忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

「わたしはあなたと争う者と争い、あなたの子らを救う。」―神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となった。

「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。

神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に”霊”を与えてくださいました。」(Ⅱコリント1:18-22)

最近、上記の御言葉の深淵な意味を理解する貴重な機会に恵まれている。
 
筆者は最近、世の中で発せられる言葉がことごとく嘘にまみれ、それが嘘であることさえ否定されるほどに厚かましく虚偽が大手を振って跋扈していることに対し、心底からの憂慮と憤りを覚えていた。

労働市場には求人詐欺が溢れ、公文書は改ざんされ、政治家の公約は平然と破られ、それでいて誰も責任を取らされることもなく、世の中に溢れる言葉の一つ一つが耐えられないほど無意味となり、何を信じて良いのか、もはやその目安さえ見つからないほどすべてが混沌として、信頼に足る根拠のある言葉が見つからないことに、空恐ろしい感覚を覚えずにいられなかった。

まるで全世界が深い嘘の闇の中に沈んで行こうとしているのに、それをどうすることもできないむなしさ。一体、これほど深い海のような嘘の中で、我々はどうやって身を守り、生きて行けば良いのか? 

そんなことを考えていた時、昔の友人、いや元同僚と会話する機会があった。かつて我々はある職場で出会ったのだが、そこはまるで魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿のようなところで、仕事は尋常でなくハードで、労基法の存在など誰にも認識されていなかった。研修中に半分以上の新入社員が黙って姿を消していくような職場だった。
 
当時、その職場のあまりにも極端な有様に、我々も驚き呆れた。懸命に働いたが、長くは持ちこたえられず、間もなく皆が散り散りになって行った。しかし、苦労の只中で生まれた絆は、時が経っても、消え去ることなく保たれた。

最近、ふと思い出して連絡を取った時、思いもかけない返事が返って来たのである。

「ねえ、ヴィオロンさん、私が今どこにいると思う? あの会社よ!」

驚くべきことに、同僚が口にしたのは、筆者の中では、まるで恐るべきものの代名詞だったような社名であった。

「びっくりでしょう~? でも、本当にこの会社は変わったのよ。とても働きやすくなったの」

彼女が言うには、何とその会社が、根本的に変化して、福利厚生を整え、社員の願いをくみ上げ、未来を与えることのできる風通しの良い会社になっているというのだ。

残業代は1分単位で支払われ、社員への慰労会が催され、働けばちゃんと報いが得られる仕組みになっているという。何よりも苦労の多かった元同僚が、すでにかなり長くその職場にいるという事実自体が、他のどんなことよりも、彼女の語る言葉が事実であることを物語っていた。
 
しかし、何よりも、筆者が驚いたのは、次の言葉である。

「つい最近、5年勤めた私の同僚が、終身雇用になったばかりなのよ。色々と続けられるかどうか悩んでいた時期もあったようだけれど、ついに終身雇用になって、本当に安心したって言ってたわ」

筆者は耳を疑った。シュウシンコヨウ? 何しろ、それは安定とは程遠いイメージの、最も人の出入りの激しい業界のことである。さらに、世の中では、正規雇用への転換を阻むための雇止めが横行している中、勤めて5年経ったら終身雇用とは、まさか?

だが、その話は聞けば聞くほどどうやら本当らしいのであった。

筆者は驚いてしまった。

筆者の心の中で、その会社のイメージは、筆者がいた頃の混乱した有様で、記憶が止まっていた。あまりにも多くの人々を無碍に会社の外へ放り出し、悪事をたくさん犯し過ぎたので、立ち直りは不可能だろうとさえ思っていた。

筆者がその職場を去る前、上司にその胸の内を打ち明けると、上司は、頷きながらも、その時、自分はここに残ってこの現状を改革するのが夢だと語っていたことを思い出した。

よくは分からないが、長い歳月が過ぎ、当時、胸を刺し貫かれるような光景を幾度も目撃しながら、育てて来た後輩を次々と見送り続けて来た人たちが、やがて幹部となって、会社を改革したのかも知れなかった。

筆者は、元同僚の勧めで、会社説明会に行ってみることにした。すると、確かにすべてが以前とは異なるのであった。大体、企業の登録説明会などに行くと、生気の抜けた空々しいスピーチを聞かされ、あれやこれやの禁止事項を言い渡され、おどろおどろしい内容のビデオを見させられたり、細かい字が敷き詰められた誓約書にサインを求められたり、まだ何も始まっていないのに、早くもこんなにも要求過多なのでは、この先、どうなることやらと、げんなりしながら帰宅したりしていたものだが、そうした印象はほとんどなかった。

