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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

大いなるバビロンへの邁進~神なきヒューマニズムとしての弱者救済の思想の危険性~

以下の記事で私が聖書は同性愛を否定しているということを書くと、さっそく次のような「お返事」があった。

同性婚は聖書の教えに反するの? そう思う人に読んでほしい。」ハフィントンポスト2015年07月27日
 
予想通りの論外な内容である。まず一番、論外だと思う点は、この記事が、自らの問いに全く答えられていない点だ。記事では、同性婚を肯定する根拠となる聖書の言葉が一つたりとも引用されていない。だから、この記事は自らタイトルで示している「同性婚は聖書の教えに反するのか」という問いへの答えを何ら提示できておらず、聖書に基づいて同性愛を否定するクリスチャンへの反論にもなっていない。そこでは、いかに同性婚を否定するクリスチャンが残酷で恐ろしい人々であるかという印象が一方的に述べられているだけである。

だが、そうなるのも当然である。何しろ、聖書には同性婚を肯定する御言葉は一文たりともないからだ。だから、同性婚の良さや無害さをアピールするためには、どうしても話を聖書外へ持ち出さざるを得ない。同性愛を肯定するための根拠を聖書の中に見つけることは不可能だからである。
 
さらに、上記の記事では、以下に述べて来たように、巧みに「同性愛者」と「非同性愛者」を対立させて、同性愛者を「不当に抑圧されてきた社会的弱者=善人」、非同性愛者を「不当に抑圧した側の社会的強者=悪人」として描こうとする構図が見えてくる。そこには、非同性愛者の同性愛者への無理解を罪定めして、罪悪感を抱かせようとする狙いがある。
 
同性愛者は不当に迫害された可哀想な「社会的弱者」、「善人」として、同情や理解を受けるのが当然とされる一方、聖書に基づいて同性愛を否定する従来のキリスト教徒は、「無理解な悪人」、「同性愛者をいわれなく差別し、攻撃する恐ろしい「敵」」のように描かれている。

このような記事を読めば、最近、至極積極的に行われている同性愛者の人権擁護キャンペーンには、同性愛者と非同性愛者を対立させて両者を分断した上で、同性愛に理解を示さない非同性愛者(最終的には聖書に忠実なクリスチャン)を迫害・駆逐して行く最終的な狙いがあると予想するのも当然であろう。

しかも、これをクリスチャンを名乗る同性愛者の手によって成し遂げようという試みが行われているところが巧妙である。つまり、同性愛という聖書に基づかない新しい価値観を宣伝するに当たり、クリスチャンという「身内」を装ってその宣伝役となる人々をキリスト教界に投入し、これらの「自称クリスチャン」の手によって、同性愛を無害なものとして宣伝するキャンペーンを行い、これまでのキリスト教界の常識を塗り替え、この考えに同意しない伝統的な価値観に立つクリスチャンを迫害して駆逐し、あるいは、クリスチャン同士の内ゲバのような同士討ちの争いへと誘導して行くのである。
 
こういう浅はかな二項対立、勧善懲悪的なキャンペーンがいかに危険であるかは幾度も述べて来た。カルト被害者救済活動も、これと全く同じ歴史を辿ったことに注意を払いたい。この運動は、当初、悪徳カルト牧師に虐げられた弱者・被害者のクリスチャンの信徒を救済するという名目で登場して来たが、結局のところ、被害者自身も含めてごく普通の信徒同士を分断して争いを助長し、信徒同士を泥沼の闘争の中に引きずり込んで行ったのである。

この運動は、当初主張していたように、カルト牧師の悪を糾弾するのではなく、むしろその大義名分に隠れて、聖書に基づいてこの運動の危険性を訴え、反対するごく普通の信徒を「悪人」として罪定めし、激烈な攻撃を加えるに至った。結局のところ、この運動は、カルトを糾弾するということを建前に、聖書の伝統的な教えに従って被害者救済活動に理解を示さない信徒を攻撃することを真の目的としていたと言っても良い。

つまり、この運動の真の狙いは、カルトを取り締まることよりも、「被害者性」を高く掲げることにより、「被害者」こそ正統なクリスチャンであるかのように見せかけ、被害を主張せずに健全な生き方を目指しているクリスチャンを隅に追いやり、クリスチャン同士を同士討ちの闘争に引き込んで、被害者でなかった人々にまで余計な被害を与え、聖書の掲げる健全な生き方の基準を転倒させてしまうことであったと言って差し支えない。

だからこそ、私はあらゆる弱者救済運動に同じように危険な思想的基盤が潜んでいる可能性を危惧せずにいられないのだ。こうした弱者の人権救済運動は、当初はあたかも、虐げや差別や搾取を糾弾して、悪のくびきから「弱者」を解放することが目的であるかのように、正義の運動の仮面をつけて登場して来る。しかし、必ずと言って良いほど、途中から方向性が逆転し、変質して行くのだ。そして、彼らは当初、あれほど非難していたはずの真の責任者ではなく、「身内」に非難の矛先を向け、自分たちの生き様や主張に理解を示さないごく普通の人々を次々と「悪人」のレッテルを貼って攻撃し、排除するようになっていくのである。

