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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

カインの城壁~弱者救済の旗の下、セルフ教という一大バビロンへ向かって集約されるキリスト教界~

キリスト教界の憂慮すべき事態について書き始めると、必ず「プロテスタントだから駄目なんですよ」と言い始める人々が出現する。 
プロテスタントに絶望してカトリックに去って行ったクリスチャンに出会ったこともある。「プロテスタントは牧師がみんな未熟なのに一国一城の主になる。だから駄目なのよ。カトリックにはそういうことはないわよ」とその人は言っていた。

だが、カトリックにはプロテスタント以上の厳格なヒエラルキーがあり、プロテスタントに起きているような聖職者の腐敗の噂がないかといえば全くそのようなことはない。さらに、以下に記すように、カトリックはすでに同性愛者の結婚まで認めるに至っている。

私がここでキリスト教界という言葉で指しているのは、プロテスタントに限らず、組織としてのキリスト教全般である。
組織としてのキリスト教そのものが、信仰の本質とは何ら関わりのない、人を自由ではなく依存へ、隷従へと導く体系であるということを、これまでずっと述べて来た。

だから、プロテスタントに絶望して他の宗派に去るのは個人的な自由だが、私は宗派替えに解決を見出してはいない。カトリックが良いのか、プロテスタントが良いのか、はたまたギリシア正教ならば大丈夫なのか、といったレベルで物事を考えていても仕方がないものと思う。
 
今や、エキュメニズムも含めて、キリスト教そのものを統一して管理しようという動きも出てきている以上、宗派同士の抗争という観点からではなく、キリスト教全体がどこへ向かっているのかという視点で考えることが必要になる。(結論から言えば、一大バビロンへ向かっているのであるが。)

ただし、キリスト教界の歴史の中で、最新の運動が出てくるとすれば、それはプロテスタントからであるという意味で、プロテスタントも、評判の悪いペンテコステ運動も、分析材料としては注目に値する。特に、20世紀に大きな成功をおさめた大規模大衆伝道のスタイルとして、ペンテコステ運動は先駆的な役割を果たした(これは決して肯定的な評価として述べているのではなく、キリスト教の新しいマーケティング手法を開発する上で、大衆へ効果的に訴えかける大規模伝道の形態を生み出したのはプロテスタントであり、とりわけペンテコステ運動であるということを述べているのである。おそらくは今後も、何かしら新しい大衆伝道の方法が開発されるとすれば、それはプロテスタントから発生するであろう。)
 
プロテスタント教会の不祥事をきっかけに、キリスト教そのものを敵視し、これに対抗する宗教を構築する必要を訴える人々もいると思うが、それにも意味がないと私は考える。戦前の我が国は、キリスト教に対抗する強力なイデオロギー作りの必要性から、国家神道という宗教を作為的に作り上げたが、その結果は周知の通りであった。あるいは、八百万の神を持ち出して、唯一神に対抗させようと試みる人々もいるが、その行き着く先は、後述するように、グノーシス主義である。

だが、もし聖書の真理が誤りでないとすれば、なぜ、キリスト教からこれほど残酷で狂気じみた分裂騒ぎが絶え間なく生まれてきているのかという問題に戻ろう。ここでは、信仰そのものと、組織としてのキリスト教界、人を狂気に導く教義とを区別する必要がある。

私の考えでは、そもそも信仰と神学とは全く相いれないものであり、神学とは有限な人が全能の神を解釈しようとするものであるから、そもそも不可能な試みである。信仰を神学的に解釈しようとすることにも同じように無理がある。

だが、そういう前置きを抜きにして結論から述べるならば、私が最も危険視しているのは、キリスト教の教義から容易に取り出せるメシアニズムの思想である。

メシアニズムの思想とは、一種の歪んだ選民思想に似た誤ったイデオロギーであり、それに感染した人々を、自分は救済者だと信じ込ませ、他の人々を指導する資格があると思わせる傲慢な考え方に変えてしまう。「自分たちは他の人々と違って正しい真理を知っているので、真理を知らずに無知の中をさまよっている人々を悪から救出する資格がある」と思い込ませる効果を持っている。

