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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

環境を創造する力―「床を取り上げて歩く」―人知を超えたキリストの復活の命―

さて、今回は猛暑日が続いていることもあって、今までの話題から少し離れて始めてみたい。

昨年、ある兄弟が交わりの中で極めて重要な言葉を語った。それは、「環境を創造する力」についてであった。その人はこの言葉をウォッチマン・ニーの著書から取り出してきたようであったが、ここでは出典は重要ではない。

そこで語られたのは、「ぼくらには信仰があっても、環境を創造する力が未熟だ」という言葉であった。それはキリストの復活の命の創造する力を私に改めて思い起こさせた。

現在の社会情勢がいかに絶望的かという問題についてなら、今までにも書いて来たし、我々にはいくらでも主張する分がある。若い世代の置かれている苦しい状況、年長者たちの無理解、搾取によって労働環境がますます悪化していること等々…。

だが、そういった問題は、キリストの復活の命の力を知ることによって乗り越えて行けるのである。何をご冗談をと思われる方は、笑いながら去っていただいても結構である。

いずれにせよ、キリストの復活の命は、統治する命、すべてを支配する命なのである。信仰者はそれをどう活用するかという秘訣を学んでいかなければならない。

だから、昨年、
①「環境を創造する力」、
②「悪魔に立ち向かい、悪魔を糾弾すること」
の二つの重要性を学んだことは、大きな収穫であった。


結論から述べるなら、人は自分自身に与えられた命の力(信仰者について言えば、生まれながらの命ではなく、信仰によって働くキリストの復活の命)によって立ち上がる秘訣を学ばない限り、どんなに優れた指導者、どんなに優しい支援者、どんなに優れた教会のもとに何度、助けを求めて駆けつけても無駄である。むしろ、そういう支援者たちは、あなたをより一層、依存へと導き、彼らがいなければ何一つできない、弱さの中から抜け出せない人間にしてしまうだろう。

それはちょうど些細な病気をきっかけに病院を訪れた結果、藪医者によって薬漬けにされてしまったという状態にも似ている。

病人や貧しい人々にとっては、早急に目の前で奇跡や癒しを強調してくれる大規模な集会、聖会はさぞかし魅力的に見えるかも知れない。人生に悩んでいる人々は、あの優れた牧師、この素晴らしい説教者、この伝道者の礼拝説教を聞きに駆けつけ、彼らに悩みを打ち明けて助けを求めたくなるかも知れない。

だが、私が言えることは、あなた自身が自分の力で自らの弱さと手を切る覚悟を固め、誰にも依存せずに自ら立ち上がるための力を神に求めない限り、どんな礼拝に出席し、どんな優れた支援者のもとへ何度、駆けつけても無駄であるということだ。それは、そういった集会が、何かの解放的に見える目玉イベントを提供することはしても、それをきっかけにあなたをより彼らに依存させていき、決して、あなたが信仰によって自分に与えられた絶大なキリストの命の力を知らず、自分自身の本当の価値も分からず、キリストの復活の命によって立ち上がることもできないように仕向けてしまうためである。

特にペンテコステ系の集会には、集会中に病人が癒されたとか、車いすの人が立ち上がったとか、そういう話が満ち溢れている。だが、そういう「しるし・不思議・奇跡」を強調する集会は、決まって、同時に何らかのひどい悪評をもたらしてきた。初めは華々しく宣伝され、多くの人々の関心を引いても、やがてはそれが偽の奇跡であったことが判明し、幾多のスキャンダルが持ち上がるといったことが通常であった。ほとんどの場合、強調される「奇跡的な癒し」は、困窮している人々を店の奥に連れ込み、より深く虜にして行くためのきっかけにすぎない。

だから、私はマザー・テレサの貧しい人々への支援に関しても、大いなる疑問を抱いている。むろん、彼女はペンテコステ系の指導者とは異なり、超自然的な奇跡によって人々の関心を惹きつけたわけではなかったが、それでも、衣食住という「目先のパン」を貧しい人々に分け与えはしても、貧しい人々が自分自身の力で立ち上がるために最も肝心な「キリストの十字架の救い」を覆い隠してしまった点では実によく似ているのである。 