結局のところ、これは巧みな大衆分断作戦、もしくはクリスチャンの分断作戦の一環であって、さらには、聖書のみことばを曲げて、聖書に照らし合わせて健全でもなければ普遍的でもない特殊な生き方を、あたかも普遍的なもの、推奨されるべきものであるかのように宣伝し、歪められた価値観を広く世の中に普及させるために登場して来ている人工的な運動であると考えられる。従って、決してこのような運動の果てに「弱者」の人権が救済されることはなく、彼らが解放されることもない。「弱者」はこのキャンペーンに正当性を与えるために、名目上、都合よく利用されているだけである。
 
そこで、以上のような歴史を踏まえた時、SEALDsの運動がどこへ向かうのかも注目される。虐げられた弱者に寄り添い、弱者の人権を擁護するというスローガンの美名にではなく、その運動がどういう結果へ結びつくのか、それをこそ最も肝心な争点として見据えなければならない。ある人々は、SEALDsが唱えているのは国民投票であるから油断がならないと警告する。

国民投票については、マスコミに載らない海外記事に裏切られたギリシア国民の悲惨な実例が示されている。

ギリシャ議会はNO投票を覆すことはできない。債権者達との合意は違法
Prof Michel Chossudovsky Global Research 2015年7月21日

国民投票は、あからさまな“民主主義の儀式”だった。ギリシャ国民は裏切られたのだ。7月6日、月曜朝、国民投票の翌日、ツィプラス首相は、債権者達の要求の大半をもりこんだ13ページの提案草稿を提出した。債権者達と綿密に打ち合わせた上で、国民投票の前にまとめられたこの提案は、本質的に、債権者達の要求を受け入れたもの、つまり、7月5日の国民投票で敗北したYES投票支持へと導くことを意図したものだった。

この180度の方向転換は入念に画策されたものだ。ギリシャ国民は振り回され、騙されたのだ。ツィプラス首相は、ノー・キャンペーンを率いながら“債権者達と結託していた”。彼は債権者達と取引をしていて、債権者達の要求受け入れにずっと賛成だった。ギリシャ国民によるNOという付託は、始めから無視するつもりだった。しかも、NO投票の結果を実施しないことは、国民投票前に決定されていた。(以下省略)



 何ということか、これほどの大群衆の熱狂的な怒りの決断をさえ計画的に欺くために、周到な準備が行われたというのだ。国民投票そのものがフェイクであった。

(写真の出典:「ギリシャ国民投票」という名の悲劇( ハフィントンポスト2015年07月05日 )、ギリシャ、国民投票を控え 賛否両派が大規模集会(LINE NEWS 07.04 11:03))
 

こういう事例が存在しているからこそ、私は翁長知事率いる沖縄県民の辺野古への基地建設反対運動についても同じことを懸念している。つまり、「怒れる大衆」という「観客」をある特定の人物のもとへ、特定の一点へと総動員する大規模集会そのものが、フェイクである可能性があると。

(写真の出典:もうすぐ北風が強くなる 戦後70年、沖縄の意思は辺野古新基地阻止、普天間撤去
2015-05-18)


 
より多くの聴衆に訴えをアピールして感動を呼ぶための効果的な舞台としての国連の演説よりも、基地移転を阻止するための現実的な決定を下すことの方がはるかに優先課題ではないかと私は思う。「私たちは裏切られることはない。8月になれば、必ず決断は行われる」と沖縄問題に詳しい人は言った。だが、本当にそうだろうか。工事が進んでしまえば、既成事実だけが積み重ねられて行く。
 
SEALDsや、急速に拡大しつつある反安倍政権デモについても同じような危惧があてはまる。安倍政権に対峙するためには、政権を奪還するしか方法がない。ただ怒りにまかせて叫ぶだけでは、何ら現実的な対策にはならないのだ。さらに、短期間で動員されたにしては、あまりに規模が大きすぎる、洗練されすぎている、現実にどこを着地点としているのか目的が今一つ分からない、などの疑念が生じる。これは本当に自然発生的な運動なのか?






(写真の出典:安保関連法案:「安倍政権NO!」国会前で集会(毎日新聞 2015年07月24日)「アベ政治を…」あの筆文字プラカード、コンビニで拡散(朝日新聞デジタル 2015年7月19日)秘密法施行、やまぬ反対 うねる群衆「民主主義って何」(朝日新聞デジタル 2014年12月11日)「安倍政権NO!」首相官邸、国会周辺で7万人が大抗議 警察の過剰規制に立ち往生する参加者も 2015/07/24 )


 上記のような大規模デモの光景は、私から見ると、どこかしら宗教性を帯びており、プロテスタントのキリスト教界の集会を知っている人にとっては極めて懐かしく、まるでどこかで見た風景だ。マイクを持って汗を流し、涙したり、怒りにまかせて叫んだりしながら、熱演する説教者。足りないのはその後ろでムードを盛り立てる音楽バンドくらいだろう。

