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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険②~

さて、「肉のものを霊のものに見せかける」ことにより、その「霊」の力を得れば「神のようになれる」と偽りを教えるのがグノーシス主義であり、ペンテコステ・カリスマ運動はグノーシス主義と合体して生まれた疑似キリスト教である。

だが、そのようにして生まれる疑似キリスト教はペンテコステ・カリスマ運動だけには限らない。そこで、これから、「聖霊の働き」であるかのように偽りながら、人間の堕落した「魂の力」に由来する超自然的な力を行使する疑似キリスト教に共通する特徴について見て行きたい。

この考察を始めるに当たり、改めて以前にも紹介したジェシー・ペン-ルイス著「魂の力」対「霊の力」"SOUL-FORCE" VERSUS "SPIRIT-FORCE"by Jessie Penn-Lewisを参考として挙げておきたい。

この論説にも詳しく説明されている通り、「魂の力」という言葉は、人間の堕落した肉に働く生まれながらのアダムの命を指している。「魂の命」という呼び名からも分かるように、それはとりわけ人間の堕落した魂の思念と深く関係している。

「魂の力」は、生まれながらのすべての人間に備わっている堕落して滅びゆく有限なる生命のことであり、人間の贖われない「肉」(=魂および肉体)を活かす、キリストによって贖われていない有限な動物的命である。この堕落した命は、罪と死の法則に支配されて神に敵対している人間の堕落した「肉」(魂と肉体)全体を動かす原動力となっている。

インドやアジアの異教の修行僧やシャーマンたちは昔から、人間の生まれらながらの堕落した命に本能的に備わっている力を引き出すことにより、魔術ように見える様々な超自然的な働きを駆使する術を学び、継承して来たが、それはもはやキリスト教とは無関係のインドやアジアの異教に限ったことではないのである。

ペンルイスが以上の論説の第一章で述べていることを以下に抜粋するが、これを読めば、東洋神秘主義に由来する「魂の力」が、どのように人間に危害を及ぼすために行使されるかが分かると同時に、そのようにして異教徒たちが「魂の力」を行使する様子は、今日、まるでキリスト教であるかのように自分を偽っているペンテコステ・カリスマ運動の指導者たちや、また、ペンテコステ運動の只中から出現して来たカルト被害者救済活動の支持者らが、インターネットを通じて、反対者らに対して行っている迫害・妨害・中傷行為に、恐ろしいほどにぴったり当てはまることに、どうして気づかないでいられるだろうか。
 

地獄の軍勢が全世界を欺くために出て行きました(黙示録一二章七~一二節)。その結果、政治の世界で大変動が起きています。私たちはこれらの出来事を考慮する必要があります。なぜなら、それらはキリストの教会に重大な影響を及ぼすからです」

「以前、私は北インドで一人の人に出会いました。その人はシムラの最上層の社交界である、インド政府の夏の議会に出入りする資格を持っていました。ある晩、彼は私に、彼がインドや他のアジアの国々のマハトマ(聖人)たちと接触をもっていることを話してくれました。彼が言うには、政治的な大事件が起きる数週間、数ヶ月前に、彼はそのことを知っている、とのことでした。彼は、『私は情報を得るのに、電報や新聞には頼りません。それらは過去の出来事を記録するだけですが、私たちは出来事が起こる前にすでにそのことを知っているのです』と言いました。どうして、ロンドンにいる人がインドの出来事を知ったり、インドにいる人がロンドンの出来事を知ることができるのでしょう?」。

私はこの現象を、マハトマの秘訣を知る人々が投影した『魂の力』によるものと理解しました。魂の力とは何でしょう?神の霊から教わっている信者は、神の御言葉の光によって、それが地獄の力であることを知っています。この地獄の力は、壊滅的変化を生じさせるために、世界の国々の上に投影されているのです」。

『魂の力』という言葉の魅力や魔力は、東洋でだけ知られています。東洋では、マハトマのような聖人はこの力を行使することができると信じられています。彼らは過去数世紀にわたってインドの霊的指導者でした。そして、昔と同じように今も、超自然的な力を持つと信じられています。彼らは人を強める力を持つだけでなく、人の意志をコントロールする力も持つと言われています」。