この思想に感染してしまうと、人は自分たちこそ世界を変える改革者だと本気で思い込み、正義を実行しているのだと確信しながら、他人の内面を強制的に変革する働きに着手するようになる。押しつけがましい説教や、上から目線の伝道、礼拝出席や献金の義務化、改宗者を増やすことを目的に、人の弱みにつけこんで行われる各種の救済活動等…。こうしたことはすべて「自分は真理を知っているのだから、知らないで滅びゆく哀れな罪人を破滅から救ってやらねばならない」という強迫観念にも似た驕りに満ちた義務感に基づいている。

だが、本当はこうなってしまった時点で、これはすでにキリスト教ではない。本来、聖書の原則は、人を救うのは人間ではなく神のみだというものである。にも関わらず、実際には、人が人を救うために必死に奔走している。その上、「救ってやる側(伝道する側)」と「救われる側(伝道される側)」に何かしら格差のようなものも生まれており、それは牧師制度という階級制度の中に結実していると言える。あくまで「教えてやる側」と「教わる側」が教師と生徒のように立場が別れており、上下関係が作られているのである。

人が人を教え導き、救うことができるという誤った救済思想としてのメシアニズムは、キリスト教の教義を都合よく利用すれば、いくらでも作りだすことができる。

たとえば、『カラマーゾフの兄弟』の中で、あれほど見事にキリストと反キリストとの対話を描いたドストエフスキーでさえ、作家の日記の中では、ロシア正教こそが唯一正しいキリスト教であるから、正教のロシアには世界を救う資格があるという考えを熱中して述べているくだりがある。遠い島国に住んでいる我々は、その発想に思わず笑ってしまうが、書いている本人は本気である。

当時のロシア正教では、伝統的にカトリックを堕落したキリスト教とみなしており、その上、本家本元のギリシア正教が異教徒の襲来により倒れたので、今やロシア正教だけが世界で唯一最後に残った正統なキリスト教である(モスクワ=第三ローマ説)という考えが生まれていた。

実のところ、このような「自分たちこそ正統な信仰の持ち主であるから、世界を変革する資格がある」というメシアニズムこそ、危険視されるべきものであると私は考える。

(実際、ロシア正教は他のキリスト教の宗派に比べて、それほど先駆的であったのかと言えば、そのようなことは決して主張できないものと思う。歴史上、ルネッサンスや宗教改革から切り離されたところで保たれてきた宗教である。極言するならば、歴史の発展から取り残されていたとさえ主張できないこともない。にも関わらず、自分たちこそが正統な信仰の持ち主であり、他を改革する資格があるという考えに至るところに、一種の逆転の発想があると言えるだろう。)

そこには、後に(宗教的な装いこそなくなったものの)、ロシアを世界同時革命の発信地としてソビエト政権を成立させる社会主義革命の思想にも通じる思想的基盤があったと私は思う。経済学や社会科学という形を取った救済思想が生まれる前にも、ゲルツェンなどが繰り返し、資本主義の堕落を経験していないからこそ、ロシアには原初的なユートピア的共同体が温存されており、ロシアの農村共同体こそこうした世界の理想的な変革の鍵となりうるといったことを主張していた。

こういった救済思想が、キリスト教よりも、むしろグノーシス主義に極めて近い、逆転の構造(もしくは転覆の構造)を持っていることはすでに指摘して来た。グノーシス主義においては、人であれ、国であれ、原則は同じであるのだが、原罪を帯びた人間は自分で自分を救済することはできないという聖書の原則が否定されているので、グノーシス主義思想では、人間が自分自身の生まれながらのルーツの中に何かしら「神聖な核」を見出すことにより、その一点をもって全体を覆し、全体を聖とし、神に到達することができるという考え方に立つ。(だからこそ、繰り返し述べて来たように、グノーシス主義とはクーデータの発想なのである)

この構造は、時代を超えて様々な思想の中に見ることができる。たとえば、ロシアの農村共同体を核とした革命思想においては、貧しい農村共同体を神聖な核として、これをモデルに社会全体、国家全体、果ては世界全体の構造を変革すれば、世界的なユートピア的共同体を樹立できる、という発想となる。あるいは、貧しい労働者階級に属する社会的弱者(プロレタリアートあるいはナロード)は私利私欲がなく、虐げられた人々は純粋な心の持ち主なので、この人々を未来のユートピア社会の住人にふさわしいモデルとして、現在の体制を打倒してプロレタリアートの国を作るべきという思想が生まれる。