ビルにたどり着くまでの親切な道案内、受付の快活さ、お決まりのビデオでは、禁止事項は一つも挙げられず、かえってどれだけその職場が自由で伸び伸びとしており、社員にとって働きやすい制度が整備され、企業が社員の未来に心を配っているかということが強調されていた。

上から目線の義務と要求の押しつけが全くと言って良いほどなかったのである。

感動屋の筆者は、そのビデを見ているうちに、当時、別れ別れになった上司や同僚たちの姿が脳裏をよぎり、よくぞここまで変わったものだと、涙ぐんでしまった。

かつてはまるで次々と同僚が討ち死にして行くのを横目に、自分の順番が回って来るのを待つしかない戦々恐々とした戦場のようだった場所に、いつしか涼しい木陰をもたらす大きな樹木と憩いの広場のようなものができていた。

かつてはやって来る人をみな鬼のような形相で追い払う恐ろしい聖域のようだった場所に、日照りの中を歩くことに疲れた人々が、自然に休息を求めてやって来る大きな木陰ができていた。

筆者はこんな事例を他に一つも見たことはないが、とにかく組織というものは変わりうるのだという実例を目の前で見せられた気がした。

今まであまりにも多くの血を流し過ぎたから、立ち直り不可能ということはないのだ。どんなに悲惨な光景が広がっているように見えたとしても、そこにごくわずかでも良いから、良心と未来のビジョンを持った人々が、犠牲を払って踏みとどまりさえすれば、全体が変わる日が来るのかも知れない。

それは大きな教訓であった。筆者にはその当時、ここに踏みとどまろうという決意はなく、別の目的もあり、その混乱の只中から何かが生まれて来るとは、到底、信じることができなかったが、それでも、ごくわずかな間であっても、命がけのような毎日を送りながら関わって来た人々と、長い長い年月が経って、かつては予想もできなかった形で再会できたことは、実に感慨深いことであった。

この企業の取り組みは 時代を先取りしているように感じられた。これから5~10年も経つ頃には、大規模な人手不足時代がやって来るだろう。人のやりたがらない苦労の多い仕事には、就く人もいなくなるに違いない。それに先駆けて、アルバイトであろうと派遣であろうと非正規雇用であろうと、今、その仕事に就いて苦労してくれている社員らに未来の夢を提供することで、その会社が、自分たちに仕えてくれる人たちを自社に残そうとしていることは、正しい選択であるように思われた。
 
まるで階級制度のように超えられない壁のように見えた正規・非正規の壁を、その会社が取り払おうとしていることは、正しい選択であるように感じられた。

筆者は、ここ最近、重要なのは、筆者を取り巻く人々や、組織が、外見的にどう見えるかではなく、その人たちの中に真実があるかどうか、もっと言えば、その人々が嘘偽りのない生き方を心から目指しているかどうかに、すべてがかかっているのだということに、はっきりと気づいた。

身内や、親族や、長年の知己や、信仰の仲間や、著名な指導者だからと言って、その人が我々に真実に接してくれる保証はない。老舗の会社だから、誠実に仕事をしてくれるということもない。

ただお互いに、心の中で、嘘によって汚されることのない清い命の流れ、嘘偽りのない真実を探し求めている時にだけ、我々の間には、有益な関係が成立しうるのだ。

さて、ここから先は、クリスチャン向けの話題であるが、これまで筆者は、当ブログにおいて、嘘や自己矛盾や二重性というものは、聖書には決してない特徴であり、それは悪魔に由来する偽りであって、誤った教えには、首尾一貫性がなく、必ず、嘘による自己矛盾や、論理破綻が見られることを述べて来た。

グノーシス主義思想の分析においても、筆者が幾度も強調したのは、誤った教えは「全てがダブルスピークで成り立っている」ということであった。

グノーシス主義の究極目的は、正反対の概念の統合にあるとこれまで幾度も述べた。仏教もそうであるように、グノーシス主義の教えはみな「有る」と言いながら、同時に「無い」と主張するのである。
 
