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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(2)高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。

わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
 賢い者の賢さを意味のないものにする。

 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
 
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1:18-25)

  
判決というものは、言い渡されてすぐに確定するわけではない。
ちょうど熱して熔けた金属が鋳型に注ぎ込まれてから、徐々に冷え固まって行くように、時と共に確かな動かせないものとなって行く。

判決が動かせなくなるまでには期限がある。従って、これを変えたいと思うならば、固まってしまう前に行動を起こすことが必要である。

村上密は、判決正本が届いたのか、その内容を知るや否や、早速、ブログで自分は勝訴した、原告は敗訴したと、得意げな記事を綴っているようだが、判決の確定前にそのようなことを断定するとは、何と軽率かつ気の早いことだろうかと思わざるを得ない。

世では判決内容を不服とした控訴は無数に行われているが、裁判官が権威を持って宣言した内容を覆すためには、よほどの理由が必要であり、新たな証拠の提出等がない限り、ただ内容が不服というだけでは、控訴が受け入れられる見込みも薄く、事実認定を覆すことは困難で、心証が悪くなるだけだ。

そこで、筆者は裁判官の判断に異議申し立てをするつもりはなく、とりこぼした内容は新たな訴訟でカバーしようと考えており、今回、村上密が4月1日の記事を投稿しなければ、この判決は、少なくとも村上に関する部分は、確定していた可能性が高かったのである。

ところが、村上が早々と勝負は終わったと考えて、早速、当ブログ執筆者を標的に、個人情報を記して批判記事を投稿したことにより、すべての事情はガラリと変わった。

やはり、高慢は破滅に先立つという、聖書のあの御言葉は本当なのであろう・・・。

村上はあとから記事を書き変えたようだが、一旦、投稿した実名入りの記事は、あっという間にあらゆる検索サイトを通じて、全世界に拡散してしまった。むろん、掲示板等でも報告がなされ、おびただしいほどの数の証拠があるが、たとえば、書き変え後も、検索結果はこのようであった。



さらに、村上密は当ブログからの言及を知って慌てて内容を変えたのか、被告杉本徳久の名前も一時は公開していたようである。いずれにしても、覆水盆に返らず、である。



通常は、判決言い渡しがあったからと言って、早速、意気揚々と「勝ったぞ!」という趣旨の記事を投稿することは控え、しばらくは相手方の出方を静かに待つであろうが、このような軽率な記事を投稿したことが、あだとなって自身に跳ね返ることになったのである。

村上は今も自分はA43ページの準備書面しか提出せずとも、本人訴訟に臨んで勝ったのだから、それで良かったのだと、今回のことをまるで大いに自らの手柄のように吹聴する記事を投稿しているが、今回の訴訟で真に奮闘したのは、主イエス・キリストだけを弁護人として、複数の訴訟に直接・間接的に関わったことのある二人の被告を相手に、彼らからの反訴の脅しにも屈さず、掲示板での日夜の嵐のような誹謗中傷にも負けず、一人目の被告にまずは勝利を果たした原告であると言えよう。
 
だが、牧師や教師は、常日頃から、生徒や信徒の成功を自分の手柄のように誇っているから、こういう話が作られるのは不思議ではない。他人の紛争を日々の糧として生きる弁護士という職業も、似たようなものだと筆者は考えている。

ちなみに、弁護士は元が取れない事件には気乗り薄なので、取りはぐれがありそうな場合には、本人訴訟を勧めるのは当然である。それは「あなたなら一人で戦える」という太鼓判ではなく、採算が取れないので自分はやりたくないという意思表示でしかない。

被告らは、控訴があった場合には、弁護士をつけると豪語していたが、筆者には、このような事件につく弁護士がいるとは、到底、考えられない。それでも「暮らし向きの自慢」をしようと、見栄を張って弁護士に依頼すれば、負ければその費用はすべて自己負担だ。負けなくとも、そんな高額な費用が帰って来る見込みはどこにもない。そこで、まずは先立つ費用の計算が必要となろう。筆者から見れば、訴訟物の価格に照らし合わせても、それはあまりにも馬鹿らしいことである。

筆者の見えない弁護人はイエス・キリストであり、この方は、信仰と誉以外には、筆者に着手金も成功報酬も要求されない。しかも、カルバリで悪魔を打ち破り、最強の敵を打ち負かし、これまで一度も負けたことのない世界で最も信頼できる、最強かつ名うての弁護士である。