あるいは、カトリックは腐敗し、プロテスタントも腐敗に陥っている今、世界で唯一正統なキリスト教であるロシア正教を核として世界的な宗教改革を起こし、ロシアが世界を救う旗手になるという救済思想が生まれる。他にも、社会的弱者こそ神の国に最も近く救われるにふさわしい人々であると主張した解放神学、ペンテコステ系の教会が中心となりいずれ日本全体にリバイバルが起きるという発想などである。

これらは、時代も発生場所も思想的な枠組みも全て異なるにも関わらず、根底に全く同じ構造を持っていると言える。

こうした思想には、虐げられている弱者、もしくはマイノリティを軸に据えた世界の変革を唱え、マイノリティをマジョリティに押し上げようとする特徴があり、その際、抑圧されている弱者の中に「神聖」を見出すことによって、この転覆行為が正当化される。すなわち、虐げられている社会的弱者、社会で理解を得られず排斥されたり蔑まれたりしているマイノリティを、その弱者性ゆえに、正義の担い手、神聖な人々として担ぎ上げ、このような弱者への同情や、弱者救済の思想をうまく利用して、弱者と強者との関係を覆し、これまで弱者を抑圧して来た強者を罪に定めて抑圧し、弱者によるクーデターを成し遂げようというのである。

話が少し脱線するが、こうしたことは現在、同性愛者の人権擁護なるテーマに関するキャンペーンの中でも盛んに行われている。以下に示すように、昨年から現在に至るまでだけの短い期間を取っても、同性愛者への偏見や差別をなくそうとする極めて積極的なキャンペーンが行われて来た。報道内容はひたすら情緒的・感傷的で、同性愛者がいかにこれまで不当に「長い間、差別されて来た可哀想なマイノリティ」であるか、いかにその偏見と差別が根拠のないものであり、彼らが本当は善良な美しい人々であるかをアピールし、そうであるがゆえに、彼らの人権は保護されなければならず、同性愛者の結婚も堂々と認められるべきだという結論を世間に認めさせようとする作為的なキャンペーンが行われているのである。

だが、ここにはひそかに、これまでの社会のタブーを打ち破って、同性愛者をマイノリティではなく、ありふれたごく普通の人々、いや、積極的に推奨されるべき先駆的な生き方をする人々であるとさえみなし、同性愛という生き方をごく普通のものとして社会に普及させるだけでなく、「例外的な事象」を「普遍的な事象」であるかのように概念を置き換え、「差別されてきたマイノリティ」を「善」とする一方で、「マジョリティ=差別する側」を「悪」とする印象を形作り、同性愛者ではないマジョリティを巧みに悪者にしようとする印象操作が行われている。

つまり、そこで言外に述べられているのは、同性愛者がこれまで差別を受け抑圧されて来たのは、同性愛者でない人々の偏見や無理解のせいだということである。これまで非同性愛者は自分たちの生き方だけが正しいと誇り、同性愛者を不当に追い詰めて来た、だからこそ、同性愛者でない人々はかつての差別的なものの見方を改めて、同性愛者に理解と敬意を示し、彼らの「人権」の擁護に積極的に協力すべきだという趣旨で行われている、いわばマジョリティに罪悪感と贖罪意識を持たせるためのキャンペーンなのである。

(ちなみに、同性愛者の結婚を「先駆的なもの」として讃える趣旨のプロパガンダ記事はいくらでも列挙できるが、たとえば、最近のハフィントンポストだけでも次の通りだ。法王フランシスコ「神は新しいことを恐れていない」 同性愛者の許容案が保守派の反対で立ち消えた翌日に(2014年10月20日 )、「同性愛者はカトリック社会に恩恵」 ローマ法王庁の姿勢に変化(2014年10月14日)、同性愛者軍人への差別禁じる、アメリカ国防省が表明 残る課題はトランスジェンダーの入隊( 2015年06月10日)、同性愛カップルの結婚、京都の寺院が後押し「信条や性的指向は関係ありません」( 2015年06月10日)、ゲイのカップルの愛情あふれる子育て「子供たちは、私たちの結婚を受け入れる」(画像)( 2015年01月19日 )、同性愛者へのヘイトスピーチを叫び続ける男を、群衆が取り押さえた(動画)(2014年10月30日)、男性2人が東京・青山で「自分たちらしい」ウェディング 進化する同性カップルの結婚式 【LGBT】(2014年07月31日 )、「同性婚は合憲」アメリカ、全ての州で合法に ホワイトハウスもレインボーに染まる(2015年06月27日 )、アイルランド、同性婚の合法化に「YES!」 国民投票の結果に歓喜する人々(画像集)(2015年05月24日 )、みんな幸せな気持ちになる。世界の同性結婚式(画像集)(2015年06月17日 ))
 