従って、このような教えの究極目的は、「然り」と「否」との統合にあるのだと言えよう。

だが、私たち聖書に立脚するクリスチャンは、「然り」と「否」とを統合するなどということは、誰にも絶対にできない相談であり、それは錬金術のような詐術でしかないことを知っている。

たとえば、公文書を改ざんしている人々も、国会で偽証している人々も、求人詐欺などしている会社も、みな「然り」と「否」を混同しているのである。

「困ったときは、私たちに相談して下さいね」と言いながら、いざ相談してみると、「甘えるな。自分のことくらい、自分で何とかしろ」などと言ってくる人も、「然り」と「否」を混同している。

「私はあなたと信仰による兄弟姉妹です。神が出合わせて下さったのだから、私たちの絆は絶対に壊れません」などと言いながら、いざ様々な不都合な問題が持ち上がると、早速、兄弟姉妹であることを否定して、関係を切り捨ててにかかる人々も、「然り」と「否」を混同している。

主にある兄弟姉妹はみな対等であって、宗教指導者は要らないと言いながら、自分が指導者になって信徒に君臨している人々も、「然り」と「否」を混同している。

要するに、自分で約束した言葉を守ろうとせず、言動が一致していない人々は、みな「然り」と「否」を混同する偽りに落ちてしまっているのである。

人柄が問題なのでもなければ、性格が問題なのでもなく、関係性が問題なのでもない。その人自身が、真実に立って、二重性を排除して生きるつもりがあるかどうかが、それが、我々がその人間と信頼性のある関係を築き上げられるかどうかを決める最も重要な要素なのである。

だから、私たちは限りなく、嘘偽りのない真実を追い求めなくてはならない。どんなに虚偽が海のように深く、すべてを覆っているように見えても、それでも、その中に真実を追い求め続けることをやめてはならない。

そのようにして固く偽りを拒否し、真実(真理)に立って、これを守り続けて生きる人々を探し求め、それを見つける時に、初めて、彼らとの間で連帯や協力が成り立つ。

長年の知己であろうと、親族であろうと、クリスチャンを名乗っている人々であろうと、名だたる企業の幹部であろうと、宗教指導者であろうと、誰であろうと、 「然り」と「否」を混同している人々に、何を求めても、返って来るものは何もないのだ。

クリスチャンを名乗りながらも、聖書は神の霊感によって書かれた書物ではない、と否定する者たちがいる。その者たちは、一方では真実を語りながら、もう一方では、それを自ら否定しているのだから、そのような人々と語り合っても、得るものがないのは当然である。

それは大円鏡知、すべてがさかさまの世界、すべての存在するものが究極的には「無い」という虚無の深淵へと通じて行くだけの語り合いである。

ちょうど今は盆の季節で、多くの人々が先祖供養のために帰省している。国民のほとんどには、自分たちが先祖崇拝という宗教儀式に参加している自覚はないであろう。しかし、終戦の日が8月15日に定められ、我が国最大の国家的行事としての戦没者追悼式がこの日に行われるのも偶然ではないように筆者には思われる。

我が国は、巨大な先祖供養のための国家的共同体であり、天皇は死者の霊の鎮魂と慰謝のための象徴である。その天皇の姿に、国民は自分を重ねながら、未だ先祖供養を自らの最優先課題として今も生きているのかも知れない。

だが、地獄の釜の蓋が開いて、束の間子孫のもとへ戻って来るという亡き先祖の霊が、子孫のために何かをしてくれたことが、これまでに一度でもあったのだろうか? 彼らは、子孫に慰めを要求し、供え物を要求する一方で、自らは何一つ子孫のために奉仕することもない。

それもそのはずである。地獄に落とされたという亡者たちが、生者のために何かしてあげることなど、できるはずもない。生前に自ら犯した罪のゆえに地獄で責め苦に遭い、永代供養を求めることしかできない地獄の死者たちが、本当に、厚かましく、独りよがりな亡霊ではなくて、尊敬すべき立派な先祖であり、まして仏であり、神として讃えられるべき存在だと、本当に考えられるであろうか?