「ヒンズー教徒とイスラム教徒は、祈り――瞑想行為――によって結ばれて、共に『魂の力』を生み出す働きに従事しています。彼らは、東洋における西洋諸国の権力や威信を失墜させるために、『魂の力』を西洋諸国の上に投影しているのです。これは歴史上最大の反乱です!……」。

(筆者注:我が国の国家神道が自らを東洋思想に基づくものとみなして、西洋文明や西洋文化に対する優位性を誇り、西洋文明のもたらした個人主義を弊害とみなしてこれを取り除くために西洋文明に対抗することを強力な柱としていたことを思い出したい。こうした思想が持つ西洋文明に対する敵視は『国体の本義』の中に非常に詳しい。)


ペンバーの「地球の幼年期」の中に、これに光を当てる節があります。彼は次のように記しています。「『魂の力』を生み出すためには、肉体を魂の支配下に置かなければならない(筆者注:これは聖書に則って、魂(精神)が肉体を治めるという正常な支配関係を意味するのではなく、人が自らの思念によって、肉体の限界を超えて自分自身の影響力を行使する方法を学ぶという意味であると理解できる。)そうすることによって、自分の魂と霊を投影し、地上に生きていながら、あたかも肉体を持たない霊のように行動することができるようになる

この力を会得した人は『導師』と呼ばれており……意識的に他人の心の中を覗くことができる。彼は自分の『魂の力』によって、外界の諸霊に働きかけることができる。……彼は凶暴な野生の獣をおとなしくさせ、自分の魂を遠方に送ることができる」「彼は遠くにいる友人に、肉の体と同じ様で自分の霊の体を見せることができる」「長期間の訓練によってのみ、これらの能力を会得することができる。訓練の目的は、体を完全に服従させて、一切の喜び、痛み、地的情動に対して無感覚にならせることである」。

インド人の宗教生活は、まぎれもなく、これらの魂の力を発達させています。キリストの福音を知らない数十万の人々が、ある特定の対象に向けて強烈な「祈り」を放つ効果は、いかばかりでしょう。彼らはこの世の神に導かれて、自分の望む対象に魂の力を「投影」しているのです。

魂の力の無意識的な行使は、霊的な信者にいかなる影響を及ぼすのでしょうか?最近受け取った手紙の中にその実例があります。手紙の著者は次のように記しています。「私はたった今、敵の襲撃から逃れてきたところです。出血、心臓病、動悸、疲労。全身ボロボロの状態でした。私が祈っていた時のことです。(魂的な)『祈り』によって私の上に働く魂の力に対抗して祈るよう、突然示されました。キリストの血の力を信じる信仰によって、私はそれを自分から断ち切りました。結果は驚くべきものでした。たちまち呼吸は正常になり、出血は止まり、疲労は取れ、すべての痛みは去り、体にいのちが戻ってきました。それ以来、私は新たにされ、強められています。この解放の経験から、神は私に次のことをはっきりと教えて下さいました。すなわち、私の体がボロボロになったのは、私に反対しているある異端のグループが、私について祈った『祈り』のためだったのです。神は私を用いて、そのグループから二人の人を解放して下さいました。しかし、残りの人々は恐ろしい地獄の中にいます。……」。

このような他の事例を見ると、何らかの方法で自分を悪霊に対して開いて、超自然的経験をしている人々は、祈りを装って魂の力を生み出せるようです。これらの人々は、「他の人々も自分と同じ経験をするべきだ」という偏執狂的な霊を持っているようです。もし、人が自分と同じ経験をしようとしなかったり、他の人々の邪魔をするようなら、彼らは自分たちが「祈り」だと思っているものをその人に向けて、「あの人は神に裁かれるべきです」とか、「あの人は『真理』に服従するよう強制されなければなりません」と祈ります。