ローマ法王まですでに同性愛者を許容しているのだという。だが、聖書は明らかに同性愛を認めてはいない。最も顕著にそれが分かる箇所は、パウロが異教徒の性的放埓を恥ずべきものとして戒めている次の箇所であろう。

「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」(ローマ1:26-27)
 
従来のキリスト教界においても、同性愛は長い間、聖書の教えに反する生き方としてタブーとされて来た。にも関わらず、なぜ近年、全キリスト教界が同性愛を許容する方向へ向かっているのであろうか。それはキリスト教界がもとより聖書に基づいていない、聖書とは関係のない偽りの組織(フェイク)だということを考えれば、何の不思議もないことであるが、それを除いても、ここにはクリスチャンたちがより一層、聖書から逸れていくようにと、キリスト教界の総力を挙げて行われている巧妙な「社会的弱者によるクーデター」の構造が仕組まれているのである。

つまり、「社会的弱者への寛容」を説くことによって、これまでのタブーを塗り替え、聖書の常識を逆に悪質なものとして罪定めし、忠実に聖書に基づいて生きようとする人々の考え方を「偏狭で差別的なもの」という印象に変えて、駆逐してしまおうという試みがなされているのである。

同性愛者の権利を高く掲げることにより、聖書に基づいて同性愛を否定する人々に「マイノリティを抑圧する強者」、「悪者」という印象を与え、それによって同性愛に理解のない人々を罪定めし、彼らを逆に「差別と偏見に満ちたマイノリティ」にしてしまおうとする願望が働いている。

そのようにして、「特殊と普遍」、「弱者と強者」、「マイノリティとマジョリティ」の関係を覆してしまうことによって、結果的には、聖書の教えも「特殊な偏見」として駆逐し、パウロが糾弾したソドムの世界を当たり前の世の中に逆戻そうとする、そこに真の目的がある。恐ろしいのは、これをキリスト教界がキリストの名を使って行っていることである。

このような流れの果てには、いずれ、聖書の言葉を引用して同性愛者の結婚に反対しようものなら、「宗教的偏見だ!差別だ!時代遅れな考え方だ!」と非難される時代が来るであろう。非難されるだけならばまだ良い。同性愛に異議を唱えると、「同性愛者を冒涜した!人権侵害だ!」と、告発される時代さえ到来するかもしれない。

同性愛者自身がこのような攻撃的な言動に及ぶことはなくとも、彼らを都合よく利用して、そのような流れを作りたい者たちがいるのだ。

そこにあるのは、カルト被害者運動と同じ構図である。カルト被害者自身が、被害者でない他者に攻撃的な言動を行うことはない。ところが、カルト被害者の「支援者」を自称する人たちが、巧みに被害者を利用して、「社会的弱者を擁護する」ことを口実に、彼らの活動に異議を唱える反対者を次々、弾圧して行くのである。しかもその際、異論を唱えた者は、「被害者を冒涜した」ということで、次々と制裁を加えられ、排除されて行く。
 
だが、「冒涜」とは、神聖なものが冒された時に用いられる言葉である。従って、カルト被害者の支援者を名乗り出ている人々が、反対者を弾圧する際に「被害者が冒涜された」という言葉を用いているのは決して偶然ではない。彼らは「被害者性」や「弱者性」といった要素を「神聖なもの」とみなしているからこそ、この言葉を用いたのである。

さらに話を進めれば、同性愛者を「特殊」ではなく「普遍」のものとして普及させようとするプロパガンダと同様に、犯罪者をも「特殊」ではなく「普遍」のものとして普及させようとするプロパガンダが行われている。この問題を同列に論じるのはためらわれるが、同じように、マイノリティをマジョリティにして行こうとする構図がそこにあるので、述べておきたい。
 
神戸児童連続殺傷事件について、私はこれが少年法を改正して厳罰化を導き出すための国家権力による捏造された犯罪であり、元少年Aの冤罪事件であった可能性について詳しく記事を書いて来た。そして、『絶歌』の出版に関しても、これは国家犯罪の続きであり、見えない「ゲーム」であるという見解を述べて来た。『絶歌』の出版の背景には、「国家を善」、「社会を悪」とみなして、一般大衆に罪悪感を植えつけようとする狙いがあることを述べて来た。そして、世間の多くの人々は理由が明確に分からずとも、この忌まわしい書籍を敬遠していることにも触れた。