「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
イエスは応えて言われた。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。」(マタイ4:1-4)

聖書の原則は、常に目に見える地上のパン(物質的支援)よりも目に見えないパン(福音)が優先されるというものである。逆に言うと、どんなに一生懸命、地上的なパンをかき集めても、それは一瞬で消えてしまうはかないものに過ぎないので、この世の多少の延命策にはなり得ても、人を生かすための本当の解決にならない。もし真の救いがほしいなら、まず見えないパンである神の御言葉(神の永遠の命)を求めるべきなのである。

たとえば、ここに莫大な借金を抱える人がいるとしよう。その人にあなたが多少の施しをしてあげたとしても、それがその人にとって本質的な助けになるだろうか。確かに貧しい人は一時的に喜んであなたに感謝するだろう。だが、二、三日もすれば、その人はまたもやあなたのところに助けを求めてやって来なければならなくなる。そうやって絶えず貧しい人を物乞いする立場から抜け出せないようにし、自分に感謝させ、依存させることが、あなたの彼に対する「支援」なのだろうか。そんなちっぽけなものが果たして「支援」や「救済」だと言えるだろうか。

そうやってすぐに尽きてしまう「目先のパン」を何度も乞わせる代わりに、あなたはその人に対し、莫大な借金そのものを棒引きにする方法があって、悪魔という取り立て屋の支配からその人が永久に解放される方法が確かに存在していることを教えてあげる方がはるかに良い選択ではないだろうか。

そうすれば、その人はもう誰かのちっぽけで有限な施しなどに頼らず、自立して自由に生きることができる。人にとってそれにまさる自由があるだろうか?

だから、困窮している人たちに衣食住などの目先の助けを与えることは、あたかも美しい行為に見えはするが、もしもその地上的な支援が、本当の霊的な解決としての見えないパン、すなわち、キリストの十字架による罪の贖いという救いを覆い隠してしまうならば、それは最も本質的な救済から遠い、神の救済に敵対する人類による偽りの救済活動ということになる。

このような偽の救済活動は、常に困窮している人々を誰か偉い人間の指導者の方へ引き寄せ、人間の指導者である自称「救済者」の栄光を築き上げる材料にはなっても、困窮している人々が誰からの助けもなしに真に自立して生きていけるようになることを絶えず妨げている。

繰り返すが、偽の救済活動に携わる指導者たちは、救済を口実にしながらも、実際には、貧しい人々がいつまでも問題を抱えて哀れな状態にとどめられ、指導者に助けを乞い求めなければ生きていけない惨めな状態から抜け出せないように問題の中に閉じ込めてしまう。彼らは他人の弱みを巧みに利用して、自分たちが特別に善意ある優れた人間であるように見せかけ、人助けに邁進している素晴らしい指導者であるかのように見せかけることはしても、弱い人々がいつまでも決して自分で立ち上がることができないように弱体化させることで、彼らを自分たちから離れられないようにし、彼らが貧しく自己意識も低いままで、決して自分で立ち上がる気力も持てないような自信喪失状態に貶め、それによって彼らを永久に利用し、搾取し続けるのである。

だから、自立して立ち上がるためには、これが悪魔が用意したマッチポンプ型循環ビジネスであることに気付く必要がある。

悪魔は一方ではあなたに何の落ち度もないのに、通りがかりにやくざのようにあなたを殴りつけて傷を負わせておいて、もう一方では、親切な医者を装ってあなたの前に現れ、救済してほしければ自分のもとに治療に通って金(献金)を払えとのたまう。だが、殴りつけて来た者も、治療してやるから金を払えと言っている者も、双方が、問題をあなた自身に押しつけ、背負わせようとしている点では同じなのである。