 SEALDs主催者がプロテスタント教会と関わりがあることはすでに述べたが、日本のプロテスタントの大規模集会の走りとなったのは、やはり1993年全日本リバイバル甲子園ミッションだろう。(写真の出典:All Japan Revival Mission

 


 
この愚かしい集会と、「リバイバル」を巡る聖霊派の空騒ぎについては話を繰り返すまい。1993年からかれこれ二十年以上が過ぎたが、今もってリバイバルなどどこにも影も形も見えはしない。こうしたリバイバル集会は、甲子園ミッションの後も、規模は異なるものの各地で繰り返されたが、決して彼らの期待しているような日本全国のキリスト教の覚醒運動にはつながらなかった。要するに、クリスチャンの自己満足的な情熱、一過性の感奮、何の結果にも結びつかない「お祭り騒ぎ」、もしくは現実の諸問題からの目くらましとして終わって行ったのである。

そしてそもそも聖書は神の国を大規模な地上的な王国とはみなしていないこともすでに述べた。こうしたリバイバル運動は、キリスト教の装束を身にまとっているだけで、実際には聖書の指示しているベクトルと全く逆なのである。

このリバイバル集会のような大規模集会の基礎を作ったのは、ペンテコステ運動であろう。歴史をさかのぼり、20世紀のペンテコステ運動の最大の功労者と言われたのはキャサリン・クールマン(悪評高いベニー・ヒンの師)である。ペンテコステ運動は、20世紀初頭に異言や聖霊のバプテスマや奇跡的癒しなどを強調して、社会から打ち捨てられ、虐げられた弱者の解放運動の性質を持って始まった。クールマン女史も高校中退者であるなど、この運動の指導者も支持者も共に早急な助けを必要としているような、貧しく無学な労働者階級が多かった。高度な知性や教育を受けていなければ理解できないような、難解な教理に基づくメッセージよりも、超自然的な癒しや奇跡といった「地上的なパン」、集会から得られる感動がある種の売り物となって、貧しい人々や病める人々、困窮している社会的弱者を惹きつけたのである。

 

プロテスタントにおける大規模大衆伝道の形態は20世紀にマスメディアと共に発展を遂げた。以下は、オリーブ園古典ライブラリーに掲載されている、1923年にカナダのアルバータ州エドモントンで開催されたチャールス・プライスの集会。約12,000人が出席したという。超自然的な癒しを強調する聖霊派のリバイバルと同じ流れにあることが分かる。


 
以上の写真は、最近の大規模デモが全てどこかしら宗教性を帯びているように見受けられ、計画的に行われているように見えることを示すために、また、ひょっとすると、これらはすべて現実には決して存在しない希望をあたかも存在しているかのように見せかけ、大衆を欺くための壮大な舞台装置、フェイクである可能性があることを示すために引用した。むろん、参加している人々はそんなことには気付いておらず、利用されている可能性がある。

ついでにもう一度。

以下はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒でありながら、身元を隠してKFCでメッセージをしていたBr.Taka。これもまた聴衆を欺くフェイクであった。クリスチャン・トゥデイの記事では、同信徒が以前からプロテスタントお決まりのホームレス伝道・路傍伝道などの弱者救済運動に熱心であったことが示されている。
 

さらに、「救済者になりたい人々」の記事で紹介した、統一教会の機関紙を飾る安倍首相。あたかも国を救う救世主のごとく登場している。首相のスピーチも牧師のメッセージによく似ていると感じるのは私だけだろうか。


こうしたことは、主義主張や宗教や思想の枠組みを超えて、すべて背後で一つである可能性がある。人の抱える弱みや問題や、虐げられている弱者をうまく利用すれば、野心を持った人間は簡単に自分を救済者と見せかけることが可能である。そのようにして、自分の悩みや怒りを受け止めてくれ、助けの手を差し伸べてくれそうな誰かのもとに、人々は蟻のように殺到し、集まっていく。そこでは、問題を分かち合うことが出来るので、「自分は一人ではない」と感じることができ、弱者同士の連帯は心地良いだろう。

だが、それは現実を忘れさせ、今、本当に何が必要なのかを考えさせないための目くらましであり、偽の希望、一種のお祭り騒ぎではないだろうか。ひとときの熱狂の末に、期待していたような成果は何一つ残らずに、人々は失望させられて、時間と労力だけが浪費されて終わって行くのではないだろうかと思われてならない…。

弱者救済という美しいスローガンを掲げ、弱者同士の連帯を呼びかける大規模集会に流されることなく、今、何が必要なのか、一人一人が冷静に静まって考え、現実的に準備しなければならない時ではないだろうかと思う。

"人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします。

即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め 
そこに「立派な礼拝」を構築したいとする強い願望があるのです。


更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で 
この地上に自分達を根付かせ自分達の名を高く掲げたいと言う 
人本来の宗教本能
が働いている
のです。

その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、
私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると


<中略>

これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。

そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう。

そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する
「地に住む」(原文では「地に座る」)と言う
人の奥底に居座る根深い 願望なのです。

それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。


教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて
出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。

教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。
私達は単に 寄る辺無き 何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22) "
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