だが、次の記事「神戸少年連続児童殺傷事件の加害元少年の手記を受け止められない現代日本社会の闇 by 藤原敏史・監督」の中では、元少年Aの手記とされる『絶歌』に未だ拒否反応を示している日本の世論が激しく攻撃されている。

これを読むと、ひょっとすると本当は、巷で宣伝されているほどに『絶歌』の売れ行きは良くなく、未だ世間も拒否反応を示しており、この書物への関心はそれほど高くないのではないかと思われる。だからこそ、反応の鈍い大衆へのこうした非難記事が登場して来るのではないかと推測される。さらに、この論説では、有名な「A君冤罪説」は全く登場しておらず、考慮もされていない。ただひたすら、この元犯罪者の手記を受け入れようとしない日本社会の一般大衆の偏狭さが攻撃の的にされているだけである。
  
この記事の中で述べられている見解は、私が以前の記事において分析した太田出版と同じ考え方である。太田出版は、このような犯罪者の少年を生み出したのは一般社会であるから、社会(つまり大衆)は自ら生んだ犯罪者の心理に直接、向き合う責任があるとしていた。上記の記事も、これと同じ立場に立って、元少年Aという犯罪者の心理に真正面から向き合おうとしない社会を非難する。そして、この記事は、タイトルにも表れているように、「心の闇」は、もはや犯罪を犯した元少年にではなく、今や、元犯罪者の心理を理解しようとしない「現代日本社会」にあるという結論にまで行き着いている。(=罪の転嫁が行われている。)
 
だが、考えてみればすぐに分かることだが、そもそも、書店に並ぶ本を買って読むか読まないかは、個人の選択の自由である。ある人がある本を読まなかったからと言って、それが読者の「狭量さ」や「偏狭さ」として非難されなければならない理由はない。仮にある作家が「シャーロット・ホームズの冒険」という推理小説を出版して、その本が全く売れず、酷評されたとしても、作家が自らの自信作が売れなかったことを世間一般の意識の低さにかこつけるのは難しいし、見苦しいことである。思うように売れなかったなら、その結果を謙虚に受け止めて反省材料とし、次回はもっと売れる作品を書けば良いだけのことである。もともと推理小説というのも数多くのジャンルの中の一つでしかないので、読者数も限られている。それと同じように、元少年Aの手記も、書店に並ぶ数多くの書物の一つに過ぎず、限定されたテーマに属する読み物でしかない。関心を示すも示さないも読者の勝手であり、そういう犯罪的なテーマにお金を払ってまで時間を取りたくない読者も数多く存在するだろう。従って、この作品に社会があまり注意を払わなかったとしても、だからと言って、「心の闇」という言葉まで持ち出して社会全体を糾弾するのは的外れだし、行き過ぎである。
 
問題は、それにも関わらず、元少年Aの手記を何かしら万人が目を通すべき啓蒙書や教科書のように普及させようとする力が出版の背後で働いていることである。(だからこそ、私は『絶歌』の出版も、国家権力による世論操作の一環であると考えている。)そこには結局、カルト被害者救済活動や、同性愛者のプロパガンダとそっくり同じ構図があるのだ。

つまり、そこには「抑圧されたマイノリティの、自らを抑圧したマジョリティへの挑戦」、もしくは転覆と復讐の構図が意図的に込められているように見受けられる。同性愛者の人権を盛んに擁護することにより、同性愛という「特殊な」生き方を万人が理解を示すべき「普遍的な事例」にまで高めて行こうとするように、元犯罪者という「特殊事例」としての人間の心理を、万人が理解すべき「普遍的事例」のように押しつけようというのである。そのようにすることによって、元犯罪者への偏見を払拭し、彼らをスタンダードにまで押し上げようとする。元犯罪者の少年は今や国家のありがたい法によって人格を矯正されたので、「法によって生きる者」となり、もはや異常者ではなくなった。今となっては、真に異常なのは、犯罪心理を元少年だけのものとして押しつけて彼だけを罪に定めることによって、自らの罪の問題から目を背けようとしている社会の方だ、というわけである。