悪魔の目的は、本来、あなたのせいで起きたわけではなく、あなたが負うべきでもなかった罪の重荷を、あたかもあなたのものであるかのように背負わせて、その傷のためにあなたに恥や罪の意識を負わせ、その重荷をあなたの責任として一生、背負わせてあなたを苦しめ、あなたがその問題だけに一生を費やして永久に自由にならないように仕向けることにある。

ひとたび、あなたが悪魔が押しつけて来た重荷を騙されて自分のせいだと考えて抱え込むならば、その問題を解決するためにあなたはずっと東奔西走しなければならなくなる。そして、誰かに助けを求めて近づいて行く度に、偽の救済者に騙されるということが繰り返され、損失が膨らんでいく。

だから、真に自由になるためには、あなたは最初に負わされた罪の重荷にさかのぼって、悪魔のせいで生じた罪や恥や傷や弱さすべてを自分のものとして受け入れることを断固、拒否する必要がある。

その根拠となりうるものはただ一つしかない。キリストは十字架において、あなたの罪の債務証書を破り捨て、無効にされた。罪なき神の御子があなたの身代わりに罰せられることにより、あなたに対する悪魔の支配を打ち破られた。だから、その贖いを信じるなら、あなたは悪魔という取り立て屋にこれ以上、告発されたり、弁済を要求されるいわれはなくなるのである。

「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。

それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました

神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2:12-15)


たとえば、悪魔が夜道であなたを襲い、殴りつけたとしよう。悪魔とその手先は言うであろう、あなたが夜道を一人で歩いていたのが悪いと。警戒を怠っていたのが悪いと。あなたの歩き方が偉そうで気に食わなかったと。だから、あなたに降りかかった不幸はすべてあなたの自業自得なのだと、悪魔は言うであろう、すべてはあなたの責任であり、悪魔が罪を犯したのではないと。

だが、どうしてあなたがそんな言い訳や責任転嫁を受け入れる必要があるだろう。悪魔がどれほど嘘をつき、何をどう言い逃れようとしても、夜道であなたを殴ったのは悪魔の罪であることに変わりはない。

たとえ、悪魔とその手先どもがすでに現場から逃走して、あなたは一人でそこに残され、傷が腫れ上がり、人目もはばかる恥ずかしいみっともない姿で取り残されていたとしても、それでも、殴られたのはあなたの責任ではなく、暴力を振るった悪魔の責任であるという事実は変わらない。

だから、罰せられるべきは悪魔であり、あなたが恥を負う必要はなく、被害の弁済も当然ながら、悪魔の責任なのである。どうしてその「被害」をあなたが弁済しなければならないのか?

だから、あなたがこの惨事を自分の責任だと考えて負おうとしてはいけないし、そんな必要もないのである。悪魔の計画は、こうして何らかの因縁をつけることにより、本来、あなたの責任ではなく、あなたに落ち度があったわけでもなく、あなたが負わなくてよかった重荷をあなたに転嫁し、あなたがその事件のために罪や恥の意識を背負い、一生、その重荷にひしがれて、その解決のために走り回らなくてはならない不幸な立場に貶めることである。

だから、絶対に、この事件を自分のせいだと思ってはいけないし、結果を身に負う必要も全くない。あなたはこの事件については神に正当性を訴える権利がある。それも、自分の正しさのゆえにではなく、キリストの正しさのゆえに、悪党どもの悪事とその弁済について神に訴え出る権利を有しているのである。

そして、ここから先は世界最強の保険屋である神の出番となる。

仮にあなたが車の事故に巻き込まれたとして、加害者と被害者の両者が保険に入っていれば、補償については保険屋同士の話し合いになる。加害者がどんなに卑劣な人間であったとしても、そのことであなたが心を悩ませ、苦しむ必要はない。仮に加害者が無保険車で、あなたが当て逃げされたとしても、あなたの入っている保険がそれも含めてカバーする内容となっていれば、あなた自身がその事件によって損失を被ることは一切ない。