被告らの弁護人は誰だろうか。掲示板で日夜誹謗中傷する者たちの信奉している世界で最も毒舌かつ詭弁に満ちた悪名高い弁護士、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)だろうか。

筆者は、被告とされた人間の恐るべき慢心と油断を見ても、やはり、神は生きておられるのだと考えないわけにいかない。

筆者は、判決を手にしたのは、今回が初めてであり、二審、三審を戦ったことはないが、かつてふとしたことから、東京高裁を訪れたことがあったのを思い出す。そこは、まさに省庁の庁舎というべき、どんよりとした陰気な建物で、地下に郵便局とさびれた食堂があり、そこにはげんなりするようなメニューが並び、死んだようなまなざしの職員が黙々と食事していた。(霞が関の庁舎はどこもそんな雰囲気だ。)

横浜地裁は、それとは比べものにもならない、活気に満ちた場所である。明るい光が窓から降り注ぎ、窓から海を見下ろせ、建物も新しく、きれいで、職員も活気がある。何もかもが新鮮で陽気だ。待合室も明るく、法廷の扉でさえおしゃれで、心を陰鬱にさせる要素は何もない。

もちろん、建物の外に出れば、観光地のように、しゃれた店が立ち並び、海風が吹き、秋には銀杏の葉がこぼれおちる。ここから筆者の訴えの記念すべき歩みが始まったことは、まさに象徴的な神の恵みだ。

だが、筆者の訴えはこの海辺の町から空高く飛び立っていく・・・。
 
* * *

さて、判決を受ければ、そこから新たな手続きを始められることは、すでに書いた通りだ。これこそ、通常人はほとんど足を踏み入れることのない、まるで悪魔が専売特許として来たような世界である。

判決を受け取ったからこそ、できること、これが訴訟の極意と言っても良いものと筆者は考えている。それは、いわば「命令」と「実行」が一つになる世界で、この二つを一つにする方法を知らなければ、判決には意味がない。

今、この手続きに精通しておくことは、今後、何かもっと大きなことのために、必ず、役立つ時が来るという確信が心にある。
 
そこで、筆者は今、司法という大きなビルの暗い地下室に降りて、基礎構造を一つ一つ確かめているところだ。一体、この建物全体の中に、どのような機能が備わっているのか、可能な限り、自分自身の目で確かめてみなければならない・・・。

ここからが、戦いのもう一つの側面、本番であり、腕の見せ所である。これまでさんざん筆者を嘲り、罵って来た人間の身には、苦難が降りかかることになる。その人が筆者に対して投げつけたすべての言葉が、その人自身に跳ね返るステージに入ったからである。

そこで、これから何が起きるのか、注目されたい。バビロンの崩壊が始まる。今は具体的に書かないが、手続きが進み次第、随時、過程を公開して行くつもりである。掲示板で日夜、誹謗中傷を重ねている人々は、明日には同じことが自分の身に降りかかるかも知れないため、ぜひ今後の参考にしていただきたい。

* * *

さて、エクレシアの一員としての筆者の人生に関わり、筆者を助けてくれる人たちは、まるで水面に浮かぶうたかたのように、常に新しいメンバーに入れ替わる。これは、固定的な人間関係ができないように、感情的な癒着が生じないように、主がなされていることである。

もちろん、今回の事件を担当してくれた裁判官も、筆者の事件のために、休日出勤までして奔走してくれた警察官も、役目を果たすや否や、すぐに慌ただしく去って行った。裁判官は、異動が決定したことを書記官を通じて伝達してくれた。それは嬉しい伝言ではあったが、筆者はどこへ行くのか、尋ねることもしなかった。もう会うことは決してあるまいと思ったからである。
 
ある部署のお世話になった警察官からは、これまで連絡が来るのはほとんど休日で(何しろ、筆者の事件は最後の順番で、休日出勤する以外には、事件を処理する時間がなかった)、いくつもの告訴状を受理してもらった経緯もあるが、ちょっとしばらく連絡が途絶えたなと思っていると、ある日突然、当直時間帯に、異動になるという旨の連絡が電話であった。
  
だが、そのような連絡が来ること自体が稀なのである。通常は、警察官は異動が決定したからとて、市民に事前に何も知らせてくれない。むろん、行く先も教えない。異動が発覚した後で、本部に問い尋ねても無駄である。(ほとんどの場合は、面倒な事件に異動先でまで関わるなんてとんでもないとばかりに跳ねつけられる。)

だが、お世話になったその人は、持ち前の真面目さからか、数日後に起きることをきちんと予告してくれた。本来ならば、会って別れを告げるべきところ・・・などと、まるで目上の人間に対するかのように、非常に丁寧な口調で、話を切り出した。