こうして、罰せられた者、抑圧された者たちが、逆に自分たちは選ばれた者であり、世間一般よりも優れた人間であるかのように主張して、一種の歪んだ「選民思想」を振りかざすことによって、自分を罰した者、抑圧した者に復讐を加えようとする願望がそこには潜んでいるように思われてならない。そのような意図を持った人々が、弱者やマイノリティ、もしくは元犯罪者を巧みに利用して、「特殊」を「普遍」にすり替えるためのプロパガンダを繰り広げているのだと見られる。

だが、そこで作為的に作られた「マイノリティ」と「マジョリティ」の二項対立はそもそも間違っていることに気付く必要がある。たとえば、私は元少年Aは冤罪であり、この事件そのものが少年法を改正して厳罰化を導き出すための国家犯罪であったと考えているが、その仮説をさて置いたとしても、酒鬼薔薇聖斗は犯行声明の中で、義務教育が自分を怪物に育て上げたのだということに言及している。そうであるならば、彼という犯罪者を生んだのは「社会」ではなく、義務教育を普及させた「国家」だという結論になる。そうであれば、犯罪者の心理に向き合うべきも、社会ではなく、当然、国家である。元少年Aの手記を買って読まない世間の「心の闇」を断罪するよりも前に、この手記を霞が関が教訓として買い上げ、教本として学べば良いのではないか。つまり、あたかもこの手記に理解を示さない現代社会に罪があるかのような主張がなされ、社会が悪者に仕立て上げられているのは、本当の責任者がすりかえられているのであって、真の悪者を覆い隠すための全くの責任転嫁なのである。

同様に、同性愛者の生き方に賛同するかどうかも、個人の選択でしかない。同性愛者が差別されてきた原因を非同性愛者にあるとして、両者を対立させることは望ましくない。そして、仮に同性愛者の生き方に同意できない人々がいても、それは個人の信念であるから、偏見や差別、偏狭さとして非難されるべきことではない。にも関わらず、早くも、同性愛者に異議を唱える人々を悪者にするような空気作りが行われているのではないか。

カルト被害者救済活動についても同じである。「被害者」という点をことさらに強調することによって、異論を唱えるすべての人を悪者扱いするような空気を作り上げるのである。すでに述べたように、カルト被害者自身が、被害者でない人を非難したり、攻撃することはない。ところが、彼らの「支援者」を名乗る人々が、「社会的弱者の保護や救済」を口実に、反対者を排除し、異論を述べられない空気を作って行くのである。つまり、同性愛者や、カルト被害者やらといった社会的弱者やマイノリティを都合よく利用して、彼らを支援することが「善」であり、彼らに理解を示さないことは悪であり、罪であるかのような空気を作り、それによって、大衆を分断し、マジョリティに罪意識を抱かせ、異論を封じ込め、反対者を罰することさえ可能にしていく。

このようにして「弱者性」や「抑圧されたマイノリティ」であることを強調し、「弱者性」を美化することによって、彼らの生き様に万人が理解と敬意を示すのが当然であるという論調をまことしやかに作り上げて行き、それに賛同しないすべての人間を排除して行こうとするところに、グノーシス主義的な転覆の思想の真の狙いがある。

実際のところ、そうした「弱者」がこれまで抑圧されたり、虐げられて来た原因については、様々な複合的な問題が絡み合っており、一概に「マジョリティ=抑圧者=悪」という構図を作り出したところで、本当は何の解決にもならない。それはマジョリティにのみ責任がある事柄ではなく、そういう浅はかな二項対立を作り出して誰かを悪者とし既存の価値観を覆したところで始まらない。本当の原因がどこにあるのかについては、もっと深く考えるべき問題である。

しかし、こうした偽りの弱者救済の思想が現れると、本当の責任者は一体、誰なのかという問題はうやむやにされたまま、結局、一般大衆が罪を着せられて分断され、大衆同士が分断されて争うという結果に至らせるのである。
 
そのような目的を見抜けずに、この弱者救済の思想を積極的に受け入れて推し進めて行けば、社会の健全さはことごとく失われるであろう。いずれ、同性愛が普遍的な生き方とされ、酒鬼薔薇聖斗がバランスの取れた標準的な人物だというところまで行き着くであろう。そのようにしたいからこそ、元少年Aの手記を一生懸命宣伝している人々がいるのではないか。文部科学省はいっそ美しい国作りのために森鴎外や芥川龍之介などは除外して『絶歌』を中学校の教科書に掲載してはどうだろうか。