しかし、これらの人々は、主を受け入れようとしなかった町に対して、「主よ、私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか?」*と言った弟子たちにとてもよく似ています。主は弟子たちに答えて、「あなたがたは自分がいかなる霊なのか、わかっていません」と言われました。神は決して、自分を受け入れるよう、人に強制なさいません。たとえそれがその人自身の益であったとしてもです。聖霊なる神は、神の救いを受け入れるかどうかを選択する人の責任を認識しておられます。


以上の引用の最後の部分に書かれている記述は、とりわけ、今日のペンテコステ・カリスマ運動という異端運動の邪悪さを考える上で重要である。

ペンテコステ・カリスマ運動の指導者らが、祈りを装って、悪霊に由来する超自然的な魂の力を生み出し、それをクリスチャンに向けて行使し、クリスチャンを床に倒したり、意識を失わせたりできることは、すでに説明した通りである。おそらく、そのような行動は、彼らの持っている力のほんの一端でしかないことであろう。
   
「魂の力」を行使する人々が、「他の人々も自分と同じ経験をするべきだ」という偏執狂的な霊を持っている、というペンルイスの指摘は、まさにペンテコステ運動の支持者らに当てはまる。

この運動の指導者らは、まずは自分たちが持っている超自然的な力を見せつけることにより、他の信者らにも、「その力が欲しい」と思わせ、彼らが「聖霊のバプテスマ」と称しているその偽りの「霊」を、誰もが受けるべきとみなして、これを求めて祈るよう、各地で祈祷会や待望集会を開いている。いわば、これは彼らが自分たちを導いている悪霊を、他の人々にも受けさせるための最初のイニシエーションであると言えよう。

こうして正体不明の「霊」を受け、ペンテコステ運動の仲間入りを果たした人々は、最初は穏やかな顔で、敬虔かつ熱心なクリスチャンの伝道者を装いながら、自分の所属していない既存の教会に入り込み、勝手に自分たちの「教え」を宣べ始める。そして、誰にも理解できない異言や、超自然的なパワーを売り物のように誇示しながら、それに関心を示す人々を募り、そうした人々が得られると、彼らを既存の教会から引き抜いて自分たちのグループを形成し、いわば組織内組織を育てるようにして、既存の教会や教団の枠組みを食い破って成長して行こうとするのである。
 
そのような行為に及べば、様々な反対が起きてくるのは当然だが、ペンテコステ運動の支持者らは、自分たちの考えだけが正しく、他の人々はみな彼らと同じ考えを持つべきであって、それ以外の考え方は一切、認められないという偏執的な考え方を持ち、周囲のすべての人々を、自分たちと同じ考えに染め上げることを自らの使命であるとみなしているため、周囲の反対や批判に全く耳を貸さず、むしろ、他人の自由意志を侵害してでも、自分の考えを押しつけようとする。彼らの考えを理解しようとしない人々、彼らの活動に反対する者たちに対しては、残酷なまでに容赦のない批判を繰り広げ、呪詛と言って差し支えない言葉を述べて、その人たちを冒涜し、呪いを浴びせる。

このような人々は、必ずしも、暴力的な抑圧を伴わないかも知れないが、祈りを装った呪詛によって、自分たちの活動に賛成しない者たちの人生に現実の危害を及ぼそうとしているのである。当ブログに対してペンテコステ運動の支持者(カルト被害者救済活動の支持者と同じ)が行っている名指しの中傷などは、まさに呪詛に他ならず、このような呪詛は、ペンテコステ運動の支持者らが、自分たちの考えに従わない者に対して常日頃から行っている、信仰に見せかけた呪いの祈祷の一端を示していると言えよう。

さらに、こうした人々は自らの信念の「布教」のために暴力を用いることも当然ある。彼らは一方では、穏やかな「福音宣教者」を装うが、他方では、暴力を正当化しながら、自分たちの「信念」を他者に押しつける。ペンテコステ運動の中から生まれて来たカルト被害者救済活動にそれが最もよく表れており、この活動は、「カルト宗教から信者を救う」という名目で、カルトと名指しされている他の宗教から、信者を拉致監禁という強制的な方法で奪い取り、密室に監禁して、信者自身の自由と意志決定権を奪った上で、長時間に渡る説得工作を行い、その人の信仰を暴力的に打ち砕いて、誤りを認めさせ、棄教させて来た過去を持つ。