キリストの十字架はあなたが人生で受けるすべての損失や被害を帳消しにして余りある最強の補償である。たとえあなたが自損事故を起こしても、それすらも補償の対象である。

そればかりではない、キリストの十字架は信じる者に言う、あなたには罪がないと。これは本当に恐るべき事実である。もし車の事故であれば、10対0ということはまずななかな起きないだろう。だが、もし神があなたの味方であるならば、あなたには一切過失なしと判定され、あなたを訴えられる人は誰もいないのである。あなたがどんなに人間的に未熟であって、過ちの多い人間であってさえもそうである。あなたはもう自分の罪を自分で背負わなくて良いのである。

だから、信仰者が罪の意識と手を切ることが、どんなに重要か分かるだろう。それは保険に入っているのに、自分で示談交渉を進める必要がないのと同じである。キリストの血潮があなたを弁護する。それに任せれば良いのである。重荷を自分で負ってはいけない。あなたは依然として自分が失敗を続けているかのように感じるかも知れないが、それを事実として受け入れる必要はない。むろん、誠実に生きる努力は必要であろうが、罪悪感に苦しむ必要はない。あなたは神の救いが完全であり、あなたの限界を覆って余りあるものである事実を信じていれば良いのである。

(念のために追記しておくが、これは罪悪感を負う必要がないと言っているのであって、何らかの事件の解決に必要な当たり前の対処を何もしなくて良いと言っているわけではない。)
 
すでに述べたように、悪魔は告発者である。「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」(黙示12:10)とあるように、悪魔の仕事は私たちを絶え間なく告発することである。だが、子羊の血潮によって罪を赦されているならば、それに応じる必要がないのである。

悪魔の嘘とは、信仰者に絶えず罪と恥の意識を負わせ、自分を誰かの助けがなければ生きていけない弱い人間だと思い込ませて、自分で自分を責め、自分を貶めて生きるよう仕向けることにある。

弱さも、病も、そうなのである。そして、「死体のあるところにはげたかが集まる」ように、「傷」のあるところに偽の支援者たちが群がっては蛭のように取りつき、あなたからさらに貴重な生きる力を奪い取って行くであろう。

時には、教会において、信仰の「証」(あかし)という名目で、これがなされることがある。教会で教えられる死んだ教義の中でも、キリストを信じて救われた人の罪は未来永劫に赦されていることが教えられている。それなのに不思議なことに、多くのクリスチャンは、信仰を持ってから、以前よりももっと強烈な罪悪感に悩まされるようになっている。

というのも、キリスト教界では、信仰の「証」と称して、信者に過去の過ちについて赤裸々に語らせることがよく行われている。信者はそれを通して、かつて救われる前に自分がどんなに悪い罪深い人間であったかという失敗体験を繰り返し、人前で語らせられる。まるでリフォーム業者の宣伝のように、救われる前には自分はこんなにひどい人間であったが、教会のおかげさまでこんなに良く変えられたと主張するのである。

だが、私はこうした証には反対であるし、その効果のほども疑わしく思う。もし本当に主にあって、すべての罪を赦されたと信じているのなら、神があなたをご覧になるように、あなたも自分自身を見るべきであろう。神はあなたの罪を思い出さないと言われる。だから、あなたも自分の罪を思い出すべきではない。自分がかつていかにひどい人間であったかというテーマを繰り返し、自他に言い聞かせ、懺悔し続けることは、自分を貶めることであるから全く必要ない。それは人を永久に罪意識の中から逃がさないための自縄自縛の罠に過ぎず、そんな話を繰り返していれば、あなたは悪魔の思い通りの惨めなアイデンティティをずっと背負って生きることになる。神はそれをもう思い出さないと言われるのだから、あなたも思い返すべきではない。

「わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたのそむきの罪をぬぐい去り、
もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)

「「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。

「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、
雪のように白くなる。
たとい、紅のように赤くても、
羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

人生で過去に何が起きたにせよ、悪魔が通りすがりにあなたに加えた打撃を、いつまでも自分のせいで起きたことのように思い返してはいけない。罪人であったあなたはキリストと共に罰せられて死んだので、もう存在しないのである。その過去に対して自分で責任を取ろうなどと考えてはいけない。それはもはやあなたではなく悪魔の犯した罪の証拠であり、あなたの負うべき重荷ではないのである。