繰り返すが、こうしたことは、人間自身から真の健全さを失わせ、「特殊」なものを「普遍」に置き換え、「異常」なものを「標準的なもの」として人々に受け入れさせるために行われているキャンペーンである。いや、そもそも何が健全であるかという価値判断そのものを、個人ではなく国家や支配層が決めるというわけだ。間違っても、聖書などを判断材料として何が健全な生き方であるかを判断するなということであろう。人権の概念にしても然りで、憲法を基準として何が人権なのかを判断するのではなく、憲法に記載されている基本的人権をないがしろにしてでも、同性愛者の人権を確保することの方が急務だというわけだ。

こうしたことの行き着く先は、バビロンである。

さて、随分、長い脱線であった。話を戻せば、キリスト教界だけに限って周りを見回してみれば、実質的なクーデターには至っておらずとも、その萌芽となりうる同様の思考パターンは至るところに見られる。

ロシア正教が世界を救う唯一正統なキリスト教であるという自負を持っていたことについてはすでに述べた。だが、カトリックも当初、自分たちのみが唯一正しい信仰の担い手であると考えて異教徒の弾圧や異端弾圧のための魔女狩りに乗り出していたし、カトリックから分裂して成立したプロテスタントも、カトリックを敵視し、自らこそが正統な信仰の持ち主であると主張した。プロテスタントは特にその成立当初から分裂で始まっていたので、その後も内部で多重分裂を繰り返し、今や、各教会ごとに独自の教義を掲げて、自分たちこそ正しい真理の担い手であると主張している有様である。

こうした歪んだ救済思想は、いかにキリスト教を装っていたとしても、聖書の理念とは本来、何の関係もないものであり、構造から判断するに、グノーシス主義そのものだと思われる。

だが、こうした思想は、今やキリスト教の枠組みを超えて、世界的な流れへと拡大しつつあるように感じられてならない。一言でいえば、様々な場所で、抑圧された人々が怨念を起爆剤として、「俺様万歳!」、「人間万歳!」、「俺たちにこそ悪を駆逐し、世界を変える改革の旗手としての資格がある!」と叫ぶような発想を生みだしているように思われてならない。場合によっては、それは「日本万歳!」という叫びにもなるであろうし(=ネトウヨ)、何かしら統一的な象徴を持ち出して来て、その下に万人が団結するという未来の新たな宗教の形をとるかもしれない。

いずれにせよ、そこにあるのは、今まで抑圧され、悪とされていた人々が復讐心に目覚めて立ち上がり、強者に抑圧を加え、復讐を果たすという構図である(そこで「強者」とされている人々は真の責任者ではない)。人間の罪や堕落を認めず、自分たちのルーツを神聖なものとみなしたい人々が、今までの抑圧を打ち破って、抑圧された「弱者性」や、自分のルーツ(人の自己)を高く掲げ、神によらずに自分たちの力で自分自身を救済し(自分を抑圧から解放し)、自分たちの手で世の中を望ましく変えて行く力があるという誤った思い込みである。

そのような思想に感染した人々は、自分たちのルーツ(大抵は虐げられて来た負の過去)を美化し「神聖なもの」にまで祭り上げることによって、同じ思想や弱みを抱えた者たち同士で連帯して、一種の集団的陶酔状態に陥る。やがては自己の無謬性を主張して、自分に逆らうすべての者たちを排除するところまで行き着いてしまう。たとえ宗教の形を取っておらずとも、そういう人々はすでに自分自身を「神々」とみなしていると言って差し支えない。
 
彼らは他の人たちの同意なしに、すべてのことを「弱者救済」の理念の下に、社会正義だと言って一方的に成し遂げてしまう。聖書によれば、裁きと復讐は神の領域である。ところが、この人々は常に神に代わって自分たちの手で人を罰し、復讐を成し遂げ、裁きを(私刑を)行う。世界を改革すると言いながら、結局のところ、反対者を次々と粛清し、弱者のユートピアを目指しながら、弱者でさえ生き残れないようなディストピアを築き上げる。

こうした流れの果てに、彼らの願望の集大成として反キリストが登場するのであろう。

最後に、今はもう読むことができないが、以前、救世軍の山谷少佐がブログに興味深い見解を記していたのを記憶している。それは、国家というものは「カインの城壁」であるという説であった。創世記によれば、カインはアベルを嫉妬によって殺し、それゆえ、地をさまよう者になった。自分の罪を人々に見抜かれて殺されないために、カインは自分に危害を加える者に対して何倍もの復讐を誓う。その復讐の思想(自己防衛の理論)が後に発展して、要塞となり、市民を守るための街の城壁となり、武装した国家となっていったのだという。それゆえ、国家のルーツは元来、神に由来するものではなく、悪鬼的なものであるという説であった。