ところが、筆者はあまりにも突然の連絡に動揺し、そして、せっかく手続きが前に進もうとしている今、急に担当者がいなくなり、すべてが膠着状態に陥りはしまいかと、非常に不安に感じ、思っているままを口にした。

そして同時に、そのように自分が衝撃を受けて、言っても仕方のないことを口走っていることに驚き、そのように自分が他人を当てにし始めていることこそ、最大の危険であるから、神がこのように采配されたのは当然であると心に感じた。

その警察官とは、手続きがまだ押しても引いても動かなかった頃には、かなり緊迫したやり取りがあった。何年か前から署におり、数年前からの相談記録も残っているはずだが、当初は、何の信頼関係もなかったどころか、互いにまるでいけ好かない奴だとでも、心の中で思っているかのような、よそよそしい関係しかなかった。

(むろん、これはその警察官が筆者に不親切な態度を取ったという意味ではない。事件がなかなか前に進まないことに、筆者の側でも、当時、焦燥感を覚えていたということである。数年前まで、特定の職員だけでなく、この署全体が、筆者にとって、きわめてよそよそしく、近寄りがたい場所に感じられていた。それが変わるまでには、相当な時間の経過と、やり取りの積み重ねが必要であった。)

だが、今回の訴訟が提起されてから、そうした状況が変わり始めた。ある時、筆者はどうしても民事で警察に証言してもらわなくてはいけない必要性を感じた。
 
関係する別の機関へこの問題を相談したところ、「何ですって? まだ刑事事件としての捜査も終わっていないのに? 警察を民事訴訟で証人に呼び出す? そんなの前代未聞ですよ。裁判所が許可したとしても、どこまで証言できるかどうか・・・」といった、まさに予想通りの返事が返って来た。

実際に、その通りなのだ。そんな事例が過去にあったとも思えない。だが、その頃には、この問題について、それ以外の立証方法は思いつかなかった。
 
結果的に、警察を証人に呼ぶ必要はなくなり、他の手段が取られることになったのだが、その頃からであろうか、その警察官とも、以前ほど緊迫したやり取りはなくなり、むしろ、次第に互いのペースがつかめるようになった。

もしかすると、民事訴訟を起こしたことで、やっとこちら側の本気度が警察に伝わったのかも知れず、あるいは、証人になってもらうことをお願いした弱みのゆえに、筆者が以前ほど強く出られなくなったことが影響していたのかも知れない。

理由が何であれ、明らかに以前とは関わりが変わり、やり取りが円滑になり、互いに好感が持てるようになった。そして、その警察官こそ、他部署に連携を取って多くの事件を進める陣頭指揮を執ってくれた人であった。

体格の良いその人は、相談室の椅子に座ると、別の警察官が、その後ろをお茶を運んで通るスペースも残らないほどであったが、そんな様子も微笑ましく感じられた。

そして、筆者がそう思うようになった頃から、よく気のつく人だったその警察官は、筆者が気づかないうちに、様々なことで、筆者の必要を先回りして察知し、整えてくれるようになった。

最後にその警察官に会ったのは、2月に調書作成のために来署した時のことである。その時の調書作成には、困難が伴い、土曜日と日曜日の両日が費やされた。

筆者が取調室には入りたくないと言うので、調書作成は講堂で行われ、我々は一つの長机を挟んで、向き合って座った。

その時、些細だが、重要な気づきがあった。1日目に、警察官と筆者とが、講堂に並んでいる机の一つを挟んで、両側に座るために、筆者が自分の椅子の向きを変えると、その警察官は、筆者がそうしたことを覚えていて、2日目には、筆者がまだ何もしないうちから、1日目に筆者がした通りに、筆者のために椅子の向きを変えてくれた。まるで自分がそうするのが当然だというように、何の他意もなく、無意識的にそうしてくれたのである。

後になって、この出来事を思い出すと、そういうことは、もう随分前から――数ヶ月ほど前から――始まっていたように思われた。やり取りがスムーズになったというより、いつの間にか、筆者はこの人の「守備範囲」の中に入れられ、無意識的に、多くの配慮を受け、気遣われる立場になっていたのである。