カルト被害者救済活動は、まさに『1984年』の主人公ウィンストン・スミスの最期を思わせるような暴力的なやり方で、自分たちの信念だけが唯一正しい教えであるとして、それを他の人々に強制的に押しつけて来たのである。

カルト被害者救済活動の支持者は、かつては聖書を使って他者の信仰を暴力的に打ち砕いて来たが、今や、筆者のような人間が、聖書を使って彼らの誤りを指摘し始めると、今度は、筆者から聖書を奪い取るべきだなどと主張している。このような主張を見ても、この異常かつ邪悪な運動が真実なキリスト教であるはずもなく、彼らが聖書を用いて他宗教の信者を説得して来たのは、うわべだけの偽装であり、この運動は本質的に聖書の信仰とは完全に無関係の、キリスト教に偽装した邪悪な異端である事実は明白である。

聖書の神は決してご自分に従わない人々を辱めたり、その意志を暴力的に打ち砕いてまで、ご自分の正しさを主張されることはない。人類の滅びは決定しているとはいえ、それが来るまでの間に、どれほど大勢の人々を信仰によって救えるかというところに神の御心がある。キリスト教は決して強制された暴力的な運動ではないのである。

しかし、ペンテコステ運動は、本来的にキリスト教とは無縁のグノーシス主義・東洋的神秘主義が、キリスト教に偽装して出来あがった異端の運動であるため、人間の自由意志をかえりみようとせず、これを暴力的に侵害してまで、自らの信念を他者に押しつけようとし、全世界を自分と同じ考えに染め上げることを目的に、反対者を抑圧し、呪詛や冒瀆の祈祷によって、邪悪な諸現象を引き起こすのである。

その時、彼らが反対者を呪い、冒涜し、傷つけ、抑圧するために用いるのが、堕落した「魂の力」に由来する邪悪なパワーである。神と人とが本来的に同一であるとする東洋的神秘主義は、、堕落した「魂の力」から超自然的なパワーを引き出すことにより、人間に通常の範囲を超えて行動する力を得させ、それによって、本当は神の霊に導かれておらず、霊的な人間となったわけでもない者に、あたかも高次の霊を受けて、霊的な存在として高められ、神に近づいたかのように錯覚させて、最終的には、「神のように」死を超越して、自分を永遠の存在にできると説く。

このような教えを受けた人は高慢になり、自分は正しいと頑なに思い込むようになり、他者の意志を暴力的に打ち砕いたり、自分に反対する他者の人生を呪い、抑圧することを何とも思わなくなる。

東洋的神秘主義が、そのように超自然的な力を開発することで、最終的に目指しているのは、死によって脅かされている人類が、自力で死を克服し、聖書の神による人類への滅びの判決を乗り越えることである。そのための方法論が、日本においては武士道という最も洗練された形で結実しているのであって、超常現象を誇るペンテコステ運動の宣教師たちが引き出して来たのは、東洋神秘主義に由来するこの邪悪な力なのである。
  
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と言われているように、それはまさに「死の美学」である。だが、なぜ人類が自己の力で自分を強め、「魂の力」を霊の命であるかのように引き出して、自己を神のように高めようとすることが、死と一つに結びつくのか?

その問いは、東洋的神秘主義が、キリストの十字架の死の悪魔的模倣だという点に注目すれば、解くことができる。

東洋思想の根幹には「母を守る」(=人類を守る)という発想が流れていることは幾度も述べた。ここで東洋思想の主張する「母を守る」とは、人類を守るということと同義であるが、東洋的神秘主義とは、東洋思想の実践面であるから、武術は究極的には「死によって脅かされている人類が、自らの力によって死を飲み込み、死を超越することで、人類(=自分自身)を守ろうとする方法論」であると言えるだろう。

その目的は、神によって罪と死に定められた人類が、神の判決に逆らい、自分を哀れみ、惜しむがゆえに、自力で神に対抗し、自分自身を縛っている死の力を自分で滅ぼそうと、自ら死と一体化して、肉体の限界を乗り越えることで、神の判決を否定するという、悪魔的な力による自己防御の方法論なのである。