カインはアベルという選民を殺すことによって、自ら選民を詐称し、その嘘が見抜かれた際には自分に危害を加える人間に復讐を成し遂げることによって相手の口を封じるという道を選んだ。私には、こうした悪鬼的な起源を持つ自己防衛と復讐の論理が、およそすべての地上の組織の根拠となっているように思われてならない。それがキリスト教界の組織になったり、カルト監視機構という発想になったり、集団的自衛権の発想にも行き着いているように思われてならない。なぜなら、それらはすべて人類が自己防衛のために築いた砦であり、根底にあるのは復讐の論理だからである。

地上天国を信じている統一教会の信者に率いられる現政権も、それを支持するネトウヨも、結局のところ、同じ思想に導かれている。その背後にあるのは、今まで述べて来た人々同様に、抑圧された自己のルーツに対する不満と、怨念に基づく復讐の論理である。従って、集団的自衛権の発想の背後にも、歪んだ選民思想があることを見落としてはならない。戦後レジームによって抑圧され、誇りを奪われた日本人の世界に対する復讐の思想がその根底に流れている。大日本帝国の誇りを、皇国の誇りをもう一度取り戻したい、そのためにこそ、軍事力が、彼らを罪に定めた世界に復讐するにふさわしい強大な力が必要だというのである。皇国日本が「神聖」だと考えていればこそ、彼らはその欲望を正当化し、日本が自ら神聖な核となって世界の構造を覆すことができるとさえ考える一種のメシアニズムの思想が生まれているのだと言えよう(世界的に戦後レジームを変えてしまおうとする革命思想に等しく、目的は世界制覇である)。

しかし、目を移せば、キリスト教界のペンテコステ系の信徒が唱えているリバイバルにも、同じ構造が見られる。ペンテコステ運動は、伝統的なキリスト教界の中では長い間、疑いのまなざしで見られ、差別され、異端視されて来た。また、ペンテコステ運動そのものも、社会からも教会からも打ち捨てられた貧しい労働者大衆に支持されて始まったものである。この運動の指導者たちも当初から無学な人々が多かった。だから、この運動は初めから、弱者による弱者救済の色合いの濃いものであった。
 
その後、既存のキリスト教界が魅力を失って衰退するのと並行して、大規模伝道の技術を持っているペンテコステ運動はかえって規模を大きくすることができた。彼らの最終目的はリバイバルという世界征服である。それが実現すれば、ペンテコステ運動は、自分たちを差別して来たキリスト教界そのものを飲み込んで、自らを最も繁栄している正統なキリスト教を自称することができるだろう。リバイバルとは、まさにどの異端の宗教も同じように目指している最終目標としての世界征服のアイディアである。ちなみに、八紘一宇もその一つであった。聖書はそのようなものをすべてバビロンと名付けており、神の国は目に見える形で来るものではない(地上的なものではない)とはっきり述べている。

従って、キリスト教の名で目の前に広がっている壮大な光景はすべてフェイクであり、彼らの目指している「救済」もすべて偽りの救済としか言えないのだが、上記したような歪んだ選民思想・グノーシス主義的な偽りの救済思想ではなく、真の信仰も確かに存在するということを弁護するために、見分けるポイントを述べておきたい。

聖書に基づく真の信仰は、決して自分自身や自分のルーツを宣伝することはない。真の信仰者は自分ではなくキリストを証するので、「俺様万歳!」、「弱者万歳!」(あるいは、「自分たちの教会万歳!」、「我が国万歳!」)というスローガンには決して至らない。さらに、弱者性や、被害者性を美化することもしない。まして、自ら裁きを行ったり、復讐したり、私刑を加えることはない。また、自分たちの作り上げた組織だけが正しいとして、そこへできるだけ大勢の人を集め、そこに属さない人々には救いがないと教え、みなを同じ考え方に染めようとすることもない。

信仰とは、そもそも人が人に強制したり、教えたり、押し付けたりできるものではなく、社会から打ち捨てられた可哀想な人々の弱みにつけこんで上から訓戒する「ありがたい教え」でもない。

<つづく>

「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。

――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い物から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:31-34)

 

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