わりに、この世の不信者からの圧迫でさえも、エクレシアを建て上げる機会として用いられる。

これは、決して不信者が教会の一部となって、教会のために奉仕していると言うのではない。不信者はあくまで教会の外にいて、教会を建て上げる目的でその働きに関わっていないのだが、それにも関わらず、この世の不信者からの迫害や圧迫を、神は教会を建て上げる手段として用いておられるのである。

前回、ステパノの殉教の場面に触れたが、イエスの復活後、このような形でユダヤ教徒による教会への迫害が強まるまでは、弟子たちの宣教によって、神の御言葉を受け入れる人々が地上に増え広がり、神の教会に加えられる兄弟姉妹が増加していた。人の目には、あたかも、そのようにして信者数が地上で増加し、教会が地上で権勢拡大し続けることこそ、教会の「成長」を指すように見えるであろう。

ところが、神は教会の成長を、決して、そのような規模や人数や組織力によってはかられないのである。むしろ、神は、サウロによる教会への迫害、ステパノの殉教などの出来事を許されて、教会が地上で勢力を増して人間的な力の結集する場所となって、強大な組織が建設され、弟子たちが多くの信者たちを従えて宗教的権威となるよりも前に、信者たちを迫害によって散らされ、教会を離散させられたのである。

教会の成長は常にこのように、世からの激しい迫害や苦難と背中合わせで、人間の目から見た繁栄や成功とは真逆の方向性を向いており、真にキリストに従う弟子たちが、大勢の人びとから敬われ、かしずかれ、立派な教師、宗教的権威者として崇められることはない。神の望んでおられる「教会成長」は、これとは全く正反対で、地上における迫害や苦しみや誤解や偏見とは一切無縁の、地上で歓迎され、安泰な地位を築き上げることのできる強力な組織力を意味しないのである。むしろ、神から見た教会の成長とは、量や規模といった、外側から見て誰しもすぐに分かるような基準でおしはかられることはなく、より深く内面的な基準によってはかられ、量よりも質を指していると言えよう。つまり、信者があらゆる苦しみの中を通され、代価を払って、ただキリストだけに従い抜く過程で生まれて来る洗練された従順、献身、信者がキリストの死と復活に同形化されたその程度の増し加わり、神への燃えるような愛の増し加わりを意味するのである。

このようなわけで、筆者は、エクレシアが何であるのかを、信者が肉眼でとらえて理解することはできず、エクレシアというものを、人が地上の組織の中に限定・固定化することもできず、また、エクレシアをキリストにふさわしく建て上げ、成長させるために、神がどのような方法を用いられるのかを、決して人知でははかりしることができない、という考えに立っている。

神がエクレシアを成長させられる手段は、この世の人々が組織を成長させるために考え出すような手練手管とはむしろ反対なのである。この世の人々は、教会に学習塾のような役割分担を設け、専門家による教育訓練を充実させ、入塾した者たちを鍛えれば、それによって教会全体の信仰を成長させることができると思うかも知れない。だが、神は決してエクレシアの成長のためにそんなな方法を用いられることはない。

先の記事でも触れた通り、パウロが述べたのは、むしろ、教会に栄光がもたらされるのは、キリスト者が投獄されたり、迫害されたり、誤解され、排斥され、苦しみを受けるなど、人間の目には決して好ましくない、心地よくない様々な出来事を通してだということであった。そのようにして、一人のキリスト者が苦しむのは、教会全体のためであり、教会全体の利益にかなっていると、彼は述べたのである。

これはまさに人が肉眼で見て、組織を成長させ、発展させる方法とは真逆である。人間の目には、苦しみや、迫害や、組織を弱体化させるものにしか映らないであろう。このような逆説的な方法を用いて、神が教会を成長させておられるとは、信仰者でさえ、信仰によらなければ、理解することはできないであろう。

しかしながら、たとえ人知ではかることができずとも、このような形で、キリスト者が不思議な形で互いに仕え合うことによって、教会が成長して行くのである。信者たちが互いにお世辞を述べあって、互いを誉めそやし、互いに栄光を受け合い、苦しみとは無縁の、人間にとって心地よく安全な共同体を地上に確固として築き上げることで、教会が成長するのではなく、むしろ一人一人が自分の代価を払って、試練を忍び通しながら、キリストに従い抜くその過程で、初めて互いが仕え合うことが可能になるのである。そのようにして、信者一人一人が「完全におとなになってキリストの満ち満ちた身丈にまで達する」のである。

「それが、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。<…>

 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:12-16)

果たして、今日、キリスト教と呼ばれる宗教が、すっかり人間の安楽と現世利益のためだけの疑似宗教と化している中、このように主のための試練をも甘んじて受け、この世からの迫害や誤解や偏見や危難をも勇敢にくぐり抜け、様々な訓練を通して、神の御手に懲らしめられながら、それでも己を低くしてそれに耐え、苦難を忍び通して信仰を成長させ、キリストの死と復活により深く同形化され、朽ちない神の栄冠にあずかりたいと、心から願う信者は、どのくらい存在するのであろうか? 

そういう信者がどのくらいいるのかいないのか、それは筆者の知るところではないが、苦難と栄光の深い関わりについてのテーマは、この後の記事でもさらに続行して行く。

PR