そして、そうなったのは、筆者の方でも、きっと、似たような注意を払っていたからであろう。つまり、初めのうちは、電話連絡さえ満足に取れないギクシャクした関係の中、ひっきりなしのすれ違いが続き、どのようにして関わりを打ち立てれば良いかさえ分からず、途方に暮れていたが、ようやく互いのペースが理解できて、互いの仕事を邪魔せず円滑に進められるよう、無意識的に、配慮し合っていたからこそ、いつの間にやら、そこに同僚同士か、もしくは、身内のような、ある種の親近感と、好感情が生まれていたのである。

だが、もしかすると、それは何よりも筆者が、民事で証人になってもらえるようお願いしようとしていたことに端を発していたのかも知れない。そのような件があったために、その警察官も、筆者の陥っている状況を、他人事でなく理解するようになったのかも知れなかった。

だが、もともと身内でもなく、同僚でもない人々の間に生まれたこのような協力関係が、長くは続くはずもなく、実際に、民事での協力は必要なくなったばかりか、ようやくスムーズに連絡が取れるようになったかと思うと、すぐに終わりが来たのであった。
 
この警察官と最後に調書作成の作業をしていたその日、交わした会話は、印象的なものであった。筆者はその時、KFCの元信徒に関する刑事事件について尋ねられたため、この事件の概要を説明してから、言った、自分はかつて9年ほど前に、この事件に関連して、ある宗教指導者のために、警察で証人になろうとしたことがあると。

その頃、筆者は、KFCの元信徒ではなく、指導者の言い分が正しいと考えていたため、困っている宗教指導者のために、有利な証言をすることが必要だと考えて、依頼に応えて、管轄の警察署に行った。ところが、そこには、多分、来ているだろうと思っていた指導者の姿はなく、筆者が語る前に、すでに調書の台本までも用意されており、その内容も、宗教指導者の身の潔白を証明するという事前の約束の通りではなく、ただ単に、起きた事件の何もかもをすべて筆者のせいにかこつけて終わりとするような身勝手な筋書きであった。

しかも、警察が印鑑を持って来るようにと、前もって告げるのを忘れたために、指紋を捺印せよと言われ、筆者が渋っていると、「この調書に同意を断るなら、あなたのお友達が速やかに助からないかも知れないが、それでもいいのかね?」などと言われ、とんでもなく不愉快な思いをさせられて帰って来たのだと。

その当時、筆者はこの出来事のために、ペテンにかけられたような思いとなって憤慨し、筆者に助力を頼んだ宗教指導者に苦言を呈したが、さらにもっと驚くべきは、もっと後になってから、事の真相は、その指導者の主張とはまるで逆であり、むしろ、指導者に訴えられた信徒の発言に信憑性があったとみなさざるを得ない状況が生まれたことだ。それは筆者自身が、その信徒と同じような目に遭わされて、初めて分かったことだったのである。

筆者は言った、この事件は、筆者にとって非常に手痛い教訓となったと。その当時は、あまりにもその信者の置かれている状況が尋常でなく悲惨に見え、行動も常軌を逸しており、主張内容が荒唐無稽と感じられ、それに引き換え、宗教指導者には学識があり、常識的な立ち居振る舞いがあると見え、言葉も巧みであったので、筆者はおろか、誰もその信者の言い分の真実性を信じようとは思わなかった。ところが、事実はそのような見かけには全くよらなかったのである。

教養ある立派な宗教指導者の言い分が完全な嘘であって、狂言で自殺未遂を繰り返しているような常軌を逸した信者の言い分の方に、まだごくわずかに正当性があったのである。
 
そこで、この事件は筆者にとって大いなる教訓となった。それ以来、筆者は、決して人の見かけや、教養や、社会的地位や、言葉の巧みさによって、人を判断しようとは思わなくなった。そして、物事は常に、最も力弱く、蔑まれ、世間で無価値のようにみなされている人々の立場から見なければ、正しい判断ができないことに気づいた。むろん、そのような人々の言い分も、常に正しいわけではないにせよ、世の人々から拍手喝采を浴びる権力者や有名人の言い分を鵜呑みにすることは、さらにもっと恐ろしい危険である。

このように、人の見かけなど、何のあてにもならない。私たちは、他者がどんな人間であるか、内心を知り得ない以上、誰についても何の保証もできはしないのだ。神以外の者には、人の内心を見極めることなど決してできない。そこで、筆者は、金輪際、誰のためにも、証言などしようと思わないし、その代わり、筆者自身のためにも、誰にも証言を求めるつもりはない・・・。