だから、そのような弱さは拒否して、悪魔にお返しすればよかろう。過去の過ちを繰り返し思い返して懺悔したり、あるいは「被害者」として同情してもらい、それによって慰められようという思いからもきっぱり手を引く必要がある。

繰り返すが、あなたがいつまでも自分を恥じて、自分の責任でないことまで自分の責任であるかのように思い込まされて重荷にひしがれ、絶えず弱さと依存状態の中ににとどめられ、ずっと自立できず、他人に依存し、あるいは利用されて犠牲者となって生きることを狙って、悪魔があなたに最初の打撃を加えたのである。

だから、あなたがその最初の打撃が自分のせいではなく、悪魔の言いがかりであったという事実を見抜けず、まるで自分に落ち度があったかのように考えて自分を恥じれば、悪魔は図に乗って、それをきっかけに、二度目、三度目の打撃をあなたに加え、その度ごとに、あなたの状態もより重症になって行くであろう。

悪魔の目的はそうしてあなたを弱体化させ、最終的にあなたを殺すことにある。だから、その悪意と殺意を見抜くならば、早期に弱さと手を切ることがどんなに重要であるかが分かるだろう。

神に訴えよ。そうすれば、神が彼らを罰せられる。神に訴えよ。そうすれば神はあなたを弱さから立ち上がらせて下さる。「良きサマリヤ人のたとえ」のように、神があなたのすべての被害を帳消しにし、代理として必要経費のすべてをまかなって下さる。あなたがその恥や罪の意識や窮乏を負わねばならない理由は何もないのである。多分、神はあなたの知らないところで、その元手を悪魔に請求されるだろう。だから、悪魔があなたになすりつけようとしていた損失は、全部、結果的に悪魔への請求書に変わる。こうして、悪魔は自分で仕掛けた罠に自分で落ち、あなたに対して犯した悪事のために多額の賠償金を支払わされることになるだろう。

しかし、その手続きはすべて神があなたに代わってなさる。だから、あなたは何も心配する必要はないし、助けを求めて走り回る必要もなく、自分で悪魔と交渉してその卑劣さに疲れ果てる必要もないし、まして自分で悪魔に報復する必要もない。(たとえ周りで何が起きていても、心安らかに人として当たり前の人生を普通に生きて行けば良いだけである。)

ただ、悪魔がクリスチャンを日々糾弾し追い詰めて来るその執拗さと同じほどの執拗さを持って、神の御前に悪魔を糾弾することには効果があるだろう。そうすれば、悪魔は後退して行く。「復讐するは我にあり」と言われる神が、ご自身で、悪魔に報復し、子供たちを守って下さるからだ。

悪魔にとって最も脅威となるのは、あなたがキリストにあって、揺るがされることなく固く立ち、悪魔があなたになすりつけようとしてきたすべての罪、弱さ、恥、窮乏、困窮、等々を断固、拒絶し、その「負のプレゼント」をすべて悪魔の不当行為として悪魔自身に押し返し、あなたは神に愛される神の子供として、キリストと同じような「完全な人」として、「完全な健全さ」に生き、立ち上がることである。

周りで何が起ころうと、たとえ人の目には理解できない理不尽な現象を見たとしても、キリストの命の平安の中にとどまり、「悪魔はすでに打ち破られた」という確信に立ち続けることが重要である。

 「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、へブル後でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。

イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は応えた。「主よ、私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」(ヨハネ5:1-9)

以前にも、私はここで言われている「床を取り上げて歩く」という表現の「床」という言葉には、それまで人がずっと弱くさせられ、伏せって来た原因となるあらゆる弱さが象徴的にこめられており、「床を取り上げて歩く」という言葉の中には、「弱さを拒否して信仰によって立ち上がる」という意味があるのではないかと述べたことがある。