これまで見て来たように、東洋思想の基盤には、すべての生命が、脆く儚いものであることを惜しみ、哀れむがゆえに、生命を愛でる美的感覚と、慈悲の念がある。だが、その美学や、慈悲の念は、裏を返せば、すべては「母を守る」という使命に直結しており、要するに、死によって脅かされ、滅びゆく存在である人類が、自分で自分を惜しみ、自分に同情し、自分の滅びを決して認めまいとするがゆえに、自分を愛でるという、自己憐憫と被害者意識につながって行く。

つまり、東洋思想は、人類の「私は死によって不当に脅かされている」という自己憐憫と被害者意識が生んだ思想なのであり、その思想に基づき、人類が被害者意識のゆえに神の判決を否定して、自力で死を滅ぼそうとして生まれた方法論が、武術なのである。

それゆえ、こうした方法論の前半では、人は自分を守るために、肉体を鍛えることによって、自分の弱さを自力で克服することを目指す。だが、後半になると、この方法論は、人が自分の肉体そのものを制圧して、肉体に自然に生まれるあらゆる感覚を自力で滅却して、ついには肉体から解かれることにより、肉体の制約から自分を解放するという「自死のプロセスと選択」を取らざるを得ないのである。

武士道は、インドやアジアで異教の導師たちによって開発され、受け継がれて来た「魂の力」が、最も洗練された方法論として集約されたものであり、その根底には、人類を楽園から追放し、滅びに定めた聖書の神に対する怨念と憎しみが込められ、何とかして人類が自力で神の判決を退けたいとする願望が隠されている。
 
このように、東洋的神秘主義は、人が自力で弱さを克服し、最終的には死を克服することによって、神を否定的に乗り越えるための方法論なのである。だが、死を克服することは、現実にはどんなことをしても、人間には不可能であるため、グノーシス主義のような神秘主義の思想が、死を通して人が自分の肉体の制約から解かれることができるかのように見せかけているのは、もちろん、トリックであり、偽りでしかない。

だが、彼らは、死に至るまでのプロセスの中で、実際に、「魂の力」を引き出すことで、自分が肉体に縛られない霊的存在になったかのように振る舞う術を会得したり、あるいは、肉体を通して、通常の人間には及ばないような超自然的な力を行使する方法を会得するため、そのようなうわべだけに注目すれば、彼らはそうした自己を強める魔術のような力によって、いずれ死をも超越できると錯覚する者もあるかも知れない。
 
クリスチャンは、人類の中で死を克服された方はただ一人であり、しかも、その方が東洋的神秘主義とは真逆の方法で死を克服されたことを知っている。

キリストこそ、十字架の死を通して、すでに「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさ」った(ヘブライ2:15)唯一の方であるから、我々はこれを退けて、自力で死を克服しようともがく必要はない。

しかも、キリストは東洋的神秘主義のような方法で、死を超越されたのではなかった。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6-9)

創世記でサタンは人類に、人が自分の創造されたありようを捨てて、神のもうけた制約を自ら取り払い、自力で神のようになって、神を乗り越えるべきだと嘘を吹き込み、今日も、人が自分で自分を強め、高めることで、神に至り着けると偽りを教える。
 
しかし、キリストは、それとは逆に、むしろ、神のありようを捨てて人となられ、人間としての弱さ、限界のすべてを身に負われ、罪は犯されなかったが、罪ある人類の代表として、人類が身に受けるべき残酷な刑罰としての十字架の死を最後まで耐え忍ばれたのである。
 
彼は自己を強めることで、死を克服したのではなく、「弱さのゆえに十字架につけられ」(Ⅱコリント13:4)のであり、神の超自然的な力を駆使することで、痛みや苦しみを超越することで十字架の死を乗り超えたり、そこから逃れようとすることなく、人としての弱さや痛み苦しみのすべてを余すところなく負われ、ただ信仰だけによって、人類の力ではなく、神の力によって、人類のためによみがえりとなられたのである。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ2:14-18)