はからずも、筆者は以上の話を、自分のために、民事で証人になってもらえるように自分から依頼しようとしていた警察官に向かって、直接、語ったのであった。その時には、まだ自分の語っている内容が、いかに以前の依頼と食い違っているかに気づいていなかったが、実はその会話には、深い霊的な意味があった。その当時は誰もまだ知らなかったとはいえ、その会話自体が、筆者とその人との間にようやく生じた協力関係が、間もなく明白な終わりを迎えることを示唆するものだったのである。
  
おそらく筆者は、神以外の誰にも、筆者のために、証人になってもらおうとしてはいけないのであろう。それにも関わらず、証人になることを誰かにお願いしようとしたこと自体が、ある種の危険をはらんでいたのだが、神は、筆者が気づかないでしたことについて、責任を問われることはない。ただ静かに、誰にも何の問題も生じないうちに、裁判官の判断を用いて、この提案を却下されただけであった(とはいえ、裁判官は代わりにきちんと別の措置を講じてくれた)。
 
その後、この問題で助力してくれようとしていた警察官も、筆者に命を与える判決を書いてくれた裁判官も、共に筆者の人生の外へ連れ出され(おそらくは直接的な関わりとしては永遠に)離れ去って行くことになった。(むろん、彼らもその後、一度は関わったこの事件の行く末を、関心を持って見守ってくれているであろうことを疑わないが・・・。)

こうした別離は、人間的な心情としては、決して歓迎すべきものではないが、その背後には、主の深い采配が働いていることを、筆者は思わないわけにいかない。筆者は人々から職務としての必要な手助けを受けることは許されるが、その関係は常に一過性のものであり、決して職務上の範囲を超えない。それを一歩でも超えて、誰かから恒常的に助力や情けを受けるようなことは許されておらず、そのような個人的な関係が芽生えそうになると、ただちにその人は筆者から遠ざけられる。表向きの理由は色々あるが、結局のところは、主がそうされていると筆者は考えずにいられない。
 
なぜなら、主の御心は、決して地上に肉なる団体を築き上げることにはなく、筆者の心を常に主以外の何者にも依存させないように、自由にしておくことにあるからだ。

それは、筆者が地上のどんなものにもとらわれず、完全に独立して自由な判断を下すために、欠かせない前提条件なのである。

神の助けを受けるためには、神以外の何者にも栄光を帰さない生き方、神以外の何者にも頼らない生き方を継続することが必要である。どんなに心細いと感じられる瞬間にも、誰にも頼らず、ただ神だけを信頼して、自分のすべてをかけて、御言葉に沿う正しい判断を自分で選び取って行ける心の自由さと、独立性が必要である。

もちろん、職務上の範囲を超えないうちは、助けてくれる人々を、大いに信頼しても良い。だが、だからと言って、私たちは、決して、その人々の判断に自分を委ね、彼らに自分に代わって物事を決めてもらうまでに依存してしまうことは許されない。キリスト者の人生は、基本的に、すべての試練や困難を、常に神と自分との二人三脚で乗り越えて行かねばならないというものだ。神を置いて、誰もその間に入り込んだり、先回りして、筆者を助けることができる存在はいない。どんなに親切で善良な人間も、どんなに経験豊かな人々も、決してまことの助言者なる神の代わりを果たすことはできないのである。

だから、人々がどんなに大きな働きをしてくれたとしても、その働きは一過性のものであり、それが重要な働きであればあるほど、彼らは役目を終えると足早に去って行き、その代わりに、また新しい人たちがやって来る。こうして周りの人々は常に入れ替わるが、神はいつまでも永遠に変わらない筆者の最も信頼できる助け手である。
 
そこで、訴訟についても、筆者は誰からも教えてもらうことなく、自分自身ですべてを一歩一歩、確かめている。宗教指導者という存在が必要ないのと同様に、弁護士などという存在も、筆者には無用である。

本当に、民事訴訟からは学ぶことが無限にあり、一審は、言葉に言い尽くせないほどの貴重な学びに満ちたものであった。それはとてつもない人生経験であったと言える。スリルと、ドラマと、感動があった。だが、筆者は、ここですべての学びが終わったとは考えていない。この「干潟」に秘められた可能性、この巨大なビルの中に隠されている宝は、この程度では終わらないはずで、できる限り、そのすべてを発見し、掘り起こしたいと願わずにいられないのだ・・・。

「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。

この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、

目が見もせず、耳が聞きもせず、
 人の心に思い浮かびもしあかったことを、
 神は御自分を愛する者たちに準備された

と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえ究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。

霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。

「だれが主の思いを知り、
 主を教えるというのか。」

しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(Ⅰコリント2:6-12,15-16)
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