いや、彼らが本当に神ならば、自分のためだけに生贄を終わりなく子孫に要求し続けるようなことをせず、生きとし生ける者の命を維持するために、自ら奉仕し、配慮するであろう。
 
自分が生んだ子らに慰めを与え、命を与え、日々の糧を与え、見離すことなく、生涯の終わりまで、共にいて助けるであろう。

それでこそ、神の名に値する。

それなのに、子孫に向かって永遠に要求を重ね、子孫の財産を奪い去ることしかできず、子孫の配慮によって、自らに供えられたものを、食べることも、味わうこともできず、感謝の言葉を発することもできない死者の霊が、果たして、神だなどということが、あるはずがないではないか。
 
クリスチャンであれば知っている。死者の霊が神になるわけではないと。そんなことは決して起きないと。神の独り子なる救い主であるキリストへの信仰を持たない者が、死んだからと言って、神になることなど決してありはしないのだ。

神の子に連なるためには、人は水と霊によって、すなわち、新しい命によって生まれねばならず、それは、その人が人類の生まれながらのアダムの命や、それに連なる関係に対して、霊的死を帯びることを意味する。

詩編には次のような言葉がある、

「父母はわたしを見捨てようとも 主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」(詩編27:10)

この言葉は、私たちが救われたのは、生まれながらの肉の絆によるのではないことを、はっきり示している。十字架で私たちの罪のためのいけにえとなられた神の御子キリストを信じることによって、私たちには新しい命が与えられ、このキリストの命によって、私たちは神の共同体に加えられ、神の家族とされたのである。

だからこそ、神は私たちを子として守って下さる。必要な慰めを与え、励ましを与え、困った時に支え、助け、命を与えて下さる。それはこの世の命だけでなく、来るべき世においても続く永遠の朽ちない命である。
 
この関係は、死者の霊に子孫として連なる地上の肉なる絆「生み生まれる親子の立体関係」とは全く異なる。

私たちは、死と復活を経られたキリストの霊によって新しく生まれ、天的な新しい家族関係の中に入ったのである。

私たちが連なるのは、死者の霊ではなく、命を与える霊となり、よみがえられた最後のアダムなるキリストである。

そこで、古きは過ぎ去らなければならない。死んでは地獄に陥れられ、子孫に束の間の慰めを求めてすがるばかりで、子孫を慰めることも、救うこともできないような「生み生まれる親子の立体関係」は、死に渡されるべきなのである。

「イエスは言われた、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29-30)

これは、私たちキリスト者が、地上の「生み生まれる」肉なる関係に対して死ぬ変わりに、神の家族という、新しい関係、新しい天の財産が豊かに与えられることを示している。

地上の関係を信仰のゆえに喪失するときは、それは一時的に、悲しいことのように感じられるかも知れず、また、そのような生き方は、この世の常識とは異なるため、世間の理解を受けられないかも知れない。

だが、私たちが失ったものをはるかに補って余りある天の豊かな相続財産を、神が私たちに約束して下さっていることは確かである。

最後のアダム、命を与える方、この方の言われる言葉はすべて真実であって、偽りがない。だからこそ、我々は然り、アーメン、と言うのである。

「神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。

神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」
 
最後に、今一度、これまでに何度も引用したイザヤ書49章の後半を挙げておきたい。神はご自分が全能の主であることを知らせるために、ご自分のもとへ身を寄せるすべての者を守って下さる。神が信じる者を守って下さり、慰め、憐れみ、決して恥をこうむらせず、失望させることはないという約束は真実である。
 
「 天よ、歌え、地よ、喜べ。もろもろの山よ、声を放って歌え。主はその民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。

しかしシオンは言った、「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。


女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、あなたを荒した者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。主は言われる、わたしは生きている、あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、住む人の多いために狭くなり、あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。

あなたが子を失った後に生れた子らは、なおあなたの耳に言う、『この所はわたしには狭すぎる、わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。だれがこれらの者を育てたのか。見よ、わたしはひとり残された。これらの者はどこから来たのか』と」。


主なる神はこう言われる、「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、旗をもろもろの民にむかって立てる。彼らはそのふところにあなたの子らを携え、その肩にあなたの娘たちを載せて来る。 もろもろの王は、あなたの養父となり、その王妃たちは、あなたの乳母となり、彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、あなたの足のちりをなめる。こうして、あなたはわたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物をどうして取り返すことができようか。暴君がかすめた捕虜をどうして救い出すことができようか。
しかし主はこう言われる、「勇士がかすめた捕虜も取り返され、暴君が奪った獲物も救い出される。わたしはあなたと争う者と争い、あなたの子らを救うからである。 わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。こうして、すべての人はわたしが主であって、あなたの救主、またあなたのあがない主、ヤコブの全能者であることを知るようになる」。

PR