「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きているのです。」(Ⅱコリント13:4)

イザヤ書第53章には、キリストが人となられて負われた苦しみがいかなるものであったかが克明に記されている。

彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」(2-4)

主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。」(6-8)

「 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。」(9-10)

「しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 」(4-5)

彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」(10-12)

キリストは、人となられたにも関わらず、人の弱さに同情するがゆえに神の判決を不服とされることなく、神がご覧になられるように、人類の姿を見られ、神が人類に下された死の判決に全く抵抗されず、これを自分自身のものとして受け入れ、身に負われた。

キリストには、人類の滅びゆく美を愛でて、それが滅ぼされることを惜しみ、神の判決に反対するがゆえに、ご自分の美に執着されるということが全くなかった。彼は弱く脆い存在である人間の痛み苦しみを十分に分かっておられ、死に脅かされる人類の悲しみをも十分に知っておられ、死を憎んでおられたため、人間に対する深い同情ゆえに、病を癒すことだけでなく、死者を復活させることもしばしばなさったが、それでも、ご自分は、神の超自然的な力を思い通りに駆使することで、十字架の死に反抗してそこから逃れようとすることはなく、むしろ、すべての理不尽を一身に背負われ、何の罪もなかったにも関わらず、罪ある人間と同様に、神の判決の前に従順に頭を垂れて、十字架の死に従順に従われたのである。それは、ご自分の苦しみによって贖いが全うされることを知っておられたためである。

キリストが死に至るまで、ご自分の魂の命を注ぎだされ、魂の命を十字架の死に渡されたことは、人が自己の魂の命を開発・強化することで、死の克服を目指すという東洋的神秘主義の方法とはまさに正反対である。そして、人が死を克服するためには、ただ一つこの方法しかないのである。弱さのゆえに十字架につけられたキリストだけが、ご自分の死によって、死を滅ぼされたのであり、信者には、そうして十字架で死なれたキリストと霊的に一つになることによってしか、死を超えて、彼のよみがえりにあずかる方法はない。

そうして信者がキリストの死と復活に同形化されるためには、信者自身もまたキリストがなされたように、神の御手の下に自分を低くして、人生で己の美が傷つけられたり、自分が脅かされることがあっても、自力で自分を強めてあらゆる困難を克服して死に立ち向かおうとするもがきをやめて、自分の弱さの中に、信仰によって神の力が働くのを待つしかないのである。

しかし、東洋的神秘主義はこれをさかさまにして、人が決して弱さのゆえに十字架の死を介することなく、人がむしろ自己を強め、罪に対する刑罰としての十字架の死を回避しながら、自ら死を飲み込み、滅ぼせるかのようにみなす。こうして、この思想が、人が自ら死と一体化することにより、死を克服・超越しようとするその方法論は、ある意味で、これはキリストの御業の悪質な模倣であると言えよう。

だが、その方法論は悪魔的なものであり、聖書とは真逆の方法であるゆえに、決して目的に達することがない。これは欺きの教えであり、このような方法を通して、人類が自力で死に立ち向かい、死を克服しようとすることは、キリストの十字架に悪質に敵対し、キリストの十字架とは決して両立することのない悪魔的な試みであるから、結果として、必ず滅びで終わることになる。それだからこそ、武術の根底には、自分を脅かすすべてのもの(=とりわけ、聖書の神に対する)憤り、憎しみ、暴力、怨念、嫉妬、復讐心が満ちているのであり、そこには、自らの力で永遠にたどり着きたいと願いながらも、それを達成できない悪魔の神い対する憤りと怨念が投影されているのである。

人類が死を克服するための方法は、弱さのゆえに十字架につけられたキリストの中にしかなく、それ以外のすべての方法は偽りである。武術(武士道)は人が強さのゆえに十字架の死の判決を回避して、自分の罪を正当化して、自力で神の永遠に至ろうとする東洋的神秘主義の生み出す偽りの十字架としてであるから、それは滅び以外のものを決して人類にもたらさない悪魔的な試みなのである。まずはそのことを理解した上で、次の章に入りたい。

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