「床」がある限り、人は立ち上がれない。被害者意識や、弱者性にすがっている限り、それはあなたにとって心地よい「床」になるかも知れないが、あなたを立ち上がれなくさせていく原因にもなる。たとえどんなに同情を受けたとしても、床に伏せったままの人生に何の自由があるだろう。弱さを拒否し、床を畳んで、自分の足で立ち上がって歩く、それが自立であるし、自分の足で行きたいところへ歩いて行き、やりたいことに従事できる自由以上に望ましいことがあるだろうか。

キリストの復活の命は、人の力では到底立ち向かうことのできないような苦難、敵対的な状況、欠乏の中からも、すべての必要を供給することができる。だから、ダビデはこう歌うことができた。

「主は私の羊飼い。
 私は、乏しいことがありません。
 主は私を緑の牧場に伏させ、
 いこいの水のほとりに伴われます。
 主はわたしのたましいを生き返らせ、
 御名のために、私を義の道に導かれます。
 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
 私はわざわいを恐れません。
 あなたが私とともにおられますから。
 あなたのむちとあなたの杖、
 それが私の慰めです。
 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
 私の頭に油をそそいでくださいます。
 私の杯は、あふれています。
 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
 恵みとが、私を追って来るでしょう。
 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩編23篇)

こう書いたダビデの人生に苦難がなかったわけではないことを私たちはよく知っている。むしろ、彼の人生は波乱万丈でひどい事件の連続であった。

信仰者であるとは、どんな災難にも見舞われないということを意味しない。そうではなく、どんな災難に見舞われたとしても、弱さにひしがれたり、被害者になる必要がなく、その只中から死を打ち破られたキリストによって力強く立ち上がり、受けた損失を補って余りある恵みを神に供給してもらえるということである。

「内住のキリスト」は死んだキリスト教用語ではない。信じる者の内側からキリストの力強い復活の命は生きて働く。それはすべての困窮の集大成である死を打ち破った命であり、「すべてを満たす命」、「全てを支配する命」である。それは信じる者に栄誉を与える。誰か偉い指導者があなたに助けの手を差し伸べてくれたからではない。神が直接、あなたを助けられる。外から見れば、あなたは依然として弱そうな一人の人間に過ぎないだろう。だが、敵があなたを追い詰めてあなたに勝ったと喜んでいるその瞬間にも、神は隠れたところであなたを勇気づけ、あなたに勝利を約束して下さる。

キリストの復活の命には、この世の物流や、お金の流れ、天候、人々の心、あらゆる状況を支配する力がある。その命は、「統治する命」、「支配する命」であり、その力はこの世のものでなく、人間の予想を超えている。たとえこの世の現象がどんなに荒れ狂っている瞬間にも、信じる人の心を人知を超えた平安によって守る力を持っている。だから、信仰者もその命の平安の中に自らとどまる秘訣を学んでいく必要がある。

キリストのこの恐るべき命、神の調和のとれた命、不足の一切ない、死を打ち破った復活の命が、弱くてぐらつきやすい過ちの多い有限なる人間である信仰者の中に隠されていることは、信じられないようなパラドックスである。そして、クリスチャンはこの命の力を活用する方法をもっと知らなければならない。

話が最初に戻るが、「環境を創造する力」というテーマについて語り合ったとき、ある兄弟が問題を提起した。それは、「キリストが死を打ち破り、復活されて、ぼくらの中に住んでおられるということをぼくらクリスチャンは信じている。なのに、なぜぼくらはこんなにも弱く、絶えず圧迫されて、絶望の手前でもがいていなければならないのか。これはぼくらが信仰を持っていても、未だこの新しい命に生きておらず、この命によって支配する力があまりにも弱いせいで起こっていることなのではないか」ということであった。

クリスチャンを弱くさせる原因は二つある。一つ目は、すでに何度も書いて来たように、悪魔が押しつけてくるいわれなき「罪悪感」を受け入れて倒れること、二つ目は、「キリストの復活の命にあって環境を創造する力」が弱いか、もしくは、その法則性を十分に知らないことにある。

<つづく>

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